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第二章
我恋歌、君へ。第二部 13: 枯れ葉
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ダンスの時も思ったけど、この人はどこから話を聞きつけて来るんだろう。
「よぉ。また面白そうな展開になったじゃねぇか」
「……ジュノさん」
アレクが出掛けて間もなく、ドアをノックしたのは馴染みのくたびれた姿のジュノさんだ。
丸眼鏡をくいっと指先で持ち上げて、片頬だけでにやりと笑う。
「おまえ、勝算があって勝負を引き受けたわけじゃねぇんだろ。もしかしておれ様を甘く見てるのか、それともユリィを侮ってんのか?」
「ユリィ……ユリエルのことなら、すべての曲を聞いたわけではありませんが、歌い手として尊敬しています」
「ならおれ様の実力を低く見てるわけだな。いいか、これだけは言っておく。いまのおまえなら数万回歌っても勝ち目はねぇよ。あいつはおれ様が直接指導した奴なんだからよ」
ジュノさんが人差し指を俺の眼前につきつけて、真剣なまなざしで言い放つ。
だけどそれは勝負をあきらめさせるためじゃなく、むしろ励ましているようで。
(いまの俺なら……いまのままじゃなければ勝てるかもしれないってこと?)
そう考えることは都合が良すぎるかもしれない。
「そうだとしても俺は歌いますよ。どれくらい差があるのか、直接聞いて歌ってみて知りたい」
「怖い者知らずだな。あいつは素行には粗がありまくりだが、歌に関しては天才だぜ。それでも挑戦するってのか?」
富岡さんが俺をモーチンさんに預けて、直接ジュノさんの指導を受けられるようにしてくれた。
それだけジュノさんに信頼を置いていると言うことで、そんなジュノさんが天才と言うユリエルは本当に凄い人なんだろう。
開いたままのドアに背中をつけてもたれ、ジュノさんが腕組みをした。
面白そうに眼鏡の奥から俺を観察している。
(……まるで俺の覚悟を試してるみたいだ)
ここで勝負を辞退することを決めたら、ジュノさんは俺はここまでだったと見切りをつけてしまうような気がした。
「やります。日本に帰って、少しでも役に立ちそうなことなら、何だってやります」
慣れないダンスも、屈辱的な女装に耐えたのもそのためだったんだ。
怯みかけた気持ちを内心で奮い立たせながら、ジュノさんをまっすぐに見て言いきった。
するとドアから離れて、ジュノさんが大きく頷く。
「よっし。面白くなってきやがったな」
「……ジュノさんは関係ないのでは……」
あくまでも俺とユリエルの勝負のはず。
俺が首を傾げると、ジュノさんは大げさなほど目を大きく開いて驚く素振りをした。
「おまえ……おれ様の指導も無しに、あいつに勝てると思っていたのか? いくら話せるようになったって、歌はまだだろうに」
「……ダメだな、と言ったのはどこのどなたですか」
つい本音をこぼしてしまった。
ジュノさんは背後で手をつなぎ、明後日の方向を見上げて口笛を吹いた。
「んなこと言ったか」
「……言いましたよ、はっきりと」
こんな人に教わって役に立つのだろうか。
とてつもない不安を抱えながら、こうして俺はジュノさんの指導を受けられることになった。
あの殺人的に物が散らかってるジュノさんの部屋で指導されるのかと思っていたら、連れて行かれたのはちゃんとしたスタジオルームだった。
「なんて顔してんだ」
先に入ってピアノまで歩いていきながら、ジュノさんは俺を振り返って右の眉を持ち上げた。
くるくるスタジオ内を見回していた俺は、正直に言うべきか一瞬ためらった後に答える。
「いえ……ジュノさんも、ちゃんと仕事していたんですね」
卒業ライブまで練習に使っていたスタジオの三倍近くありそうな、とても広いスタジオだ。
スタジオがあるビルに入った時も、ジュノさんの顔を見るなりスタッフがどうぞと中に通していた。
(ダンスグループとか、大人数のアーティストが使えそうなんだけど……俺が使っていい規模じゃない気がする)
こんなところを簡単に使えてしまうと言うことは、ジュノさんがそれだけ功績を持っているってことだ。
ちょっとだけ見直した気分だ。
ポン、と鍵盤をひとつ叩きジュノさんがヒヒッと笑った。
「おおかた、呑んだくれの役立たずオヤジだとでも思ってたんだろ。お生憎様ってやつだ。で、どうする。分不相応なスタジオを眺めるだけで帰るつもりか?」
「い、いいえっ。ご指導をお願いします!」
慌ててピアノのそばに駆け寄り、ジュノさんを見る。ほとんど視線の高さが変わらない位置で、ジュノさんが目を輝かせた。
「まずは聞かせてもらおうか。おまえさんはあそこで、何を歌いたい?」
「まだ決まっていないのですが……」
ジュノさんが右手で蚊を追い払うような仕草をした。
「違うっての。曲を聞いてんじゃねぇ、言っただろうが。わざわざ店に足を運んでくれるお客さんたちに、おまえは何を聞かせたいと思ってんのかって聞いてんだ」
「あ……」
また同じ失敗をくり返すところだったと気づいて、少しいたたまれない気分になる。
ユリエルが出した課題は、お互いの出身国の歌を歌うこと、ただそれだけだった。
どんな曲を歌うのかについては、何も触れていない。
ジャンルはもちろん、どんな内容の曲を選ぶのかも。
「いろんな人間が生きて、数えきれねぇほど曲を生みだしてきてんだ。おまえさんが伝えたいと思う気持ちを乗せられる曲は必ずある。だがおまえさんの気持ちは、おまえさんの中にしかない。おまえさんが見つけない限り、そこにしかねぇんだからよ。しっかり見据えてやんな」
