我恋歌、君へ。(わがこいうた、きみへ。)

郁一

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第三章

我恋歌、君へ。第三部 8:終わり

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 最後の公演会場がある東京に戻ると、メンバー各自が自宅へ戻り、細かい仕事を挟みながら最終公演の日に備えた。
 公演二日前、懐かしい友人から電話がかかってきた。
『よぉ~元気そうだな、片平』
「真柴……久しぶりだね」
『おう。噂で聞いたぜ、海外に行ってたんだって? すげぇな』
「あ、でも研修みたいなものだったから……ところで真柴はいま何をしているんだ?」
『しがない大学生をやっている……と言いたいところだが、聞いて驚け。おれはあの『scream』を編集している出版社でアルバイトしているのだ!』
 得意そうな真柴の声を聞きながら、遠い記憶を掘り起こす。高校時代、『i-CeL』に入ったばかりの俺に声をかけてきた女の人がいたっけ。
 真柴に教えられた音楽雑誌の名前が確かそれだった。
「へぇ~すごいな」
『あ、おまえちょっと馬鹿にしてない?』
「してないって。よく入れたなぁ」
 あの後、音楽雑誌をいくつか読んで少し知識は増えたけれど、真柴に言われなかったら興味を持たなかったかもしれないと思っている。
『うふふ、ちょっとばかり片平さまのお力を拝借いたしまして……変な意味じゃないぞ。おれはおまえの一件で、正確に情報の線引きをする重要性を学んで、それが採用につながったと言う意味だぜ?』
「あはは、疑ってないよ」
 苦い思いも味わった高校生活で、その原因の一端にもなった友人はいまでも罪悪感を覚えているようだ。
 だけどこうしてお互いに話をすることができるのは、終わったことだと思えるから。
 おおざっぱにお互いの近況報告を済ませると、話題は変わってライブの話になった。
『明後日がツアーの最終日だよな? おれ仕事で入れてもらえないかな~と期待してたのに、無情にもアルバイトにはお慈悲がないのな。しゃあないから自費でチケットを購入させていただきましたよ』
「ははぁ~ありがたき幸せ」
『ふむ。せいぜい励むがよいぞ……なんてな! 忙しいところ邪魔して悪かったな。元気そうな声を聞けて安心した。がんばれよ、最終日』
「うん……ありがとう」
『学生から金を巻き上げたんだからな。責任持って楽しませてくれ。じゃあな!』
 相変わらず勢いのある奴だな、と電話を切りながら笑う。
 卒業して間もなく海外へ飛ぶ羽目になり、戻ってきてからは怒涛のようなスケジュールをこなしてきたから、振り返ってみれば今日まで真柴と電話で話せるような余裕はなかった。
(よく調べたな……)
 番号は引越して間もなくメールで知らせたものの、俺のスケジュールを詳細までは知らないだろうに、このタイミングで電話をかけてきたのは真柴がいろいろ調べた上で、狙ってかけてきたのだと思った。
「……さて、もう少しがんばろう」
 友人との会話は活力を生み出してくれたようだ。
 少し疲れていたけれど、電話を終えたらすっかり吹き飛んだ気分だった。
「時間は大丈夫かな……先生のところへ行って来よう」
 今日はこの後仕事の予定は入っていない。
 だけど公演は明後日だから、ボイストレーナーのジュノさんに会いに行こうと思いついた。
 日本に戻ってきて、レコーディングの前はもちろんツアーの前にも、ジュノさんに指導を受けている。だから俺は先生と呼ぶようにした。
 区切りをつけたかったし、何よりもジュノさんに指導してもらうようになってから、自分でもわかるほど変化することができた。
(片づけは絶望的なセンスの人だけど、歌に関しては素直に尊敬する)
 ジュノさんは相変わらず服装は皺くちゃだけど、無精ひげはほとんどなくなり、前よりも健康的な肌になってきた。
(お土産持って行こうかな)
 一応買ってみた土産の菓子を持ってジュノさんに会いに行く。
 受け取ったジュノさんは素っ気なく、ぽいっと土産をピアノの上に放り捨てると、今日もまた手厳しく指導をしてくれた。
 帰り際、振り返った室内で少しだけ照れ臭そうな顔でお土産を開いているジュノさんの姿が見えて、小さく笑った。
 そしていよいよ最終公演を迎え、会場に辿りついた俺はその場に立ち尽くしてしまった。
