我恋歌、君へ。(わがこいうた、きみへ。)

郁一

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第三章

我恋歌、君へ。第三部 10:崇拝者

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 休憩時間にスマフォで部屋を探していたら、八代さんが不意に話しかけてきた。
「何や、響ちゃんひとり暮らしするつもりなん?」
 声が大きい八代さんに見抜かれてしまい、俺は慌てて周囲を見回した。
(よかった……神音は今いない)
 部屋が決まってから神音に伝えるつもりでいるから、まだ今は神音に部屋を出ていくことを知られたくなかったのだ。
「……ん?」
「八代さん……神音にはまだ言わないでくださいね」
「それは構わへんけども……何でまた急に? 仲良うやっとったやん。ケンカでもしたんか?」
 否定しようとした俺を遮って、八代さんが得意そうな顔で身を乗り出す。
「わかった! 神音に彼女が出来て、同棲するつもりだとか言われたんやろ?」
「いや、そう言うわけでは……」
「なら何でや? いくらメジャーデビューした言うても、生活費は節約しておいた方がええで。それに何と言うても、やっぱ同居人がおった方が安心やし」
「……そう、ですけど……」
 どう言ったらごまかせるだろうと考えても思いつかない。
「しかも相手が気心の知れた神音なら、響くんも過ごしやすいんじゃないの?」
だんだん八代さんの追及が厳しくなってきたし、雑誌を読んでいたはずのアレンさんも会話に加わったおかげで、ますますうまい言い訳が思いつかなくなった。
 もう一度休憩室に神音がいないことを確認して、正直に言うことにする。
ギターを抱えて文月さんも聞き耳を立てているのがわかったけど、広くはない部屋の中で話をしていれば聞こえても仕方がない。
「実は親に言われてしまいまして。出来るだけ早く部屋を見つけて、出て行こうと思っているんです」
「……けど響ちゃんたち、家賃の半分は親に手伝ってもらっとるんやろ? ふたり別々に暮らしたら親の負担も増えるやん。何だってそんなこと……」
 八代さんが首を傾げて言うので、俺は苦笑して首を横に振った。
「俺の分は全額俺が負担するので、親は関係ありません」
「……なぜ急にそんな話になったの……?」
 アレンさんが渋面になって聞いてくる。
 俺と母親との確執を知っているだけに、言わなくても感じ取ったのだと思う。
「もう少しで成人しますし、親もいい機会だと思ったのでしょう」
 あえて原因は言わず、ぼかした。
 もう学生ではないのだから、家賃ぐらいは自分で稼いで当たり前だ。
「……でも、ねぇ……」
「まぁええやん、リーダー。それならおれも部屋探し手伝うわ」
 渋るアレンさんの肩を八代さんがばんばん叩いて、話題を強引に変えてしまう。
「ありがとうございます」
「うんうん、何でも聞いてや。ひとり暮らし歴長いねんで、おれ」
「……オレを蚊帳の外に話を進めないでくれない? 父の友人が不動産屋を営んでいるから、おすすめの部屋がないか聞いてみるよ」
「アレンさんも、ありがとうございます」
「……確実に増える家賃分はどうするつもりですか?」
 黙って話を聞いていた文月さんが口を開いた。
「仕事の合間にバイトをしようかと……」
「だったらおれに任せとき! 逸美さんに聞いてみるわ。響ちゃんが来てくれないかな~てよう言うとるから、融通効かせてくれるはずやで。おれも一緒に通っとるから、急な仕事が入ったとしてもすぐに対応できるしな」
「え、でも……」
 いつ抜けるともわからない、いつもシフトを入れられるわけでもない従業員をふたりも抱える余裕があるとは思えないんだけど、と八代さんを止めようとしたら、その寸前で八代さんのスマフォが逸美さんと回線をつないでしまっていた。
 八代さんが言っていたのは本当だったらしい。すべてを説明するまでもなく、逸美さんから即採用が下され、週末から空いた時間にバイトとして入ることが決まってしまった。
「……響くん。困ったことがあったら、いつだっていい。連絡してね」
 最後まで渋い表情だったアレンさんが、その日仕事が終わって解散する際、何度も念を押してきた。
