我恋歌、君へ。(わがこいうた、きみへ。)

郁一

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第三章

我恋歌、君へ。第三部 9:滑降

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 家を空けていた間に溜まっていた物を片づけるのは、一日二日では終わらない。
 さらに仕事をしながらだから、毎日目が回るような忙しさだった。
 ツアーが終わってから一週間が過ぎようかと言う頃、ジュノさんのトレーニングを終えて自宅マンションに帰りついた俺は、さすがにちょっと疲れたなと座りこみたくなった。
(まだ駆け出しなんだから、文句言えないけど)
 富岡さんにメンバー全員が招集をかけられて、告げられたデビューシングルの売り上げは基準点は何とか超えていたものの、期待値には届かない結果だった。
「まぁ、最初はこんなものだ」
 いつもの無表情だったけど、富岡さんがこの結果に満足してはいないことだけはわかった。
「そんなに落ち込まないで下さい。デビュー曲でここまでの売り上げを記録できるなんて、最近ではあまり見かけません。慢心しないようにあえて富岡プロデューサーは高い目標を設定しているだけなのですから」
 松木マネージャーはそう慰めの声をかけてくれるものの、やっぱり責任を感じずにはいられない。
 ずきん、と重く痛む眉間を指で押さえて、軽い眩暈が治まるまで目を閉じて待つ。
 ツアーが終わった夜、冷たい夢を見てからあまり眠れていない。
 高校卒業前にアレンさん宅へ泊めてもらっていた間も睡眠が浅くなっていたから、そう言う体質なんだとあきらめて、不快な症状と付き合っている。
体に圧し掛かるような疲労感が不意に重みを増して活動を邪魔してくれる。
(何だろうな……まったく)
 実家にいた頃はこんなにも眠りが浅くはなかった。家事やら宿題やらとで睡眠時間が短かったせいもあるけれど。
 ため息に疲労を載せて吐き出し、ほんの心持ち軽くなったように感じる体で立ち上がる。
 靴を脱ぎキッチンへ行き、買いこんできた食材を片づけていたら、部屋のドアが開く音が聞こえた。
「あ、おかえり。早かったな、神音」
 だいたい夕方を過ぎないと帰って来ない神音が、今日は珍しく早めに帰って来たんだと俺はいつも通りに話しかけたのに、返事がない。
 変だなと振り返った俺は、キッチンの入口に立つ人の姿に凍りついた。
「……なぜ、おまえ……ここにいるの」
「…………か、あさん」
 もう一年以上、会わずにいた母親がそこにいて、怒りに歪んだ顔で俺を睨みつけていた。
 きゅっ、と胃が引き絞られたような痛みを覚え、そっと手で押さえる。
「まったく、どこまで神音のお荷物になるつもりなの? こんなところにまで付いてきて、いい加減自覚しなさい、あんたは神音の邪魔にしかならないのよ」
「……邪魔なんて……」
「何、何て言ったの? おまえ、自分が何かを主張する権利があるとまだ思っているの?」
 母親が冷やかに笑った。その顔は確かに俺と血のつながりを感じさせるのに、温もりはかけらも見当たらない。
「あの時、ごみ箱の中で死んでくれたらよかったのに」
「……ごみ箱って……」
 どくん、どくんとこめかみで強く脈動する音がして、母親の声が聞き取りにくくなる。
「都合よくお忘れのようだけれど、おまえは
ごみ箱に捨てられていたのよ。わかる? ごみなのよ、おまえは」
「……っ」
 喉を見えない手で絞められているかのように息がうまく吸えなくて、変な音が喉から漏れてくる。
 全身に悪寒が走り、強張って思うように動けなくなってきた。
 そんな俺を見下す母親は、相変わらず冷たく微笑んだまま。
 気がついたらその足元にひざをつき、うずくまる俺がいた。
「おまえに価値なんて何ひとつないの。本当なら生かしておきたくもないけど私が殺したら私が罪に問われてしまうでしょ……馬鹿らしいわ。海外で迷子になった隙に事故に遭ってくれたらと思ったけど、変態にいたずらされただけで生きて帰ってきて……仕方がないから家に置いてやっていたのに、使えないったら……おまけに思い上がって神音と一緒にいるなんて。私が間違っていたわ、どんな手を使ってでも消しておくべきだった」
 視界に星がちらつく。暗くなった視界では母親の表情がよく見えない。
 ただ声だけが呪詛のようにくり返し耳に注ぎこまれる。
「あぁ、ごめんなさい。神音、私が見張っていなかったばっかりにこんなことになって。可哀想な神音……こんな能なしに付きまとわれて、さぞかし苦労しているでしょうに」
「……ち、が……ぅ」
 苦しい息の中で言い返すも母親には届かない。
 小学校から高校まで、遊ばずに帰宅して家事をして、休日だってどこにも行かずに尽くしてきたのに。
 息苦しさと悔しさで涙があふれ、堪えきれなくて目からこぼれ落ちていく。
母親が近づいてきて、うずくまる俺の肩に足をかけ、蹴り飛ばした。
 床に転がる俺を嘲笑い、母親が玄関を指差した。
「いますぐここから出て行きなさい。もう姿を見せないでちょうだい」
「…………」
