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第二章
我恋歌、君へ。第二部 14:花の行方
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スタジオから車でずいぶん走って、アレンさんの自宅に到着した。
「……広い……」
ほどよく自然が人工的な建物と融合した、穏やかな住宅街の中にある一軒がアレンさんの実家だった。
アレンさんが車を止めた両脇に、一台ずつ車が置いてある。赤と黒、お母さんとお兄さんの車なんだろう。
手入れの行き届いた庭には、ハーブがたくさん生い茂っていて、美しい庭を眺められるように白いテーブルとチェアがあった。
建物は少し古びた二階建て。
「祖父の家を母が受け継いだんだ。年代物で少し寒いのが難点だけど、なかなかいい家だよ」
家を見上げたまま固まってる俺のとなりに立って、アレンさんが家を見上げながら笑って言う。
その口調に愛着を感じて、少し羨ましいなと思った。
玄関に招かれて、アレンさんが扉を開いてくれたと同時に、中から人が飛び出してきた。
「おっかえりなさぁ~い、マイエンジェル~♪」
「ぅっ……」
ハイテンションで抱きついてきたのは、見知らぬ女性だった。
とっさに受け止めたけど、俺とほぼ同じ背丈の人が突進してきた勢いでよろけてしまった。
背後で支えてくれたアレクさんは、これがわかっていたみたいでため息をついていた。
「母さん、この子が響くんだよ。響くん、驚かせてしまってごめんね。これがオレの母親だ」
「まぁ……私ったら、ごめんなさぁい」
照れ笑いしながら離れてくれたアレンさんの母親は、とてもふたりの子どもを持つ母親には見えない若々しさだった。
アレンさんととてもよく似た顔立ちで、少し垂れた目元が愛らしさを引き立てている。
目尻に年齢相応の変化は見えるけど、それもよく見たらわかる程度で、艶やかな肌をしていた。
豊かなブロンドの髪がゆるく波打っていて、アレンさんはお母さんに似たんだなと思った。
「あらためて、はじめまして。アレンからよく話は聞いていたのよ~会えてうれしいわ、ヒビキちゃん」
「は、はじめまして。お世話になります」
握手してくれた手はとても温かく、優しい肌触りだった。
中に案内されると、リビングに小さな女の子がいて、母親らしい女性に絵本を読み聞かせてもらっていた。
「あら……あなたが響さんね。はじめまして、アレンの兄嫁のレイナです。こちらは姪のリナ。よろしくね」
女性が先に気づいて、俺を振り返る。
おっとりと笑いながら紹介してくれた。
リナちゃんは絵本の方が気になっているらしく、俺をちらっと見ただけで母親の手を引いて続きをねだっていた。
「さぁ、そこに座って。ティータイムよ♪」
お母さんがキッチンからせっせと運んでくれたサンドイッチやクッキーを、みんなで囲んで紅茶を飲みながら歓談することになった。
主に楽しそうに話すのはお母さんで、アレンさんの小さい頃の話になったら、アレンさんが俺の耳を塞いできたから笑ってしまった。
しばらくして玄関から人が入ってきた。
暗い茶髪と青い目をした熊のように、縦にも横にも大柄な男性だった。
「あら、お帰りなさい」
レイナさんが立ち上がって、男性に近づくと軽くキスをした。
驚いた俺がアレンさんを見ると、紅茶を片手にアレンさんが頷いた。
「似てないでしょ、オレと兄さん」
「……目元が似てます」
「あはは……無理しなくていいよ。ずっと驚かれてきたからわかってる」
お兄さんとアレンさんは、外見だけ見ると本当に血が繋がっているのか疑いたくなるほど似ていなかった。
どこにいても絵になる優れた容姿を持つアレンさん。一方お兄さんは無骨な感じで、あまり目立たない。
だけど穏やかな空気は共通している。
「響君だね? よく来てくれた。歓迎するよ」
強面を優しく微笑ませて、お兄さんが握手してくれる。とても大きく厚い手だった。
駆け寄ってきた我が子を持ち上げると、リナちゃんがきゃきゃっと喜ぶ。
アレンさんの家族はとても温かい人たちだと思った。はじめて会ったばかりなのに、ティータイムが終わる頃には緊張も薄れて楽しめるようになっていた。
夕食の支度はお兄さんとレイナさんがすることになった。
「お母さんが手を出すと、キッチンがハリケーンに襲われたみたいになるから……」
「あら、失礼しちゃうわね」
頭をかきながら困ったように言うお兄さんと、頬を膨らませるお母さんの問答を見ていたら、足元にリナちゃんがすり寄ってきた。
はじめて見る俺が珍しいらしく、膝に乗せてあげると髪の毛をひっぱったり、顔をべたべた触ってきた。
「ごめんね、しばらく相手してくれるかな?」
「あ、はい。大丈夫です」
「心配しないで。オレたちができるのはこれくらいだからね」
俺とアレンさんが手を振ると、ほっと安心した様子でレイナさんがキッチンへ向かって行く。