(たぶんアレンさんは気づいてる……でも甘えられない。俺はアレンさんの気持ちに応えることはできないんだから)


 逸美さんの店で働くことになった初日は、八代さんと同伴で出勤した。
「いやぁ~ん、本当に響さんが来てくれはりましたわ。待っていましたの、いつ来てくれはるかしらとね」
「今日からお世話になります。よろしくお願いします」
 初出勤でしかも恩人なだけに、緊張は増して冷や汗をかきながら挨拶をすると、今日も麗しい逸美さんがにこりと笑った。
 高校卒業を記念したライブでメイクと衣装を手伝ってくれた逸美さんとは、デビュー後のツアーでも衣装を提供してもらったりとつながっていたものの、直接話をする時間は取れなかった。
「ツアーの時も大変お世話になり……」
 ここぞとばかりにお礼を言おうとしたら、逸美さんが細い眉を寄せて手を振った。
「いやですよ、そんな他人行儀な。持ちつ持たれつでございましょう? 響さんが着てくれる、わたくしの服を多くのファンに見てもらえる……もちろん、響さんのこの玉肌に、潤んだ瞳をさらに引き立てられるのは、このわたくしがデザインした服を除いては、そうそう見つけられませんわ……」
 肩にやんわりと手を乗せて、反対の手で俺のあごをくいっと持ち上げ、逸美さんが顔を近づけてくる。
 中性的な美しさがある逸美さんに間近で見つめられ、冷や汗が倍増して吹き出してくる。
(ひぇ~……助けて、八代さん~っ)
 横目で助けを求めると八代さんは苦笑するだけで、俺たちを見守っている。
 もうキスされるんじゃないかって距離まで顔を寄せていた逸美さんの背後に、いつの間にか誰かが近づいていて、逸美さんを俺から引き剥がしてくれた。
「おい。仕事をサボって、白昼堂々と若者をたぶらかすな」
「……あちゃ~……見つかってしまいましたわ」
 襟首を掴まれたまま振り返った逸美さんが、ひどく残念そうに呟く。見逃して、と笑ってみるも逸美さんを掴んだままの男性はにこりとも笑わない。
 背丈は八代さんと同じくらい。きれいに整えたオールバックの黒髪と、真っ白なシャツとグレーのベストがよく似合う、野性味のある顔立ちの男性だ。
「あ~……呉羽さん。この子が片平響ちゃんや。今日から遙香(はるか)ちゃんについて、一緒に働いてもらうから、よろしく頼むわ」
 八代さんが俺の横に立って、呉羽さんと言う男性へ紹介しながら、軽く背中を押す。
 慌てて自己紹介しながら頭を下げたら、呉羽さんは逸美さんを捕まえたまま、わずかに目を細めて笑った。
「話は聞いています。君が響さんですね、はじめまして。うちの逸美が迷惑をお掛けして申し訳ない」
「迷惑だなんて……」
「そうよ、わたくしは響さんを崇拝しているだけで……」
「それが迷惑だと言っている」
 逸美さんと呉羽さんがそれから言い合いをはじめてしまったので、八代さんが俺の腕を掴んでその場から離れた。
「あの二人はいつもあんなんやで。真面目に付き合うと疲れるから、あんな風になったらすぐに別の場所に逃げてええで、響ちゃん」
「あ、はい……」
 ショップを兼ねている一階を見下ろせる二階へ上がり、廊下を歩きながらそっと下を覗いてみると、言い合っているけど逸美さんは楽しそうだった。
「まずは一通り案内するで。その後は先輩のバイトを紹介するから、一緒について教わってな」
 八代さんの案内で建物の中を歩いた後、俺とほぼ同じ背丈の女性バイトを紹介された。
 毛先だけピーチパープルに染めた薄いグレイ色の髪が印象的な、ボーイッシュな彼女は遙香と名乗った。
「先に断っておくけど、あたし教えるの苦手だから。見て覚えて」
「あ、はい」
 遙香さんはすらりと長い手足が特徴で、立ち姿がすごくきれい。仕事を教わる合間に思いきって質問してみたら、モデルをしているのだと答えてくれた。
「高校入ったばっかの頃に、その辺歩いてたら声かけられて。バイト探してたとこだったし、お金くれるって言うからついて行ったらモデル事務所の人だった」
「そんな女の子が簡単に知らない人について行ったら危ないのでは……」
「ん……ま、その時は逃げればいっかとね」
 俺のひとつ年上で、表情はあまり変わらないクールな遙香さんはたいしたことじゃないと肩をすくめる。