「……はい」
その日は久しぶりに歌うだろうから、と基礎中の基礎をくり返すだけで指導が終わった。
日本にいた頃にしていたこととほとんど変わらないけど、自分でも驚くほど変化を感じた。
「気づいたか?」
ジュノさんもピアノを鳴らしながら、楽しそうに笑って聞いてくる。
どうしてだろう、とても歌いやすくなっている。いままで苦労していたつもりはないけど、こんなにすんなりと声を操れるとは思ってもいなかった。
以前使っていた自転車が、新しい自転車に変えた時になってようやく、実は進むためにずいぶんと力を使っていたんだと気づけた時のよう。
「姿勢が良くなったせいだ。なぁ? ダンスも無駄じゃなかっただろう」
「……はい」
「おまえ、やたら猫背だったからな。せっかくの素質を無駄に削ってたんだ。その感覚を忘れんじゃねぇぞ?」
油断したらすぐに元に戻るぞ、とジュノさんが最後は脅しで締めくくる。
ジュノさんはそのまま仕事があるから、とスタジオに残り、帰りは俺ひとりになった。
ダンスがはじまってからはスタジオとアパートの往復で、それ以前は食材を買いに行く時だけ。外を滅多に出歩かなかったせいで、帰り道が少し不安だ。
(せっかくイギリスに来たって言うのに、相変わらず俺の行動範囲は狭いままだなぁ)
苦笑しながらつくづく思う。
出歩くことが嫌いなわけではなく、ただ怖いのだ。
帰りつくことが出来なくなりそうで。
(……臆病な子どもみたい)
まだ日が高いし、地下鉄の駅までの道がわかっている。ここからなら道に迷っても自力で帰れそうだ。
少し違う道も歩いてみよう、と来た時は通らなかった道へ角を曲がって歩いて行く。
心臓が不安でとくり、と鳴る。
帰り道から遠ざかるほど、その音は高まって手のひらに汗が滲んでくる。
(生まれた時からこんなに臆病だったのかな)
うんと幼い頃には神音とふたり、飛びまわって遊んだ気がする。
親の目を盗んで家から離れたこともあったと思う。
(……いつからだろう?)
知らない道を歩き景色を眺めながら、頭の片すみでつらつらと思考が流れていく。
道の両脇にはアパートが並んで、ぽつぽつと小さな商店が合間に店を開いている。
そこを何となく眺めながら歩いて、ほどなく柵で覆われた公園を見つけた。
「うわぁ……きれいだ」
柵の向こうにたくさんの木々が揺れて、芝生が弱い日差しに淡く輝いていた。
木製のベンチが一本の大きな木の下にある。
ボール遊びをしている子どもたちの親だろう。ベンチに夫婦が座っていて、お互いの手を重ねて微笑んでいた。
「……ここの子どもたちは幸せだろうなぁ」
広々とした公園で、好きなだけ体を動かせるのだ。そして温かい両親に見守られて、不安になることもない。
しばらく柵越しに彼らの様子を眺めていた。
太陽が雲に隠れて、公園が陰る。
「……そろそろ帰ろう」
すぅっと吹き抜けた冷たい風に頬を撫でられて、我に返った。
公園に背を向けて歩きながら、やたらと寒気がする胸の中を覗いてみた。
(……帰れない、か……)
倒れてから見ることが増えた、男に追いかけられる夢を思い出す。
熱が見せた悪夢として忘れようとするけど、何度もくり返し夢に見るから、ただの夢ではないんだろう。
(たぶん……あれも昔にあったことなんだろうな)
ずっと考えないようにしていた。
母親が冷たいことは当たり前で、もう乗り越えたと思っていたから。
汗ばむ手のひらを握りしめる。
(俺は……だから樫部に惹かれたのか)
帰れなくなった俺を探しに来てくれた同級生に抱いた気持ちは、恋心と言うよりは信頼できる相手に甘える気持ちだったのかもしれない。
声をかけても振り向いてくれなかった背中を追いかけて、苦しくなったのはまた置き去りにされると思ったから。
風が強く吹いた。どこからか枯れ葉が足元へ流れてくる。
足を止めて枯れ葉を見下ろす。
俺もこの枯れ葉と同じかもしれない。
ふらふらと定まらず、風に吹かれるがまま流されるしかない、か弱い存在だ。
怯え続けたのは捨てられたことがあったから。確かに足元を信じることができなかったんだ。
(でも……)
目を閉じて、暗闇を見る。
ずっとその中に取り残された気分だったけど、父や神音がそばにいてくれたから完全にそこに落ちたわけじゃない。
迷った俺を探してくれた樫部や、弱音を受け止めてくれたアレンさん、迷ってばかりで無知な俺を辛抱強く待っていてくれた八代さんや文月さん。そして無表情の奥で俺の何かを認めてくれた富岡さん。
言いたいことを素直に言うジュノさん、にこにこ笑う大らかなモーチンさんも。
ふわふわと頼りのない俺を、いまはしっかりとつなぎとめてくれる、多くの手がある。
「帰れるはず、いまなら」
だれかを待つことしかできない子どもじゃないはずだから。
もう一度だけ、明るい笑い声が聞こえてくる公園を振り返った。
冷たい風に揺れる木の枝も、駆け寄ると受け止めてくれる温かい腕があるとわかっていれば、何も怖くないだろう。
(置き去りにされて、男に追いかけられた後どうなったのか……そこから先は夢に出てこないんだよな)
いつも気がついたら父に抱かれている。
たぶんだれかが父のところに戻してくれたんだろう。置き去りにされたのはよく知らない広場だったから、ひとりで帰りつけたとは思えない。
だけど父の腕の中に戻っても、寒さが和らぐことはなくて。
