我恋歌、君へ。(わがこいうた、きみへ。)

郁一

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第二章

我恋歌、君へ。第二部 7:遭遇

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 前夜の会話を思い出しながら、いままでと違う気まずさを抱えて起き出したら、いつも通りのアレクシスに挨拶された。
(何だ、いつもと変わんない。俺が気にして損したかも)
 そして今朝は珍しくふたり揃って練習場へ向かう。
 アレクシスに借りたスマフォは効果的だったと思う。
 少しずつロベルトと練習後に、スマフォの助けなしで会話できるようになってきた。
 彼は俺がわかるまで、何度もくり返してくれるし、物を見せながら単語を言ってくれるからわかりやすくて助かってる。
 それから数日して、ダンスの練習中にロベルトに電話がかかってきた。
 慌てて練習場から出て行ったロベルトは、長い間戻ってこなくて、帰ってくるなり練習を中断させて、今日はこれで終わりと告げた。
「すみません。これから出掛けなければなりません。明日も戻ってこれるかわからないので、アレクシスに教えてもらってください」
 いつもより早い帰り道。
 いままでは先に練習を終わって帰っていたアレクシスと、はじめて一緒に帰ることになった。
 並んで歩くと、アレクシスの方が背が高いので、油断するとすぐに置いていかれる。
 アパートから練習場までの道はだいぶ覚えたけれど、何となく置いていかれたくなかった。
 小走りになった俺に気づいて、アレクシスが交差点の角で立ち止まって待っていてくれた。
「ご、ごめん」
「……寄り道。いいかい?」
 アレクシスが指差す先には、食料品を扱うマーケットがあった。
 頷いた俺を連れて入り、ゆっくり歩いて買い物をする。
物珍しそうにいろいろ見ている俺に合わせて、店内を回ってくれているんだと思う。素通りする棚の方が多いのに、隅から隅まで店内を歩いてくれた。
「あ、それ……あの変なパスタだ」
 共同生活初日の夕食にアレクシスが出してくれたのは、一食分がパック詰めされたレトルトだった。
冷凍食品売り場でアレクシスがそれを手に取ったのを見て、思わず声を出してしまった。
 アレクシスが俺を見た。
「不味かったかい?」
「……そうでも、なかったよ」
 気分を損ねるかなと、表現を柔らかくしてみたけど。本音は二度と食べたくない味と触感だった。
 アレクシスは肩をすくめて、手に持っていたそれを元に戻した。
「言ってくれればいいのに」
 何て答えたらいいんだか、口ごもる俺を横目で見て、ばつが悪そうな顔でアレクシスが呟いた。
「悪かった。僕も大人げなくて……君がわざと顔をひっかいたわけじゃないと、わかっていたんだけどね」
「……アレクシス」
 喧嘩した時のことか。いまはもう傷が消えた頬を指で軽くかいて、アレクシスが明後日の方向を向いたまま謝ってくる。
「だから言いたいことがあるなら、ちゃんと言って欲しいね。それと、アレクと呼んでおくれ。その方が慣れてる」
「あ、うん。わかった」
 最後は照れ隠しだろう。わざと明るく言って、アレクが買い物に戻った。
「これは食べたことあるかい?」
 燻製肉のパックを手にアレクが聞いてくる。
 あいにくとモーチンさんに作っていた料理は基本的に和食だったから、地元のマーケットには材料がなくて、専門の店に行っていた。
 そこには逆にこちらの一般的な材料が置いてないから、いまアレクが持っている物とか見たこともない。
 俺が首を振って否定すると、ひょいっと燻製肉をカートに放り投げた。
「じゃ、こっちは?」
 今度はチーズだと思う。パッケージを見ても慣れてないからよくわからない。
 また首を振る俺を見て、カートに投げ入れる。どうやら俺が食べたことのない物を基準に買い物しているらしい。
 ひとりで抱えきれない量の買い物を済ませると、案の定半分俺に渡された。
「協力」
 はいはい、もちろんいたしますとも。
 紙袋いっぱいに食材や冷凍食品を買い込み、よたよた歩く俺の前を、アレクは平然と歩いて行く。
 あっちの袋の方が重いのに、そうは見えない。
「アレク、力持ちだね」
 どうにか追いついて言ってみると、ふふんと得意そうな顔つきになった。
「アイスダンスを長いことやっていればね、嫌でもコツをつかめるんだよ」
「……あ、そっか」
 男女ペアになって滑ると言うアイスダンス。
 テレビで見た知識しかないけど、女性を持ち上げたり、抱えて滑ってたっけ。
(あんなことしてれば、自然に鍛えられるよな)
 俺も男だけど、女性を抱え上げることができるだろうかって考えると、ちょっと不安だ。
 学校からの帰り道、スーパーから自宅まで重い荷物を手に提げて帰ったりしたけど。
「やっぱり簡単じゃないよね」
「はじめた頃は大変だったさ」
「パメラさん、だったっけ。きっと軽かったんだよ」
「……試合前はね」
 アレクが微妙な言い方をした。
 顔を見ると、笑いたいような困ったような表情をしていた。
「本番に弱くて、いつも試合の前まで食が細くなっていたよ。その分、反動で試合後はたくさん食べるからさ……最高体重を記録してた頃は、さすがにしんどかった」
「それ、まさか本人に言った?」
「……言えると思うかい?」