(……お、大きい……)
 松木さんの言葉に甘えて、神音と俺、八代さんが松木さんの車に同乗して来たのだけれど、窓から会場が見えた時に息が止まり、心臓が凍りつくかと思った。
 ツアーの会場はライブハウスが多く、前回の横浜はかなり広めだった。しかし今日の会場はそこをはるかに上回っている。
 背後で車から降りた神音が会場の外観を見上げて、ひゅぅ~と口笛を吹く。
「いやぁ~、ようやっとここまで来たって感じだね。今日はとびっきり楽しめそう♪」
「…………」
 上機嫌で弾む足取りの神音が宇宙人のように見えた。ちらっと横を見たら八代さんも同じように顔色を無くして、神音を遠い目で見ていたから同じ心境だったと思う。
 前回よりもさらに入り待ちをしてくれていたファンの数が増えており、俺は神音の背中に隠れるように歩いた。
「きゃ~、カノンさま~っ!」
「カノンさま、こっち向いてぇ」
「はぁい。今朝も早くからありがと♪」
 相変わらずサービス精神旺盛な神音の声を背に聞きながら、スタッフに誘導されるままに通用口に飛びこむ。
 背後を振り返ると、神音がファンへ手を振りながら通用口に入るところだった。
 来たばかりなのにすでに疲れて、ぐったりしている俺に、神音が不思議そうに首を傾げている。
「……本当に双子なのか、俺たち……」
「同感やで……」
 俺と八代さんが肩を落としながらため息をつく。
「さぁ、楽屋へ向かいましょう」
 一番最後に入ってきた松木さんが俺たちに気づいて、ぱんぱんと手を叩いて催促してくる。
 もうひとつため息をついて、楽屋へ向かう。
 途中ですれ違うスタッフたちに挨拶しながら、用意された楽屋入口にはちゃんとバンド名が張りだされている。
(……毎回これを見ると胸に沁みるものがあるんだよなぁ)
 当たり前と言ったら当たり前のことなんだけれど、俺がいてもいいと認めてもらえるような気がするのだ。
 感傷に浸っていたら、神音がひょいっと横をすり抜けて先に入ってしまう。
「おっはよ~……あ、まだだれも来てなかった」
「うん、でもすぐに来るよ」
 楽屋に入って準備にとりかかると、言葉の通りに三十分もしないうちに文月さんとアレンさんが入ってきた。
 とたんに忙しい雰囲気がいっぱいになった楽屋の隅を借りて、壁を利用したストレッチをしながら考える。
 今日も横浜と同じく、神音の伴奏だけで歌うことが決まっていた。
 他の曲を歌う時も気合いは必要だけど、特にキーボードだけで歌うとなると、また別の難しさがある。
 ただ二回目ともなれば多少は緊張が薄れるかと期待していたのに、むしろ今回の方が緊張しているのは意外だった。
 原因は経験したことのない会場の広さだ。
「やることは変わんないよ。最高の演奏をするだけさ」
「……それはそうなんだけどね……」
 けろっと平気そうな顔の神音に言われても、とっさに返す言葉に迷う。
 まさかデビューしたての新人バンドが、最終公演とは言えど、こんなに広い会場を用意してもらえるとは思ってもいなかったのだ。
(だってここ、俺が経験したライブの中で群を抜く広さだよ? 初体験なのに緊張しない方がおかしいって!)
 音の広がり方がまるで違う。
 客席数はもちろん、ステージと客席の配置も違うし、設備や照明も立派で、スタッフの数も多い。
 前日に様子を見に来ておくんだった、と迂闊さに唇を噛む。最後まで辿りつけたことに油断していたのかもしれない。
 今夜はまるでツアー初日に戻ったような気分だった。緊張しすぎて気持ち悪くなっているし、心臓が激しく鳴って変な汗が出てくる。
 いつもより念入りに発声練習を重ねても、声が硬いままだと自分でもわかる。
 リハーサルに臨んだ時も思ったように声が出せない。変に汗をかくからマイクが滑りやすく、落としてしまったり、慣れたはずのコードだらけの場所で、つまずいて転びかけたりもした。
 これで無事に歌いきれるだろうか。
 さまざまな音や指示が入り乱れ、慌ただしさに満ちているリハーサル特有の空気が、さらに心を削ぎ落としていくようで。
(……この場所でいままで通りに歌える自信がなくなってきた……)
 一向に震えが止まらない足を掴んで、どうにか止めようとしていると、不意に真柴の声を思い出した。
『楽しませてくれよ、片平』
 真柴に限らず、チケットを買ってくれた人の多くは学生で、その他のお客もさんもいろんなものを我慢して貯めたお金を使ってくれたのだ。