そこにしか居場所はないのに、父に見えない場所で冷たい顔を見せる母に怯えて過ごすしかなかった。
「……どうか、そのままで」
聞こえないとわかっていても、公園の親子に向けて願わずにはいられなかった。
アパートに戻ると先にアレクが帰っていた。
「おかえり……どうしたんだい?」
音に気づいて部屋から出てきたアレクが、俺の顔を見るなり心配そうに駆け寄ってきた。
「え……何が?」
「何がって……何ともないのかい」
「……?」
驚きながらアレクが俺の腕をつかんだ。まるで支えるように寄り添って歩くから、その必要はないと離れようとしたら体がうまく動かず、ふらついてしまった。
そこでようやく気がついた。
(頭がふらふらしてる……)
まっすぐ歩いているつもりだけど、時々横に逸れてしまう。アレクが支えてくれているから壁にぶつからずに椅子まで辿りつけた。
「ここに座って。何か温かいものを……」
「アレク。俺は居てもいいのかな?」
椅子に座った俺を見届けて、キッチンへ向かおうとしていたアレクが俺の声に動きを止めた。
ゆっくり振り向いて俺を見る。
「俺はたぶん……だれも好きになれない。怖いから……俺に価値はない。きっといつかみんな気づく。捨てられる……それが、怖い」
「何を……言っているんだい?」
アレクが戻ってきて、俺の肩をつかんだ。
俺はひっそりと笑う。
「アレクだって、はじめは俺が嫌いだった」
「……ヒビキ?」
「いまは違っても、また嫌いになるよ……みんなも……」
身近な人は冷たい態度が当たり前だったから、そうでないことが恐ろしい。
だから距離を置こう。これ以上恐れることがないように。
アレクの手を振り払って立ち上がった。
「……部屋に戻るよ。俺の仕事に戻る。いままでお世話になりました」
「ヒビキ……待ちなさい」
そばを通り抜けようとした俺の手を、アレクが掴んで引き止める。
「何があったんだい。そんな顔をして、何もなかったと言っても信じないよ」
ちょっと声が低くなったアレクをぼんやりと眺める。
どうも視界がうまく定まらない気がする。
「別に……少し、忘れていた昔のことを思い出しただけ」
見知らぬ広場、知らない大人たちが歩いていく中で、待っていろと命じた母親。
ずっと待っている間に日が暮れて、だれもいなくなった広場にいた俺を、見知らぬ男が見つけて追いかけてきた。
ただそれを思い出しただけだ。
「それがなぜ……いや、それよりもこんな状態でひとりにはさせられない。出ていくつもりなら、せめて明日にしなさい。君はいまとても疲れているんだよ」
「……わかった」
本当はアレクの言ったこと、全部理解していなかったんだけど、手が離れて自由になったことの方が重要で、とりあえず頷いた。
ふらふらするだけじゃなくて、なぜだかすごく重い。椅子に座り直して、ため息をついた。
それきりアレクは何も聞いてくることもなく、俺は温かい紅茶を飲んでから部屋に戻った。
どさっと音を立ててベッドに体を投げ出す。
(……疲れた、かな)
アレクに言われた時はそんなに感じていなかったけど、こうして体から力を抜いてみると、確かに疲れているなと思った。
着替えもせずに目を閉じる。
ジュノさんの指導は最初だから厳しくもなく、寄り道もほんの少ししただけだったのに。
息苦しさを感じて、羽織っていた薄い上着だけを脱いだ。
床に上着を手放したところまでは覚えている。
次に気がつくと朝日が部屋を照らしていた。
体を起こすとまだ頭の重さが残っていた。
アレクはすでに出掛けたらしい。静かな部屋の中でコーヒーを飲みながら、ぼんやりと宙を眺める。
(ここで……結構長い時間過ごしてたんだな)
感慨にふけった後で部屋を出る準備をはじめた。
アレクの部屋に運び込んだ私物をまとめてもカバンひとつで足りる。ベッドはどうしようもないから、床で寝よう。
荷物を詰めたカバンを肩にかけて、アレクの部屋を出たところで思わぬ人と遭遇した。
「……え?」
「おはよう。珍しく寝癖がついているね」
いつからそこにいたのか、部屋の外で待っていたのはアレンさんで。くすっと小さく笑いながら指を伸ばして俺の髪に触れてきた。
俺は呆気にとられたまま、髪をいじるアレンさんを見上げるしかなかった。
「我が家にお誘いに来たよ。母と兄が君に会いたがっている」
「……母と兄?」
「そう。ジュノさんの指導がはじまったみたいだけど、ちゃんと時間に間に合うように送迎するから心配せずにおいで」
「……いえ、その……ご迷惑は」
モーチンさんの部屋に戻るつもりでいた俺がもごもご断るのも聞かず、アレンさんがいいからと俺の腕を掴んで歩き出してしまった。
「まさか響くんもイギリスに来ていたなんて思ってもいなかったから、あの時は本当に驚いたよ」
「……あれは忘れてください」
自分史上最も人に知られたくない姿をこの人には見られている。日本に戻る前にしっかり口止めしておこうと思った。
「だれにも言わないでくださいよ!」
アレンさんが少し振り向いて、片目を閉じると口の前に指を立てた。
「え~……それはどうだろう。とっても素敵だったからなぁ……口止め料をくれないと忘れられそうにない」
「……いくら払ったら忘れてくれますか」
「お金は要らないよ」
「だったら何を……」
階段の踊り場でアレンさんが立ち止まる。
腕を掴まれたままだった俺も立ち止まって、アレンさんを見上げたところで、顔が近づいてきた。
「……リィとの勝負に勝ったら、オレとキスして」
それで忘れる、と言うアレンさんの顔はとても冗談を言っているようには見えなかった。