 そのくせ、ひとりでも店を任せられるほど仕事ができるから、よくわからない人だ。
 仕事をはじめる前に俺は逸美さんから支給された服に着替えたのだけれど、遙香さんが俺の姿を頭から足先までじっくり見回すので、似合っていないのかと焦った。
「ふぅん……なるほど」
「変、ですか……?」
「いや……いつみん、本当に気に入った奴じゃなきゃ、人手が足りていなくても採用しない人だからさ。どんなのかなって、結構期待してたのさ。だから……なるほどって納得してんの」
「……良い方向でですか、それとも」
 すると遙香さんが薄紅色のカラーコンタクトを入れた目で俺を見ると、意味ありげに唇の端を持ち上げて笑った。
「さぁ、お仕事開始!」
 接客の仕事は正直戸惑いの方が強い。
 店に来てくれるお客の半数がまだ学生の子たちだから、それなりに話が出来たけど、じろじろ俺の姿を見てはこそこそ話を交わす様子は慣れるまで何となく居心地が悪かった。
 夕方を過ぎると仕事帰りの社会人が多くなり、声を掛けるタイミングを計りかねて、何度も遙香さんに助けられた。
 初日が終わり、バックヤードに戻ると八代さんがいて、お疲れと肩を叩いてくれた。
「ずいぶん疲れた顔しとるなぁ」
「えぇ……正直なところ、ライブ一回するよりも疲れる気がします」
 俺の返事を聞いて、八代さんが盛大に笑ったところへ逸美さんがやって来て、俺に抱きついてきた。
「脱がないで、そのままでいて~」
「なっ……こら、逸美さん! そないなことしとると、また呉羽さんに叱られるで!」
「ちゃんと仕事はしました~。そのせいで初日から響さんの艶姿を見逃して、わたくし傷心なのです。このまま、もっとじっくり見させてくださいな……あぁ、計算通り……やはり響さんにぴったり」
 逸美さんが俺の全身を手で触っては、頬を染めてうっとり見つめてくる。
 その背後で八代さんは頭を抱えてため息をついていた。
「あかんわ……もぅ、この人は……」
「あぁん、眼福♪ まさに響さんはわたくしの理想の具現化! これからも響さんはうちで働いてくださるのでしょう? わたくし、幸せですわ~!」
 両手を握りしめ、天井を仰いだ逸美さんがすぐに顔を俺に近づけ、ぐぐっと体を寄せてくる。
「まだまだ響さんに来ていただきたい服がたくさん待っているのです。できるだけでいいから、店を手伝いに来てくださいませ。あ、でも本業の方もがんばっていただきたいから、出来る限りで構いませんから」
「は、はい……」
 逸美さんの勢いに圧倒されつつも初日を終え、一緒に八代さんも仕事を切り上げて、近くの店で夕食を奢ってくれた。


 それからバンド活動とボイトレにバイト、部屋探しと忙しい日々がはじまった。
 どうせ眠れないからと眠る時間をごくわずかにしているおかげで、どうにか眠ってはいるが、それでも悪夢を見てしまう日がある。
 そんな日は眠ることをあきらめて、ランニングをすることにしているのだが、バイトをはじめて二週間が経つ頃、アレンさんに心配そうに声を掛けられた。
「響くん、無理してない? あまり顔色が良くないよ」
「だ、大丈夫ですよ。本当に心配しないでください」
「うん……だったらいいけれど」
 眩暈はすでに馴染んでしまって、今さら騒ぎたてる気にはならない。睡眠時間が圧倒的に足りていないことが原因だとわかっているのだから。
(あの部屋にいる限り、落ち着いて眠れるわけがない)
 いつ母親が乗り込んでくるのかわからないから眠れず、それでも部屋から出て行けないのは未練があるからで。
 それでもアレンさんに協力してもらって、部屋の見当がついた。そろそろ神音に打ち明けて出て行かないと、と思いながら言いだせず、一日一日と遅らせている。
「今日は久しぶりにみんなの前で演奏できるねー」
「せやなぁ。かと言って、そんな大きなスペースやないし、おれも何とか緊張せずやれそうやわ」
 楽屋で八代さんと楽しそうに会話する神音の横顔を盗み見て、そっとため息をつく。
(どうやって切り出したらいいかな……)
 本番がはじまる直前までそんなことを考えていたけど、歌いはじめればいつもの通り忘れられて、歌うことに集中できると思っていた。
(……あれ……?)