「ごめんね、上で仕事してきてもいいかしら」
「どうぞ」
お母さんはアレンさんに断ると、忙しそうに二階に上がって行った。
もしかしたら俺が来ることになって、予定を変更して自宅で待っていてくれたのかもしれない。
忙しそうな背中を見送りながら、不意に心配になった。
リナちゃんとおもちゃを使って遊びながら、アレンさんに聞いてみた。
「いきなり来ることになって、ご迷惑じゃ……」
「それはないよ。我が家はいつもこんな感じだしね。母さんは家事が下手だから、父さんと兄さんが代わりにするようになって、オレと母さんが好きなことをやるって感じで。基本的に父さんと兄さんが似ているんだよ。甘やかしタイプと言うか」
アレンさんが少し照れているような、くすぐったそうな笑顔でそう言った。
「日本に帰ったら、どうして呼んでくれなかったんだって、父さんが怒るだろうなぁ」
足の怪我でもお世話になったアレンさんのお父さんを思い出して、ひとり家族の輪から離れているお父さんに同情した。
「年の半分は母さんがこっちに滞在してて、兄さんはレイナさんと結婚したこともあって、いまはこっちで暮らしてる。父さんは接骨院があるから日本暮らしだし……こうして見ると、オレの家族はバラバラだよね」
「…………」
アレンさんは日本とイギリスのどちらで暮らすことが多かったですか、と聞こうとしてやめた。
何となくアレクが見たことの裏付けができてしまいそうだったから。
俺たちの注意が自分から離れたことに気づいたリナちゃんが、不満そうにおもちゃを握ったまま体を叩いてくる。
リナちゃんを抱き上げ、その温かい体を抱きながら思った。
(この子はきっと大丈夫……この笑顔が曇ることはない)
アレンさんが静かにそんな俺たちを見ていた。
アレンさんに送迎してもらい、ジュノさんの指導を受けて過ごした一週間はあっという間だった。
パブの店内で緊張しながらステージを見る俺の横で、ジュノさんがマスターと何か話をしていた。
勝負まで、まだ少し時間がある。
「どうしたよ、緊張してんのか?」
「……はい」
「たった一週間とは言ってもな、おまえさんはおれ様の指導を受けたんだ。どんと胸を張って歌うだけで十分だ」
「……はぁ」
その自信はどこから来るんですか、と呆れ半分に頷いた。
「おれ様はカウンセラーじゃねぇが、覚えとけ。おまえは立ち上がる力を持ってる。でなけりゃいまここに立ってねぇだろ? 肩書きも証明書も何もねぇけどな、その力は確固たるおまえの武器だぜ」
後はそれを生かすも殺すもおまえしだいさ。
そう言ってジュノさんがふと俺の背後へ視線を投げた。
振り返ると、店の裏口からユリエルが入ってきたところだ。
その背後にアレンさんがいる。
ジュノさんの元に送ってもらった時、アレンさんから直接聞いていたけど、やっぱりふたりが並んでいる姿を見ると穏やかな気持ちになれなかった。
『ユリエルはオレの母方の親戚だよ。オレにとっては弟みたいな存在なんだ……こんなことになって、響くんには申し訳ないけどあの子を嫌いにならないで欲しい』
本当は優しい子だから、と苦笑していたアレンさんに頷いてみせたけど。
俺に気づいたユリエルが、ジュノさんをちらっと見てから力いっぱい睨みつけてきた。
「逃げなかったんだね」
「…………」
「まぁ、せいぜい格の違いを思い知るといい。アレンは絶対におまえなんかに渡さない」
相変わらず毛を逆立てた猫状態のユリエルが言いたいことを言って、控え室になった更衣室へ消えて行く。
ジュノさんがとなりで、やれやれとため息をついていた。
アレンさんがユリエルの背中を見送って、俺のそばに近づいてきた。
「ごめんね、響くん」
「……何を謝るんですか」
つい尖ってしまう声に、こんなこと言うつもりじゃなかったのに、と唇を噛んだ。
苦笑して、アレンさんが俺の頬をさらっと撫でた。
「今晩はオレも楽しみにしてる。客席から見せてもらうね」
開催時間が近づくにつれて、店内に人が増えてきた。
ジュノさんいわく、事前にマスターが開催を知らせてくれていたらしい。
常連さんはもちろん、ジュノさんの歌を楽しみにしていた人たちが面白半分にやってきたようだ。
席が足りないほどの盛況ぶりに、マスターは忙しいけど、うれしそうな笑顔で動き回っていた。
高まる緊張感に汗ばむ手を握りしめ、ステージを見上げる場所で時間を待った。
アレクには勝っても負けても、日本でアレンさんとまた活動できるかもしれないと言ったけど、本当は自信がない。
ユリエルの執着がどこまで深いかわからないけど、何かしら妨害をしてくるかもしれないから。
それにちゃんと歌えるのか、俺はその方が心配だった。
(あんなテーマを選ぶんじゃなかったかな)
ジュノさんに何を歌いたいのかを聞かれて、悩んだ末に俺が選んだのは家族愛だった。
