我恋歌、君へ。(わがこいうた、きみへ。)

郁一

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第二章

我恋歌、君へ。第二部 15:君との位置

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 ステージを降りて更衣室に戻ると、ドアを壊す勢いでアレクが飛びこんできた。
「ヒビキッ! よくやった!」
 抱きついてきたアレクが少し泣きながら喜んでいるので、俺より喜ぶなよと思いながら頷いた。
「最後にマスターが花を追加してくれたからだぞ」
 ジュノさんも入ってきて、にやにや笑いながら教えてくれた。
 アレクの背後に近づいて、問答無用で引き剥がしたのはアレンさんだ。
「何してるの」
「器量の小さな男だね、君は」
 険呑な雰囲気で睨み合ってるふたりの背後に、幽霊みたいに暗い空気を背負ったユリエルがふらふら入ってくるのが見えた。
「……認めない」
 ユリエルは美しい顔を蒼白にして、俺をきつく睨みつけてきた。そして指を突きつけ、叫ぶように言い放つ。
「ボクは認めないよ! おまえにアレンを渡せるものか!」
 アレンさんと睨みあうのを中断したアレクが、ユリエルを呆れたまなざしで睨む。
「大人なげないね、勝負に負けたこともう忘れたって言うのかい?」
「勝負なんて関係ない! ボクはおまえにアレンを渡したくないんだ」
 美しい女性に化けていることも忘れたのか、地声で叫ぶユリエルの声は見えない手になって俺を突き飛ばすような勢いがあった。
 睨みつけてくるまなざしも、息が止まるほど強い。
 不意に片割れを思い出した。
 自分の目指す音楽がわかったんだ、と言ってから神音は、いまのユリエルと同じ目をするようになった。
(真剣なんだ……ユリエルも)
 ふと心の中で迷いが生まれた。
「……そんなにアレンさんに戻って欲しいのは音楽のため? それとも恋人として?」
 アレンさんはユリエルを弟みたいなものと言ったけど、ユリエルの気持ちはそれだけじゃないと思っていた。
 アレンさんが訂正しようと口を開いた気配がしたけど、ユリエルはそんなアレンさんを睨んだ。
「そうだよ、ボクはアレンが好きだ。そう言うおまえはどうなんだよ」
 まさかそう返されるとは思っていなくて、うっと声が詰まった。
「お、音楽のためだよ」
「……ウソつき。偽善者。おまえに負けたなんて、とうてい信じられない。やっぱりアレンはボクがもらっていくよ」
「約束が違うっ」
 名前にかけて約束したはずなのに。
「おまえは音楽のためにアレンが欲しいんだよね? だったらその他の部分……恋人としてアレンをもらっても困らないってことじゃない?」
「それは……」
 確かにバンド仲間として活動していくことと、アレンさんがだれと付き合うかってことは直接関係ない。
(だけど……でも……)
 どうしてだろう。
 アレンさんとユリエルが並んで立つ姿を想像しただけで、胸が重苦しくなる気がする。
 歌う前に一緒に入ってくるところを見た時も、何となく面白くない気分だった。
(どうして……?)
