我恋歌、君へ。(わがこいうた、きみへ。)

郁一

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第三章

我恋歌、君へ。第三部:14 救い手

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 立ち去る松木の背中を見た気がするけど、すぐに意識があやふやになってしまう。
まるでまどろむような曖昧な時間を漂っていると、いきなり突き上げられたような衝撃を覚える。
「は……っ!」
 体中を下から巨大な鈍器で突き上げられたような衝撃の後、意識が焦点を合わせる。
 だけど視界は狭く、そこに映る景色は歪にねじ曲がっていて、色が狂っている。
 木目調だった天井や壁が真っ赤に染まって見え、ところどころ黒い渦が巻いている。
 天井と壁の境目は波打ち、灯りは赤や緑の光が花火のようにちらついて、突然ひどく明るく見えたり、無色に見える。
 痺れていた時と違って、目が定まらないらしい。景色がぐるぐる変わり、しっかり物を捕えられない。
 体のあちこちに爆弾を仕掛けられたように、痛覚が弾けて突然の痛みに体が飛び跳ねる。
 弾けた感覚の後にはねっとりとした熱が体の深部へ広がって、忙しなく呼吸を繰り返しても満足に息を吸えない。
 じっとり汗ばんだ体は痛みと熱に震え、息を吸おうと胸が大きく波打つ。
 シーツを握りしめ、身悶えしていると突然意識が途切れ、次に気がつくと別の部屋に腕を掴まれて立たされていた。
(ど、こ……?)
 赤く暗い部屋は広く、定まらない頭を動かして見回した限り、多くの人が集まっている。
 いくつも並んだソファに散って、座っている人の多くは男性だろう。黒いタキシードらしき服を着ている。
 その顔は視界が歪んで見えない。
 ただだれもが俺を見ているのがわかる。
 肌に突き刺さるような視線を感じた時、覚束ない足からがくん、と力が抜けた。
 腕を掴んでいた男がとっさに受け止め、強引に立たせようとする。
 まるで背骨を抜かれてしまったかのように、ぐらぐら揺れる体をまっすぐ保つことができない。
 見上げた天井には大きなシャンデリアがつり下げられているけど、ちかちかと明滅する赤や緑の光が邪魔して、はっきりと見えない。
 ぼうっと見上げていたシャンデリアから、しゅるしゅると細長い何かが降りてくる。
「……っ!」
 黒い蛇がシャンデリアから降りてきて、俺に巻きつこうとしている。俺は必至に払いのけようと腕を振ったが、手は蛇を通り抜けてしまう。
(なに、これっ!)
 盛んに腕を振る俺を眺めていた男たちが笑っているらしい。さざなみのように笑い声が聞こえてくる。
 茫然とそちらを見る間に蛇は消えて、また体が大きく傾いだ。
 両肩を掴み、抱きとめた男を重い頭を反らして見上げると、目元だけ隠すタイプの仮面をつけている。
 へにょへにょと波打つ視界でははっきりとは見えないけど、男の口元が微笑んだようだ。
 もたれかかる俺の背中を男が撫でる。
 そして引き摺られるように歩かされて、部屋から出ようとしたところで、腕を掴んでいた男の手が突然盛り上がり、蛇へ変化した。
「っ!」
 絡みつく蛇をはぎ取り、逃げ出した俺を男が追いかけてくる。
 何が楽しいのか、声を上げて笑いながら、ゆったりと歩いてくる。
 走れば逃げられるはずなのに、足に力が入ってくれない。
 手をついた床がゴムのように沈みこみ、手を埋め込んでしまう。はっとした次の瞬間にはただの夢に戻っていて、何が何だかわからない。
(……く、るなっ)
 男が近づいて、手を伸ばしてくる。
 這うようにその場から逃れ、俺は壁に爪を立てて立ち上がり、よろめく体で逃げる。
 どうしてだかわからないが、とにかく男につかまってはいけないと思う。
 ただその一念から、転んでは這い上がり、壁にぶつかりながら廊下を逃げていく。
 男はひたすら楽しそうに笑い、歩いて後をついてくる。
 すぐにでもつかまえられるのに、あえて逃がして楽しんでいるのだ。
(くっ……!)
