我恋歌、君へ。(わがこいうた、きみへ。)

郁一

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第三章

我恋歌、君へ。第三部:15 掛け違いの日常

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 翌朝、迎えに来た神音の顔色はだいぶ明るくなっていた。
「帰ろ、響」
 こくん、と頷いて神音やアレンさんの手を借りながらベッドを下りる。
 着替える時に事件が残した痕跡がもう一つ発覚した。痺れは指先にも残っていてシャツのボタンを留めるだけでも時間がかかった。
 当然ながら熱を出して眠り続けていたのなら、起き上がる体力も衰えていて立ち上がるだけでふらついてしまう。
 意識しなくても出来ていた日常生活の中の簡単な動作が出来ないもどかしさに舌打ちしたい気分だ。
 神音はひどく動揺して、もう一晩入院していた方がいいんじゃないかってぶつぶつ呟いている。
 大丈夫だと言いたいのに、相変わらず声は出ない。
(俺はいままでどうやって話をしていたんだろう)
 意識しないで出来ていたことを意識しようとするのは難しいことなんだと複雑な気分と一緒に、神音と暮らす部屋に戻る。
 アレンさんに聞いた話によれば一週間くらいしか離れていなかったはずなのに、部屋に入るととても懐かしい気分になった。
(ただいま……)
 浚われた日の記憶はまだ新しいからか、キッチン周辺に行くとまだ気分が落ち着かなくなるけど、部屋のベッドに横たわると全身から力が抜けてリラックスできた。
(……緊張してたのかな……)
 どっと全身に疲労感が圧し掛かる。
「響、大丈夫……?」
 ドアが開いて神音がひょっこりと顔を出す。
 神音の顔もずいぶん衰弱しているけれど、俺の心配ばかりする神音にこれ以上追い打ちは掛けたくなくて、精いっぱい表情筋を動かして笑ってみせた。
 だけど予想していたよりも事件は深刻な爪痕を残してくれていた。
 何もない場所でもつまずいてしまうし、まるで浚われた日のように、ストンと手足から力が抜けて、倒れそうになる。
 そして、ところ構わず眠ってしまうようにもなった。眠いと感じていないのに、いつの間にか意識を失っている。
 入浴中に眠ってしまった時は、神音に起こされるまで水中に潜った状態だったらしい。 
 こうなると自分でも危機感を覚える。
「いい? ぼくがいない時はお風呂に入っちゃだめだからね。絶対だよ、いいね」
 怖いくらい真剣な顔で神音に念を押されたけど、俺もひとりで入って無事でいられるとは思えなかったから、何度も頷いた。
 退院して一週間が過ぎた頃、神音が作った卵焼きとトーストの朝食を終えると、来客を告げる音が聞こえた。
「あ、ぼくが出るよ。はーい、どちらさん?」
 インターフォン越しに柔らかい声が聞こえてきた。
『おはよう。調子はどうかな、響くん、神音』
「お、アレンじゃん。朝からどうしたのさ。いま開けるから待っててよ」
 慌てて玄関へ向かった神音を見送り、慎重に使用済みの皿を洗っていたら、会話を交わしながらふたりが戻ってきた。
「響くん、おはよう。久しぶりだね」
 アレンさんがふわっと笑いながら、キッチンへと入ってくる。退院した日に送ってもらってから、一週間ぶりに見る姿は以前と同じで安心した。
(病院で見た時は神音ほどじゃないけど、アレンさんもちょっと疲れていたようだから、本当に良かった)
「あ~っ、響がやらなくてもいいのに。ほら、お皿を割って手を切ったら大変だから」
 アレンさんを連れて戻ってくるなり、神音は俺を見つけて目を丸くして、慌てて俺から皿を取り上げた。
「響は座っててよ。アレンはコーヒーか何か飲む?」
 ぐいぐい背中を押されてテーブルに戻された俺は少し不貞腐れる。
(過保護だよ。時間かければ皿洗いぐらい出来るって)
 じろっと神音を睨んでも、皿洗いに戻ってしまった神音は気付かなかった。
「コーヒーとか要らないよ。様子見に寄ったのと、もうひとつお誘いに来ただけですぐに帰るから」
「お誘い?」
 皿洗いを続けながら神音が問い返す声に、俺も頷いて同意見だと主張した。
「今日の午後から、うちで鑑賞会をしようかって話になってね。響くんの体調が良ければ来て欲しいな」