 笑ったら失礼かもしれないけど、こらえきれずに吹き出してしまった。
 隣でアレクも笑っていた。
 こんな風に話せるようになると思っていなかったから、不思議な気分でアパートに戻った。
 買ってきた物を片づけながら、ひとつひとつアレクが語った。
 商品名の他にもこれはサンドウィッチに挟むと絶品だとか、これは温めないと美味しくないだとか。
 翌日はアパートの部屋でアレクを教師役に自主練習。
「君さ、リズム感悪くないけど、素直じゃないよね」
 今日も今日とて足を踏まれたアレクが、片手を上げて休憩を訴えながら言った。
「素直?」
「歌い手でしょう、君」
「……たぶん」
 そのはずなんだけど、解散させられてしまったいま、今後の見通しが立っていないから歌手だと言いきっていいのかどうか、迷ってしまう。
「こんなんでよく歌ってたね」
「……ダンスは必要なかったから」
「そうじゃない。何と言ったらわかるかな……リズムに乗っているけど、遠慮してるんだよ君は」
「…………」
「だから微妙に体の反応が遅れてる。体と心は表裏一体だ、時に裏切ることもあるけどね」
 よくわからないって顔をしてたんだろう。アレクはソファに腰かけ、本格的に話しはじめた。
「君は歌が好きなんだろう? 歌っている時、つまらないかい?」
「……いいえ」
「君が好きな歌手はいるかい?」
 神音に誘われて歌うようになってから、少しずつ他のアーティストの曲を聞くようにしてきたけど、神音たちがいままで作ってきた曲を優先して聞いてきたから、あまり多くは知らないままだ。
 ただ最初に見せてもらったからか、ヒロたちの音楽は好きだと思う。
「います」
「その人たち、つまらなさそうに歌っているかい?」
 ヒロたちのライブを思い出すと、いまでも胸の奥が熱くなってくるから不思議だ。
「……いいえ」
「いまの君はつまらなさそうだよ。遠慮してるから、そう見えてしまう」
「…………」
 アレクが立ち上がって、左手を差し出してきた。
「手」
 慌てて右手を重ねると、いつもの通りに体を引き寄せて、アレクが踊りだした。
「足元見ない。むしろ目を閉じて、僕に任せなさい」
「む、無理だよ……曲も流してないし、ステップも完璧に覚えてないんだから」
「いいから」
 アレクに手を任せ、片手を肩に添えながら引き寄せられた体を恐々動かした。
「目を閉じなさい」
 言われた通りに目を閉じて、簡単なステップをその場でくり返す。
 はじめはまた足を踏んでしまうかも、と緊張していたけど、ステップが続くたびに少しずつ緊張が解れて気がついたら流れを感じられるまでになっていた。
 アレクとふたりで向かい合い、音のないダンスを共有する時間は、不思議と濃密に感じられた。
「……心が固まっていたら、体も動けない。英語の方もたくさん話せばすぐに馴染むよ。君は耳がいいから発音もきれいだし……事実、僕と話すようになって、ずいぶん上達したじゃないか」
 普段より近くで聞くアレクの声。
 触れ合う体温と重なって、とても心に温かく沁みてくる。
「生まれたての小鹿よりも、オドオドしてたのが嘘みたいだよ」
「……だれが小鹿ですか」
 はじめて会話した時の様子を思い出したみたいで、くつくつアレクが笑いながら言う。
 自覚があるだけに、強く言い返せないところが悔しい。
「そうそう、そうやって言い返せばいいんだよ。さて……本日はここまで」
 自主練習終わり、と離された手を何となく手放しがたく感じたことに、俺自身が驚いた。
 いまの時間がそれだけリラックスできたってことなんだろう。
 翌日は練習場でいつも通りの練習をした。
 はじめて俺はアレクの足を踏まず、一曲通して踊ることができた。
(よしっ!)
 曲が終わったとたん、ついガッツポーズをしてしまって、アレクとロベルトに揃って笑われた。
 恥ずかしかったけど、初心者の俺にしては信じられない進歩だったんだよ。
 その日の帰り道、アレクが俺を連れて行った先にはたくさんの服が並んでいた。
「どうも君は動きがかたい。レディはもっとしなやかに舞ってくれないとね」
 俺を連れて行った先は、どう見ても婦人用と思われるコーナーだった。
 アレクの意図に気づいて、睨みつけたけどするっとかわされた。
「日頃から慣れておけば自然と仕草や動作が体に馴染むと思うんだよ。と言うわけで、どうだい?」
 これなんか、着心地良さそうだし色もきれいだよ、とアレクが差し出したのはロングスカートだった。
「……アレクシス」
 わざと名前を呼んだのに、アレクは気づかないふりでスカートを物色している。
「本番で大勢の観客の前に恥を晒すより、いまわずかな恥を捨てた方が君のためだと思うけどね……それに気づかれないためには、徹底的に演じるしかないよ。違うかい?」
 アレクが言うことは間違っていないとは思うけど、素直に認めたくなかったから、明後日の方を向いた。
 その隙にアレクは勝手に清算を済ませてしまう。
(……はぁ……)
 再び日本に帰れたとしても、以前の俺ではなくなっている気がする。
「やっぱり断固拒否しておくんだった……絶対に知っている人のだれにも見せたくないよ。暗黒史だぁ……」
「何をぶつぶつ言っているんだい?」
 スカートを俺に押しつけながら、アレクがニヤニヤ笑いながらわざと聞いてくる。
 せめてもの反抗として、その足を思いっきり踏んづけてやった。