 いつも通りの演奏が背後から俺を飛び越していく。いつもならその音に声を乗せる瞬間がたまらなく心地よいのに、今日は音と声がズレて噛み合わない。
 どんなに修正しようとしても声が音の表面を滑り落ちてしまうようだ。
(落ち着け、リズムを間違えているわけでもない。ちゃんと曲に集中しろっ)
 みんなの演奏はちゃんと聞こえている。
 曲の世界観もしっかり掴んで、歌いこなす自信がある曲なのに。
(……歌えないっ!)
 違和感を残したまま、最後の音が消えた。
 会場にいた観客たちは拍手をしてくれたものの、ステージに立つ俺はその場に座り込みそうな気持ちだった。
 他にも二曲歌ったが、どちらも出来栄えは散々だった。
 こんなに惨めな気持ちで拍手を浴びたことがないと思うほど落ち込み、だけど仲間たちは笑顔で観客に手を振って挨拶しているから、俺もぎくしゃくと彼らに倣って挨拶をしてから楽屋へ戻る。
「やっぱり人前で演奏する仕事の方が楽しいな~っ。バラエティとかも楽しいけどさ」
「だけどオレたち、仕事のえり好みが出来る身分じゃないでしょ」
「そうですよ。それにただ演奏するだけでは足りません。もっとパフォーマンスも勉強しなくては」
 文月さんが拳を握るその後ろで、神音たちが笑顔で談笑している。
 彼らと俺の間に見えない壁が立ちはだかっている気がした。
(なんで、笑っているの……今日はあんなひどい出来だったのに……なんで)
 足取りが重い俺は、神音たちとどんどん離されていく。
 遠ざかっていく仲間たちの声、姿が歪む。
 眩暈がしているのだと気づいて、すぐ近くのトイレに避難する。
 もし彼らが振り返って、俺の姿を見て何かを感じたら困るから。
(……情けない……)
 まだまだ実力不足なのだと痛感する。
 きっと仲間たちは納得する演奏が出来たんだ。ただ俺だけが上手く歌えなくて、彼らの演奏を活かしきれなかった。
(……ほんと、俺はだめだな……)
 ぐらぐらと世界が回っている。
 落ち着くまでここにいよう、とドアに背を預けて目を閉じた。
 目を閉じても回り続ける世界の中で、母親の声が聞こえる。
 俺がごみだから、神音の邪魔をしているのだと非難する声だ。
(……こんな様では、母さんに言い返せないな。もっと練習しないと)
 そして専属トレーナーのジュノさんの練習に臨むも、ジュノさんは険しい顔で怒鳴りつけてきた。
「んな、がむしゃらに歌ったって、ノド痛めるだけだって言ってんだろ? わかんねぇのならやめちまえ!」
「あ……でも……」
「……富岡には言っておく。だから……せめて一週間は休め、馬鹿」
 ジュノさんはそう言って、ボイストレーニングを中断してしまった。
(そんな……俺はもっと上手くならないといけないのに)
 焦る気持ちがさらに眠りを浅くして、ごくわずかな睡眠時間も悪夢に彩られるようになってきた。
 ラジオ番組に出演した後、急に吐き気を覚えてトイレに駆け込む。
 まるで高校時代に戻ったように、食べても戻してしまう回数が増えた。
 午前中だけの仕事を終えて、バイトに出勤すると逸美さんが俺の顔を見るなり、麗しい顔を険しくさせた。
「響さん……ちょっとこちらへ。お話したいことがございます」
 そうして連れて行かれたのはバックヤードのさらに奥に作られた事務室で、扉を閉めてしまえば外に声は聞こえなくなる。
 いつもここで事務仕事を担当している呉羽さんが俺たちに気づくと、何も言わずに席を立って事務室から出て行った。
「そちらへお掛けなさいな……いまお茶を淹れますから」
「あ、俺がやります」
「いいんです、響さんは座っていて」
 やんわりと断られたものの、逸美さんがまとう空気はいつもより硬い。
 これから何を言われるのだろうと、決して中身が良いものではないとわかる。
