我恋歌、君へ。(わがこいうた、きみへ。)

郁一

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第三章

我恋歌、君へ。第三部:11 暗闇とすれ違い

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 頭に黒い袋のようなものを被せられ、バランスを崩した体は何人かで横倒しのまま担がれ、どこかへ運ばれた。
 クッション性があるのに硬い何かの上に投げ込まれ、素早く両手を背中に回し、手首を縛られた。
やがて動き出した振動とエンジン音で、車に乗せられたのだとわかる。
「な、んなんですか、あなたたち!」
「あ~ぁ、口を封じるの忘れてたわ~。ま、その方が楽しめるけどな~」
 間延びした見知らぬ男の声が笑い混じりに応える。
 そして全身にだれかが圧し掛かってきた。
「楽しみは到着してからにとっておけよ~。いまは軽~くお触りだけにしとけ~」
「おうよ」
 低く野太い男の声が耳のすぐ近くで応え、圧し掛かったまま手のひらで俺の体を撫ではじめた。
 はじめは耳の後ろから首筋、鎖骨へ。
 気持ち悪さに頭を振ったとたん、首筋に生温かく湿ったものが吸いついた。
「っ、!」
 男の舌だとわかって、何とか振り払おうと暴れるけど男の体重の方が重くてままならない。
 その体勢のまま車に揺られ、大きな揺れの度に息苦しさに喘ぎ、男が舌舐めずりする音を聞く。
 どれくらい移動したのか、ようやく車が止まり、男から解放されたけれど体が痺れてすぐには動けない。
 のろのろ起き上がった俺をまた誰かが担ぎあげる。今度は背中に担がれたらしい。
 腹に肩が食い込み、吐きたくなる。息がし辛い。
(何なんだ、一体……)
 逆さになった頭から袋を外そうと躍起になって頭を振るが、袋は外れてくれない。
 揺られるたびに吐き気をこらえ、どこかへ下ろされた時はほっとした。
 その時、柔らかい男の声が聞こえた。
「……ようこそ、いらっしゃい。君が本当にいるべき世界へ」
「……だれ……?」
 まだぐらぐら揺れる頭を堪えながら、聞こえてきた声を頼りに見えないとわかっていても顔を上げる。
 するとくすりと笑う音がした。
「わたしがだれか、はすぐに思い知らせてあげるが、その前に……」
 ぱちんと指を鳴らす音が聞こえた。
 それと同時に袋の上から口元を手で覆われ、もうひとつの手が喉を掴み息を止めてしまう。
「~っ……、!」
 唯一自由になる足でむやみに辺りを蹴り、体を動かしても手や口、喉を掴む手は引き剥がせない。
 呼吸を止められ、耳元で激しく鼓動が鳴り響き、目が熱くなってくる。
(助け……助けてっ!)
 息が出来ない。がんがんと頭が割れそうな痛み、堰きとめられた血が暴れる熱、それらが意識を切り刻み、まともに考えることができなくなる。
 不意に口と喉から手が離れ、条件反射で空気を求め、大きく吸い込んだ。
「……っ、げほっ……!」
 吸い込んだ空気は新鮮とは程遠く、とても変な匂いと粉っぽさがあった。
 思わず咳きこんだ俺の頭を、柔らかい声の男が撫でる。
 すぐ近くで聞こえる男の声は、どこかで聞いた気がしなくもない。
「良い子だ。よく我慢したね……さぁ、ご褒美にわたしの話を聞かせてあげよう」
 男の声をどこで聞いたんだろうと考える前に、男が目の前に座った気配がした。
 やがて話し出す。
「わたしはとても音楽を愛していた。はじめてピアノに触れた時、世界が限りなく無現に広がっていく気がして、心の底から震えたものだった。それから毎日毎晩ピアノの前に座り、奏で、腕を磨いた。素晴らしい世界をもっと多くの人に知って欲しくて……奏でられる人になりたくて……わたしは無心で演奏し続けた。ところが」
 男が区切ったところで、俺の頭がぐらりと揺らいだ。
 眩暈じゃなくて、本当に意識していないのに横に倒れる。
 男が笑った後、続きを話しだした。
「ある日を境に、わたしは二度と音楽に触れられなくなった……輝く世界はもう、わたしの手の届かない場所へ行ってしまったのだ……わかるかな。この指が覚えているだろう……わたしの母が折った指だ」
「……っ!」
 男の指が這うように触れてきて、俺は息が詰まった。
 そこは間違いなく、幼い日に女によって折られた指だ。
(なぜ、なぜ知っている……っ!)
