我恋歌、君へ。(わがこいうた、きみへ。)

郁一

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第三章

我恋歌、君へ。第三部:20 誘い(いざない)

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 収録が予定よりも早く終わり、スタジオを出る準備をしているとアレンさんが近づいてきた。
「響くん。これから何か予定ある?」
「えっ……あ、ありません、が……」
 返事を聞いたアレンさんが花開くような笑顔になった。
(うわ……何で笑顔見ただけなのに、ドキドキしてるんだ、俺)
「海鮮の炭火焼きが美味しい店を教えてもらったんだよ。ひとりで行くのも味気ないし、一緒にどうかな?」
「あ……え、っと……」
 収録前に神音たちと交わした会話の内容が突然頭の中に蘇り、何をされたわけでもないのに心臓が駆け足になる。
(神音たちが変なこと言うからっ!)
 ただ食事に誘われているだけなのに、何を考えているのだろう。
 俺が迷っていると勘違いしたのか、背中にぽんと手が触れた。
「どうぞどうぞ、行ってらっしゃい~。ぼくのお兄さまを快くお貸しいたしますが、無事にお戻しくださいませよ、色男どの」
「か、神音?」
 いたずらっ子みたいな笑顔で勝手に神音が承諾してしまい、俺の背中を押す。
 心の底からうれしそうに笑うアレンさんが、もちろんだよと神音に請け負う。
「車を用意するから先に行くね」
 アレンさんが歩き去った後、慌てて振り返る俺に向けて神音が指先を目の前に突きつける。
「噂をすれば何とやら。さぁ、ちゃんと向かい合ってきなさい。ただし、何もされずに帰ってくること」
「……だから、あり得ないってば」
 優しく突き放す神音を一度だけ振り返り、アレンさんが待つ駐車場へ向かう。
 いつものワゴン車の助手席前で待っていたアレンさんが、俺に気付くとまたうれしそうに笑ってドアを開けてくれた。
「シートベルトの着用はお済みでございますか、お姫様?」
「俺はお姫様じゃないですっ!」
「あはは~。怒った響くんも可愛いよ~」
「アレンさん!」
 やっぱり俺を困らせて楽しんでいるな。
 少しばかり拗ねた俺を乗せて、アレンさんが車をゆっくりと発進させた。
「……わがまま聞いてくれてありがとうね」
 前を向いたまま、アレンさんがやんわりと微笑む。
「仕事場で毎日顔を見ているのにね。響くんに触れることは出来ないし、独り占めも出来ないから逆に辛いな」
「仕事中に何を考えているんですか」
「ん、それ聞いちゃう? 言ってもいいけど、響くん耳を塞いで逃げ出したくなると思うなぁ。それでも良ければ隅々まで詳細にご説明いたしましょう」
「結構です」
「はやっ……断るの早すぎるよ~」
 参ったなぁと穏やかに笑うアレンさんと、こんな風に気負いせず会話が出来たことにほっとする。
(良かった……)
 車に乗る前までの緊張が少し抜け落ちて、肩が軽くなったようだ。
「……響くん、疲れてる? 最近は体調に変化はない?」
「体調はもう大丈夫です。疲れもそれほどではないです」