 目を閉じて深呼吸をする。
 飛び交う怒声にも近いスタッフたちの声、調整するために鳴らしているベースやギター、ドラムの音が空気を揺らす。
 ピリピリと肌が痛みを感じるほど、だれもが張りつめた面持ちで駆け回っている。
 間違いがないように。より良い演奏を聞いてもらうために。
(……心臓が痛い……)
 彼らの努力を無駄にするもしないも、俺たち次第だ。
 そのプレッシャーは回を重ねるごとに増していく。はじめは無我夢中で気づけなかったことに、意識が向くようになったからだと思う。
 これは俺が背負うべきもので、忘れちゃいけないんだ。
(この道を行くと決めたんだから)
 どうにか気持ちを落ち着かせてステージを下り、スタッフに礼を言ってから楽屋へ戻る。
 ところがいつもより緊張しているのは俺だけじゃなかった。
「あ~ぁ、これは完全に逝ってるねぇ」
 呑気に頬杖をついて、八代さんの頬を指先で突いているのは着替え終わったアレンさんだ。
 すっかり風邪は治ったようで、髪の艶やかさもいつも通り。相変わらずモデルのように衣装を着こなしていらっしゃる。
 呆れた顔でアレンさんが眺めている先では、八代さんが口をぽかんと開けて天井を見上げている。
 その顔色はメイクをしていても青白いとわかるので、きっと素顔は真っ白になっていると思われる。
 俺は胃のあたりをそっと手で押さえ、八代さんの姿はそのまま俺の姿でもある、と共感していた。
「まったく、少しは慣れたかと思ったのに。今夜はいつになく酷いね」
「まったく、呆れてしまいます」
 神音と文月さんが会話する声も聞こえない八代さん。そして俺もほとんど上の空です。
 一応衣装に着替えてはいたけれど、八代さんの全身が硬直している。
 そんな様子でベースが弾けるのかと不安になっていると、神音がペットボトルのお茶を持って近づいてきた。
「う~ん……せめて指先だけでも揉んでおいた方がいいかなぁ」
「ヤッシー~とびきり可愛い女の子を目撃しましたよ。あの子は絶対にヤッシーの好みです。見に行きませんか?」
 開場時間前なのに集まっているお客さんを見に行っていた文月さんが八代さんの耳元に手を当てて叫んだけど、八代さんは遠い目をしたままだ。
「……面白いこと思いついた」
 神音が八代を見て何やら考え込んでいたが、いきなり指を鳴らすとうれしそうな顔で何かをはじめた。
 気持ち悪さをこらえながら、神音たちの様子を眺めていると、次第に何をしようとしているのかがわかって、笑いたい気分になった。
 どこからだれが持ち込んだのか。アニメのお坊さんみたいなカツラを八代さんに被せ、衿元に赤いヒラヒラのついたヨダレかけをつけていく。
 そして凍りついている八代さんの前にあるテーブルに差し入れでもらったマドレーヌなどのお菓子とペットボトルのお茶を置いた。
「では」
 神音の一言を合図に、八代さんの向かいに三人が座り、両手を合わせて拝みはじめたのだ。
 その姿はまるで道端のお地蔵さんに手を合わせているようで、八代さんの焦点が少しずつ戻ってくると、いきなり立ち上がった。
「……って、何しとんねんっ!」
「おわぁ~気づいちゃった!」
「気づくに決まっとるやろ! あぁ……何ちゅうもんを被せてくれたんや……いまどきお笑い芸人ですらこんなん被らへんて」
 眉尻を思いっきり下げて、心底情けない顔になった八代さんが、渋々鏡の前に戻ってヅラを脱いでヘアスタイルを直そうとする。
 気づいたスタッフが手伝ってくれる。
 その背後で悪戯を思いついた神音を筆頭に、アレンさんと文月さんが腹を抱えて笑っていた。
 しかも文月さんの手にはスマフォがしっかり握られている。
(まさか、写真とか動画を撮ったりはしてないですよね、文月さん)
 何はともあれ復活した八代さんが、しっかり準備を終えた頃に、スタッフが呼びに来た。
 全員が立ち上がり、ステージへ向かって歩き出す。ステージへ昇る手前でいつものように円陣を組むと、アレンさんが全員の目を見てから頷いた。
「ツアーは今夜が最後。泣いても笑っても失敗しても成功しても、今夜は今だけ。さぁ、楽しんで行くよ!」
 気合いを入れてステージに飛び出せば、迎えてくれた観客からの声援はもちろん、目が眩むほどの照明に一瞬だけ自分がどこにいるのかを忘れた。