 新聞の片すみに小さな記事で載ったらしいが、所詮はピアノコンクール中に起きた小さな事件だ。
 俺の家族やコンクール関係者、治療を担当した医者くらいしか詳細は知らないはずなのに。
「わたしの母はね、わたしが努力しても神音には敵わないと見限ったらしいね。神音の指を壊してしまえ……と愚かな真似をしてくれた。その結果がどうだ……人違いだと? 笑わせるな、愚かな母の仕出かした過ちのせいで、わたしは音楽の世界から追放されたと言うのに、神音は無事! 何のための愚行だったのか。成し遂げられないまま、わたしは光り輝く世界から、追放され、神音は輝く世界の中央にいる!」
 急に激昂した男の手が俺の指を折り曲げる。
「ぐっ……つ、」
 痛みに脂汗が浮かぶ。
「……いっそ、本当に神音を潰してやろうと思った……だが、もっと精神的苦痛を与える方法がある……それがきみだ」
「ああぁーっ!」
 ばきんと、指から音が鳴ったとたん、凄まじい激痛が脳天まで突き抜ける。
 悲鳴を堪えることもできなかった。
「……君を潰す。その方が神音も自責の念にかられ、自滅するだろう……君たちは本当に仲の良い双子だからね」
「っ、あ、ぁ……っ」
 袋越し、耳元に男が顔を近づけ、息が吹きかかるように囁いた。
「安心しなさい。これから、もっと楽しませてあげるから」


 指を折られた激痛はやがてもうひとつの衝動に紛れ、交互に俺を襲うようになった。
「あぅ、……っ」
「そろそろ効いてきたようだ。さて……主役の支度が整った。ステージの幕を上げよう」
 男の声が終わるや、シャッとカーテンを開けるような音が聞こえ、袋越しにもわかる強烈な光りに照らされる。
「見えないきみのために教えてあげよう。いまこの部屋とガラス窓で仕切られた別室に、十人ほどのゲストをお招きしている。彼らは愛する人を探しておいでだ。ここできみの姿を見て、もしかしたらどなたかがきみを気に入ってくれるかもしれない。だから余すことなく見てもらいなさいね」
「っ、あ……っ!」
「さぁ、ショーのはじまりだよ」
 両足を持ち上げられズボンを脱がされ、パンツ越しに局部を舐められる。
 すると俺の全身に震えが走り、口から勝手に声が漏れそうになって、慌てて唇を噛んで堪えた。
 指を折られた後、少しずつ激痛に紛れて込み上げてきたのは熱だった。全身が過敏になって激痛でさえ快楽と間違えそうになるほど、ちょっとの刺激に喜びを感じるような熱で、とても普通の状態じゃない。
(何かを嗅がされた、あの時のせいだ……っ)
 わかったところでこの熱は冷めてはくれない。股間を舐められるたび、堪えきれない快楽に腰が揺れ、背中が反りかえる。
「耐える必要はない。さぁ、素直に声を聞かせてあげなさい」
 柔らかい男の声がして、袋越しに口の中に指を詰めこまれる。
 いっそ噛み切ってやろうかと思ったとたん、いつの間にか脱がされた上半身に吸いつかれ、甘く噛みつかれる。舌が這い、指が滑りこんで突起をつままれ、引っ張られた。
「っ、ひぃっ、やっ!」
「いい反応だ。さぁ、もっと啼いて!」
 一体何人が周囲にいるのかわからない。
 首筋、胸に腰、足は片方ずつ。
 至るところを舐められ、抓られて絶え間なく感じさせられ、声を堪えるどこから唾液さえ飲み下すのが間に合わなくなった。
「あッ……いや、だっ、あぁっ!」
 じゅるじゅると音を立てて形を変えたそこを吸われ、袋を揉まれる。熱と感触は増幅して頭を痺れさせ、全身を甘く蕩けさせる。
(もう……いやだ、やめて……たすけて)
 心とは裏腹に高められ、快楽を追い求める体。
 いくつもの舌、手に辱められる姿を本当に十人もの人が見ているのだとしたら、考えるだけで狂いそうだ。