 声が戻ってからは以前のような急激な眠気や指先の痺れがほとんどなくなったし、みっちり訓練や仕事の予定が入っていたおかげで、夢を見ることもないほどぐっすり眠っている。
 同じ事務所の先輩アーティスト『聖白』と合同ライブを開催することが決まっているから、これからもスケジュールに余裕は出来そうにない。
 ちなみにいつも『i-CeL』の曲を作る神音だけど、今回のライブ用に書き下ろす新曲は『聖白』へ提供することになった。
 反対に『聖白』の曲を作っている『SATO』から俺たちに曲が提供される。
 さらにお互いの持ち歌から一曲ずつ選んで演奏することになったから、練習時間はさらに増している状況だ。
「うれしい悲鳴だけど、こうして響くんとゆっくり時間を共有できなくなるのは寂しいな~」
「……俺は仕事でも長時間同じ場所にいるのに、飽きないことの方が不思議です」
「飽きないよ。仕事中は『i-CeL』のキョウとしての姿が見られるけれど、それだって見る度にいろんな姿が見られる。無邪気そうに笑っていたかと思ったら、きりっと男前な表情になっていたりして全然違う印象になるから、目を離せなくなるんだよね。疲れた様子の時は抱きしめてあげたくなるし、もう本当にずっと見ていても飽きない」
「ま、真面目に仕事してください……っ」
 仕事中に何度も視線を感じて戸惑ったけど、そんなことを考えていたのかと思うと気恥ずかしさで体が熱くなってきた。
「もちろん、愛しい響くんと共演できる貴重な時間なんだから、手抜きなんてしないよ」
 普通の会話をしているはずなのに、やたらと疲れる気がするのは何でだろう。
(運転しながら、涼しい顔でさらっと自然に愛しいとか言えるところが、聞いているだけなのに恥ずかしくなって疲れるんだ)
 気軽に言えるほど、アレンさんにとっては何ともない言葉なんだろうか。
 不意に須賀原さんとの会話を思い出す。
(……今まで好きになった相手にも、同じことを言っていたのかな)
 声が戻った夜に聞いたアレンさんの告白では、手を伸ばすことにためらっていたみたいだけど、心惹かれた相手がいたことは間違いない。
(キスも慣れた感じだった……だれとしてたのかな)
 考えれば考えるほど不快な気分が強くなってくる。
 海外へ行っていた時もアレンさんを慕うユリエル相手に、同じ気持ちにさせられた。
(はぁ……人を好きになるって、こんなにも疲れることなんだ……)
 過去のことが気になって仕方がなくて、でも知ったとしてもいい気分にはなれそうにない。
 樫部に恋心を抱いた時はこんな風にならなかったのに。
「……響くん、眠っている?」
 ずっと黙って窓の外を向いたままだったから、アレンさんがそっと聞いてくる。
「あ、いえ。起きてます……すみません、考え事を」
 アレンさんを振り向いて謝罪したところへ、すかさず顔を寄せて唇が重ねられた。
「……すみません、と言うたびにキスするよ。忘れたかな?」
「っ、……」
「響くん、顔が赤くなってる」
 ふふっと楽しそうに笑って、アレンさんが体を離した。信号待ちが終わったらしく、ゆるやかに車体が動きはじめる。
 俺は窓の外に顔を向けて、激しく鳴り続ける鼓動を鎮めようと通り過ぎる車窓を睨みつけた。
(キスくらい、だれとでもしてるから慣れてるとか? あぁ、もう……どうしたら落ち着いてくれるんだろう?)