 やがて俺と逸美さんの間にお茶を置いて、向かいに座った逸美さんがやおら口を開いた。
「わたくし、響さんを一目お見かけした時から、響さんの信奉者でございます。わたくしが作り出したいもの、その中心に響さんがいるのですから。それは忘れないでいて欲しいのです」
「あの……俺なんかをそんな風に言ってもらえて、とても光栄なんですけど……面映ゆいと言うか分不相応な気がして……」
「……謙遜が美徳になるのは一般人だけでございますよ、響さん」
「……っ」
 いきなり逸美さんの声が強張り、鋭く投げつけられた。
 見ると和風ながら美しい逸美さんの顔立ちが、いまは険しく冷たい雰囲気に満ちていた。
 いつもは蕩けそうな熱を湛えて俺を見ていた目が、凍りのように冷たく俺を映す。
 心が冷えてくる。
「響さんと出会いましたのは、高校卒業記念ライブの時でございましたね。しかしながら、わたくしは久遠姉さんから、あなたたちの話をよく聞いておりました。特に響さん、あなたはわたくしの理想の塊であろうと、久遠姉さんが写真を見せてくださいました。その後も響さんの状況を細かく知らせてくださいましてね……正直、響さんと出会った時はすでに旧知の仲であるかのように思っていたほどです」
 話している間に逸美さんの雰囲気が和らいで、最後は懐かしそうに少し笑いながら視線を伏せた。
「響さんがどんな方なのか、わかっているつもりでいました。うちの店で働いてくださると聞いて、さらに有頂天になっていたのかもしれません。けれど間違いでございました。響さんとはじっくりお話をしなければ、とそう思ったのです」
 逸美さんが目を上げると、正面から俺を見据えた。
「正直にお答えください。響さんは何から逃げているのです? あぁ……否定しても無駄でございますよ。目の下のクマは最近できたものではございませんね? わたくしの目は誤魔化せませんよ」
「……逸美さん……」
「せっかくの玉肌が……髪の艶も損なわれて、どうして他の男衆が気づかないのか、不思議でたまらない。あいつらの鈍感さには腹が立ちますわ」
 不意に腰を浮かせた逸美さんが、手を伸ばして俺の頬に触れた。
 その瞬間に怯えた俺に気づいたのか、すっと目を細めた逸美さんが弱く笑う。
「誤解しないでくださいな。わたくしは響さんを責めているのではありませんよ……力になりたいのです。わたくしは響さんと共に活動する仲間ではございません。けれど親しく想う相手が仲間にいる。この距離感だからこそ、出来ることもあろうと思うのです……話してはくれませんか、響さん」
「…………」
 何もないと言おうとしたけど、唇が震えただけで声が出なかった。
 唇を噛みしめる俺の頬を優しく撫で、逸美さんがまるで熱を測る時のように額を合わせる。
「……わたくしの作る服を、響さんはどう感じましたか?」
「え……?」
 いきなり話題が変わったことに戸惑う俺に、逸美さんはそのまま、と俺の後頭部を抱き寄せて話し続ける。
「腹を割って話すのであれば、まずはわたくしからお話させていただきます……わたくしは男女どちらだと思われます?」
 それは迷うまでもなく、と答えかけたところでふと迷う。
 男性用の和服だけでなく、女性用の着物をアレンジした服を着る機会も多い逸美さんは、時々後ろ姿に違和感を感じる時がある。
 声にしなくても感じ取った逸美さんが、軽く頷いた。
「わたくしは戸籍上は男でございますが、実際はどちらでもありません。半端者なのでございますよ」
 男性としての機能も、女性としての機能も果たせない中途半端な体。
 顔を離した逸美さんが、椅子にゆったりと座り直してからひどく柔らかく微笑んで言ったけれど、それはとても哀しそうでもあった。