「……あぁ、でもおまえに今までかかった費用は返して欲しいわ。毎月五万ずつね」
 さぁ早く、と睨みつけてくる母親は反論を許さず、無言で催促してくるばかり。
 凍りついて動かない体を懸命に動かして立ち上がり、母親の横を通り過ぎて玄関へ向かう。
 母親が俺の背中を睨みつけて、戻ってこないように見張っているようだ。
 とにかく一度、部屋から出て行かないと母親が満足しないだろう。
 痺れた心を抱えて、重いドアを押し開く。
 外に出たとたん、閉まったドアに内側からカギをかける音が響く。
「…………」
 出先から戻った状態のまま、買い物の片づけを優先していたのが幸いして、スマフォや財布はカバンに入っている。
(……母さん、今までも神音の世話をしに来ていたんだな……)
 海外研修やレコーディング、ツアーと忙しくしていたから、今まで顔を合せなかっただけなんだろう。
 思えば時々、違和感はあったんだ。
 ほんの小さなこと。例えば食器用洗剤の置き場がいつもと違う位置にあったり、買い忘れていたはずの食材が足されていたことも。
(……神音に何て言おう……)
 一緒に暮らそうと言ってくれたのは神音の方からだったし、家賃の負担が減るのでとても助かっているのに。
 曲作りに関しても、すぐ近くにいるからこそ出来ることも多くて、次回のアルバム制作時に使いたい曲がいくつか、すでにこの部屋で生まれて、世に出る時を待っている。
 本当はここから出て行きたくない。
 ようやく手に入れたと思った我が家だ。
 どこに行くあてもなく、マンションから出て周辺を彷徨い歩く。
 すれ違う主婦や、犬を散歩させているお祖父さん。通りすぎるバイク、ランドセルを背負った子どもたち。
 それらすべてと見えない壁に隔たれ、距離が開いたように感じる。
 すべての音が捻じれて、不気味に反響する。
 眩暈に足元を掬われてよろけた。
「……っ!」
 倒れそうになって、慌ててそばのレンガ造りの花壇に手をき屈みこむ。
(……何で俺だけ?)
 同じように生まれ、同じ場所に育ち、父親はふたりを隔たりなく愛してくれたと思う。
 父方の祖父母も、小さい頃は見分けがつかないと困っていたけど、どちらかを差別することもなかったのに。
 母親は冷やかな目で俺を見下していた。
 父親や他人の目がある時や、利用できる時は良き母親を演じて、だれもいなくなれば突き放して。
(どうしよう……これから、どこへ行こう)
 まだ頭がふらふらしている。
 ゆっくり民家の塀や柵にすがりながら歩いて、少しずつ呼吸も楽になってきた。
 どこに歩いているのかも意識せず歩いていたけれど、立ち止まってよく周囲を見てみたら、最寄駅のすぐ近くまで来ていた。
(……電車が来る……)
 何も考えず、近づく電車の音につられて改札を通り抜け、ホームにいた電車に乗り込む。
 空いている座席に腰かけ、通りすぎる景色を眺めた。
(……疲れたな……)
 高校卒業前に母親と祖母の会話を聞いて以来顔を合わせることがなかった母親と、まさか直接向かい合うことになるなんて、まったく考えていなかった。
 心構えもできていないままの対峙だったからこそ、深く抉り取られたような空虚感が全身を蝕んでいる。
(……何も、考えたくない)
 虚ろに窓の外を眺め続け、気がつくと電車が止まっていた。
 車内アナウンスが終着駅だとくり返し伝えてくる。
 最寄駅から終着駅までの間に、事務所のある駅があったはずが、ぼんやりしている間に通りすぎてしまったらしい。
 終着駅まで来たのは初めてだ。とりあえず電車から降りて駅舎の外に出る。
 駅の外は見慣れない景色で、どこに何があるのかわからない。
 当然行く当てなんてないから、とにかく気が向いた方へふらふら歩きだした。
『おまえはごみなの』
 急に母親の声が鮮明に頭の中で響き、足から力が抜けて俺はその場にへたり込んだ。
(……ごみ……)
 急に自分自身がどす黒く、汚れきった存在に思えた。足元に落ちていた飲料のラベルみたいに。
 気の迷いだとわかっていても、すれ違った人の目が母親と同じ冷たく蔑んだ色に染まっている気がした。
 俯いて人の目を避けたところで、スマフォが着信を知らせた。
『響~今どこにいるの、まだ帰れそうにない? デパ地下で惣菜が割引きしてて、あれこれ買ったらいっぱいになっちゃってさ。一緒に食べようよ』
 神音の元気な声が聞こえて、複雑な心境になりながらそっと聞いてみる。
「部屋には神音だけ?」
『? そだよー。何、どうかした?』
「ううん……何でもない」
 どうやら神音が帰宅するより前に母親は帰って行ったようだ。
 部屋を出るにしても、一度戻ってちゃんと準備したいから一旦部屋に戻ることに決めた。
 電車に揺られながら、ふと疑問がわいてくる。
もし神音と別々に暮らしたとしても、神音と一緒に活動し続けることを、あの母親が許すだろうか。
(許さないとしたら……あの人は何をするだろう)
 むしろ、すでに何かしていたとしたら。
 言い知れない予感に、体が震えて止まらなかった。
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