 もう何度目になるかわからない。
 盛大に転んで、頬を殴打する。
 口の中を切ってしまったらしく、血の味がじわっと広がった。
 その時腕を男に掴まれた。
(いやだっ、はなせ!)
 引き上げられ、見上げた男の背後がぐるぐると渦巻いている。
 歪んでは戻り、また歪む男の仮面の向こうから、残忍に光る目が俺を見る。
 そのままずるずると引き摺られ、突き飛ばされた先は薄暗い部屋の中、ベッドに仰向けで倒れた俺に圧し掛かる仮面の男。
(やだ……いや、触るなっ!)
 素肌を撫でる男の手だけが、やけにはっきりと感じ取れる。首筋に顔を埋めて、男が舌で肌を舐める感触に、腰が跳ねて言いようのない痺れが体中を蝕んでいく。
 その感触に呼び覚まされ、突然別の光景が目の前に再現された。
 落ち窪んだ目を輝かせた男が俺に馬乗りになっている。
幼い頃に俺を追いかけ、いたずらしようとしたあの日の男が、今目の前にいて、同じことをしようとしている。
 その姿がぶれて、仮面の男と入れ違う。
 荒れた男の手と、仮面の男らしきなめらかな手。まるでふたり同時に嬲られているように、感覚が入れ替わり、ぶれて意識が混沌としていく。
 ふたりが顔を近づけてくる。歪んだ視界ではどちらなのか、もう判別できない。
 押し込まれた舌の感触を最後に、意識が弾けた。


 気がつくとだれかが体を抱きしめていた。
 相変わらず視界がぐにゃぐにゃ歪んで、波打っている。
 体中が震えて、歯がカチカチと鳴っている。
「……き、だ……うぶ……から」
 まるで水中に潜ったまま音を聞いているようで、だれかが何かを話しかけてきているようだけれど聞き取れない。
 額にだれかが触れた。
「…つが……る。び……んへ……」
 ぼやける音を拾うことも億劫になり、役に立たない目を閉じた。
 体を抱きしめてくれている人が震え続ける手を握りしめてくれたらしい。
 ぼんやりと伝わる温もりに誘われるように意識が溶けていく。
(……つかれた……)
 すべてを手放して、静寂に身を任せたはずなのに、気がつくと夜の街にひとりで立っていた。
(あれ……俺、眠ったんじゃないの?)
 目の前に噴水がある。辺りを見回すとだれもいないけれど、整備された公園のような場所だった。
 ほのかな明かりに照らされたそこは、かすかに見覚えがある。
(……まさか……)
 少し離れた場所にある植木が揺れて、汚れてぼろぼろになった服を着た男が現れた。
(っ、やっぱり……あの日の男!)
 家族と神音が出場するコンクールを見に行った帰り、置き去りにされた。
 そこで汚れた男に追いかけ回され、つかまってしまうのだ。
 でもあの頃と違って、俺はもう成長しているのだから、逃げ切れるはずだ。
 男とは反対方向へ逃げ出した。
 公園の出口らしき方向へ走りながら振り向くと、目を輝かせて男がついてくる。
(なんだよっ!)
 全力で走っているのに男を引き離せない。
 公園を出たとたん、景色は変わって馴染みのある風景になった。
(ここ……学校への通学路?)