「……負けたら?」
「うん。その時は一晩、ベッドの中でお付き合いしてもらおうかな」
「……あの、俺は男ですけど」
「わかってるよ?」
「……?」
最後は冗談のように笑って流したアレンさんが、アパートを出て行く。
どこまで本気で、どこが冗談だったのか。
ただ表立って行動してこなかったアレンさんが、具体的に要求してきたのは意外だった。
(……だから俺にそんな価値はないんだって)
アレンさんと言い、アレクといい。
何で俺みたいな凡人を選ぶんだか。
ため息をつきながら、アレンさんに連れられて車に乗り込んだ。
日本で見慣れたアレンさんの車と違い、とても小さな車だった。
「アレンさん、こっちでも運転できるんですね」
「母の仕事を手伝うことが多いから、運転できないと不便で」
行きたいところがあるなら連れて行ってあげるよ、と笑うアレンさんが間もなく車を止めた。
「終わったら連絡して……はい、これのここを押せばオレにつながる」
止める間もなくスマフォを渡された。
アレクの部屋から出る時に、借りっぱなしだったスマフォは置いてきた。
スタジオに電話があったかなと考えていた俺は、スマフォを受け取りながら少し迷った。
「アレンさんのでしょう? 俺はどうにかしますから……」
「いいから、使ってよ。それにほら」
アレンさんが上着のポケットから携帯を取り出した。
「もう一台持っているから、オレは平気だよ」
「……では、お借りします」
スマフォよりそっちがいいな、とは言えずに借りたスマフォを抱えて、ジュノさんが待つスタジオに入った。
スタッフの人に呼びとめられて、使用するために名前を記入してからエレベーターに乗りこみ、昨日のスタジオに入るとジュノさんが先にいてピアノを弾いていた。
「……おぅ、来れたか」
「何の曲ですか? きれいですね」
「ん、これか? まぁ指慣らしにはちょうどいいや」
最後は曲調を早めて弾き終わると、ジュノさんが俺を見上げてきた。
「さて。おまえさんが歌いたいことは決まったか?」
「はい」
ジュノさんの指導を受けた後、その日は別の場所に行くと言うジュノさんとスタジオの外で別れ、借りたスマフォでアレンさんに連絡をした。
今日はひとりで歩き回る気分じゃなかったから、迎えに来てくれるのをスタジオのあるビルの前でじっと待つ。
冷たくなった風に吹かれていると、歌っていた間に頭に昇っていた血が少しずつ引いていく。
すると頭がゆっくりと動きはじめる。
(どうして今朝アレンさんが部屋に来ていたんだろう……)
通りすぎていく人たちを眺め、迎えを待っている間に疑問が湧いてきた。
部屋から出て行くということは、前にもアレクに伝えたことがある。ただその時はモーチンさんも反対していたし、アレクもそのままでいいと言っていた。
(昨日の話……もしかしてアレクがアレンさんに伝えたとか?)
パーティに連れて行かれた日、対面した様子ではふたりの仲は良くないように見えたけど違ったんだろうか。
あまりにもタイミングが良すぎる。
そう思い当たったところで、アレンさんが到着した。
「お疲れ様。調子はどうだった?」
走り出した車内で、アレンさんが明るく話しかけてきた。
「歌う曲が決まって、練習をはじめたところです。前より調子がいい気がしますけど……それよりアレンさん。聞きたいことが」
「どうして今朝来たのかってことでしょ」
運転しながらアレンさんが先手を打ってきた。見えないだろうけど頷いたら、アレンさんが苦く笑った。
「あのいけすかない男が連絡してきたから」
やっぱりと思った俺を、ちらっとアレンさんが横目で見た。
「オレはね……響くんと会うなって奴に言われていたんだよ」
「え……?」
車は街中を走り抜けて、郊外に向かっているようだった。少しずつ変化していく光景が視界の端に映る。
「響くんが倒れた時、オレはすぐにでも家に連れて帰ろうとしたんだよ。でも奴はオレがいない方が響くんのためだと……オレはその時、響くんは奴を選んだんだと思ってたから、素直に連絡先だけ残して帰った。いまは後悔している」
昨日の様子を見たアレクがそこに連絡をしたってことか。
「ごめんね……あの時、ちゃんと連れて帰ればよかったよ」
「いえ……その、アレンさんのせいではないので……」
原因は俺が子どもすぎるってことだから。
もごもご言い訳をしながら車外を見る。
流れていく景色は当然ながらはじめて見る光景だった。
きれいだなと思う頭の片すみで、倒れた時に感じた手はアレンさんの物だったのかな、と思った。
「よぉ。また面白そうな展開になったじゃねぇか」
「……ジュノさん」
アレクが出掛けて間もなく、ドアをノックしたのは馴染みのくたびれた姿のジュノさんだ。
丸眼鏡をくいっと指先で持ち上げて、片頬だけでにやりと笑う。
「おまえ、勝算があって勝負を引き受けたわけじゃねぇんだろ。もしかしておれ様を甘く見てるのか、それともユリィを侮ってんのか?」
「ユリィ……ユリエルのことなら、すべての曲を聞いたわけではありませんが、歌い手として尊敬しています」
「ならおれ様の実力を低く見てるわけだな。いいか、これだけは言っておく。いまのおまえなら数万回歌っても勝ち目はねぇよ。あいつはおれ様が直接指導した奴なんだからよ」
ジュノさんが人差し指を俺の眼前につきつけて、真剣なまなざしで言い放つ。
だけどそれは勝負をあきらめさせるためじゃなく、むしろ励ましているようで。
(いまの俺なら……いまのままじゃなければ勝てるかもしれないってこと?)