『いいんじゃねぇ? 家族愛ってのは枠を外せば、男女の恋愛にも通じるしな……ただ気をつけろ。悩んでるだけじゃ共感はできねぇぞ。人が感動するのは、そこから立ち上がろうとする時だからな』
日本にいた頃の俺でも聞いたことがある、有名な歌を選曲して指導しながら、何度もジュノさんが言い聞かせてきた。
『不幸に酔うな、自分に酔うな。そこは冷淡なほど突き離せ』
歌に気持ちを込めることの難しさを痛感した一週間だった。
想いを伝えようとすると、酔いすぎだと止められ、冷静に歌うとそれなら歌わないほうがマシだと怒られた。
どうにか及第点をもらえたのが、ついさっき本番当日の朝だったのだ。
じわりと手に汗が浮かんでくる。
勝負に勝ちたい気持ちはある。アレンさんと堂々と帰国して、また『i-CeL』として活動したい。その為には勝った方が憂いもなくなるからだ。
でもそれ以上に、プロとして活躍しているユリエルに負けないほどの歌を歌えたなら、自信が持てると言う理由の方が強い。
何も持っていない俺を受け入れてくれた仲間たち。そして富岡さん。
彼らに大きなお土産になると思う。
(見捨てられる危険が減らせるから……)
自信のなさに、心が弱音を吐いた。
いつだって俺は怯えているんだ。温かい場所をもう一度失ってしまうことを。
あの場所を守れるのなら、そのためにしっかり歌いたいと思う。
けど気負うほどジュノさんがそれは逆効果だと、くり返し指導してきた。
満員の客席を見る。奥の方に目立たないようにしてアレンさんがいた。
(……いまは考えない)
これが終わったら、アレンさんにも話をしよう。俺が思い出したこと、感じていることを。
するとアレンさんと離れた場所に、アレクが来ていた。
「アレクっ! 来てくれたんだ」
片手を上げて近づいてきたアレクが、当然だよと笑った。
「悔しがるあいつの姿を見ないでいられるかい?」
「……俺が勝つとは決まっていないよ」
実際俺の方が圧倒的に不利だ。
ところがアレクは自信ありげに笑う。
「いまの君なら十分勝機がある。悔しいが奴に任せて正解だったようだ」
「アレク……なぜアレンさんに連絡したの」
聞いてみたいと思っていたことを、ようやく聞けた。
肩をすくめて、アレクが遠いアレンさんの方を見る。
「僕の嫉妬が君を苦しめていると思ったからさ。君が倒れた時、駆け寄ったのは奴の方が早かった。でも僕が君を渡したくなくて、奴から奪ったんだよ」
アレクが俺に視線を戻して、弱く笑った。
「怒るかい?」
「……いえ」
「ところが君は僕のそばでは落ち着けない様子で、悔しいが僕では役不足だとわかった……どんな意味であれ、君にとって奴が必要だとわかったのさ」
「……ごめん」
俺はずいぶんとアレクに酷い仕打ちをしている。そう気がついたら顔を上げていられず、うつむいた。
「謝るのは僕の方さ……今日まで僕に出来たことは何もない」
「そんなことないよ。話せるようになったの、アレクのおかげだし……ダンスも最後すごく楽しくなった」
「そうかい? だったらうれしいな」
ほがらかに笑ってアレクの手が俺の頭を少し乱暴に撫でまわした。
「期待してるよ。あいつを黙らせてやりなさい」
「うん。精一杯歌うよ……」
アレクが片手を上げて客席に戻ろうとする。
その背中に向けて、俺はとっさに声をかけていた。
「ありがとう!」
一緒に暮らした日々が不意に思い出されて、胸がいっぱいになった。
振り返らないアレクが手を振る。
『家族愛ってのは枠を外せば男女の愛にも通じる』
ジュノさんの声がよみがえってくる。
俺たちは恋人でも家族でもないけど、アレクに感じている気持ちはとても温かく、これを友情と言えるのなら、彼のためにもちゃんと歌いたいと思った。
目を閉じて深呼吸をした。ゆっくり自分自身を切り離す。歌い手としての俺と、俺自身を。
やがて店内の照明が一段落とされて、薄暗くなった。客席がどよめいた後で静かになる。
ステージを照らす灯りがぱっとついて、中央でお辞儀をするユリエルは驚くほど変貌していた。
「……え?」
確かにユリエルは素顔を晒さないとは言ったけれど。
「ひゅ~化けたもんだなぁ」
「ジュノさん……あれが本当に?」
「だろうなぁ……エレナさんが来ていたが、てっきり見物に来てるだけだと思ってたぜ。やられた」
店内にいるすべての人の視線を引き寄せ、ステージに立つユリエルは、そうと言われても信じられないほど美しい女性に変貌していたんだ。
水色のドレスを着て、濃く化粧を施した姿はどう見ても女性にしか見えなかった。
(あれ……あのドレス、どこかで見た……あっ!)
思わず声を上げそうになって、慌てて手で口を覆った。
ジュノさんを振り返って、目で必死に訴えるとわかってくれたのか苦笑していた。
「女装して踊ったのは、おまえさんだけじゃなかったらしい」
アレクと出場したダンス大会で、アレンさんを見つけた時そばにいた女性。
(まさかユリエルも出場してたなんて……でも、何で?)