 今までだれとも肌を合わせるような真似はしたことがなく、どこをどうされたら、どんなふうに感じるのかも知らなかった。
 それなのに同時にあらゆる場所に刺激を与えられ、感じさせられる。たぶん薬か何かで敏感にされているのだろう。
 強すぎる刺激に体中を切り裂かれ、体が燃えるように熱くなる。
 舌が絡みつく下腹部の熱が凄まじい勢いで凝縮し、耐える間もなく弾け飛んだ。
「っ……、ぁ……」
「ずいぶんがんばりましたね……」
 柔らかい男の声が耳元で感心したように囁くけれど、何も応える気力もなく、だらりと脱力したままの俺に、男は満足そうに笑う。
 すると体中にまとわりついていた手や舌が離れた。
 ブレーカーが落ちたような音がして、照らしていた光も消える。
「……さて、今日はここまでとしよう。しかし安心しなさい。今日の思い出はしっかりと録画した。君を心ゆくまで味わいたい者が名乗り出るまで、何度でも今日の姿を見ることができる」
「……っ」
「あぁ、このことはだれに言ってもいけない。一言でも漏らせば……すぐに君を壊すからね。方法はいくらでもあるのに、こうして楽しませてあげようとしているわたしの親切心を無駄にしないでおくれよ」
 ぱちん、と男が指を鳴らすと、また体を担がれて車に乗せられた。
車内で乱暴に服を着せられ、やがてどこかで下ろされた。
背後で縛られていた手首を粗雑に解放され、エンジン音が完全に聞こえなくなってから、痛まない手で袋を外す。
「……ぁ……」
 見慣れた明りの配列と建物の陰から、そこが神音と暮らすマンションの裏手だとわかる。
 名前だけじゃなくどこで暮らしているのかも知っている相手なのだと思うと、恐ろしさに寒気がした。
 激痛が戻ってきた指を抱え、どうにかマンションに入るとカバンから鍵を出した。
 中に入ると明りがついていて、神音がまだ起きているのだとわかる。
 のろのろと重い体を慎重に動かして歩き、リビングやキッチンに神音がいないとわかると、ほっと息をついた。
 部屋に入ると着替えを掴んで、すぐにシャワールームに飛びこんだ。
 思いっきりシャワーを全開にして浴びていると、扉を叩く音が聞こえた。
「響、帰ってきたのー? ずいぶん遅かったね……どこに行ってたの?」
「……逸美さんの店……忙しそうだったから……手伝ってきた……」
 シャワーに打たれたまま、痛む手を庇いつつ大声で答えた。
 その声の酷さに自分自身が眉を寄せた。
「……もしかして風邪引いた? だめだよ、響……そんな状態でシャワーなんて。せめてお風呂溜めて、ゆっくり浸かりなよ?」
「……うん」
 それだけ言うと神音が遠ざかって行った。
 言いようのない脱力感に襲われ、壁にすがりながらその場に座り込んだ。
(何だったんだ……どうして、あんなこと……っ)
 まだ衝動の余韻が残っているようで、シャワーが肌を打つ感触にさえ、ぞわぞわと背筋が粟立つ。
(……気持ち悪い……)
 とりあえず肌にこびりついたままだった唾液を洗い流し、片手で拭けるだけ水分を拭きとると着替えを羽織り、保冷剤を取り出して濡れたタオルで巻いた。
 ベッドに倒れこむと激痛を訴える指を冷やしながら目を閉じる。
 おそらく発熱しているのだろう。
 悪夢とねばりつくような覚醒をくり返し、朝になっても悪寒とだるさで起き上がることができなかった。
「おはよ、響……どうしたの?」
 いつもは朝が遅い神音が部屋に入ってきて、俺の様子に顔をしかめている。
「……顔色悪いし……指、それどうしたの!」
 保冷剤で隠していたのに折られた指に神音が気づいてしまった。