そう考えることは都合が良すぎるかもしれない。
「そうだとしても俺は歌いますよ。どれくらい差があるのか、直接聞いて歌ってみて知りたい」
「怖い者知らずだな。あいつは素行には粗がありまくりだが、歌に関しては天才だぜ。それでも挑戦するってのか?」
富岡さんが俺をモーチンさんに預けて、直接ジュノさんの指導を受けられるようにしてくれた。
それだけジュノさんに信頼を置いていると言うことで、そんなジュノさんが天才と言うユリエルは本当に凄い人なんだろう。
開いたままのドアに背中をつけてもたれ、ジュノさんが腕組みをした。
面白そうに眼鏡の奥から俺を観察している。
(……まるで俺の覚悟を試してるみたいだ)
ここで勝負を辞退することを決めたら、ジュノさんは俺はここまでだったと見切りをつけてしまうような気がした。
「やります。日本に帰って、少しでも役に立ちそうなことなら、何だってやります」
慣れないダンスも、屈辱的な女装に耐えたのもそのためだったんだ。
怯みかけた気持ちを内心で奮い立たせながら、ジュノさんをまっすぐに見て言いきった。
するとドアから離れて、ジュノさんが大きく頷く。
「よっし。面白くなってきやがったな」
「……ジュノさんは関係ないのでは……」
あくまでも俺とユリエルの勝負のはず。
俺が首を傾げると、ジュノさんは大げさなほど目を大きく開いて驚く素振りをした。
「おまえ……おれ様の指導も無しに、あいつに勝てると思っていたのか? いくら話せるようになったって、歌はまだだろうに」
「……ダメだな、と言ったのはどこのどなたですか」
つい本音をこぼしてしまった。
ジュノさんは背後で手をつなぎ、明後日の方向を見上げて口笛を吹いた。
「んなこと言ったか」
「……言いましたよ、はっきりと」
こんな人に教わって役に立つのだろうか。
とてつもない不安を抱えながら、こうして俺はジュノさんの指導を受けられることになった。
あの殺人的に物が散らかってるジュノさんの部屋で指導されるのかと思っていたら、連れて行かれたのはちゃんとしたスタジオルームだった。
「なんて顔してんだ」
先に入ってピアノまで歩いていきながら、ジュノさんは俺を振り返って右の眉を持ち上げた。
くるくるスタジオ内を見回していた俺は、正直に言うべきか一瞬ためらった後に答える。
「いえ……ジュノさんも、ちゃんと仕事していたんですね」
卒業ライブまで練習に使っていたスタジオの三倍近くありそうな、とても広いスタジオだ。
スタジオがあるビルに入った時も、ジュノさんの顔を見るなりスタッフがどうぞと中に通していた。
(ダンスグループとか、大人数のアーティストが使えそうなんだけど……俺が使っていい規模じゃない気がする)
こんなところを簡単に使えてしまうと言うことは、ジュノさんがそれだけ功績を持っているってことだ。
ちょっとだけ見直した気分だ。
ポン、と鍵盤をひとつ叩きジュノさんがヒヒッと笑った。
「おおかた、呑んだくれの役立たずオヤジだとでも思ってたんだろ。お生憎様ってやつだ。で、どうする。分不相応なスタジオを眺めるだけで帰るつもりか?」
「い、いいえっ。ご指導をお願いします!」
慌ててピアノのそばに駆け寄り、ジュノさんを見る。ほとんど視線の高さが変わらない位置で、ジュノさんが目を輝かせた。
「まずは聞かせてもらおうか。おまえさんはあそこで、何を歌いたい?」
「まだ決まっていないのですが……」
ジュノさんが右手で蚊を追い払うような仕草をした。
「違うっての。曲を聞いてんじゃねぇ、言っただろうが。わざわざ店に足を運んでくれるお客さんたちに、おまえは何を聞かせたいと思ってんのかって聞いてんだ」
「あ……」
また同じ失敗をくり返すところだったと気づいて、少しいたたまれない気分になる。
ユリエルが出した課題は、お互いの出身国の歌を歌うこと、ただそれだけだった。
どんな曲を歌うのかについては、何も触れていない。
ジャンルはもちろん、どんな内容の曲を選ぶのかも。
「いろんな人間が生きて、数えきれねぇほど曲を生みだしてきてんだ。おまえさんが伝えたいと思う気持ちを乗せられる曲は必ずある。だがおまえさんの気持ちは、おまえさんの中にしかない。おまえさんが見つけない限り、そこにしかねぇんだからよ。しっかり見据えてやんな」
「……はい」
その日は久しぶりに歌うだろうから、と基礎中の基礎をくり返すだけで指導が終わった。
日本にいた頃にしていたこととほとんど変わらないけど、自分でも驚くほど変化を感じた。
「気づいたか?」
ジュノさんもピアノを鳴らしながら、楽しそうに笑って聞いてくる。
どうしてだろう、とても歌いやすくなっている。いままで苦労していたつもりはないけど、こんなにすんなりと声を操れるとは思ってもいなかった。
以前使っていた自転車が、新しい自転車に変えた時になってようやく、実は進むためにずいぶんと力を使っていたんだと気づけた時のよう。
「姿勢が良くなったせいだ。なぁ? ダンスも無駄じゃなかっただろう」