 鼓動がなかなか平常に戻ってくれなくて、アレンさんに言われた通りに顔が熱くなっているのも自覚している。
 今はアレンさんが運転中で、よそ見ができないことに心底感謝する。
 それから二十分ほど車で移動した先にあるレストランは、想像していたよりは手頃そうな外観だったけど、絶対に俺や神音だけだったら入れないなとわかる感じだった。
 アレンさんは予約してくれていたらしく、出迎えてくれた店員がすんなりと客席へと誘導してくれる。
(いつの間に予約したのかな……うわっ、すごいきれいな景色っ)
 広い客席の向こうは海が見渡せる大きな窓があり、海へ落ちていく太陽が投げかける色とのコントラストが息を飲むほど美しかった。
 客席との間はゆったりと空間が保たれていたけれど、奥の方はさらにグリーンのインテリアが置かれた仕切りも使って、他の客席から直に見えないように配慮されていた。
 そのひとつに招かれ、席に座る。
「食欲の方はどう? 食べられそうかな」
 メニューを開いて手渡され、アレンさんが不安そうに聞いてくる。
「本当に大丈夫ですから。今回の番組で体を動かすゲームをしたし、お腹が空いてます」
 返事をしながらメニューを見ていたけれど、どれも頼むにはためらう金額が表示されていた。
(う~、やっぱりこんな素敵なレストランなら、この金額になるよね……足りるかなぁ)
 仕事を終えたら大人しく帰る予定だったので、それほど大金を持ち歩いていない。
 逡巡する俺にアレンさんが先手を打つ。
「オレのわがままを聞いてくれたんだから、支払いはオレがするよ。気にしないで好きなものを選んで」
「き、気にします……っ」
「まったく……これくらいさせてよ。本当はもっと甘やかしたいのを、ぐっとこらえているんだよ?」
 須賀原さんも相川さんも、アレンさんは甘やかしたいのだと言っていたのを思い出した。
「……そ、それでは……ご馳走になります」
 うん、と機嫌良さそうに笑って頷いたアレンさんと、悩みながらオーダーを決めて、出来上がるまでを待つ。
「響くんが成人していたら、お酒で乾杯したいところだけど、いまはこれで我慢」
 お互いに選んだソフトドリンクが先に届き、掲げてみせるアレンさんにならってコップを持つと、アレンさんがコップを軽く触れ合わせる。
「お疲れ様。声が戻ってから、本当に大変だったね」
「いえ、俺のせいで迷惑をかけてしまって……」
 言い終る前に軽くため息をついたアレンさんが、腰を上げるとテーブルに片手をついてキスをしてくる。
「……んっ……」
 すぐそばを店員が通りすぎる時もある場所なのに、いくら他の席から見えないとは言っても店内でこんなことをするなんて、と頭の中では文句を並べているけれど口が塞がれているので言うことも出来ない。
「……謝らないの。みんなわかっているから」
「だ、だからって……こんなことしなくてもっ」
 ずいぶん長く感じたキスから解放され、しどろもどろに言い返せば、にっこりと微笑まれた。
「ん~本音は、単純にオレがもっと響くんを感じたいから、なんだよねぇ」
「アレンさん……」
 ぐったりと肩を落とす俺の頭をアレンさんが撫でようとした。
「っ、」
 意識しないまま体が震えた俺に気付いて、アレンさんは伸ばした手を途中で止めて、椅子に座り直した。
「……もうすぐ響くんと神音の誕生日だよね。残念ながら仕事で出掛けられそうにないけど」
 何事もなかったように会話をはじめたアレンさんに頷きを返しながら、内心では自分自身の反応に驚いていた。
(さっきの……どうして?)
 今までもアレンさんに触れられたことはあったし、今も俺に危害を加えようとした感じはしなかったのに。
 動揺したまま気分が落ち着けない。
「成人式は行けそう?」
「……どう、でしょう……行きたくない気もします」