「……父母はそれが嫌で、わたくしを捨てたのでしょう。八代と同じ施設の前に、わたくしは物心つく頃に置き去りにされておりまして。ずいぶん長い間、自分自身を嫌ったまま生きておりました」
「…………」
 俯いたままお茶をすすり、口を湿らせてから逸美さんが続きを話す。
「唯一、わたくしを肯定してくれたのが八代です」
 微笑んだ逸美さんの顔は、いつもにも増して美しく見えた。
「わたくしは男の子から笑われ、女の子からも異物として排除され、どちらにもなれない自分自身も疎んじておりました。ところが八代はそれでいいじゃないかと笑い飛ばしたんですよ」
 男は女じゃない、女は男じゃない。
 同じようにどちらにもなれない人だっているだろうと。
「どっちの気持ちもわかるから、それは最強じゃないのかとまで言われて……はじめはわたくしの気持ちがおまえにわかるものか、とずいぶん反発いたしました。喧嘩をしたこともございます。けれど八代は良くも悪くも単純で……わたくしをただの一度も否定しなかった」
 お茶を見下ろす逸美さんは、過ぎ去った日々を追いかけているようだった。
「わたくしが服を作りはじめたのはそれがきっかけでございます。どちらでもないわたくしだからこそ、作り出せる服があるのではないかと、自分自身が求める服を追及しているうちに、ここまで来ておりました。ただその途中に八代がいてくれたからですが。馬鹿正直に伝えたら、図に乗るだけですから言いませんけれど」
 最後はふふっと笑って締めくくる逸美さんは、さてと姿勢を正した。
「八代はね、わたくしのためにパタンナーとなる道を選んだ……わたくしは八代を手に入れることができた気がして、とてもうれしゅうございましたけれど……わたくしが望むのはそのような関係ではない……だから八代のために今度はわたくしが力になる。そう思っているのです。響さんの話を聞きたいと思うのは、それが八代のためにもなるからでございますよ」
 ここまで言えばわかりますね、と逸美さんが再び俺をじっと見てくる。
「現場に復帰した久遠姉さんからも聞いております。響さん、一ヶ月近く前からあまり笑わなくなった……肌の調子が悪くなってきたのも、クマが目立つようになってきたのもその頃だったと。響さん何があったのか、話してくれませんか」
「……俺、は……」
「何もないとは言わせません。響さんがどれだけサイズダウンしたか、わたくしが気づかないとお思いです? 店に立つ間、何度もため息をついて憂い顔をすることも、ふらついている姿も見ています。遙香も気づいています」
 先輩の遙香は元々必要なことだけを話す性質で、余計な会話をしてこない。
 ただ時々じっと俺を見ている気がして、振り返ると視線を反らす時があった。
「……雇い主としても、親友の仲間としても、何より響さんを崇拝する者として、もうこれ以上見て見ぬふりはできません。勝手ながら響さんの姿に我が身が重なるからこそ……っ」
 逸美さんの声が強くなり、最後は感極まったように掠れた。
 ぎゅっと目を閉じ、拳を握った逸美さんの姿を見て、俺の胸が痛む。
「……心配をさせてしまい、申し訳ありません」
「いいえ……謝って欲しいわけではございません」
「はい……ただ、あまり気持ちのいい話ではないと思います。それにはっきり言えることばかりでもないですが……」
 構いませんよと逸美さんに促されて、俺はひとつため息をついてから正直に今までの出来事を打ち明けた。
 バンドで歌いはじめるきっかけから、聞いてしまった祖母と母の嘲笑、思い出した過去と悪夢、そして母から下された宣告まで。
 逸美さんはすべて聞き終えても、しばらく何も言わずにお茶を飲んでいた。
「……響さん。最初に言っておきたいことがございます」
「はい」
 逸美さんが立ち上がり、俺の隣に座り直すとやおら俺を抱き寄せた。
「ぅわ、い、逸美さんっ!」