 いきなりな転換に驚いて立ち止まっていたら、肩を掴まれた。
 振り返ると汚れた男が息を乱して、もう一方の手で俺を捕えようとしていた。
(なんでっ! この場所にいるはずがないのにっ)
 わけがわからないまま、とにかくがむしゃらに腕を振り回し、男の手を振り払って走り出す。
 ここからは学校よりも家に戻る方が早い。
 走りながらそう判断して、いくつもの角を曲がり、男との距離を確かめながら逃げ続ける。
 途中でだれともすれ違わない。
 それを不思議に思う間もなく飛び込んだ家の中は空洞だった。
 ただ家具が記憶している通りに佇んでいるだけの、だれもいない家。
(け、警察に電話をっ)
 備え付けの電話機に飛びかかり、受話器を持ち上げて耳に当てた。
 するとボタンを押してもいないのに音声が流れてくる。
『まったく、どうして神音だけじゃなく、あいつまで生まれてきたんだろう。邪魔で仕方がないのに、死なせたら責められるのは私でしょう? 嫌になっちゃうわ』
『どうにかできないだろうかねぇ。どなたかに頼めば始末できるのであれば、いくらでも金を出すものを』
「っ!」
 耳に注がれる呪詛を受話器を置いて断ち切る。その時玄関が開く音がして、もしかして男が入ってきたのか、と振り返った。
(父さんっ!)
 会社帰りらしい父親が靴を脱いで上がってくる。その姿にこれ以上なく安堵を覚え、走り寄って子どものように抱きついた。
(……っ!)
 父親の体をすり抜けて、玄関へ倒れこむ。
 振り返ると父親の姿ははっきり見える。
(なんで……)
 自分自身の両手を見下ろすと、腕が透けて玄関の床が薄く見えている。
 恐怖のあまり立ち上がって、当てもないまま家を飛び出した。するとあの男が目の前にいて、にやりと笑う。
 伸ばされた腕をすり抜け、走り出したところへ今度は神音が帰ってきた。
 何かに悩んでいるのか、意気消沈した顔の神音へ手を伸ばした。
 また腕がすり抜け、神音は俺に気がつかないまま家の中へ入って行ってしまう。
 その代わり汚れた男だけが俺を見て、追いかけてくる。
(おまえに用はないって!)
 神音に誘われて、バンドメンバーとはじめて出会ったファミレス。
 卒業記念ライブへ向けて練習を重ねたスタジオ。富岡さんの事務所があるビル、通いなれた高校への最寄り駅。
 どこへ行っても、だれもいない。
 ひとりもすれ違う人がいなくて、影法師のように汚れた男だけが追いかけてくる。
(何で……夢なら早く目覚めてっ!)
 だれか、と叫びながら走り回る。
 高校の中に駆け込んでも、どこにもだれひとりとしていない。
(助けてっ、だれかっ!)
 卒業前に使っていた教室に飛び込むと、ようやく人の姿を見つけた。
 机が並ぶ教室の真ん中に立って、窓の外を見ていた学生が俺を振り返る。
 理知的な表情に冷たさを潜ませ、眼鏡をかけた懐かしい面影が、ゆったり微笑んでそこにいた。
(樫部……変な奴に追われているんだ、助けてくれっ)
 旧友に腕を伸ばす。
 寂しそうに微笑んだ友人が首を横に振った。
 そのとたん、教室の床が音を立てて砕け散る。
(……落ちるっ!)
 俺が立っていた場所だけ、床が暗闇へ落ちてしまい、俺も一緒に飲み込まれていく。
(たすけて……樫部っ! お願い……だれかっ! たすけてっ!)
 どんどん遠ざかっていく旧友の姿。
 落下し続ける体を呑みこむ暗闇が、その姿さえも隠してしまう。
 何も見えず、何もない空間をひたすら落ちていく。
(だれか……俺を見捨てないで……)
 虚空に腕を伸ばしても、何も掴めるわけもないとわかっていたけど。
 すがるように伸ばした手を、けれどだれかが掴んだ。
 落ちていたはずの体が一転して、ゆっくり引き上げられていく。
 そして気がつくと温かい腕に包まれていた。
「……ここにいるよ、響くん」
 手を握って寄り添ってくれているのは、アレンさんだった。
 優しい微笑みも、握っている手からも伝わる温かさに、ついさっき落ちていた暗闇がすっと遠ざかる気配がした。
「大丈夫……オレがそばにいるから。もう少し眠って……」
 これも夢だろう。温かさを感じるけどどこかぼんやり滲んでいるから。
 都合のいい夢。でもいまはそれで十分だ。
 安らぎを求めて、俺はアレンさんにすり寄って目を閉じた。


 次に目を開けると、神音が目の前にいた。
「わっ……やっと目が覚めたんだねっ」
「…………」
「良かった……本当に良かったよ。助けに行ったんだけど、響、変な薬を打たれたみたいで錯乱してて、病院に運んで治療してもずっと高熱出して意識混濁で……ぼく、もう響が戻ってこないんじゃないかって……」
 よく見たら目の周りや鼻を真っ赤に腫れた顔の神音が、またぐずぐず泣きそうになりながら言い募る。
 よっぽど不安だったみたいで、いつもより早口で言葉を重ねる神音を早く安心させたかった。
 腕を上げようとして、その重さに驚く。
(……まだ痺れてる、のか?)