「あぁ、そっか。いろいろあったもんね」
 デビュー前の顛末を知っているからこそ、アレンさんはそれ以上追及することなく、別の話題に変えてくれた。
 それから料理が運ばれるまで雑談していたけれど、俺の気持ちはどこか不安定なままだった。
「さぁ、食べようか。響くんはどれがいい? 選んでいいよ」
「……俺はどれでも構わないので……」
 串に刺して炭焼きにした海鮮が並んだ皿を指して、アレンさんが聞いてくるけれど俺は首を振った。
「…………」
 アレンさんがじっと俺を見てくる。その沈黙に我に返った。
「響くん、大丈夫……? やっぱり調子が悪い?」
「あ、ち、違います……では、イカをもらいますね」
 きれいな焼き目のついたイカの串を取り皿へ移し、数種類並んでいる付けタレを確認する。
「どれが何の味でしたっけ?」
 料理を運んでくれた店員が説明してくれたはずだけれど、よく聞いていなかった。
「……これがゆず胡椒を使ったタレで、これが味噌ベース。これは果物をペーストにして使っているそうだよ。珍しい岩塩を使った塩タレがこれ」
「どれがいいのか、迷いますね」
「うん、そうだね」
 どうにか会話を取り戻すことが出来て、料理も美味しく感じられた。
 新鮮な海鮮を使った炭火焼きはもちろん、その他にも刺身は見た目もきれいに盛られていたし、炊き込みご飯は今後の参考にしたいと思う味付けだった。
 アレンさんが会計を済ませてくれて、お礼を言いながら外に出る。
 すっかり暗くなった海から風がふわっと吹き付けてきて、一瞬目を閉じる。
「少し散歩してから帰ろうか」
 風に吹かれて思いついたように、アレンさんが誘ってくる。
 頷いて歩きだしたアレンさんの横に並んだ時だった。手が触れ合って、また変に動揺してしまった。
「……響くん、オレが怖い?」
 アレンさんが立ち止まり、そっと聞いてくる。
「そんなことは……」
「我慢しないで。オレの前で無理して欲しくない」
 アレンさんが少し強めに言い切ったので、怒らせてしまっただろうかと思わず体が竦んだ。
「……俺もよくわからないんです。今まで何ともなかったのに……急に変になってしまって」
「何かあったの?」
「いえ、何も……」
 無かったと答えかけたところで、神音たちと会話した内容を思い出した。
「……もしかして……」
「ん? また何かされたとか……?」
 心配そうな表情になったアレンさんが一歩近づいて、触れようとしていた手を寸前で止めた。
「何もされていません……心配しないでください」
 アレンさんを宥めながらも、原因に思い至って恥ずかしさに俯いた。とてもアレンさんを見ていられなかった。
(俺、気になってるんだ……)
 男女の仲であれば自然な成り行きで辿り着く行為が、同性であっても出来ることを知って意識してしまっているのだ。
 そうとは知らないアレンさんは、たぶん勘違いしていると思う。
「ごめん……響くんはたくさん傷ついたばかりで日も浅いのにオレは浮かれてて、つい……」
「違います、俺はアレンさんが怖いわけじゃないんです」
 これが証拠だとばかりにアレンさんの腕を掴んだ。
「収録の前に神音たちと雑談してて……その、俺が浚われた時にされたことは……す、好きな人ともすることだと聞いて、その……アレンさんはどう思っているのか考えたら、気になってしまって……」
 しどろもどろな俺の説明をアレンさんは最後まで黙って聞いていた。
 言い終ってからも風と波音だけが続くので、心底呆れて、または怒って何も言えなくなっているのかとアレンさんをそろそろと見上げてみた。
 ぽかん、と口を半開きにしてアレンさんが呆気にとられた顔で俺を見ていた。
「……アレンさん?」
 端正な顔立ちだけど、目を丸くして茫然としている様子は少し笑いを誘う。