 鑑賞会? と首を傾げる俺の肩に手を置いて、神音がうわぁと声を上げた。
「ひっさしぶりじゃん! いいね、今回はだれが選ぶの?」
「ダイがおすすめの作品を持ってくるって」
「えぇーっ、文月が選ぶのっていつもアクが強いからなぁ……あ、ごめん。響ははじめてだからわからないよね」
 アレンさんと神音の会話についていけない俺に気付いて、アレンさんは苦笑して神音は舌をちょっと出した。
「オレたちデビュー前から、音楽以外の文化にも触れるべきだってことで、定期的にメンバー推薦の映画を集まって見る機会を作っていたの」
「それが鑑賞会なんだけど、たいてい映画の話は少しするくらいで、あとはグダグダと雑談して終わる感じ」
「それでもいいじゃない、たまには」
「……ぼくたち、いつもどこでも似たようなノリだと思うんだけど……」
 複雑そうな顔をする神音に、アレンさんの方が気にしないと笑って神音の肩を叩いている。
(いつもと逆な気がするなぁ)
 でも何だか楽しそうだと思いながらふたりを眺めていたら、神音がくるっと振り向いて顔を覗き込んできた。
「で、響。今日の体調はどう? 顔色も悪くないし、元気そうだけど。鑑賞会、行ってみる?」
「具合が悪くなったらオレがここまで送るから、心配しないでおいでよ」
(ん~今朝はまだ力が抜けたりしてないから、きっと大丈夫だと思う)
 アレンさんへ頷くと、楽しそうに神音が手を叩いた。
 昼まではアレンさんに野暮用があるとのことで、一旦帰って行く。
 神音も仕事を抱えているらしく、ゆっくり洗濯物を干す俺を気にかけながら作曲部屋に戻って行った。
 一枚ずつ掴むのもすんなり出来ない手でどうにかすべてを干し終わると、どっと疲れてしまった。
(今日は一日中、天気は良さそうだな)
 雨の心配をせずに出掛けられるのはうれしいと思いながら部屋に戻り、洗濯かごを定位置に戻そうとしたところで、また突然感覚が遠ざかった。
「……き、響……っ!」
「…………」
 何度も名前を呼ばれて、ゆっくり意識が戻ってくる。目を開けると神音が俺を抱えて、また不安そうに強張った顔をしていた。
(……あぁ、また眠っちゃったんだ……ごめん、心配かけたね)
「響……もうすぐアレンが来る時間だよ。起きられそう? 今日は行くのやめておく?」
 大丈夫と言うことは出来なかったから、起き上がり首を振って、意思を伝えることにする。
 体に神音が掛けてくれたらしくタオルケットが被さっていた。
 周囲を見渡しても洗濯かごは見えないから、片付けてもらったのだろう。
(はぁ……俺いつまでこんな調子なんだろうか……)
 思わず頭を抱える俺の肩に、神音が手を乗せて焦らないでいいよ、と呟く。
 それが神音自身にも言い聞かせているように聞こえた。


 間もなくアレンさんが迎えに来てくれて、かつてお世話になったアレンさんの実家へ向かうと、内側から扉が開いて八代さんが出迎えてくれた。
「よぉ~、響ちゃん、神音もいらっしゃ~い」
 にかっと笑いながら、さりげなく俺の片腕を掴んでくれたのは、倒れないように支えてくれたんだろう。
 リビングへ向かうと文月さんが人数分の食器を用意しているところだった。
 俺たちを振り返ると、すっと目を細めて微笑む。
「いらっしゃい、響君。今日は僕の一押し作品を持ってきました。ぜひ楽しんでくださいね」
 アレンさんと文月さん、それに神音がキッチンへ入ってわいわい騒ぎだした。
「だ・か・ら、文月はそれ以上、入れちゃだめだって!」
「神音はお子さまですね。これくらい平気ですよ。まだまだ足りないくらいです」
「そんなわけないって。すっごい真っ赤になってんじゃん。絶対に辛いね!」
「辛くありませんよ、平気です。ほら」
「……っ、嘘つき! めっちゃくちゃ辛いじゃん!」
「まぁまぁ、神音、ダイも落ち着いて。それぞれ好みの味に調節して食べてくれればいいから」
 小皿に取り分けた料理を文月さんと神音が手分けして運んでくれる。
 テレビ前のテーブルへ次々に並べられる料理は、ピザやスパゲッティの他にもサラダやスープ、ローストビーフなどなど、まるでホテルの豪華ビュッフェみたいに、豊富な量と品揃えだった。
「これ全部アレンが作ったの?」
「まさか。八代とダイも手伝ってくれたよ」