 答えられない俺に痺れを切らしたのはユリエルの方だ。
 美しい髪をくしゃくしゃにかきまわして叫ぶ。
「あ~もう、見てるこっちが焦れったくてたまらない! いい加減認めなよ、おまえもアレンが好きなんだろ。もちろん、仲間としてじゃなく、恋人として!」
「俺、は……」
「見え見えなのにどうして隠そうとすんのさ。言えよ、自分の気持ちだろ。堂々と言えばいいじゃん。何に遠慮してんの、同性だから? 年上だから? 仲間だから?」
「…………」
「ボクにとられたくないのは、ただの仲間じゃないからだろ!」
 背後でアレンさんの視線を感じるけど、俺は何も言えない。
 少しずつ息苦しさを感じて、片手で喉元を擦る。
「言わないなら、やっぱりボクがアレンをもらっていく。おまえに渡したら、アレンが憐れになるだけだよ」
「……憐れ?」
「自分ばっか傷つかないようにして、でもアレンは手放したくない。おまえがしていることはアレンを盾にするってことじゃん。アレンだけが傷ついて、おまえは素知らぬ顔ができる。あぁ、ほんとうに都合がいい奴」
「違うよ、そんなことしてないっ」
「だったら言ってみなよ。アレンもここにいるんだ、おまえの正直な気持ちをさ」
「…………」
 ユリエルが凛とした顔で睨みつけてくる。
 その表情は生命力に溢れていて、眩しいほどだった。
「ボクは日本進出を狙おうかな。そうしたらプライベートはアレンを独占できるしね……そしていつかは音楽でも」
 それは嫌だ。どんなに尊敬する相手であっても、アレンさんがユリエルと演奏したいと言わない限りは。
 そう言おうと口を開いたけど、出てきたのはひゅ~っと乾いた空気が出る音だけだ。
 冷め切った目で俺を見下したユリエルが声を吐き捨てる。
「……自分勝手な奴。帰ろう、アレン」
 ユリエルがアレンさんに近づいて、その腕を掴んだ。アレンさんは手を振り払う。
「オレはリィのものじゃないよ」
「アレン……だって、そばにいてくれるって言ったよね? お願いをきいてくれるって。なのにボクを置いて行くの?」
 その時必死に言い募るユリエルの後ろ姿が、か弱く見えた。
 アレンさんがユリエルの肩を抱いて、ぽんぽんと背中を叩く。
「響くんも聞いて。富岡さんから帰国指示があった。オレは明後日の便で日本に帰る。もちろん響くんの分も予約済みだよ。だからユリエル……オレがいなくなっても心配はいらない。もうだれもユリエルを好き勝手に扱わない。道具にもしないから」
「わかるもんかっ!」
 ユリエルは叫びながらアレンさんの胸を叩く。
「アレンは優しいよ、でもいつだってすぐに帰って行く……ボクがどんな気持ちになるのかも知らないで」
「わかっているよ、でもオレは……」
 嫌々をする子どものように頭を振って、ユリエルがアレンさんの両腕を掴んだ。
「ボクを守ってくれるのはアレンだけだ! 事務所の奴らを信用できるわけない!」
 血を吐くように叫んだユリエルの声は、客席にも聞こえただろう。
 ざわざわと聞こえていた雑音が大きくなった気がするのは、声の正体にお客さんが気づいたからじゃないだろうか。
 とにかくユリエルを落ち着かせた方がいいと思った時、見知らぬ男性が失礼と短く断りながら入ってきて、ユリエルの背中にコートをかけた。
「我がままを聞くのはここまで。さぁ、帰るぞ、ユリエル」
「……おまえか」
 男性に声をかけられたとたん、ユリエルからすべての力が抜け落ちたみたいで、アレンさんの腕を掴んでいた手が垂れ下がり、ゆっくり状態を起こすと、乱れた髪の隙間から男性を見上げた。
「マネージャーさまには逆らえないよ……仕方がない、帰ってあげる……」
 まるで生気のない声で呟きながら、アレンさんから離れて歩き出したユリエルが、俺の前で足を止めた。
「……すぐにおまえも思い知ることになるよ。業界に足を踏み入れたなら……ボクがなぜアレンを追い求めるのか。その理由を、嫌というほどに」
「…………」
 さっきまで神音と似た輝く目をしていたユリエルが、まるで死人のように暗い目で俺を映す。
 なぜユリエルの様子がこんなにも変わってしまったのかに戸惑っていて、言われたことの半分も理解できなかった。
 そんな俺をまるで憐れむように微笑んで、ユリエルは男性に背中を押されるようにして店から出て行った。
 しばらく無言が続いた。
「何かと大変だったな~。ま、帰国するまではのんびり過ごせ」
 何となく重くなった空気を破ったのは、のどかすぎるジュノさんの声だった。
 ぽたぽた足音を立てながら歩いて、ジュノさんが俺のそばを通りすぎる時、肩を軽く叩いて行く。
 まるでお疲れさん、と言われたようで。
 それを合図に残っていた俺たちも動きはじめ、店を出るとアレクが振り返った。
 じろっとアレンを睨んだ後、視界に映らないように顔の角度を調節しながら俺のとなりに立った。
「体調は平気かい?」
「え……うん、何ともないよ」
 ユリエルに問い詰められていた時に起きた俺の変化にしっかり気づいていたらしい。心配そうな表情で聞いてきた。
 実際にアレクの目の前で倒れた前歴があるから当然かもしれないが、心配しすぎだとも思う。
 無言で少し離れた場所に立つアレンさんも、何となく同じことを気にしているような気がして、見えるように大きく頷いた。
「僕も一度実家に帰るよ……この先どうなるかはわからないけれど、全力を尽くすつもりさ。だから……見送りには行けない」
「うん。がんばって……いろいろありがとう」
 暗がりの中、アレクは晴れ晴れとした笑顔を見せてくれた。
「そいつに愛想が尽きたら、いつでも遠慮なく僕に連絡してきなさい。君を浚ってこの両腕で受け止めてあげるから」
 言葉通りに腕を広げて、堂々と宣言してみせたアレクが俺の背後へ視線を投げて、不敵に笑ってみせる。
(うっ……何か、背中が急に寒くなったような……)
 アレンさんがいるはずの背後から、突然冷たい空気が漂ってくる。
 頼むから不必要に刺激しないで欲しい。
 そう思った矢先、またしてもアレクはやってくれた。
 素早く体を寄せてきて、俺を抱きしめたのだ。
(うわ~っ、やっめろ~っ!)