 浚われた日のように思うように動かせない体に戸惑っている間に、立ち直った神音が医者を呼びに行った。
 医者が来るまでの時間で周囲を確認する。
 水色のカーテンに囲まれ、点滴が吊るされているのが見える。
 何かの薬品だろうか、何とも言えない匂いがするし、寝かされているベッドの感じからしてここが病院なのだと納得できた。
 ベッドサイドのテーブルには、飲みかけのペットボトルが置いてある。その隣に折りたたみの簡易椅子があって、神音のかばんが置いてあるのを見たところで、カーテンが揺れて医者が顔を出した。
「やぁ、目が覚めたんだって。熱はどうだろね、気分は?」
「…………」
 一緒に現れた看護師が手早く体温計を耳の穴に差し込み、しばらく待つ間に医者が下まぶたを指で押さえ、何かを確認していく。
「先生、ほぼ平熱です」
「ん……どうかな、自分の名前は言える? ここがどこだかわかる?」
「…………」
 テキパキと報告と作業をする看護師に鷹揚に頷く医者の問いかけに、口を開いて答えたつもりだった。
「ん? 聞こえないね。もう一度言ってごらん」
「…………」
「……ちょっと失礼するよ」
 医者が少し顔を引き締め、俺の首元に触れた。
「もう一度聞くよ。君の名前は?」
「…………」
 俺は名前を名乗ったつもりだった。
 だけど俺の口から出たのは空気だけだった。
(何で……どうしてっ!)
 胸に力を込めて、声を出そうとしても空気しか出せない。何度も何度も試して身悶える俺を、医者がそっと手で押さえて止めてくる。
「落ち着きなさい。気分が悪くなければ……いくつか軽い検査を受けてもらいたいんだが。あぁ、首を振って答えてくれればいいよ」
 そして看護師にいくつか指示を残して医者が去っていく。
「あの……どういうことですか」
「後で先生からお話がありますから」
 じっと後方で様子を見ていた神音が慌てて質問したけど、看護師は忙しそうに答え、病室を出て行った。
 不安なのは俺も神音も同じだったけど、検査の手配が済んだらしく戻ってきた看護師たちによって運ばれた検査室で、いくつか検査をした。
 ようやくすべてが終わり、目覚めた病室へ戻ると、さっきより人が増えていた。
「あっ……お帰り、響ちゃん」
 一番出入り口に近い場所にいた八代さんが、俺に気づいて慌てて飛びのき、場所を譲る。
 看護師の手を借りてベッドへ戻ると、文月さんや富岡さん、そしてアレンさんもすぐそばに近づいてきて、物言いたげな顔で俺を見ていた。
「すまなかった、響。救出まで手間取った」
 富岡さんらしくなく、苦渋に満ちた表情で低く謝罪してくる。
 それへ首を振って、謝らないで欲しいと心の中で伝える。
 こうしてここにいるってことは、ちゃんと約束を守って助け出してくれたってことなんだから。
 それにあの変な夢から目覚めることが出来たんだ。いまはそれだけでいいと思えた。
「響にも見せたかったよ。文月が凄かったんだよ! 響を見つけた時さ、覆いかぶさってた男を見るなり、物凄い早さで蹴り飛ばしててさ」
 疲れた顔のまま、興奮気味に話をする神音の横で文月さんが苦笑している。
「神音。その話はまた後でしましょう」
「むぅ……」
「うれしいのはわかるで。ようやっと目が覚めてくれたんやで。でも響ちゃん、まだ本調子じゃないやろ。な?」
 文月さんと八代さんに宥められて、口を尖らせている神音を見ていたら、気持ちがすっと軽くなる気がした。
(わかってる。神音も怖かったんだよね)
 ずっと不安だったからこそ、反動で神音は話をしたがっているのだ。