「……はい」
「おまえ、やたら猫背だったからな。せっかくの素質を無駄に削ってたんだ。その感覚を忘れんじゃねぇぞ?」
油断したらすぐに元に戻るぞ、とジュノさんが最後は脅しで締めくくる。
ジュノさんはそのまま仕事があるから、とスタジオに残り、帰りは俺ひとりになった。
ダンスがはじまってからはスタジオとアパートの往復で、それ以前は食材を買いに行く時だけ。外を滅多に出歩かなかったせいで、帰り道が少し不安だ。
(せっかくイギリスに来たって言うのに、相変わらず俺の行動範囲は狭いままだなぁ)
苦笑しながらつくづく思う。
出歩くことが嫌いなわけではなく、ただ怖いのだ。
帰りつくことが出来なくなりそうで。
(……臆病な子どもみたい)
まだ日が高いし、地下鉄の駅までの道がわかっている。ここからなら道に迷っても自力で帰れそうだ。
少し違う道も歩いてみよう、と来た時は通らなかった道へ角を曲がって歩いて行く。
心臓が不安でとくり、と鳴る。
帰り道から遠ざかるほど、その音は高まって手のひらに汗が滲んでくる。
(生まれた時からこんなに臆病だったのかな)
うんと幼い頃には神音とふたり、飛びまわって遊んだ気がする。
親の目を盗んで家から離れたこともあったと思う。
(……いつからだろう?)
知らない道を歩き景色を眺めながら、頭の片すみでつらつらと思考が流れていく。
道の両脇にはアパートが並んで、ぽつぽつと小さな商店が合間に店を開いている。
そこを何となく眺めながら歩いて、ほどなく柵で覆われた公園を見つけた。
「うわぁ……きれいだ」
柵の向こうにたくさんの木々が揺れて、芝生が弱い日差しに淡く輝いていた。
木製のベンチが一本の大きな木の下にある。
ボール遊びをしている子どもたちの親だろう。ベンチに夫婦が座っていて、お互いの手を重ねて微笑んでいた。
「……ここの子どもたちは幸せだろうなぁ」
広々とした公園で、好きなだけ体を動かせるのだ。そして温かい両親に見守られて、不安になることもない。
しばらく柵越しに彼らの様子を眺めていた。
太陽が雲に隠れて、公園が陰る。
「……そろそろ帰ろう」
すぅっと吹き抜けた冷たい風に頬を撫でられて、我に返った。
公園に背を向けて歩きながら、やたらと寒気がする胸の中を覗いてみた。
(……帰れない、か……)
倒れてから見ることが増えた、男に追いかけられる夢を思い出す。
熱が見せた悪夢として忘れようとするけど、何度もくり返し夢に見るから、ただの夢ではないんだろう。
(たぶん……あれも昔にあったことなんだろうな)
ずっと考えないようにしていた。
母親が冷たいことは当たり前で、もう乗り越えたと思っていたから。
汗ばむ手のひらを握りしめる。
(俺は……だから樫部に惹かれたのか)
帰れなくなった俺を探しに来てくれた同級生に抱いた気持ちは、恋心と言うよりは信頼できる相手に甘える気持ちだったのかもしれない。
声をかけても振り向いてくれなかった背中を追いかけて、苦しくなったのはまた置き去りにされると思ったから。
風が強く吹いた。どこからか枯れ葉が足元へ流れてくる。
足を止めて枯れ葉を見下ろす。
俺もこの枯れ葉と同じかもしれない。
ふらふらと定まらず、風に吹かれるがまま流されるしかない、か弱い存在だ。
怯え続けたのは捨てられたことがあったから。確かに足元を信じることができなかったんだ。
(でも……)
目を閉じて、暗闇を見る。
ずっとその中に取り残された気分だったけど、父や神音がそばにいてくれたから完全にそこに落ちたわけじゃない。
迷った俺を探してくれた樫部や、弱音を受け止めてくれたアレンさん、迷ってばかりで無知な俺を辛抱強く待っていてくれた八代さんや文月さん。そして無表情の奥で俺の何かを認めてくれた富岡さん。
言いたいことを素直に言うジュノさん、にこにこ笑う大らかなモーチンさんも。
ふわふわと頼りのない俺を、いまはしっかりとつなぎとめてくれる、多くの手がある。
「帰れるはず、いまなら」
だれかを待つことしかできない子どもじゃないはずだから。
もう一度だけ、明るい笑い声が聞こえてくる公園を振り返った。
冷たい風に揺れる木の枝も、駆け寄ると受け止めてくれる温かい腕があるとわかっていれば、何も怖くないだろう。
(置き去りにされて、男に追いかけられた後どうなったのか……そこから先は夢に出てこないんだよな)
いつも気がついたら父に抱かれている。
たぶんだれかが父のところに戻してくれたんだろう。置き去りにされたのはよく知らない広場だったから、ひとりで帰りつけたとは思えない。
だけど父の腕の中に戻っても、寒さが和らぐことはなくて。
そこにしか居場所はないのに、父に見えない場所で冷たい顔を見せる母に怯えて過ごすしかなかった。
「……どうか、そのままで」
聞こえないとわかっていても、公園の親子に向けて願わずにはいられなかった。
アパートに戻ると先にアレクが帰っていた。