 友だちとしてのハグより、熱意を感じる抱擁は短かくて、抗議の声を出す前にぱっと離れてくれた。
「君には感謝してる。立ち直れたのは君が来てくれたからだ。生涯、忘れない」
「そんな……言われるほどのこと、俺は何もしてないよ」
 アレクがにっこり笑う。
「今夜の歌も最高だった。君の苦しみがこの先、さらに君を輝かせると信じさせてくれる一夜だったよ」
 ありがとうと言いかけた俺のこめかみに、アレクがさっとキスをして、素早く飛び退いた。
 今度こそ俺とアレクの間に割って入ったアレンさんの背中が、極寒の冷気を発している。
 それでもアレクは陽気に笑い声を上げながら、バイと手を振り歩き去った。
 最後までアレクらしい言動だった。
 おかげでアレンさんの怒りは高まってしまったけれど。
(胸の中がすっきりした感じ……)
 俺も笑いたくなるような心地にしてくれた背中が見えなくなった頃、アレンさんが振り返った。
「二度とあいつに会わないで」
「……アレンさん、顔が怖いですよ」
「怖くもなりますよ。目の前で二度も好きな人にキスをされていれば……オレは聖人君子じゃないですからね」
 整った顔に不貞腐れた子どもみたいな表情を浮かべて、いつもより早口の日本語でアレンさんが呟いた。
 思わず吹き出してしまったけど、少しだけ胸の奥が痛んだ。
(……俺はアレンさんのこと、どう思っているんだろう?)
 歌い終わってからユリエルと交わした会話を思い出す。
 ユリエルがアレンさんのそばにいることが、どうしても嫌だった。
 でもユリエル自身を嫌いだとは思っていない。人柄に双子の片割れとの共通点が多くて、親しみを感じているほどなのに。
(仲間を他人に取られることを嫌がる子どもみたいな感覚なのかな)
 もやもやとした気持ちを抱えたまま、アレンさんの運転する車に乗って、過ぎ去る夜景を眺め続けた。
 しばらく運転に専念していたアレンさんが、少しスピードを緩めてから話を切り出した。
「ユリエルが好き勝手に言ったこと、響くんが気にしなくていいからね」
「いえ、俺が煮え切らないのが悪いとわかってますから。それに……」
 口を閉ざすと車内は静かになる。
 ハンドルを握り、前を向いたままのアレンさんをそっと盗み見た。
 横顔はいつも通り。日本で見たそのままだけど。
(こんなことを言ったら、どんな顔をされるだろう)
 言うべきか迷いが生まれる。
 歌う前は正直に伝えようと思ったのに。
「……俺は……だれかを好きになることができないと思います」
 車を走らせながら、アレンさんはしばらく無言だった。聞こえていなかったのかな、と疑いはじめたところでそっと聞いてくる。
「……どうしてそう思うの?」
 聞かれて当然の質問だったけど、答えるにはためらいが強かった。
 すっと息を吸いこんで、歌った時と同じくらい緊張しながら話をした。
「全部は思い出せませんが、幼い頃に俺は母に捨てられたことがあります。これはイギリスに来てから思い出したことなので……確証はありませんけれど」
 高校卒業前に忘れていた幼い頃の出来事をひとつ思い出し、こちらに来てからはふたつ思い出した。
 ただの夢じゃないと思ったのは、思い出したふたつが、ひとつめと同じ感覚がするから。
「そして、たぶん……首を絞められたこともあって……」
 息苦しさを感じる時、憎しみに満ちた声が聞こえる。
 いつだったか夢の中で見た、憎らしげな祖母の声だと思うことが、間違いであったらいいとも思う。
「資格、ないんだって思うんです……すみません、俺……何言ってるのか、よくわからなくて……」
 眩暈を感じて目を閉じる。
 頭を抱えるように項垂れると、少しだけ楽になれた気がした。
 樫部が俺を好きになることはないとわかっていたからこそ、俺は想いを伝えることができた。
 でもアレクやアレンさんは違う。
 俺を見て、俺が好きだと言ってくれた。