 エプロンを外しながら答えて、アレンさんが最後にソファへ腰かける。
「おれだって料理くらい作れるで」
「……まぁ、スープの具材の大きさが不揃いなのは大目に見て上げましょう」
 文月さんがぼそっと呟くので、八代さんが腰を浮かせる。
「ひどいやん、上から目線っ!」
「あはは。若者相手にムキにならないの、年長者」
 アレンさんが八代さんの肩を叩き、文月さんがにたり、と八代さんへ笑ってみせる。
「では、何回目だったったけ……とにかく久しぶりの鑑賞会をはじめよう、諸君」
「賛成~っ!」
「神音は食べ物が目当てやろな」
「ですね」
「んなことないよ~っ」
「はいはい、好きなだけ食べて飲みなさいな。ちゃんとたくさん用意しておいたから」
 遠慮なく各自が好きな料理に手を出して、わいわい騒ぐ一同を宥めるアレンさんは、まさに『i-CeL』のお母さんだと思う。
 鑑賞会はまず遅い昼食からはじまり、思い思いに会話を楽しみながら食事をしている。
 俺は彼らの楽しそうな様子を眺めながら、少しずつサンドウィッチをかじっていた。
「響くん、食べられる物ある?」
 すかさずアレンさんが気を遣って声をかけてくれたので、こくんと頷いた。
 一週間近く飲まず食わずだったので、退院してから少しずつ食べるようにしていたけれど、まだ全快してはいない。
 だからさすがにピザとか食べられないとは思うけど、匂いを嗅ぐと食べたいなと思う。
(はぁ……いいな、みんな)
 自分で作るより絶対的に上手い、とアレンさんの料理を褒めながら、神音が旺盛に食べている。俺があまり食べないし、神音自身も作るのが面倒なのか、インスタントがメインになることが多く、手料理を食べるのは久しぶりなんだ。
 八代さんも文月さんも、決してがっついた印象は受けないんだけど、結構な量を食べている気がする。
 対してアレンさんはあまり食べていない。
 ソファにいる俺の隣に座って、コーヒーを片手にくつろいでいる。
(食べないのかな?)
 疑問に思って、指先でアレンさんの腕を突き、次に料理を指さしてどうにか意思疎通を試みてみると、アレンさんはすぐに理解したらしく、軽く笑う。
「オレは大丈夫。作っている間に味見としてつまんでいたら、かなり腹に溜まってねぇ……それにあれだけ気持ち良く食べてくれているのを見ていたら、オレも食べた気になるから不思議だよね」
 そして空いた皿は片付けて、残った料理は冷蔵庫に保存し全員が揃ったところで、ようやく映画鑑賞へと移行する。
 文月さんがテレビ画面の前でにやりと笑いながら振り返った。
「皆さんのご期待を裏切らない、選りすぐりの作品をお持ちいたしました」
「ひぃ~、頼むで。ダイの選んだ映画で、おれが楽しめたの、一回もあらへんで。やめてんか~」
 八代さんがクッションを抱えて、まだ本編もはじまっていないのにガタガタと震えている。
 そんな八代さんに文月さんがくつくつと笑い、神音は手を叩いてはしゃいでいる。
(何がはじまるんだろう?)
 少しドキドキしながら画面を見つめて、やがて映し出された映画の内容に、あっという間に俺は八代さんと同じ反応を示すことになった。
 文月さんが選んだのはホラー映画で、かなり怖いと評判だけは聞いたことがあるものだった。
 リアリティ溢れる場面の中でしん、と耳が痛くなるような沈黙。
 主人公の押し殺した息遣いだけが聞こえるような緊迫感が続く中で、かすかな水音がしたと思ったら、大音量の効果音と共に人ならざる物が主人公の上から襲いかかってくる。
(~っ!)
 声が出ない俺の代わりのように、八代さんが大絶叫していて、その隣で文月さんと神音が大爆笑している。
(何でこの場面で笑えるの。神音たちの心臓はどんな構造してるんだっ)
 上手く力が入らない手で、それでも必死に手近にあった布を掴み、見るのを止めたいけど続きが気になる映画を見続ける。
 冷や汗をかきながら映画の中で無事に生き延びた主人公たちを見届けて、ようやく映画が終わった。
(……ふぁ……俺の方が死ぬかと思ったよ)
 まだ心臓がうるさく鳴り続ける胸元を押さえながら息を吐き出すと、隣でアレンさんが小さく笑った。
 何気なくそちらを見て、俺がずっと握りしめていたのがアレンさんの服だと気付く。
(…………うわっ! すみませんでした!)