 意に染まぬ物とは言え、せっかく好意で買ってもらったんだから、翌日から恥を忍んでスカートを着用した。
(あ、足がスースーする……)
 はじめて味わう感触に戸惑いながら部屋を出たところにアレクがいた。
 俺の姿を見て、しばらく間を置く。
「ふん……なかなか」
「……どうも」
 女装した男を見て、なかなかなわけがない。
 口元を手で隠して視線を彷徨わせるアレクは、もしかして好意じゃなくて、からかうためにこれを買ったのか、と疑いたくなった。
 さらに追い打ちをかけてきたのはロベルトだった。
「知り合いがぜひと言ってくださいましたので。とても気持ちがいいですよ~眠ってしまうほどです。たまには寛いでくださいね」
 飛び跳ねそうな勢いでロベルトが連れて行ってくれた先は、知人が経営すると言うサロンみたいな場所だった。
「あら……ほんとに聞いてた通り、滑らかな肌で……」
 ロベルトの知人は若くはないけど、とても迫力のある美人さんで、その手で全身エステをしてもらうのは緊張した。
 とても眠れないよ、と思ったのははじめの三十分ほどで。気がついたら終わりましたよ、と迎えに来てくれたロベルトに起こされていた。
 軽くなった体と、やけにすべすべしてる肌を持て余しながら、ますます俺は何になろうとしているのか、自信を無くしてため息をついた。
 俯いた拍子に髪がさらっと垂れてきた。
 高校卒業記念ライブの前から、何かと起きたこともあって髪を切りそびれている。
 襟足はともかく顎より長くなった横髪の毛先が口元を撫でる感触に、いまだに馴染めない。
 髪をかきあげた俺に気づいて、ロベルトがにっこりと微笑んだ。
「ちょうどよい長さになってきました。当日はやはりウィッグをつけますので、そのまま切らずにお願いいたします」
「……はぃ」
 もうどうにでもしてくれ、な境地になった俺は投げやりに返事をした。
(歌上手くなって、見返すはずだったんだけど。どこをどう間違えて、こんなことになったんだ?)
 それからもダンス漬けの日々を送っていたある日。
 アレクと向かい合い、いままでと違う曲を練習していると、背後で口笛が鳴り響いた。
 練習場では聞いたことがない音に驚いて振り返ると、何とジュノさんがそこにいて俺たちを見ていた。
 相変わらず乱れたままの髪、よれよれのシャツ。何と履いているのはスリッパのようで、とてもダンス練習場に似合わない姿だ。
「化けたもんだ」
「い、いつからそこに? それよりも見ないで下さい」
 一瞬、彼の前で歌った時のことを思い出して、体が強張った。
 そばにいたアレクには反応が筒抜けだったんだろう。まるで庇うように俺の前に立ち位置をさりげなく変えた。
 ジュノさんはニヤッと片頬で笑い、その場に足を開いてしゃがんだ。まるで日本のヤクザみたいだ。
「いいじゃねぇか、見る者の目を潤したって減るもんじゃねぇし。そのためにやってんだろ?」
「違いますっ」
「おまえ、まだわかってねぇの?」
「……?」
 ジュノさんが丸眼鏡を外しながら、わざとらしく深くため息をついた。
「おまえが本当は男だろうが、初心者だろうが、歌手だろうがどうでもいいってことよ。わざわざ会場に行って、客が見たいと求めているものは何だよ? おまえはそれを見せられないってのか?」
「…………」
「わかんねぇのなら、やめちまえ。歌でもダメ、ダンスでもダメなら、もう次はねぇけど」
 相変わらず言いたい放題だ。鋭く突き刺さるような内容ばかりで、悔しいけど反論できない。
 眼鏡をかけ直して立ち上がると、くるっと向きを変えて背中越しに言葉を置き去りにして帰って行った。
「ま、言葉の方は誉めてやるよ」
「…………」
 ジュノさんが出て行ってからしばらく、練習場に沈黙が落ちる。
 気を取り直して練習を続けたけれど、言われたことを忘れることができなくて、またもアレクの足を踏んでしまった。
 集中力に欠けたままの俺を見かねて、ロベルトが早めに練習を切り上げてくれた。
 いつもより早い帰り道。アレクが散歩しながら帰ろうと言いだした。
 ひとりで歩いて迷子になったせいで、あまり出歩かなかった町の中を、アレクについてあれこれ見ながら歩いていると、だんだんと胸の中が晴れていく気がした。