その疑問は後でアレンさんに聞くしか解決できない。
前奏が終わり歌いはじめたユリエルの声はキーが高く、ハスキーボイスの女性歌手で通じる歌声だった。
色気のある歌声を聞いたとたん、体の奥がじんわり熱くなってくる。
驚きを通り越したら、歌声に意識をすべて絡め取られたようだった。
あれこれ考えていたのをすべて忘れて、ただユリエルの歌声が作り出した空間に没頭する。
(すごい。一瞬であの場所を自分の世界に変えてしまっている)
まるでユリエルを中心に、何か磁力が発生しているみたいだ。
これがプロなのか。歌いはじめたとたん、ここが別世界になったように感じられた。
ユリエルが支配者として君臨する世界は、けれど押しつけがましくない。
(どうぞ、入りたい人はおいでって感じ)
その中に入るとユリエルが歌い上げる感情が溢れていて、耳を澄ますと自然に温かい思い出が声に誘われて浮上してくる。
この後に歌う現実も忘れて、俺は間近で見るユリエルの歌を堪能した。
歌声が終わっても、演奏が消えるまで身動きできなかった。
「ありがとうございました~!」
ユリエルがお礼を言ってお辞儀をすると、客席から大きな歓声と拍手が湧き上がった。
「どうするよ、やっぱ棄権するか?」
ジュノさんが腕組みしたまま、となりからそっと囁いてきた。
俺はひとつ息を吐き出して、ステージ上のユリエルを見たまま答えた。
「歌います」
ステージを降りながら、俺に向けて勝ち誇ったようにユリエルが微笑んでいた。
ステージに立つと客席は暗く、ひとりひとりの視線を感じるのにその姿をはっきりとは見えなくなる。
(この感覚……はじめてライブに出た時と似てるな)
ユリエルが歌った後の興奮が冷めやらず、今度は何を見せてくれるだろうと、無言だけど客席から期待する心が伝わってくる。
彼らの期待に応えることができるか。
きっとアレンさんは心配そうに見ているに違いない。
アレクは余裕さを演じて、心の中で心配しているかもしれない。
ジュノさんは相変わらずにやにや笑っているだろう。
もう一度目を閉じて、雑念を切り離す。
俺を試そうとしているのは客席の観客じゃない。
ユリエルでもない、俺自身だ。
(どこまで歌えるか……さぁ、本番だ)
演奏がはじまったとたん、意識がすっと穏やかになった。
波一つない水面のように、なだらかな意識の中でくり返し見た夢が映っている。
どんな形であれ、人が成長するまで多くの人が関わっている。
その中で笑い、愛し愛された人もいるだろう。
傷ついて泣き、憎しみすら感じた人もいるだろう。
俺のように足場を見つけられないままの人もいるかも。
(だけど、酔うな……)
歌いながら高校卒業までの数カ月と、こちらに来てからの思い出が次々と浮かんでくる。
それらを冷静に見つめながら、同時に客席にも目を配り意識を澄ます。
感情が高ぶると冷静さを失ってしまう。
だからこそ、どちらにも偏ってはいけない。
ジュノの指導を思い出しながら、最後まで気を抜かずに歌いきった。
ユリエルの時ほどではないものの、客席から拍手が送られて、少し肩から力が抜けた。
世界的にも有名な曲だから知らない人が少ないだろうけど、さて俺はそれを歌い上げることができただろうか。
不安になりながら一礼して、ステージの奥に立ち位置を変える。
少し離れた場所にユリエルが戻ってくると、司会役のジュノさんがステージ前に立って声を上げた。
「さて、みなさんのお手元に花を一輪、ご用意させていただきました。お手元にない方はいらっしゃいませんか? 花がないと言う方は挙手してお知らせください。すぐにご用意いたします」
観客たちが興奮したように囁き合い、客席がどよめきに包まれる。
しばらく客席を見渡したジュノさんは、どこからも手が上がらないのを見届けて頷くと、手を叩いた。
「では、今宵の審査員はみなさまでございます。お気に召した歌い手の足元に置きました花瓶へ、その花を入れてください」
ジュノさんの声に合わせて、スタッフの人が花瓶を俺たちの足元にひとつずつ置いて立ち去った。
俺たちに後ろを向くように、ジュノさんが指示をする。
「彼らには見せませんので、お心のままに花を入れてください」
どよめきは大きくなって、やがて人が歩き出す音が聞こえてくる。
「……おまえなんかに、アレンは渡さないからね」
「……結果を待とうよ」
観客たちに背を向けたまま、となりからユリエルがこそっと声をかけてきた。
俺は不安でいっぱいだったけど、ユリエルに見抜かれないように、ひたすら前方を向いて平気な顔をしていた。
なかなか決められない観客も多いらしく、ジュノの声が聞こえてこない。
「まだなの? 焦れったいね」
ユリエルも同じことを考えていたようだ。
小声で苛々とつぶやいている。
近づいては離れていく人の動く音と気配。
背中を向けているから、当然どれがだれなのかわからない。
どちらの花瓶が多くの花を抱えているのかも、わからない時間がじりじりと過ぎていく。
「……さぁて、みなさま花を入れてくださいましたか?」
どよめきが少しずつ静かになっていく。
ジュノさんが手を叩いた音がした。
「結果発表の前に今宵の歌い手たちに、盛大な拍手をお願いします。歌い手たちは客席へ向き直りなさい」
言われた通り客席へ体の向きを変えると、客席から盛大な拍手と口笛が聞こえてきた。