 俺が怪我をしたり調子が悪くなると、神音の方が精神的に余裕がなくなり、俺のそばから離れたがらなくなる。
 みんなの話から推測するに、俺はそれなりに長い時間、意識不明の状態だったようだ。
 正確にどれくらいなのかはわからないけど、泣き晴らした神音の顔を見る限り、一日や二日ではないだろう。
 神音の反動は少し宥められただけでは治まらないぐらいに強いと思う。
 重い腕に力を込めて持ち上げて、神音の頭に触れる。撫でるほど余力がなくて、滑り落ちる寸前で神音が両手で包みこむ。
 そしてじっと目を閉じ、俺を確かめるように掴んだ手に額をつけた神音はそれきり何も言わなくなった。
(……あぁ、本当に……戻ってこれたんだ)
 神音の感触を感じながら、ぼんやり天井を見上げて雑音を聞いていると、ようやく現実に戻ってきたんだと思えた。
メンバーたちはそれぞれ椅子やベッドの端に腰かけて、交代で俺の目覚めを喜んで声をかけてくれる。
 いつも大きめの声で話す八代さんは、最大限に声を絞って話すので、あらためてここが病室なのだと自覚する。
(俺、どれくらい眠っていたんだろう……アレンさんに手を握ってもらってたのはいつなんだろう?)
 時間の経過があやふやで、思い出そうとしても松木に薬を盛られ、浚われてからの記憶が途切れ途切れでうまくつながらない。
富岡さんは何度も病室を出てはどこかに連絡をつけているらしく、スマフォを片手に戻って来ては、また着信を受けて出ていくことを繰り返した。
「お待たせしました。ご家族の方以外はお引き取り願いたいのですが?」
 医者と看護師がその場に現れ、並みいる顔立ちを眺めて家族ではないと判断したらしく、少し強めの口調で告げる。
 富岡さんが医者に向き直り、簡潔に俺の事情を説明した。
「そうですか。本人さえ良ければこのまま話を聞いてもらっても構いませんよ。いいかな?」
 医者に質問され、俺は頷いた。
 この場に身内は神音だけだけど、他のメンバーたちも家族同然だし、彼らに俺は救われたのだ。
「では。できるだけ簡単に説明させてもらいます」
 いくつか検査をしたのは俺が話せなくなったからだ。
 身体面での損傷は認められなかったらしいから、使われた薬の後遺症と事件のストレスが重なったものを思われること。
 回復までにかかる時間はわからないけど、出来るだけ事件に巻き込まれる前と同じ生活をしていた方が良いだろうと言うことだった。
「また症状が悪化したり、別の症状が現れた時はすぐに病院へ来てください」
 もう一晩入院して、翌朝何もなければ退院することが決まり、医者は慌ただしく病室から出て行った。
 まだ納得できなくて帰りたがらない神音を八代さんと文月さんが強引に連れて帰り、富岡さんはまた連絡すると言い残して帰って行った。
 病室に残ったアレンさんは俺を見下ろして、ふわりと微笑んだ。
「オレはここに残るから。安心していいよ」
 出せない声を絞り出すのをあきらめ、アレンさんを見上げて頷いた。
 本音を言うと、いくら病室だとわかっていても、いまひとりになることが怖かった。
 現実だと思っている今が、やっぱり夢だったと言われるような気がして。
 アレンさんは神音が座っていた簡易椅子に腰かけ、水を飲むかと尋ねてきたけど、俺は首を振って断った。
 その代わりに話をして欲しいと伝える手段がなくて、俺はただじっとアレンさんを見上げて、目だけで伝わってくれと祈った。
 するとアレンさんが苦笑して、両手を持ち上げる。
「そんな目で見なくても、ちゃんと話すよ……響くんたちの部屋に松木マネージャーが向かったことを、オレたちはもちろんすぐに把握できた。富岡さんが後をつけさせていたからね」