 息をするのも辛い中、転んだんだと説明すると顔をしかめたまま神音が一旦部屋から出て行く。
 しばらくして戻ってくると、父さんを呼んだからと言った。
「病院に行くよ、響」
「……大げさ、だよ……」
「何言ってるの。響、いま自分がどんな顔してるのかわかって言ってる? それに……その指は……」
 やっぱり神音は気づいてしまった。
「転んだなんて嘘だよ。何かあったんでしょ……でもいまは言わなくていい」
 やがて駆けつけた父親も俺を見るなり蒼白な顔をした。幼い頃とは違って抱きかかえることができないほど成長した俺を支えて歩きながら、父親は何も聞かずに病院へ運んだ。
 指はきれいに折れていたらしく、すぐに治るとの診断だった。
 ただここのところ睡眠不足が続いていたことと、栄養失調気味だったことが災いして、点滴を打つ必要があると言われてしまった。
 点滴を打っている間、疲れが極限まで溜まっていたのか、うつらうつらと意識がまどろみはじめる。
「……だから……だって、……響は……」
「わかって……私も親……決まってい……」
 途切れ途切れにだれかの声がするけど、ようやく手に入れた安眠に体が負けた。
 気がつくと昼過ぎになっていて、病院ではない場所に寝かされていた。
「……こ、こ……」
 いつの間にか神音と暮らすマンションの部屋に帰っていて、自分のベッドに寝かされていた。
 熱はだいぶ下がったようで、少し足元が覚束ない感じがするものの、ちゃんと歩くことができた。
「あ、ダメだって。まだ寝てないと」
「……か、のん……」
 キッチンに神音がいて、俺の姿を見つけると飛ぶような勢いで駆け寄ってきた。
「うん。ぼくならすぐそばにいるから……もう少し眠ってよ」
「……何か、飲みたい」
「そう言えば何も飲んでないもんね。じゃ、ここに座ってて。持ってくるよ」
 椅子に俺を座らせてから、神音が水を持って戻ってくる。
 一口飲むと、少し体に活力が戻ってくる気がした。
「……あのさ……神音に、話があるんだけど……」
 空になったコップを俺の手から取り上げながら、神音が眉を寄せる。
「いま話さないといけないの?」
「……俺たち、別々に暮らした方がいい、と思うから……部屋を出て、行こうと思う」
 神音の手からコップが落ちた。
 床に当たって転がっていく。
「何で……どうしてそんなこと言うのさ。何か不満だった? またぼくは響に何か我慢させてた? 言ってくれたら直すからさ、出て行くなんて言わないでよ」
「……そんなことは、ないけど……」
「だったら、何で出て行くのさ! だれかに言われたの、出て行けって?」
 かなり核心を突いた神音の一言に一瞬声を飲んだ。
 神音が目を光らせる。
「……そんな奴らの声に耳を貸す必要なんてない。響にはここにいて欲しい。もうこの話はおしまい。さ、もう寝て」
「待って、神音。だけど俺自身が出て行った方がいいと思って……」
 すると神音が俺の肩を掴んだ。
「まだそんなこと言ってんの! ぼくは響を追い出すつもりはないよ? それともぼくと一緒にいたらいけない理由があるの? 言ってよ、全部話してくれるなら考える」
「…………」
 あんなこと、言えるわけがない。
 たとえ最後に男が言ったことが本当には起こらないとしても。
 神音が目を細めた後、突き放すようなため息をついた。
「……もう、いいよ。とにかくいまは体を休めて、響……もうすぐ新曲のレコーディングがはじまるんだから」
「……わかった」
 重苦しい沈黙を引き摺って、部屋に戻った。
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