 つい小さく吹き出してしまうと、ようやく呪縛が解けたみたいで、アレンさんがゆっくりと苦笑した。
「本当に響くんは、何度もオレの意表をついてくれるね……」
 しみじみと呟きながら、アレンさんが俺を抱き寄せた。
 反射的に震えてしまったけれど、アレンさんは俺を離すことはなかった。
「オレは響くんを幸せにしたい。嫌だと思うことはさせないし、しないよ」
「……アレンさん……」
「それに遠慮もしないで。響くんにとって受け入れることが簡単じゃないことはわかっているけど、少しずつでいいから」
 たぶん料理が運ばれた時のことを言っているのだろう。
「……俺はあんな風に、最初に選ばせてもらったことがなかったんです」
 邪魔でしかなかった存在の俺は、母親が恐ろしくて先を譲り、残ったものを食べさせてもらっていた。
 もちろん余りがない場合もあるから、自分で作らない日は空腹が満たされないこともあった。
「父や神音が選びそうにないものはどれだろう、出来るだけ安価な料理はどれだろうって考えるのが当たり前になっていました」
「はじめて会った日も、安い料理を選んでいたね」
 アレンさんが俺を抱きしめたまま、昔を思い出してしみじみと言う。
「不快にさせてごめんなさい」
「謝らなくていいんだって……もう、散歩は止めて車に戻ろうか」
「え、でも……」
 せっかく海の近くに来たのだからと名残惜しく暗い海を振り返ると、俺の手を引いてアレンさんが歩きだしてしまう。
「可愛い響くんにキスしたいけど、ここでしたらまた怒られるでしょ?」
「……やっぱり俺は散歩したいです!」
「駄ぁ目~。可愛いこと言って、先に誘惑してきたのは響くんだよ」
「俺は何も言ってませんっ」
「言ったよ」
 強引に手を引かれて、車に戻ると後部座席の扉を開けて、中へ押し込まれる。
「オレが気になるってことは、触って欲しいと少しは期待してくれていると言うことでしょ?」
「……ぁ、えっと……」
 シートに押し倒され、馬乗りになったアレンさんを見上げる形になった俺の頬を指でさらさらと撫でられる。
 びくっ、と体が震えてしまい、自分の反応に真っ赤になっていると、アレンさんが顔を近づけてきた。
「大丈夫、響くんがしたくないことはしない……好きだよ」
 もう何度目になるかもわからないけど、アレンさんのキスはいつも優しい。
 押しつけることはなく、そっと触れて労わるように軽く唇で表面を撫でられる。
「もっとしたくなったら言ってね。オレはいつだって大歓迎だよ」
「っ……い、言いませんから」
「えぇ~、そんな力一杯否定しなくてもいいじゃない」
「否定しますっ」
 ただキスされただけなのに、息が止まりそうなほど心臓が暴れ回っている。
 これ以上何かされたら、本当に息が止まってしまいそうだ。
「明日も仕事がありますから、もう帰りましょう」
 起き上がりアレンさんをそっと押しのけると、苦笑しながらハイハイ、と両手を上げてアレンさんが外に出る。
 それぞれ席に座り、シートベルトを着けているとアレンさんの手が俺の頭を撫でてきた。
「いつか響くんの気持ちも、ちゃんと聞かせてね」
「…………」
 目を細めて微笑むアレンさんは、何もかもをわかっているようで、返事を期待することなく車を発進させた。
 ひとりで運転するのはつまらないからと、アレンさんは俺を乗せたまま高速に乗り、部屋まで送り届けてくれた。
 しかも車から降りて、部屋の前まで一緒に歩いてくる念の入れようだ。
「……俺は女性ではないので、ひとりで帰れます」
「あのね、これもオレのわがまま。一分一秒でも長く一緒にいたいの」
 にこにこと笑って平然と言ってのけるけど、どうして恥ずかしげもなくそんなことが言えるのだろう。
(育った文化の差ってことかなぁ)