 アレクにもそれがわかったのか、途中でおすすめのミートパイをふたつ買って、きれいに管理されている公園に入った。
 子供が何人か遊んでいるのを母親たちが見守っている。老夫婦が手を繋いで、ゆっくり散歩する姿も見える。
 しばらく歩いて、空いていたベンチに並んで座り、ミートパイを手渡された。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 アレクが少しだけ頭を下げる振りをしながら笑った。
「ごめん、アレク。俺、あんまり集中できなくて」
「いや、僕は構わないよ。後悔するのは君だしね……それに僕が気分転換したかったから、ここに寄っただけさ」
 アレクは素知らぬふりでミートパイにかじりつく。厳しい言葉の後で、優しい言葉をくれるのは卑怯だと思いながら、温かいパイを一口かじった。
 おすすめするだけあって、濃厚だけどしつこくない、とても美味しいミートソースがたっぷり入ったパイだった。
 美味しさに思わずパイを見つめて、目を丸くしている俺をアレクが小さく笑って見ている。
 そのまま特に会話もなく、くつろぐ人々を眺めながらパイを頬張った。
 静かに日が傾いて、影が伸びていく。
「……ダンスをやるって決めたけど、ずっと仕方がないからだって思ってた。これをしないと歌わせてもらえない。交換条件のように考えていたんだ」
 聞かれたわけでもないし、聞いてくれるかどうかもわからないけど、何となく話していいような気がして、ゆっくり考えながら話しだした。
「でも違った。俺に気づかせたいことがあったから、アレクと踊らせたんだ。そんな風に考えたこともなくて……ジュノさんに言われたことばっかり頭の中でぐるぐる回ってて、いつまでも抜けだせなかった」
「なるほどね」
 それきりまた会話が途切れる。
 はしゃぐ子供たちの声、樹木を揺らして通り抜ける風。
 隣に座ったままのアレクは食べ終わったパイの包み紙をくしゃっと丸めて、しばらく考えた後に話しだした。
「……僕が最後にリンクに立ってから、ずいぶん経ったよ。逃げ出す直前に僕が考えていたことは、ただひとつ。ゆっくり眠りたい。それだけだった」
 予想もしていなかった内容に、思わずアレクを見てしまう。ロベルトに事情を話された時、同席していられなかったアレクが、いま自分から当時の話をしている。
 いまはただ聞いているべきなんだろうとわかる、静かな迫力のある雰囲気だった。
 俺はじっと耳を傾けた。
「あの日から僕は、目を閉じるたびに血を見る。傷ついた彼女が流す、信じられないほど大量の血さ。リンクの白にそれはくっきりと映えて、どこまでも広がっていく……足がそこを踏んでしまった時、異質な感触があった。それがずっと消えない。彼女を切ってしまった時の感触も……」
 遠くを見ていたアレクが目を閉じる。
 さぁっと風が吹いて、アレクの前髪を揺らした。
 目元が髪に隠れてしまい、はっきりとは表情が読みとれなくなる。
「どれだけリンクを滑ってもその感触は消えず、むしろ鮮やかになるようだった。新しいパートナーとリンクに出た時、足が動かなかった。そのまま情けなく座り込んで、動けなくなってしまったんだ」
 子供を呼ぶ母親の声が聞こえた。
 少し周囲が明るさを失い、公園の中にいた人たちの数が減ってきている。
「あの時のパートナーの僕を見る目がね、何よりも辛かったよ……もう僕は終わった、と語ってた」
「アレク……」
「いつもはロベルトに送り迎えを頼んでいたんだけど、その日だけは顔を合わせる勇気がなくて、ひとり地下鉄に乗って帰ったよ。だれもが素知らぬ顔で、目的地に着けば勝手に下りていく。それが救いに思えてね……何となくその空間に身を任せて、一番多く人が下りた駅で僕も下りた。どこがどこやらわからないまま、ただ歩き回って……そんな時でもね、君。人は空腹を感じるのだね、おろかにも」
 アレクがくっと小さく笑った。
「ポケットに入っていたわずかな金でこれを買い、ここに座った。ひと口かじった時のことは今でも覚えているよ。ガキみたいに泣けてきて、食べながら無様に泣いたさ」