「おかえり……どうしたんだい?」
音に気づいて部屋から出てきたアレクが、俺の顔を見るなり心配そうに駆け寄ってきた。
「え……何が?」
「何がって……何ともないのかい」
「……?」
驚きながらアレクが俺の腕をつかんだ。まるで支えるように寄り添って歩くから、その必要はないと離れようとしたら体がうまく動かず、ふらついてしまった。
そこでようやく気がついた。
(頭がふらふらしてる……)
まっすぐ歩いているつもりだけど、時々横に逸れてしまう。アレクが支えてくれているから壁にぶつからずに椅子まで辿りつけた。
「ここに座って。何か温かいものを……」
「アレク。俺は居てもいいのかな?」
椅子に座った俺を見届けて、キッチンへ向かおうとしていたアレクが俺の声に動きを止めた。
ゆっくり振り向いて俺を見る。
「俺はたぶん……だれも好きになれない。怖いから……俺に価値はない。きっといつかみんな気づく。捨てられる……それが、怖い」
「何を……言っているんだい?」
アレクが戻ってきて、俺の肩をつかんだ。
俺はひっそりと笑う。
「アレクだって、はじめは俺が嫌いだった」
「……ヒビキ?」
「いまは違っても、また嫌いになるよ……みんなも……」
身近な人は冷たい態度が当たり前だったから、そうでないことが恐ろしい。
だから距離を置こう。これ以上恐れることがないように。
アレクの手を振り払って立ち上がった。
「……部屋に戻るよ。俺の仕事に戻る。いままでお世話になりました」
「ヒビキ……待ちなさい」
そばを通り抜けようとした俺の手を、アレクが掴んで引き止める。
「何があったんだい。そんな顔をして、何もなかったと言っても信じないよ」
ちょっと声が低くなったアレクをぼんやりと眺める。
どうも視界がうまく定まらない気がする。
「別に……少し、忘れていた昔のことを思い出しただけ」
見知らぬ広場、知らない大人たちが歩いていく中で、待っていろと命じた母親。
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ただそれを思い出しただけだ。
「それがなぜ……いや、それよりもこんな状態でひとりにはさせられない。出ていくつもりなら、せめて明日にしなさい。君はいまとても疲れているんだよ」
「……わかった」
本当はアレクの言ったこと、全部理解していなかったんだけど、手が離れて自由になったことの方が重要で、とりあえず頷いた。
ふらふらするだけじゃなくて、なぜだかすごく重い。椅子に座り直して、ため息をついた。
それきりアレクは何も聞いてくることもなく、俺は温かい紅茶を飲んでから部屋に戻った。
どさっと音を立ててベッドに体を投げ出す。
(……疲れた、かな)
アレクに言われた時はそんなに感じていなかったけど、こうして体から力を抜いてみると、確かに疲れているなと思った。
着替えもせずに目を閉じる。
ジュノさんの指導は最初だから厳しくもなく、寄り道もほんの少ししただけだったのに。
息苦しさを感じて、羽織っていた薄い上着だけを脱いだ。
床に上着を手放したところまでは覚えている。
次に気がつくと朝日が部屋を照らしていた。
体を起こすとまだ頭の重さが残っていた。
アレクはすでに出掛けたらしい。静かな部屋の中でコーヒーを飲みながら、ぼんやりと宙を眺める。
(ここで……結構長い時間過ごしてたんだな)
感慨にふけった後で部屋を出る準備をはじめた。
アレクの部屋に運び込んだ私物をまとめてもカバンひとつで足りる。ベッドはどうしようもないから、床で寝よう。
荷物を詰めたカバンを肩にかけて、アレクの部屋を出たところで思わぬ人と遭遇した。
「……え?」
「おはよう。珍しく寝癖がついているね」
いつからそこにいたのか、部屋の外で待っていたのはアレンさんで。くすっと小さく笑いながら指を伸ばして俺の髪に触れてきた。
俺は呆気にとられたまま、髪をいじるアレンさんを見上げるしかなかった。
「我が家にお誘いに来たよ。母と兄が君に会いたがっている」
「……母と兄?」
「そう。ジュノさんの指導がはじまったみたいだけど、ちゃんと時間に間に合うように送迎するから心配せずにおいで」
「……いえ、その……ご迷惑は」
モーチンさんの部屋に戻るつもりでいた俺がもごもご断るのも聞かず、アレンさんがいいからと俺の腕を掴んで歩き出してしまった。
「まさか響くんもイギリスに来ていたなんて思ってもいなかったから、あの時は本当に驚いたよ」
「……あれは忘れてください」
自分史上最も人に知られたくない姿をこの人には見られている。日本に戻る前にしっかり口止めしておこうと思った。
「だれにも言わないでくださいよ!」
アレンさんが少し振り向いて、片目を閉じると口の前に指を立てた。
「え~……それはどうだろう。とっても素敵だったからなぁ……口止め料をくれないと忘れられそうにない」
「……いくら払ったら忘れてくれますか」
「お金は要らないよ」
「だったら何を……」