 複雑な気持ちをため息で誤魔化して、部屋の扉を開けると神音が奥から出てきた。
「おっかえり~。思っていたより早かったね。それに……」
 神音がアレンさんと俺を見て、にやりと笑った。
「本当に何もしないで帰ってくるとは思わなかったよ」
「人をケダモノみたいに言わないで欲しいなぁ」
 アレンさんが眉を下げて困ったように笑う。
 そして俺へ視線を移すと、素早く額へキスをした。
「おやすみ、また明日ね」
「っ、……お、おやすみなさい……」
 額を抑えてうろたえる俺に微笑みかけて、アレンさんが帰って行った。
「ヒュ~。まったく、見せつけてくれるじゃないの」
「神音……」
「そんな涙目で見上げないの。ぼくじゃなかったら襲われてるよ」
「……馬鹿なこと言ってないで、もう寝るよ」
 軽く神音の頭を叩き、準備をして浴室へ入り、シャワーを浴びながらため息をつく。
(結局、最後まで好きだって言えなかった……アレンさんはちゃんと言ってくれたのに)
 せっかく神音が忠告してくれて、アレンさんも言える機会を与えてくれた。
 頭を上げて顔面にシャワーを当てながら、目を閉じて今日一日の出来事をぼんやりと思い出すと、海の波音が聞こえる気がした。


 決意したものの、翌日も仕事は忙しく、なかなか言える機会が見つからなかった。
「も~っ! どうしてぼくがヒロに曲を作らないといけないんだよ~っ」
「それは私の台詞だ。私の曲はヒロに歌わせたいと言うのに」
 いつもは『聖白』に曲を提供している作曲家の『SATO』が、ぼやく神音へ頷きながら同意している。
 同じ事務所の先輩アーティスト『聖白』 と俺たち『i-CeL』が合同ライブを開催することになり、その準備に追われているのだ。
 しかもただ共演するだけではなく、富岡さんの発案でお互いの作曲者を入れ替えて、ライブ当日に発表する新曲を作ることになったから俺たちの切迫感は増している。
 神音と『SATO』は顔を合わせる度に言い合いをする。
「さっさと曲を見せろ。手を抜いたら舌を引き抜いてやる」
「ふんっ、おまえこそ響に出来損ないを歌わせたら、ただじゃおかないからね」
 お互いに睨み合いながら、さっと交換した曲をメンバーも交えてさっそく再生する。
 二回再生して、じっくり曲を聞いた後で神音が舌打ちした。
「……憎ったらしい奴。出来が悪ければ溜飲が下がるのになぁ、ちくしょう」
 別室に移動して聞いていた『SATO』と『聖白』の方はと言うと、『聖白』のふたりだけが苦笑しながら戻ってきた。
 赤い髪のヴォーカリスト、ヒロが片手を上げて近づいてくる。
「よぉ、響」
「お久しぶりです。ヒロも元気そうですね」
 先輩歌手ヒロには、デビュー前にいろいろと教えてもらった。同じ歌い手として尊敬もするし、負けたくないと思う。
「『SATO』さんは?」
「あぁ……負けていられないとか言って、先に帰ったよ。修正希望とかあったら、俺が伝えるから遠慮なく言ってくれていい」
「それはたぶん大丈夫だと思います。何だかんだ言って、神音も認めているみたいですし」
「なるほど、おまえのところも似たり寄ったりか。聡さん……『SATO』もすっげぇ嫌がってたくせに、作曲をはじめると闘士燃やしまくってて。まったく富岡もハタ迷惑なアイディアを思いついてくれたよ」
 ヒロは『SATO』について苦笑しながら話した後、かつて応募した『i-CeL』の曲を歌うことになるなんて思わなかったと、少ししんみりしていた。
 お互いに持ち歌を交換して歌う曲もあり、双方が目の前で演奏しては改善点を指摘していく。
 新曲はそれぞれが個別に練習するので、合同練習はライブの流れと交換した持ち歌に関してのみ。
 それでも毎日スタジオにこもって、長時間練習を続けていた。