 丸めた包み紙を持った手を、ひらひらと宙で踊らせて、アレクが冗談めかして言葉をつなぐ。
「落ち着いた頃には日もすっかり落ちていた。そこへエレナさんが来て、声をかけてくれたんだ。いつから見ていたのか知らないけど、ずっと気になっていたんだろうね……身元を明かさない僕を、何も聞かずに住まわせてくれた。信じられるかい?」
 お人好しすぎるよ、とアレクが肩をすくめてみせる。
「……人肌にすがったのは、眠るたびに血を見てしまうからさ。疲れきってしまえば血の夢は短くて済む。卑怯な僕はその中でしか言えなかったんだよ」
 アレクがふいに視線を俺に向ける。
 にこりとも笑わない、真剣な顔で。
「ごめんなさい。許して下さい」
 と囁いた。
 俺は何と言っていいかわからなくて、ただ冷たさを増した風を頬に感じながらアレクを見ていた。
 アレクはやがて静かに微笑んだ。
「そんな僕の気持ちも知らないで、君の前にいた少年は相手をとっかえひっかえ。どこかの有名事務所の有力株だとか何とかで、エレナさんも追いだすことは出来なかったらしい」
 当時を思い出しているのか、アレクが不愉快そうな表情になる。
「そのうち少年はアパートを出て行って、歌手デビューしたらしい。エレナさんはそれを聞いても心配していた。立ち直れたらいいんだけど……と。それを聞いてね、僕が拾われた理由がわかった。だからと言ってどうしたらいいのかわからないまま、やがて君が来て、ロベルトに見つかり、こんな風になったけれどね……」
 長い思い出話はこれでおしまい、と言ってアレクが俺に向き直る。
「君にずっと前から礼を言おうと思っていた」
「……お、俺に?」
「ロベルトの無茶な要求を受け入れ、逃げずに僕と踊ってくれていることに。僕はすぐに君がやめると言いだすに違いない。そうしたら堂々とロベルトに残念だったねと言って、笑ってやれる。それまでの付き合いだと思っていたのに裏切ってくれた」
 あんな真剣な顔してダンスの相手をしてくれていたのに、頭の中ではそんなこと考えていたのか。
 軽い人間不信に陥りそうになった俺に、アレクが鮮やかな笑顔を見せつけた。
「僕がわざと変な単語ばかり覚えさせてるのに、真面目に覚えてたし。そんな姿を見ていたらだんだん憐れになってきてね」
「やっぱりわざとだったんですね!」
 スマフォの助けを借りても、ちゃんと翻訳しきれないような文章が続いた時期があった。
 やっぱり英語は難しいなって考えたのに、アレクの意地悪のせいだったらしい。
 じっとアレクを睨みつけた。アレクはどこ吹く風で笑って流そうとする。
「いいじゃない。今は立派に会話できているのだからね」
「……感謝はしていますよ、一応ですけど」
 一応の部分を強調して言い返すと、明るい笑い声を上げてアレクが手を振った。
「前にも言ったけど、君はとても耳がいい。基本も出来ていたから、後は間違っていようが構わず言える僕のような相手がいさえすればよかったんだ」
 そう言ってもらえたら、あの眠れなった日々も無駄じゃなかったんだと安心できる。
「とにかくあきらめないでくれて、ありがとう。意地になって君の相手をしている間に、僕は忘れていたことを思い出せた。ジュノに言われたことは僕の胸にも刺さったよ」
 片目を閉じてアレクがウィンクした。
「それにしても君は前に来ていた少年に比べて、何十倍も真面目にやっているのに、なぜジュノは君に教えないのか。僕は気になってたまらなくてね、実は聞きに行ったことがあるんだよ」
「……えっ!」
 思わぬ話の展開に息を呑んだ。
「君が練習から帰ってくる前に、ジュノの部屋に行ってみたら……」
 アレクはそこで言葉を切ると、思い出したらしく眉を寄せて体を震わせた。
「あれは人間の部屋じゃないね。世界中の売れているCDを取り寄せたらしくて、まるでごみ廃棄場のような有様だったさ」
「……CDを取り寄せた?」
 俺の歌を聞いた後、ジュノさんは駄目だと言ったはずなのに。なぜそんなことをしているんだろう。
 疑問の後にジュノさんの部屋を思い出して、あれを片づけてからCDを入れたのか、あの上に追加したのかを聞こうとして止めた。