慣れた様子で、ユリエルが腰を折る。
俺も慌てて頭を下げて、観客に礼をした。
「では結果を見てみましょう。私が数を読み上げるたびに、各々一輪ずつ花を抜いて持ちなさい」
ジュノが俺たちを見上げる。頷いてみせると、にやっといつもの笑顔を見せた。
足元の花瓶に視線を落とすと、となりの花瓶も見える。
(よかった……俺が極端に少ないってことはない)
ほんの少し負けている気もするけど、と思った時だった。
「すみません、わたしも一輪いいですかね」
そう言ってマスターが近づいてきた。
ジュノは忘れていたと笑いながら、どうぞとステージへマスターを導いた。
俺はマスターの手が動く先を見ていられなくて、離れていく気配がするまで目を閉じていた。
「……さぁ、まずは一本目。花を抜いて」
ジュノが数を読み上げる。
俺とユリエルが屈んで花を抜き、片手にまとめて持つ。
それをくり返して、やがて花の数が少なくなってきた。
客席がどよめいて、身を乗り出す人の姿がぼんやりと見えた。
「あと少しです……もう間もなく勝敗が決まりますよ」
ジュノがいたずらっぽく声を張り上げる。
また一本ずつ花を抜いていき、やがて。
「……そんな……」
俺は無意識のうちに呟いていた。
ユリエルの手が花瓶に伸びる。
俺は動けずに自分の花瓶を見下ろしていた。
ユリエルの指は、花瓶の縁を撫でてあきらめたように止まる。
がくっとうずくまるユリエルのとなりで、俺は信じられない心地のまま、花瓶に残っていた最後の一輪をそっと抜き取った。
「勝者は彼、カタヒラ・ヒビキです!」
客席が爆発したかと思うほどの歓声と拍手、口笛をぼんやりと聞きながら、俺は握りしめた花束を見ていた。
「……広い……」
ほどよく自然が人工的な建物と融合した、穏やかな住宅街の中にある一軒がアレンさんの実家だった。
アレンさんが車を止めた両脇に、一台ずつ車が置いてある。赤と黒、お母さんとお兄さんの車なんだろう。
手入れの行き届いた庭には、ハーブがたくさん生い茂っていて、美しい庭を眺められるように白いテーブルとチェアがあった。
建物は少し古びた二階建て。
「祖父の家を母が受け継いだんだ。年代物で少し寒いのが難点だけど、なかなかいい家だよ」
家を見上げたまま固まってる俺のとなりに立って、アレンさんが家を見上げながら笑って言う。
その口調に愛着を感じて、少し羨ましいなと思った。
玄関に招かれて、アレンさんが扉を開いてくれたと同時に、中から人が飛び出してきた。
「おっかえりなさぁ~い、マイエンジェル~♪」
「ぅっ……」
ハイテンションで抱きついてきたのは、見知らぬ女性だった。
とっさに受け止めたけど、俺とほぼ同じ背丈の人が突進してきた勢いでよろけてしまった。
背後で支えてくれたアレクさんは、これがわかっていたみたいでため息をついていた。
「母さん、この子が響くんだよ。響くん、驚かせてしまってごめんね。これがオレの母親だ」
「まぁ……私ったら、ごめんなさぁい」
照れ笑いしながら離れてくれたアレンさんの母親は、とてもふたりの子どもを持つ母親には見えない若々しさだった。
アレンさんととてもよく似た顔立ちで、少し垂れた目元が愛らしさを引き立てている。
目尻に年齢相応の変化は見えるけど、それもよく見たらわかる程度で、艶やかな肌をしていた。
豊かなブロンドの髪がゆるく波打っていて、アレンさんはお母さんに似たんだなと思った。
「あらためて、はじめまして。アレンからよく話は聞いていたのよ~会えてうれしいわ、ヒビキちゃん」
「は、はじめまして。お世話になります」
握手してくれた手はとても温かく、優しい肌触りだった。
中に案内されると、リビングに小さな女の子がいて、母親らしい女性に絵本を読み聞かせてもらっていた。
「あら……あなたが響さんね。はじめまして、アレンの兄嫁のレイナです。こちらは姪のリナ。よろしくね」
女性が先に気づいて、俺を振り返る。
おっとりと笑いながら紹介してくれた。
リナちゃんは絵本の方が気になっているらしく、俺をちらっと見ただけで母親の手を引いて続きをねだっていた。
「さぁ、そこに座って。ティータイムよ♪」
お母さんがキッチンからせっせと運んでくれたサンドイッチやクッキーを、みんなで囲んで紅茶を飲みながら歓談することになった。
主に楽しそうに話すのはお母さんで、アレンさんの小さい頃の話になったら、アレンさんが俺の耳を塞いできたから笑ってしまった。
しばらくして玄関から人が入ってきた。
暗い茶髪と青い目をした熊のように、縦にも横にも大柄な男性だった。
「あら、お帰りなさい」
レイナさんが立ち上がって、男性に近づくと軽くキスをした。
驚いた俺がアレンさんを見ると、紅茶を片手にアレンさんが頷いた。
「似てないでしょ、オレと兄さん」
「……目元が似てます」
「あはは……無理しなくていいよ。ずっと驚かれてきたからわかってる」
お兄さんとアレンさんは、外見だけ見ると本当に血が繋がっているのか疑いたくなるほど似ていなかった。
どこにいても絵になる優れた容姿を持つアレンさん。一方お兄さんは無骨な感じで、あまり目立たない。
だけど穏やかな空気は共通している。
「響君だね? よく来てくれた。歓迎するよ」
強面を優しく微笑ませて、お兄さんが握手してくれる。とても大きく厚い手だった。
駆け寄ってきた我が子を持ち上げると、リナちゃんがきゃきゃっと喜ぶ。