(やっぱりヒロに合わせて作られた曲を歌うのは難しいな……このフレーズとか、神音の曲にはない流れだし……)
 歌い方の癖なんだろうか。何度歌ってもつまづいてしまう箇所をひとりスタジオの片隅で練習していると背後から声が掛けられた。
「響くん、少し休んで」
 アレンさんがペットボトルのミネラルウォーターを俺に手渡しながら苦笑している。
 水を受け取り、お礼を言ってから中身を飲み、ふぅと息を吐き出した。
「大丈夫?」
「はい……やっぱりヒロは凄いです。まだまだヒロみたいに歌えない」
「オレが聞いている限りでは、もう十分だと思うけどね?」
 やんわりと笑いながらアレンさんがタオルで汗を拭き取る。
 あれから、ふとした瞬間にアレンさんへちゃんと伝えないとと思って顔を見上げるんだけど、やっぱり決意が揺らいで口を開くことは出来ないままだった。
(はぁ~……どうやったら簡単に言えるようになるのかな)
 個人的な悩みは脇に置いて、ライブまで真剣勝負の日々を過ごしてライブに臨んだ。
うれしい悲鳴でライブは大好評で、業界関係者や双方のファンからも大きな反響をもらうことができた。
売れるチャンスは逃さないとばかりに、急遽合同ライブのアルバム制作が決定し、せっかくライブが終わったのに落ち着くどころか慌ただしさは増した。
当日演奏された全曲目の中から選りすぐり、それぞれの新曲も合わせて収録するアルバムには、ライブ映像も特別特典として同封され、さらに両バンドの握手会チケットも封入されるのだと言う。
「ファンの子らに喜んでもらえるなら幸せやねんけどな。さすがにシンドイわぁ……あかん、おれ自分の家がどこにあるのか、思い出せなくなりそうや」
「……それを言わないでください、ヤッシー」
 八代さんと文月さんが制作の合間にぐったりと椅子の背もたれに崩れ落ち、眠りそうな目を擦りながらまったりと会話を交わす。
 ふたりが嘆く通り、俺たちは家に帰ることもなく収録を続ける状態になっていた。
 いつも陽気で元気な神音も盛んに欠伸をしている。
「……響くん……」
 アレンさんがのっそりと歩いてきて、俺の隣に腰かけると手を伸ばして頭を撫でてくる。
「響くん……オレは圧倒的に響くん不足に陥っているよ」
「……なんですか、それ」
「はぁ~、思いっきり響くんを抱きしめたいなぁ……そうだ、響くん。少しだけ外の空気を吸いに行かない?」
 アレンさんが少しだけ元気を取り戻し、目をきらきらさせて提案してくる。その背後に神音がすっと現れ、アレンさんの肩をがしっと掴んだ。
「アーレーンーくーん、どこへ行くつもりなのかなぁ?」
 寝不足と疲労が重なり、神音は般若も裸足で逃げ出しそうな形相になっている。
「……か、神音……これはこれはご機嫌麗しゅう……」
「麗しいと本気で思ってるの? さて、響を連れて、どこで何をするつもりかな、アレンくん?」
「…………ハイ、スミマセン。カノンサマ……」
 それから三日後、ようやく収録が終わり晴れて自由の身となることができたメンバーたちに富岡さんは二日間の休日をくれた。
 休日と言っても間違いなく初日はみんな爆睡して終わりになるだろうけれど。
 予想通り俺たちも部屋に帰りつくなり、無言でベッドに移動し、倒れるようにして眠った。


 翌日。家事も一段落した頃、来訪者を告げる音が鳴った。
 確かめてみるとアレンさんだった。
「忙しいのに押しかけてごめんね。なかなか話が出来そうにないから、少しだけ時間をちょうだい。神音も一緒に」
「ん、ぼくも? 何だろ……まぁいいや、とにかく座りなよ」
 神音は俺の背後に立ったままで、テーブルを挟んでアレンさんが向かいに座る。
俺は理由もわからない胸の動悸に悩まされていた。
(何だろ……アレンさん、すごい真剣な顔しているし、なぜスーツ姿?)