 何となくジュノさんが片づけた気がしなかったし、どっちにしろ惨状には違いない。
「ジュノいわく君を指導するための情報が、自分自身に不足している。その間君を放置するのももったいない。それに君には致命的な欠落がある。だからダンスをさせた。君自身に気づかせたいから……ってそう言っていたよ」
「俺の、致命的な欠落……?」
 アレクの口から知らされた思わぬジュノさんの意図に、信じていいのかわからず呆然とくり返した。
「観客がいなければ、アイスダンスも面白味が半減する。歌だって同じなんじゃないかい? 聞きたい人に、聞きたいと願う以上の歌を聞かせたい。その為に君はここに来たんだろう?」
「……あ……」
 ようやくアレクの、そしてジュノさんの言いたかったことがわかった気がした。
「性別も出身国も職業も関係ない。客の前に立つのなら、求める理想像を見せられるように、最大限の努力をするべきなんだよ。君は見てくれる人が何を求めているのか、知る努力はしているかい?」
「…………」
 ジュノさんの前で歌った時、言葉がわからないと言い訳して、ただ歌いたい曲を歌った。
 彼が何を見たくて、歌を要求したのかを考えていなかった。
 返す言葉もない俺の頭を軽くアレクが撫でる。
「僕もね、見失っていたよ。観客の前でパートナーを傷つけてしまった、自分自身の絶望ばかりに目を向けていたと気づかされた。屈辱的な要求にも負けず、嫌いな僕と馴染みのないダンスを踊る君と向かい合って……彼女と乗り越えてきた障害を思い出した。絶望の陰に隠してしまっていたものを思い出させてくれた。だから礼を言うよ……立ち直るきっかけをありがとう。そして一緒に踊ってくれることにも」
 間近にアレクの顔があって、まっすぐに感謝を伝えられた。
 なぜか胸が独りでに高鳴って、熱くなってくる。
「そんな……俺の方が教えられてばかりなのに……」
 無性に恥ずかしくなってきて、アレクから視線を反らした。
 公園はすっかり暗くなっている。
 ぽつぽつと灯る街灯の中に人影が見えた。
 あれ、と思う間に人影は近づいてくる。
 大柄な男性が三人だ。
 揃いも揃って腕まくりしている男性たちの二の腕は丸太みたいに太い。 
 その盛り上がった筋肉を、炎や色っぽい女性などのタトゥーが彩っている。
 耳と鼻、唇にもピアスをつけた男性がガムを噛みながら声をかけてきた。
「いいなぁ、兄ちゃん。可愛い子と楽しそうじゃねぇの」
「オレたちも、お嬢ちゃんと仲良くしたいんだけどなぁ」
 男性たちの粘つくような話し方と、その視線にぞっと鳥肌が立った。
 日頃からスカートをはいていたことが裏目に出たらしい。夜の闇が東洋人の性別をわかりにくくさせたのかもしれない。
(こ、こいつら……俺を女だと思ってんの?)
 気色悪さに身を引いた。とたんに彼らが囃すように声を上げる。
 アレクが立ち上がって、彼らと俺の間に立ちふさがる。
「……いい加減にしなさいよ」
「あぁ? 兄ちゃんに用はねぇ」
「お嬢ちゃんとは後日よろしくしな。今夜はオレたちと来いや、お嬢ちゃん」
 ピアス男が俺の手首を強引に掴む。
 その腕をアレクが下から蹴りあげ、男たちは一斉に呻り声を上げて突進してきた。
(やばい、俺ケンカ慣れしてないし……このままじゃアレクがやられる!)
 一発、二発と顔面や腹に拳骨を受けるアレクはそれでも俺を庇い続けている。
 どうしたらいいか、殴られる音と男たちの罵声を聞きながら、逸る心を宥めながら考えてとっさに閃いたアイディアに従った。
 すぅっと息を吸いこんで、最大音量の一番低い声で叫んでやった。
「ここにいる人たちは、男の俺に性行為をしたがっている変態たちですっ!」
 男たちはもちろん、アレクまでもがぽかんと口を開いて動きを止めた。
 彼らに見せつけるつもりで、胸元をはだけて明かりが当たるように体の向きを調節する。
「よく見ろ、変態っ!」
「…………」
 言葉もなく見つめてくる男たちの前で、アレクが我に返るなり、俺に飛びかかってきた。
「しまいなさい、早くっ」
「な、なんで……」
「いいから。逃げるよっ!」
 今度はアレクが俺の手を掴んで、全力でその場から駆けだした。