「慌てないでくださいまし。響さんはもう少し、肌のぬくもりに甘えてもよろしゅうございます」
「えっと……」
 今の話と甘えることがどうつながるのか。
 訳が分からず目を回す俺の頭を、逸美さんがゆったりとした手つきで撫でてくる。
「……こんな風に慰められたことがありませんの?」
「いえ……その、何と言えばいいのか」
「あら、抱きしめられたことがある? うふふ、愛らしい姿をなさっているのに、響さんも隅に置けませんね」
「ち、ちが……ぃ……ます……」
 否定しようとして過ぎた記憶の一部が突然、どっと再生される。
 恥ずかしさで顔から火が出そうになりながら、最後に残った記憶の余韻にためらう。
(……アレンさん)
 はじめてステージで歌った時、うまく歌えなくて悔しくてたまらなかった。
 送ってくれると言ったアレンさんに甘えて、抱きしめられたまま泣いた記憶が最後に再生され、恥ずかしさと同時に懐かしさが込み上げる。
 家族である神音以外にはじめて、直に触れて俺を受け入れてくれた。
 もうずいぶん長い間、アレンさんと会っていない気がした。
 実際は仕事場で会っているんだけど、俺がまともに仲間たちの顔を見ていないから、会った気がしない。
 急に会いたい想いが込み上げてきて、でもバイトがあるからと、身勝手な気持ちを押し殺した。
 すると逸美さんは俺の体を離すと、指で俺の胸に触れた。
「今日は遙香ひとりで十分。響さんはいま想い描いた人と、ゆっくりお休みしなさい。それが本日のお仕事です。よろしゅうございますね?」
「……でも……」
「言い訳は許しませんよ。響さんの顔色を見たら、お客様が逃げてしまう。お店にとっても損害ですよ……休みなさい、響さん」
 そこまで言われては勝手を言うわけにはいかない。
 俺は逸美さんに頭を下げて、事務室を出た。
 バックヤードを通って帰ろうとしたら、八代さんと呉羽さんが揃って事務室を覗いていたらしく、俺と目が合って慌てて散って行った。
「八代さん」
「な、なんや」
 給湯スペースでコーヒーをカップに注ごうとしていた八代さんに呼びかけると、慌てているせいでコーヒーが半分外にこぼれていることに気づかないまま、八代さんが振り向く。
「ご心配をおかけいたしました。すみません……そして、ありがとうございます」
 頭を下げてから、指でカップを示す。
「こぼれてますよ」
「……うわっ、ヤバイ……また逸美さんに怒鳴られるっ!」
 床にこぼれ落ちたコーヒーを拭こうと腰を下ろす八代さんに、もう一度頭を下げてから店に出ると、遙香さんがいたので同じようにお礼を言った。
 そっけない遙香さんの見送りを背に、店を出てしばらく歩く。
(……久しぶりかも、こんな風にゆっくり歩くの……)
 仕事にボイトレ、バイトに家事に、業界や音楽についての勉強はもちろん、いま流行っているものなども見ておけと言われ、映画やテレビ番組も見て、本も読んでいる。その時間を作るために、いつも急ぎ足でいた気がする。
(……会いたいって言ったら、またユリエルに怒られるかな)
 スマフォを取り出して、登録している連絡先から目当ての人を探す。
 逸美さんに言われたからだろうか。とても会いたくてたまらない。こんな風に会いたくなる衝動なんて、樫部と会えなくなってから感じたことがない。
 もしかしたら樫部以上に切望しているかも。
 見つけた連絡先に電話をしようとした時だった。
「片平響さんですね」
「え……っ、!」
 目の前に人が立ったと同時に名前を呼ばれ、立ち止まった瞬間に横から腕を掴まれ、思いっきり引っ張られた。
(何っ!)
 何が起きたのかもわからない、一瞬の出来事だった。
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