 薄暗い客席を埋めつくす人々が投げかけてくる視線が重く、どっと全身に圧し掛かってきた。
 どこで歌っていても、最初に必ずこの感覚に襲われる。
 期待と言う名の重圧。
 それに負けないで立っていられるのは、後ろに仲間たちがいてくれて、この場にいなくても俺を支えてくれる人たちがいるから。
 失敗したら、と思わない時はない。
 だけど歌いはじめればそれも忘れられる。
 難関の神音との共演も、その他の曲も最後の一音まで気を抜かずに歌いきった。
 汗まみれで正直、いますぐ服を脱ぎ捨てたいほどで、息は切れて苦しいくらいだし、立っているのも辛いほど体力は奪われて、疲れきっていたけど。
(終わった……)
 客席から贈られる拍手の波と、照明がわずかに照らす観客たちの名残り惜しそうな表情を見ていたら、歓喜がひたひたと疲れ切った体に満ちてくる。
(……終わったんだ……)
 やり遂げた後の爽快感が体中を駆け抜けて、外に飛び出して行きそうだ。
 その勢いのまま、メンバー全員でステージ上から観客席へお礼をして、俺はもう一度客席を見渡した。
 俺がマイクを構えると、横から神音が飛び付いてきて肩に腕を回し、顔を近づけてほぼ同時に同じ言葉を叫んでいた。
「ありがとう!」
 ヒートアップしたまま弾けた余韻が残る会場の空気は、俺たちがステージから下りた後もなかなか薄れなかったそうだ。
 公演を終えて楽屋に戻ると、高すぎた緊張感が抜け落ちた反動で、体の中からすべての臓器がごっそりと抜け落ちてしまったかのような、倦怠感に襲われた。
(……俺いま生きてるかなぁ……)
 このまま眠りたいと体は訴えているけれど、テンションが上がっているのか眠れそうにない感じがする。
 現実問題として、ツアーが終わったら仕事が終わりではなく、これから打ち上げとしてツアースタッフや興行を支援してくれた人たちにお礼をして回る仕事が残っている。
 法的に酒が飲めない俺と神音に配慮して、会場に選ばれたお店は居酒屋よりは食事に重点を置いた洋風レストランだった。
 夜はお酒も提供してくれるそうで、疲れているわりにはテンションが高いメンバーたちはもちろん、ツアーを支えてくれたスタッフたちも次々に酒を注文していた。
 開始間もなく、貸し切った店の中は人で埋めつくされ、だれがだれなのかもわからず、すぐそばにいる人の声すら聞こえないような騒ぎとなった。
 重い体を引き摺り、お世話になったスタッフや関係者に酒を注ぎながらお礼を言って回る。
 ふと視界の片すみに、本番前に八代さんが被っていたあの坊主カツラが映り、確かめて見るとあの富岡さんが被っていた。
「……っ!」
「あれ? どしたの、キョウちゃん」
 音響を担当していたスタッフが、赤い顔で俺を見上げて、視線の先に何があるのかを確かめた直後、俺を同じように絶句していた。
 まるで文学青年みたいに知性に満ちた富岡さんが、いつも通りの無表情に坊主カツラを被っている光景は、悪い夢を見ているような気分にさせる。
「ちょっと失礼します」
 スタッフに断ってから富岡さんのとなりへ移動すると、淡々とカシスオレンジにストローを刺して飲んでいた富岡さんが、ちらっと横目で俺を見た。
「お疲れ様です……ところで、なぜそれを被っているんですか?」
「あぁ、これはモーチンの土産だ。盛り上げるべき場所では被っていろと言われたが、どうだ?」
 一ミリも楽しくなさそうな無表情で、どうだと言われても何も言い返せない。
(相変わらず、あの人の趣味もよくわからないなぁ……)
 いきなりイギリスに渡ることになった時、世話になった歌手のモーチンさんは、空港でも変なカツラを買っていたな、と遠い目で富岡さんの無表情を見返すしか出来なかった。
 すると富岡さんの向こう隣にアレンさんが現れ、静かに腰を下ろした。
「お疲れさまでした。そしてご迷惑をおかけして、すみません」
 アレンさんが深く頭を下げて謝罪した。
(あ、前回の公演のことか……)
 風邪を引いて出演が危ぶまれた前回の公演で、何とか無事にやり遂げることはできたものの、事前に心配させたことについて謝っているのだと気づいて、俺も慌てて頭を下げる。
 富岡さんはカシスオレンジを両手で握ったまま、感情のない目をアレンさんへ向けた。
「全くな……だが、そのおかげでキョウの自覚が芽生えたとも言える。怪我の功名だろう。奴に免じて、今回は良しとする」
「ありがとうございます。響くんもね」