 どこを走って、どこへ逃げるのか。
 暗くなったせいで道がわからない俺は、腕を引くアレクに従うしかない。
 途中、走りながら俺を振り返って様子を確認しながら、男たちが追ってきていないかをアレクが何度も見ていた。
 どれくらい走ったのか、胸が忙しい呼吸に焼かれて、吐き気を感じるほど走ったところで、ようやくアパートに辿りつけた。
 部屋まで一目散に階段を駆け上がり、ドアを開けて雪崩のように倒れこむ。
 ふたりして床に転がったまま、荒い呼吸をくり返す。
 耳をすませても、だれかが追ってくる足音が聞こえることはなかった。
「…………」
「……ふっ」
 やがてアレクがこらえきれなくなったらしく、小さく吹きだした。
 それが緊張感をはぎとってくれたらしい。
 ふたりそろって天井を見上げたまま、満足するまで声を出して笑い転げた。
 近所迷惑とかまるで思いつかない。とにかくやたらと笑いたくてたまらなかった。
 ひとしきり笑って、目尻に滲んだ涙を指で拭いながら、アレクが真顔に戻って俺の顔を覗きこんで言った。
「……あんなこと、二度としたらいけないよ。わかったかい?」
「あ、んなこと、って……?」
 俺はまだ完全には笑いが静まっていなかった。切れ切れに聞き返すと、アレクが腕を伸ばして、曝け出したままの俺の胸を服で隠した。
「……俺が叫ばなくても、脱がされたらすぐにわかったことなのに」
 得心がいかないと呟く俺を、何とアレクが抱きしめてきた。
(へっ……?)
 今日は予想外の出来事ばかりが起こる日らしい。
 どうしたらいいのかわからず、硬直する俺を抱きしめたアレクが、深く息を吐き出す。
 耳元でかすかに震える声は、一体だれのものなのか。一瞬わからなくなるほど、いつもと違う声だった。
「君は、君の魅力に無関心すぎる。致命的な欠陥だよ」
「……そ、れは表現者としてのこと、だよね?」
 アレクの肩越しに天井を見上げながら、乱れたままの鼓動をかき消したくて聞いてみた。
 わずかに体を起こしてアレクが顔を覗きこんでくる。
(うわ……まつ毛長い。目の色こんなにきれいだったっけ。こうして近くで見ると、ほんとにかっこいい顔してる)
 無言の凝視に耐えきれず、どうでもいいことを必死に考えた。
 しばらく経って、あきらめた様子でアレクがはぁ……と長いため息をついた。
「……それでよく今まで何事もなく、生きてこれたね」
「だから……さっきから意味がわからな……」
 やれやれと首を振るアレクに言い返そうとしたところで、やおらアレクが顔を伏せた。
 その先には一度はだけてみせた俺の胸がある。
 さっきはアレク自身が整えた服を、アレクの手で押し広げられた。
 ちゅ……っと小さな音と熱が肌を弾く。
「…………」
 呆然としていたのは一瞬。
 素肌を撫でる手と、軽く押し当てて離れた唇の熱に気づいて、頭の先まで血が昇った。
「な、ななな……何するんだよっ」
「……君が君自身に気づかないから、教えてあげてるのさ」
 言う間にもアレクの手が器用に動いて、脇腹をさらっと撫でながら、体をずらして首筋を軽く噛まれた。
 びくっと思わず体が震えてしまった。
「その気がない僕でもね……君の肌を見ると、正気でいられなくなる時がある。特にさっきの君はかっこよかったからね。抱きしめて……独り占めしたくなったよ」
「ばっ……馬鹿なこと言ってないで、離れろっ」
 圧し掛かってくるアレクの体を突き離そうと、胸に両手をついた。精一杯押したけど体重をかけられて、あまり効果がなかった。
「男だろうが女だろうが、関係ないのは観客だけじゃないよ。つまるところ、人対人さ。違うかい?」
 わざと耳元に唇を寄せて、アレクが息をふきかけるように言った。
「何を言っているのか、わからないよっ」
「……常識は邪魔にしかならないってことさ」
 謎かけのような言葉を残して、アレクの体が離れていく。
 反応に戸惑って動けない俺に手を差し出してくれる。
「僕以外の人間の前で、服を脱ぐのはやめた方が君のためだよ。次はこれですまなくなる」
 アレクに助け起こされて、床に座り込んだまま俺は、部屋に戻っていくアレクの言葉を考え続けた。