 神音と俺がツアーの途中、ホテルを抜け出して歌っていた夜、声をかけてきた白いスーツの男性。あの人が実は富岡さんがつけていた護衛なのだと聞かされる。
「松木マネージャーが響くんを連れて行った先もわかっていたけど、証拠が揃ったところへ踏み込む必要があると焦らされて、ようやく許されて……響くんの姿を見つけた時に、心臓が止まるかと思ったよ」
 あの時松木に打たれた薬と、浚われる際に使われた薬。医者によると、どちらも俺には効きすぎるほど効いてしまったらしい。
さらに一つ目の効果が切れる前に打たれたことで、予想外の効果をもたらして俺は正気を失ったようだ。
呼びかけても反応がない俺の姿に神音が半狂乱になったと苦い声で教えてくれた。
(神音……)
 泣き腫らした神音の顔を思い返し、どれだけ心配をかけてしまったんだろうと、神音の心境を想像すると胸が痛む。
「松木はもちろん捕まったよ。あの船にいた客たちや乗務員たちもね。ずいぶんいろんな場所から人を浚っていたみたいで……響くんの他にも何人も保護されたよ」
 そこでアレンさんが口を閉ざし、少し迷う素振りをした。
「……響くんのお母さんもね、事情を聞かれている。お父さんは彼女についていて、ここには来ていないんだけどね……心配しているよ。神音に何度も電話がかかってきていた」
「…………」
 不意に胸の中がしん、と冷えた気がした。
 俺が今までじっと耐えていたのは、俺自身が家族から追放されることを恐れていたからだ。
 そして同じ強さで、家族が壊れることも。
(父さん……ごめんなさいっ)
 海外でひとりになった時も、指を折られた時も、そして今回も家庭に亀裂を入れてしまった。
 安らげるはずの家庭が乱され、きっと父親は疲れ切っているはず。
 神音もあの様子ではろくに眠れていないはずだ。
 どうして俺はふたりを追いつめることしかできないんだろう。
 その想いが胸に溢れて、収まりきらずに涙となって溢れだした。
(ごめんなさい……ごめん、神音……っ)
 大切なふたりなのに、俺は苦しめてばかりだ。
 アレンさんが髪を梳くように、頭を撫でてくれる。
「響くんのせいじゃない。責任を感じる必要はないよ……と言っても、感じないわけにはいかない性格だとわかっているけどね。だから泣いていいよ。耐えなくていい、隠さなくてもいい」
 俺はいつもアレンさんの前で泣いているな、と頭の片隅でぼんやりと自嘲しながら、アレンさんの手と声に誘われるがまま、涙が止まるまで苦しい呼吸をくり返す。
 黙って俺を見守ってくれていたアレンさんが、俺が落ち着いた頃合いを見計らって続きを話しだした。
「響くんが浚われた日から、六日が過ぎたよ。昨日の朝まで高熱が続いて、ずっと悪い夢を見ていたみたいでうなされていた。オレや神音、ダイと八代も交代で付き添ってた。いつ目覚めてもいいように、だれかがそばにいてあげたかったから」
 床が抜ける夢をみた時、手を握ってくれたアレンさんは夢じゃなくて、ちゃんと現実だったんだと思った。
 あの時と同じぬくもりが、ゆっくり頭を撫でる。
「……退院したら、また一から体力をつけないとね。声が出るようになった時のために」
 そんな日が来るだろうか、と急に不安が濃くなった。
 このまま声が出ないままだったら……。
「響くん。大丈夫だよ、オレたちはいつまででも待ってる。響くんだけがオレたちの歌い手なんだからね」
 優しい手と声に頷きながら、俺の中で罪悪感が薄れることはなかった。
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