 アレンさんがもう一度頭を下げた後で、俺に向かってほわんと笑った。
 その後も人が入り乱れ、打ち上げは続いたけれど、俺は目を開けているのが辛くなってきた。
 かくん、と頭が落ちそうになった姿を見られたのか、アレンさんがまた近づいてきた。
「響くん……オレたちは先に帰れって、富岡さんからのご命令」
「……あ、はい……」
 眠い目を擦りながら時刻を確認すると、終電がなくなりそうな時間だった。
「神音と響くんはオレが送ってくよ。それでは、お先です」
 荷物を手に、慌ててアレンさんの後を追って店を出る。車の脇には神音がすでに立って待っていた。
「うへぇ……みんな元気だよねぇ。さすがのぼくも、いい加減へとへとだよ~」
「お疲れ、神音、響くん。さぁ乗って」
 今夜も車だからと飲酒をしなかったと言うアレンさんが、車を発進させると間もなく神音が俺にもたれて眠ってしまった。
 後部座席に並んで座り、神音の重みを感じていると俺も意識があやふやになって、夢の淵を漂うような心地になる。
 アレンさんはそれがわかっているからか、話かけてくる気配はない。
 淡々と走行する車の中に響く音に、さらに夢へと近づく。
 真っ暗な闇の中、心地よく沈んでいくはずの意識は、深くなるほどに冷たさに包まれる。
(……何……?)
 不快さに身動ぎしても眠ろうとする意識が覚醒する気配はなく、どんどんと深みへ落ちていく。
 やがて冷たく暗い闇に意識が完全に沈みこむと、音がすべて消えて肩に感じていた神音の重みもなくなった。
 無音の闇に漂っていたら、遠くから光が近づいてくることに気づいた。
 ロウソクの火みたいに小さかった光が、近づくにつれて大きくなり、やがて光の中に男がいるのが見えた。
 痩せてぼろぼろの服をまとう男は、うずくまった状態で落とし物を探すように手を動かしていた。
 その時、夢の温度がさらに冷たさを増した。
(……いやだ、ここから出たい……目を覚ませ、ここは嫌だっ!)
 夢だとわかっているのに、夢から覚めたいのに目覚めることができない。
 光はさらに近づいて、男に手が届くほどになり、何をしているのかもわかって。
「響っ!」
 神音の叫び声が聞こえたとたん、夢が一気に消えた。目を開けると心配そうに顔を覗きこんでくるアレンさんと神音が見えた。
「家に着いたよ。帰ろう?」
「…………」
 答えようと思ったけど喉が渇いて引きつるような痛みを覚え、頷くことで返事に変えた。
 なぜだか心臓が激しく鳴り響き、全身に汗をかいている。まるでステージを下りた直後のような量で、神音に支えられても膝が崩れ落ちそうな疲労感が体中に満ちていた。
(……何で……?)
 夢を見ていたことは覚えているけれど、何を見たのかが時間が経つほどに思い出せなくなっている。その代わり、少しずつ現実を思い出して、ツアーが終わったんだったと思い出すことができた。
「……すみません。送っていただいたのに、眠ってしまったみたいで……」
「気にしないで。ここは帰り道の途中だから、ついでだよ。それより響くん、ゆっくり休んでね」
 アレンさんが物言いたげな表情をした後に、優しく微笑んで俺の頭をさらっと撫でた。
「……今回は響くんにも迷惑をかけてごめんね。とても助かったよ……ありがとう」
「そんな……俺は、たいしたことはしていません」
 神音が急かすように俺の手を引いた。
「困った時は何とやら。終わり良ければってことで、さっさと帰って寝ようよ、響」
「あ、うん……送っていただいて、ありがとうございました」
「お休み」
 もう一度お礼を言ってから、神音と部屋に戻る俺の背中にアレンさんが手を振っていた。
 部屋に戻ると、神音が盛大に伸びをする。
「う~ん、さすがに疲れたね~。片づけは明日にして、もう寝よう」
「……そうだね……」
 神音に同意しながら、俺は漠然と眠るのが怖いと感じていた。
 歯を磨いて着替え、ベッドに入ってもその感覚は変わらず残っている。
(疲れているのに……)
 横たわっていると体は疲れているので眠ろうとするけれど、眠ったとたんにはっと意識が引き戻されるように目が覚める。
 その間はあまり時間が経っていない。
(……眠れない……)
 どうしてなのかわからないが、俺は朝までわずかな睡眠と覚醒をくり返した。
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