アレンさんの家族はとても温かい人たちだと思った。はじめて会ったばかりなのに、ティータイムが終わる頃には緊張も薄れて楽しめるようになっていた。
夕食の支度はお兄さんとレイナさんがすることになった。
「お母さんが手を出すと、キッチンがハリケーンに襲われたみたいになるから……」
「あら、失礼しちゃうわね」
頭をかきながら困ったように言うお兄さんと、頬を膨らませるお母さんの問答を見ていたら、足元にリナちゃんがすり寄ってきた。
はじめて見る俺が珍しいらしく、膝に乗せてあげると髪の毛をひっぱったり、顔をべたべた触ってきた。
「ごめんね、しばらく相手してくれるかな?」
「あ、はい。大丈夫です」
「心配しないで。オレたちができるのはこれくらいだからね」
俺とアレンさんが手を振ると、ほっと安心した様子でレイナさんがキッチンへ向かって行く。
「ごめんね、上で仕事してきてもいいかしら」
「どうぞ」
お母さんはアレンさんに断ると、忙しそうに二階に上がって行った。
もしかしたら俺が来ることになって、予定を変更して自宅で待っていてくれたのかもしれない。
忙しそうな背中を見送りながら、不意に心配になった。
リナちゃんとおもちゃを使って遊びながら、アレンさんに聞いてみた。
「いきなり来ることになって、ご迷惑じゃ……」
「それはないよ。我が家はいつもこんな感じだしね。母さんは家事が下手だから、父さんと兄さんが代わりにするようになって、オレと母さんが好きなことをやるって感じで。基本的に父さんと兄さんが似ているんだよ。甘やかしタイプと言うか」
アレンさんが少し照れているような、くすぐったそうな笑顔でそう言った。
「日本に帰ったら、どうして呼んでくれなかったんだって、父さんが怒るだろうなぁ」
足の怪我でもお世話になったアレンさんのお父さんを思い出して、ひとり家族の輪から離れているお父さんに同情した。
「年の半分は母さんがこっちに滞在してて、兄さんはレイナさんと結婚したこともあって、いまはこっちで暮らしてる。父さんは接骨院があるから日本暮らしだし……こうして見ると、オレの家族はバラバラだよね」
「…………」
アレンさんは日本とイギリスのどちらで暮らすことが多かったですか、と聞こうとしてやめた。
何となくアレクが見たことの裏付けができてしまいそうだったから。
俺たちの注意が自分から離れたことに気づいたリナちゃんが、不満そうにおもちゃを握ったまま体を叩いてくる。
リナちゃんを抱き上げ、その温かい体を抱きながら思った。
(この子はきっと大丈夫……この笑顔が曇ることはない)
アレンさんが静かにそんな俺たちを見ていた。
アレンさんに送迎してもらい、ジュノさんの指導を受けて過ごした一週間はあっという間だった。
パブの店内で緊張しながらステージを見る俺の横で、ジュノさんがマスターと何か話をしていた。
勝負まで、まだ少し時間がある。
「どうしたよ、緊張してんのか?」
「……はい」
「たった一週間とは言ってもな、おまえさんはおれ様の指導を受けたんだ。どんと胸を張って歌うだけで十分だ」
「……はぁ」
その自信はどこから来るんですか、と呆れ半分に頷いた。
「おれ様はカウンセラーじゃねぇが、覚えとけ。おまえは立ち上がる力を持ってる。でなけりゃいまここに立ってねぇだろ? 肩書きも証明書も何もねぇけどな、その力は確固たるおまえの武器だぜ」
後はそれを生かすも殺すもおまえしだいさ。
そう言ってジュノさんがふと俺の背後へ視線を投げた。
振り返ると、店の裏口からユリエルが入ってきたところだ。
その背後にアレンさんがいる。
ジュノさんの元に送ってもらった時、アレンさんから直接聞いていたけど、やっぱりふたりが並んでいる姿を見ると穏やかな気持ちになれなかった。
『ユリエルはオレの母方の親戚だよ。オレにとっては弟みたいな存在なんだ……こんなことになって、響くんには申し訳ないけどあの子を嫌いにならないで欲しい』
本当は優しい子だから、と苦笑していたアレンさんに頷いてみせたけど。
俺に気づいたユリエルが、ジュノさんをちらっと見てから力いっぱい睨みつけてきた。
「逃げなかったんだね」
「…………」
「まぁ、せいぜい格の違いを思い知るといい。アレンは絶対におまえなんかに渡さない」
相変わらず毛を逆立てた猫状態のユリエルが言いたいことを言って、控え室になった更衣室へ消えて行く。
ジュノさんがとなりで、やれやれとため息をついていた。
アレンさんがユリエルの背中を見送って、俺のそばに近づいてきた。
「ごめんね、響くん」
「……何を謝るんですか」
つい尖ってしまう声に、こんなこと言うつもりじゃなかったのに、と唇を噛んだ。
苦笑して、アレンさんが俺の頬をさらっと撫でた。
「今晩はオレも楽しみにしてる。客席から見せてもらうね」
開催時間が近づくにつれて、店内に人が増えてきた。
ジュノさんいわく、事前にマスターが開催を知らせてくれていたらしい。
常連さんはもちろん、ジュノさんの歌を楽しみにしていた人たちが面白半分にやってきたようだ。
席が足りないほどの盛況ぶりに、マスターは忙しいけど、うれしそうな笑顔で動き回っていた。
高まる緊張感に汗ばむ手を握りしめ、ステージを見上げる場所で時間を待った。
アレクには勝っても負けても、日本でアレンさんとまた活動できるかもしれないと言ったけど、本当は自信がない。