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 ここから響くんも無事に英語が理解できるようになった、と思って読んでください。
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第一王子が15歳を迎える日、お祝いとは別に未来の妃を探すことを目的としたパーティーが開催することが発表された。 そのパーティーには身分関係なく未婚である女性や歳の近い女性全員に招待状が配られたのだという。 血の繋がりはないが訳あって一緒に住むことになった妹ーーーミシェルも例外ではなく招待されていた。 これまた俺ーーーアレットとは血の繋がりのない兄ーーーベルナールは妹大好きなだけあって大いに喜んでいたのだと思う。 俺はといえば会場のウェイターが足りないため人材募集が貼り出されていたので応募してみたらたまたま通った。 そして迎えた当日、グラスを片付けるため会場から出た所、廊下のすみに光輝く何かを発見し………?

【完結済】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている

キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。 今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。 魔法と剣が支配するリオセルト大陸。 平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。 過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。 すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。 ――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。 切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。 全8話 お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /c

ただ愛されたいと願う

藤雪たすく
BL
自分の居場所を求めながら、劣等感に苛まれているオメガの清末 海里。 やっと側にいたいと思える人を見つけたけれど、その人は……

目線の先には。僕の好きな人は誰を見ている?

綾波絢斗
BL
東雲桜花大学附属第一高等学園の三年生の高瀬陸(たかせりく)と一ノ瀬湊(いちのせみなと)は幼稚舎の頃からの幼馴染。 湊は陸にひそかに想いを寄せているけれど、陸はいつも違う人を見ている。 そして、陸は相手が自分に好意を寄せると途端に興味を失う。 その性格を知っている僕は自分の想いを秘めたまま陸の傍にいようとするが、陸が恋している姿を見ていることに耐えられなく陸から離れる決意をした。

ラベンダーに想いを乗せて

光海 流星
BL
付き合っていた彼氏から突然の別れを告げられ ショックなうえにいじめられて精神的に追い詰められる 数年後まさかの再会をし、そしていじめられた真相を知った時

新しい道を歩み始めた貴方へ

mahiro
BL
今から14年前、関係を秘密にしていた恋人が俺の存在を忘れた。 そのことにショックを受けたが、彼の家族や友人たちが集まりかけている中で、いつまでもその場に居座り続けるわけにはいかず去ることにした。 その後、恋人は訳あってその地を離れることとなり、俺のことを忘れたまま去って行った。 あれから恋人とは一度も会っておらず、月日が経っていた。 あるとき、いつものように仕事場に向かっているといきなり真上に明るい光が降ってきて……? ※沢山のお気に入り登録ありがとうございます。深く感謝申し上げます。

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