 もし俺がその気持ちを受け入れたなら、他の人よりも近づくことになる。
 けれど相手の気持ちが変わってしまったら。
(捨てられたくないから、近づかない。近づけない相手しか好きになれない……俺は本当に自分勝手な奴だな、ユリエルの言った通りだよ)
 傷つきたくないのだ、もう。
「ですから……すみません」
「……何が、すみませんなのかな?」
「え……あの、俺と活動したくないと思われて当然だと……」
 アレンさんが軽くため息をついてから、車のスピードをさらに落として道端へ寄せて止めた。
 助手席に座る俺へ、体ごと向き直って聞いてくる。
「響くんは『i-CeL』に戻りたくないの?」
「そんなことは……」
「オレは響くんへの想いだけで、『i-CeL』にいるわけじゃないよ」
「……すみません」
「謝らないで。勘違いさせたのはオレが悪いからね……だから響くんも、そこは切り離して考えて」
「……はい」
 アレンさんは頷いて返事をする俺を確かめてから、前を向いて座り直し、ウィンドウを下げて夜風を入れた。
 しばらく何かを考えていた素振りのアレンさんが、遠くを眺めたまま小さな声で聞いてきた。
「まだ声が聞こえるんだね……今夜、あんなに素晴らしい歌を歌えたのに」
「……すみません」
 思えばアレンさんにはずいぶんとみっともない姿を見られている。
 はじめてライブで歌った後、とても怖かったのだと泣いたことがある。
 あの時もアレンさんのとなりに座っていた。
 そしていまも、こんな話を聞かせてしまった。
「謝らないでと言ったでしょう……響くんのすみませんを禁止しようかな。謝るたびに罰を受けてもらうから」
 振り返ったアレンさんは苦笑しながらそう言った。
「オレへの答えはもう少し考えてから聞かせてくれる? いまはそれどころじゃないってわかっているし、オレも反省してます」
「……アレンさんが、反省?」
「そ。ユリエルの我がままに付き合って出場したダンス大会で、まさかの再会をした響くんを探して行った先で、まさかのキスシーンを見せられてしまい……オレらしくもなく、動揺して焦ったの。かつて想い儚く散った時を思い出してしまってね」
「…………」
「それが響くんを追いつめてしまったかもしれないと反省しています。だからね、もう一度オレにチャンスをちょうだい?」
 アレンさんが手を顔の前で合わせて、俺を拝んでくる。
「オレは響くんの歌声も大好きなの。すべての感情が糧になるとは言っても、響くんが苦しむ姿は見たくない。仲間としても当然の気持ちでしょう」
 仲間と言う部分を強調したアレンさんが、俺を気遣ってくれたのがわかった。
 近づきすぎて、俺が苦しくならないように。
「支えになりたいよ、きっと神音たちも同じ気持ちのはず。だからオレたちにはその苦しみを隠さないで」
「……はい」
 それきりアレンさんが口を閉ざし、また座り直した。
「……響くんの次なる課題は、愛されることを受け入れることだね」
「え? ですから、俺はそれが……」
 できそうにないと言おうとしたら、アレンさんが指で俺の口を封じる。
「日本に帰ったら、オレたちそのために活動していこうとしているんだよ。プロになるってことは多くの人に愛されることなんだからね」
「…………」
「『i-CeL』のセンターに立つ響くんが、それができなくてどうするの?」
 あくまでも自分の感情は挟まないように言ってくれてるのがわかるから、余計に言い返す言葉が見つからなかった。
「資格がないなんて、だれにも言わせない」
 最後は早口の英語で、アレンさんが呟いた。
 聞き取り損ねた俺が視線で問いかけると、何でもないと笑って見せたアレンさんは、再び車を走らせた。
 暗い車窓を見つめながら、待ち望んでいたはずの帰国をいまは恐ろしいと感じていた。
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