ユリエルの執着がどこまで深いかわからないけど、何かしら妨害をしてくるかもしれないから。
それにちゃんと歌えるのか、俺はその方が心配だった。
(あんなテーマを選ぶんじゃなかったかな)
ジュノさんに何を歌いたいのかを聞かれて、悩んだ末に俺が選んだのは家族愛だった。
『いいんじゃねぇ? 家族愛ってのは枠を外せば、男女の恋愛にも通じるしな……ただ気をつけろ。悩んでるだけじゃ共感はできねぇぞ。人が感動するのは、そこから立ち上がろうとする時だからな』
日本にいた頃の俺でも聞いたことがある、有名な歌を選曲して指導しながら、何度もジュノさんが言い聞かせてきた。
『不幸に酔うな、自分に酔うな。そこは冷淡なほど突き離せ』
歌に気持ちを込めることの難しさを痛感した一週間だった。
想いを伝えようとすると、酔いすぎだと止められ、冷静に歌うとそれなら歌わないほうがマシだと怒られた。
どうにか及第点をもらえたのが、ついさっき本番当日の朝だったのだ。
じわりと手に汗が浮かんでくる。
勝負に勝ちたい気持ちはある。アレンさんと堂々と帰国して、また『i-CeL』として活動したい。その為には勝った方が憂いもなくなるからだ。
でもそれ以上に、プロとして活躍しているユリエルに負けないほどの歌を歌えたなら、自信が持てると言う理由の方が強い。
何も持っていない俺を受け入れてくれた仲間たち。そして富岡さん。
彼らに大きなお土産になると思う。
(見捨てられる危険が減らせるから……)
自信のなさに、心が弱音を吐いた。
いつだって俺は怯えているんだ。温かい場所をもう一度失ってしまうことを。
あの場所を守れるのなら、そのためにしっかり歌いたいと思う。
けど気負うほどジュノさんがそれは逆効果だと、くり返し指導してきた。
満員の客席を見る。奥の方に目立たないようにしてアレンさんがいた。
(……いまは考えない)
これが終わったら、アレンさんにも話をしよう。俺が思い出したこと、感じていることを。
するとアレンさんと離れた場所に、アレクが来ていた。
「アレクっ! 来てくれたんだ」
片手を上げて近づいてきたアレクが、当然だよと笑った。
「悔しがるあいつの姿を見ないでいられるかい?」
「……俺が勝つとは決まっていないよ」
実際俺の方が圧倒的に不利だ。
ところがアレクは自信ありげに笑う。
「いまの君なら十分勝機がある。悔しいが奴に任せて正解だったようだ」
「アレク……なぜアレンさんに連絡したの」
聞いてみたいと思っていたことを、ようやく聞けた。
肩をすくめて、アレクが遠いアレンさんの方を見る。
「僕の嫉妬が君を苦しめていると思ったからさ。君が倒れた時、駆け寄ったのは奴の方が早かった。でも僕が君を渡したくなくて、奴から奪ったんだよ」
アレクが俺に視線を戻して、弱く笑った。
「怒るかい?」
「……いえ」
「ところが君は僕のそばでは落ち着けない様子で、悔しいが僕では役不足だとわかった……どんな意味であれ、君にとって奴が必要だとわかったのさ」
「……ごめん」
俺はずいぶんとアレクに酷い仕打ちをしている。そう気がついたら顔を上げていられず、うつむいた。
「謝るのは僕の方さ……今日まで僕に出来たことは何もない」
「そんなことないよ。話せるようになったの、アレクのおかげだし……ダンスも最後すごく楽しくなった」
「そうかい? だったらうれしいな」
ほがらかに笑ってアレクの手が俺の頭を少し乱暴に撫でまわした。
「期待してるよ。あいつを黙らせてやりなさい」
「うん。精一杯歌うよ……」
アレクが片手を上げて客席に戻ろうとする。
その背中に向けて、俺はとっさに声をかけていた。
「ありがとう!」
一緒に暮らした日々が不意に思い出されて、胸がいっぱいになった。
振り返らないアレクが手を振る。
『家族愛ってのは枠を外せば男女の愛にも通じる』
ジュノさんの声がよみがえってくる。
俺たちは恋人でも家族でもないけど、アレクに感じている気持ちはとても温かく、これを友情と言えるのなら、彼のためにもちゃんと歌いたいと思った。
目を閉じて深呼吸をした。ゆっくり自分自身を切り離す。歌い手としての俺と、俺自身を。
やがて店内の照明が一段落とされて、薄暗くなった。客席がどよめいた後で静かになる。
ステージを照らす灯りがぱっとついて、中央でお辞儀をするユリエルは驚くほど変貌していた。
「……え?」
確かにユリエルは素顔を晒さないとは言ったけれど。
「ひゅ~化けたもんだなぁ」
「ジュノさん……あれが本当に?」
「だろうなぁ……エレナさんが来ていたが、てっきり見物に来てるだけだと思ってたぜ。やられた」
店内にいるすべての人の視線を引き寄せ、ステージに立つユリエルは、そうと言われても信じられないほど美しい女性に変貌していたんだ。
水色のドレスを着て、濃く化粧を施した姿はどう見ても女性にしか見えなかった。
(あれ……あのドレス、どこかで見た……あっ!)
思わず声を上げそうになって、慌てて手で口を覆った。
ジュノさんを振り返って、目で必死に訴えるとわかってくれたのか苦笑していた。
「女装して踊ったのは、おまえさんだけじゃなかったらしい」
アレクと出場したダンス大会で、アレンさんを見つけた時そばにいた女性。
(まさかユリエルも出場してたなんて……でも、何で?)