階段の踊り場でアレンさんが立ち止まる。
腕を掴まれたままだった俺も立ち止まって、アレンさんを見上げたところで、顔が近づいてきた。
「……リィとの勝負に勝ったら、オレとキスして」
それで忘れる、と言うアレンさんの顔はとても冗談を言っているようには見えなかった。
「……負けたら?」
「うん。その時は一晩、ベッドの中でお付き合いしてもらおうかな」
「……あの、俺は男ですけど」
「わかってるよ?」
「……?」
最後は冗談のように笑って流したアレンさんが、アパートを出て行く。
どこまで本気で、どこが冗談だったのか。
ただ表立って行動してこなかったアレンさんが、具体的に要求してきたのは意外だった。
(……だから俺にそんな価値はないんだって)
アレンさんと言い、アレクといい。
何で俺みたいな凡人を選ぶんだか。
ため息をつきながら、アレンさんに連れられて車に乗り込んだ。
日本で見慣れたアレンさんの車と違い、とても小さな車だった。
「アレンさん、こっちでも運転できるんですね」
「母の仕事を手伝うことが多いから、運転できないと不便で」
行きたいところがあるなら連れて行ってあげるよ、と笑うアレンさんが間もなく車を止めた。
「終わったら連絡して……はい、これのここを押せばオレにつながる」
止める間もなくスマフォを渡された。
アレクの部屋から出る時に、借りっぱなしだったスマフォは置いてきた。
スタジオに電話があったかなと考えていた俺は、スマフォを受け取りながら少し迷った。
「アレンさんのでしょう? 俺はどうにかしますから……」
「いいから、使ってよ。それにほら」
アレンさんが上着のポケットから携帯を取り出した。
「もう一台持っているから、オレは平気だよ」
「……では、お借りします」
スマフォよりそっちがいいな、とは言えずに借りたスマフォを抱えて、ジュノさんが待つスタジオに入った。
スタッフの人に呼びとめられて、使用するために名前を記入してからエレベーターに乗りこみ、昨日のスタジオに入るとジュノさんが先にいてピアノを弾いていた。
「……おぅ、来れたか」
「何の曲ですか? きれいですね」
「ん、これか? まぁ指慣らしにはちょうどいいや」
最後は曲調を早めて弾き終わると、ジュノさんが俺を見上げてきた。
「さて。おまえさんが歌いたいことは決まったか?」
「はい」
ジュノさんの指導を受けた後、その日は別の場所に行くと言うジュノさんとスタジオの外で別れ、借りたスマフォでアレンさんに連絡をした。
今日はひとりで歩き回る気分じゃなかったから、迎えに来てくれるのをスタジオのあるビルの前でじっと待つ。
冷たくなった風に吹かれていると、歌っていた間に頭に昇っていた血が少しずつ引いていく。
すると頭がゆっくりと動きはじめる。
(どうして今朝アレンさんが部屋に来ていたんだろう……)
通りすぎていく人たちを眺め、迎えを待っている間に疑問が湧いてきた。
部屋から出て行くということは、前にもアレクに伝えたことがある。ただその時はモーチンさんも反対していたし、アレクもそのままでいいと言っていた。
(昨日の話……もしかしてアレクがアレンさんに伝えたとか?)
パーティに連れて行かれた日、対面した様子ではふたりの仲は良くないように見えたけど違ったんだろうか。
あまりにもタイミングが良すぎる。
そう思い当たったところで、アレンさんが到着した。
「お疲れ様。調子はどうだった?」
走り出した車内で、アレンさんが明るく話しかけてきた。
「歌う曲が決まって、練習をはじめたところです。前より調子がいい気がしますけど……それよりアレンさん。聞きたいことが」
「どうして今朝来たのかってことでしょ」
運転しながらアレンさんが先手を打ってきた。見えないだろうけど頷いたら、アレンさんが苦く笑った。
「あのいけすかない男が連絡してきたから」
やっぱりと思った俺を、ちらっとアレンさんが横目で見た。
「オレはね……響くんと会うなって奴に言われていたんだよ」
「え……?」
車は街中を走り抜けて、郊外に向かっているようだった。少しずつ変化していく光景が視界の端に映る。
「響くんが倒れた時、オレはすぐにでも家に連れて帰ろうとしたんだよ。でも奴はオレがいない方が響くんのためだと……オレはその時、響くんは奴を選んだんだと思ってたから、素直に連絡先だけ残して帰った。いまは後悔している」
昨日の様子を見たアレクがそこに連絡をしたってことか。
「ごめんね……あの時、ちゃんと連れて帰ればよかったよ」
「いえ……その、アレンさんのせいではないので……」
原因は俺が子どもすぎるってことだから。
もごもご言い訳をしながら車外を見る。
流れていく景色は当然ながらはじめて見る光景だった。
きれいだなと思う頭の片すみで、倒れた時に感じた手はアレンさんの物だったのかな、と思った。
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