 慌てて手を離した俺の反応を見て、こらえきれなくなったアレンさんが声を上げて笑いだした。
 何だ何だ、と神音たちが振り返るので、俺はひとり何でもない、といつまでも笑い続けるアレンさんの隣で手を振るはめになった。
「やはりこの監督は期待を裏切らない良質の作品を僕たちに提供してくれますね。ぜひとも見習わなければ」
 満足そうに語る文月さんに涙目のまま八代さんがクッションを投げつける。
「もうダイが推薦する映画は見ない」
「まぁまぁ、そんなこと言わずに。続けてもう一本観ませんか、旦那」
「だれが旦那やボケ。でもって観るわけないやろ~っ」
「こちらも当店一押しの作品となっておりまして……」
 せっせとセッティングしてしまう文月さんに、八代さんが慌てて飛びかかり阻止しようとする。
 あと一歩及ばず、新たな映画が再生されてしまい、八代さんは神音の横に移動してぬいぐるみを抱える代わりのように、神音を後ろから抱きしめて映画を見ていた。
(何だかんだ言って、仲が良いよな、みんな……)
 微笑ましく思いながら、楽しそうに笑っている神音を見て、少し安心した。
 退院した後もずっと気を張っていたから、以前より神音が笑う回数が減っていたのだ。
(……よか、った……)


 すとん、と意識が落ちてしまったことを、目が覚めてから自覚する。
 二本目の映画が再生されて間もないはずが、目を開いたら部屋にはだれもいなくて、ソファの肘置きに頭を乗せるようにして眠っている状態だった。
 体に掛っている薄手の毛布をそっと押しやり、立ち上がろうとしたところへ足音が近づいてきた。
「あ、起きたんだね。ちょうど良かった、夕食が出来上がったところだよ。食べられそうなら少しだけでも食べない?」
 ソファを回って目の前に立ったアレンさんが、俺の顔を覗きこんでにこっと笑う。
 正直なところ、突然すぎる寝落ちと目覚めたばかりの混乱が治まりきっておらず、アレンさんに言われたことがすべて理解できていなかった。
(えっと……)
 まばたきをくり返す俺に、アレンさんがくすっと小さく声を上げて笑った。
「ごめんごめん。いきなりすぎたかな……響くんが気持ち良さそうに眠っていたからね、神音に今晩はオレが預かるよと申告して、許可をいただきました。だからここはオレの実家、みんなで映画を見た場所だよ」
 なるほど。座っているソファは映画を見ていた時と同じだし、暗くなっているけれど部屋のインテリアも同じだ。
(どれくらい眠ってたんだろ……困ったな。夜以外に意識を失うと、夜があまり眠れなくなるんだよなぁ)
 そう思っても急な眠気はコントロールできず、眠ってしまったのは他のだれかのせいでもない。
 ため息をひとつ吐いてあきらめる。
 アレンさんを見上げて、ゆっくり頭を下げた。
「わ、頭なんて下げなくてもいいよ。しばらくはオレしかいない家で、ちょっと寂しいなと思ってたところだから、泊まってくれるならオレの方が嬉しいんだよ」
 いつもなら父親と同居しているアレンさんだけど、海外にいる母親のところへ出掛けているのだと言う。
 留守宅にお邪魔した挙句、片付けも手伝わないで眠りこけ、夕食まで手伝えなかったなんて申し訳なさすぎる。
 床に降りて、深々と頭を下げる俺に、またアレンさんが慌てて止めさせようとする。
(だけど俺、こうなる前からずっと迷惑をかけてばっかりなのに)
 ずきん、と胸が痛む。そっと手で押さえてアレンさんに気付かれないように、小さくため息をつく。
 病院で目が覚めてから、家に戻って神音と暮らす間にも少しずつ溜まっていた目に見えない物が息苦しさと胸の痛みに変わっている。
「とにかく、そんなところに座っていたら疲れるでしょ。ほら立って、食べられなくてもいいから、一緒に席に座っててくれるだけでも」
 アレンさんによって強引に立たされて、連れて行かれたダイニングテーブルの席に座る。
 ごはん、みそ汁に野菜と魚の蒸し物、冷や奴に酢の物、卵とトマトの炒め物がテーブルに並んでいる。
「食べられる物があれば、少しでもいいから摘まんでね」
(ありがとうございます)
 箸を手渡され、受け取りながらもう一度軽く頭を下げた。
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