その疑問は後でアレンさんに聞くしか解決できない。
前奏が終わり歌いはじめたユリエルの声はキーが高く、ハスキーボイスの女性歌手で通じる歌声だった。
色気のある歌声を聞いたとたん、体の奥がじんわり熱くなってくる。
驚きを通り越したら、歌声に意識をすべて絡め取られたようだった。
あれこれ考えていたのをすべて忘れて、ただユリエルの歌声が作り出した空間に没頭する。
(すごい。一瞬であの場所を自分の世界に変えてしまっている)
まるでユリエルを中心に、何か磁力が発生しているみたいだ。
これがプロなのか。歌いはじめたとたん、ここが別世界になったように感じられた。
ユリエルが支配者として君臨する世界は、けれど押しつけがましくない。
(どうぞ、入りたい人はおいでって感じ)
その中に入るとユリエルが歌い上げる感情が溢れていて、耳を澄ますと自然に温かい思い出が声に誘われて浮上してくる。
この後に歌う現実も忘れて、俺は間近で見るユリエルの歌を堪能した。
歌声が終わっても、演奏が消えるまで身動きできなかった。
「ありがとうございました~!」
ユリエルがお礼を言ってお辞儀をすると、客席から大きな歓声と拍手が湧き上がった。
「どうするよ、やっぱ棄権するか?」
ジュノさんが腕組みしたまま、となりからそっと囁いてきた。
俺はひとつ息を吐き出して、ステージ上のユリエルを見たまま答えた。
「歌います」
ステージを降りながら、俺に向けて勝ち誇ったようにユリエルが微笑んでいた。
ステージに立つと客席は暗く、ひとりひとりの視線を感じるのにその姿をはっきりとは見えなくなる。
(この感覚……はじめてライブに出た時と似てるな)
ユリエルが歌った後の興奮が冷めやらず、今度は何を見せてくれるだろうと、無言だけど客席から期待する心が伝わってくる。
彼らの期待に応えることができるか。
きっとアレンさんは心配そうに見ているに違いない。
アレクは余裕さを演じて、心の中で心配しているかもしれない。
ジュノさんは相変わらずにやにや笑っているだろう。
もう一度目を閉じて、雑念を切り離す。
俺を試そうとしているのは客席の観客じゃない。
ユリエルでもない、俺自身だ。
(どこまで歌えるか……さぁ、本番だ)
演奏がはじまったとたん、意識がすっと穏やかになった。
波一つない水面のように、なだらかな意識の中でくり返し見た夢が映っている。
どんな形であれ、人が成長するまで多くの人が関わっている。
その中で笑い、愛し愛された人もいるだろう。
傷ついて泣き、憎しみすら感じた人もいるだろう。
俺のように足場を見つけられないままの人もいるかも。
(だけど、酔うな……)
歌いながら高校卒業までの数カ月と、こちらに来てからの思い出が次々と浮かんでくる。
それらを冷静に見つめながら、同時に客席にも目を配り意識を澄ます。
感情が高ぶると冷静さを失ってしまう。
だからこそ、どちらにも偏ってはいけない。
ジュノの指導を思い出しながら、最後まで気を抜かずに歌いきった。
ユリエルの時ほどではないものの、客席から拍手が送られて、少し肩から力が抜けた。
世界的にも有名な曲だから知らない人が少ないだろうけど、さて俺はそれを歌い上げることができただろうか。
不安になりながら一礼して、ステージの奥に立ち位置を変える。
少し離れた場所にユリエルが戻ってくると、司会役のジュノさんがステージ前に立って声を上げた。
「さて、みなさんのお手元に花を一輪、ご用意させていただきました。お手元にない方はいらっしゃいませんか? 花がないと言う方は挙手してお知らせください。すぐにご用意いたします」
観客たちが興奮したように囁き合い、客席がどよめきに包まれる。
しばらく客席を見渡したジュノさんは、どこからも手が上がらないのを見届けて頷くと、手を叩いた。
「では、今宵の審査員はみなさまでございます。お気に召した歌い手の足元に置きました花瓶へ、その花を入れてください」
ジュノさんの声に合わせて、スタッフの人が花瓶を俺たちの足元にひとつずつ置いて立ち去った。
俺たちに後ろを向くように、ジュノさんが指示をする。
「彼らには見せませんので、お心のままに花を入れてください」
どよめきは大きくなって、やがて人が歩き出す音が聞こえてくる。
「……おまえなんかに、アレンは渡さないからね」
「……結果を待とうよ」
観客たちに背を向けたまま、となりからユリエルがこそっと声をかけてきた。
俺は不安でいっぱいだったけど、ユリエルに見抜かれないように、ひたすら前方を向いて平気な顔をしていた。
なかなか決められない観客も多いらしく、ジュノの声が聞こえてこない。
「まだなの? 焦れったいね」
ユリエルも同じことを考えていたようだ。
小声で苛々とつぶやいている。
近づいては離れていく人の動く音と気配。
背中を向けているから、当然どれがだれなのかわからない。
どちらの花瓶が多くの花を抱えているのかも、わからない時間がじりじりと過ぎていく。
「……さぁて、みなさま花を入れてくださいましたか?」
どよめきが少しずつ静かになっていく。
ジュノさんが手を叩いた音がした。
「結果発表の前に今宵の歌い手たちに、盛大な拍手をお願いします。歌い手たちは客席へ向き直りなさい」
言われた通り客席へ体の向きを変えると、客席から盛大な拍手と口笛が聞こえてきた。
慣れた様子で、ユリエルが腰を折る。
俺も慌てて頭を下げて、観客に礼をした。
「では結果を見てみましょう。私が数を読み上げるたびに、各々一輪ずつ花を抜いて持ちなさい」
ジュノが俺たちを見上げる。頷いてみせると、にやっといつもの笑顔を見せた。
足元の花瓶に視線を落とすと、となりの花瓶も見える。
(よかった……俺が極端に少ないってことはない)
ほんの少し負けている気もするけど、と思った時だった。
「すみません、わたしも一輪いいですかね」
そう言ってマスターが近づいてきた。
ジュノは忘れていたと笑いながら、どうぞとステージへマスターを導いた。
俺はマスターの手が動く先を見ていられなくて、離れていく気配がするまで目を閉じていた。
「……さぁ、まずは一本目。花を抜いて」
ジュノが数を読み上げる。
俺とユリエルが屈んで花を抜き、片手にまとめて持つ。
それをくり返して、やがて花の数が少なくなってきた。
客席がどよめいて、身を乗り出す人の姿がぼんやりと見えた。
「あと少しです……もう間もなく勝敗が決まりますよ」
ジュノがいたずらっぽく声を張り上げる。
また一本ずつ花を抜いていき、やがて。
「……そんな……」
俺は無意識のうちに呟いていた。
ユリエルの手が花瓶に伸びる。
俺は動けずに自分の花瓶を見下ろしていた。
ユリエルの指は、花瓶の縁を撫でてあきらめたように止まる。
がくっとうずくまるユリエルのとなりで、俺は信じられない心地のまま、花瓶に残っていた最後の一輪をそっと抜き取った。
「勝者は彼、カタヒラ・ヒビキです!」
客席が爆発したかと思うほどの歓声と拍手、口笛をぼんやりと聞きながら、俺は握りしめた花束を見ていた。
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