 教師役を演じていた時よりも地味だけど、素人目にも仕立ての良さがわかるスーツを着て、髪をひとつに束ねてきっちりと身なりを整えたアレンさんの姿は新鮮で、同性ながら見とれるほど魅力的だった。
 いつもなら穏やかに微笑んでいる顔に、今は痛いほどの緊張が伺えた。
 どきどき鳴って止まらない胸を押さえながら、アレンさんが口を開くのを待つ。
「……で、話って何?」
 痺れを切らした神音が催促すると、ひとつ深呼吸をしてからアレンさんが切り出した。
「響くん、オレとふたりで暮らそう。ここではない、新しい家で」
 きっぱりとアレンさんが言い切った。
 俺は一瞬理解が遅れた。
「……それはつまり、響とアレンがひとつ屋根の下で暮らしたいと言うこと?」
 神音が確認すると、アレンさんがしっかりと頷く。
「今回のライブでつくづく感じたよ。忙しいからこそ、仕事以外の時間を少しでも多く響くんと共有したい。その為には同じ家に暮らした方が早いってね」
「……なるほど」
「もう、オレは響くん無しでは生きられない。水が無ければ枯れてしまう切り花同然の存在なんだよ~」
「アレンのどこが切り花だよ。抜いても抜いても生えてくる雑草の方がふさわしいね」
「うぅ、神音が冷たい~」
 すっぱり言い捨てられてアレンさんが顔を手で覆い隠し、泣く真似をした。
 神音はずいぶん長い間考えていた。
「……寂しいけど、仕方ないか……」
 小声で呟いた神音が、何かを吹っ切るように息を吐き出した。
「ぼくもね、引っ越しを考えていたよ。響には言ってなかったけど、父さんたちが引っ越しをしたんだ。お互いにすぐには会えない場所にいた方がいいだろうって。ぼくたちも引っ越して、母さんには住所を教えないようにしようと話し合っていたところだったんだ」
「……そう」
「うん……いくつか候補は絞っていたけど、決まってから響に伝えようと思って言いそびれていたんだ。ごめん」
 慎重に言葉を選びながら神音が告げた事実に、胸の奥が引きつれたような感じがした。
 離れる必要があるほど、俺にとって母はまだ危険なままなのかと思うと胃が鉛に変わってしまったように重くなる。
 軽く息を吐き出し、意識を切り変えた。
「でも神音、ひとりで大丈夫?」
「失礼な。弟くんはこれでも進歩しているのですぞ。それに引っ越すけど、響も暮らせる部屋にするよ。いつアレンと喧嘩して戻ってきてもいいようにね」
 神音は片目を閉じて、笑ってみせた。
「つまり響は選びたい放題なわけ。アレンと暮らしてもいいし、ぼくと暮らしてもいい。さすがに一人暮らしだけは許さないけどね」
 アレンから聞き出したよ、と表情を一変させてぎろりと神音が俺を睨んでくる。
 母を刺激しないように神音と離れて暮らそうと部屋を探していたことが神音にばれてしまったらしい。
 俺はそっと苦笑して肩をすくめる。
「響は強がって平気なふりをして、何かあっても不調を隠すから一人にはしたくない。これだけは片割れとして譲れないよ」
「……ごめん」
 そこまで信用がないのかと反論したくなったけど、身に覚えがありすぎるので言い返すこともできない。
 痛いと訴えたところで、優しくしてくれる手が俺にはなかったから、耐えることが当たり前だったんだ。
 神音の主張に何度も頷いているアレンさんも、きっと同じ意見だからこそ今日ここに来て提案しているのだろう。
「オレが響くんと暮らしてもいいんだね?」
 アレンさんが再確認すると、神音が口を尖らせて片手をひらひらと振った。
「響次第だよ。でも同居したとしても、響の準備が整うまでは手出し厳禁。それに絶対に翌日が仕事の日は響に手出ししないでよね。これ、仲間として譲れない絶対条件だから。わかってる?」
 手出し、と首を傾げる俺を蚊帳の外にして、神音に対しアレンさんは胸に手を当てて誓いますと宣言し、神音は重々しく頷いた。
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今から14年前、関係を秘密にしていた恋人が俺の存在を忘れた。 そのことにショックを受けたが、彼の家族や友人たちが集まりかけている中で、いつまでもその場に居座り続けるわけにはいかず去ることにした。 その後、恋人は訳あってその地を離れることとなり、俺のことを忘れたまま去って行った。 あれから恋人とは一度も会っておらず、月日が経っていた。 あるとき、いつものように仕事場に向かっているといきなり真上に明るい光が降ってきて……? ※沢山のお気に入り登録ありがとうございます。深く感謝申し上げます。

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