お兄ちゃんがBL作家

郁一

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4:喫茶ロゼとデビュー作

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 からん、と鐘の音が鳴る。
 喫茶ロゼの入口扉を守る鐘の音に、俺は条件反射で振り向いた。
 扉の前に二十代半ばくらいの男性が立っている。
 黒の細身のスーツにネクタイ、シャツの首元のボタンを二つ外して暑そうに顔をしかめていた。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
 ランチタイムが終わって、客足が途切れた店内は穏やかだった。
 カウンター席が五つとテーブル席が三セットの店内を見渡すこともしないで、男性は真っ直ぐにカウンター席の右端から二番目、マスターの前の椅子に座った。
「う~ん、涼しい……真夏の昼間に喫茶店でアイスコーヒー。最高の贅沢だ」
 男性はするどく引き締まった容貌を崩して、片方の唇の端を持ち上げて笑う。
「よぉ、お疲れさん」
 目の前にいるマスターに、片手を挙げて挨拶する。
「マスター、お知り合いですか」
 俺の問いかけに頷くマスターの表情は、いつもと少し違う。
 微笑んでいるけど照れてもいるような、見慣れない表情で男性を見ていた。
 身長二メートル近いマスターは、柔道かレスリング選手のような体格を持っている。
 顔も四角くていかつい。でも眉毛は薄いし目が細くて、顔立ちの印象は薄い。
 その顔が浮かべる笑顔は、ぽかぽか日向でまどろむ時の心地よさを見る者に与えるのに、いまの笑顔はもっと激しさがあった。
 何でだかわからないけど。
「ボクの同級生なんだよ。名前は柳澤克己」
「そうなんですか……はじめまして。俺は本巣朱雀です。半年前からバイトとして雇ってもらってます」
 柳澤さんに向かってぺこん、と軽く頭を下げる。
 相手はなぜか困り顔になった。
「あぁ……うん、はじめましてだな。けどオレは朱雀くんの話を前から聞いてたからな。どうも初対面って感じがしねぇや」
 柳澤さんが苦い物を噛んだような表情で頭をかいている。
 その前にアイスコーヒーを差し出して、マスターも苦笑していた。
「いやぁ~これ、コレだよ、うん。いただっきます」
 まるで子供のようにはしゃいで、柳澤さんがストローをグラスにさす。
 先端をくわえて、見る間に半分近くまで飲み干した。
「……くっは~……生き返るぅ」
 あまりにも感情がこもった言い方だった。マスターと俺は笑いを誘われる。
「ところでマスター、俺のどんな話をしたんです」
 思わず唇を尖らせて詰る俺を見て、柳澤さんは吹き出した。 
「違う違う。こいつじゃなくて、いや、まぁ……二割くらいはこいつからも話を聞いてたけどなぁ。主な発生源は飛鳥だよ」
 柳澤さんの声を鼓膜が弾き返した。
(いま、なんて……?)
「朱雀くんのお兄ちゃんが主な生産地だ」
 今度こそ体中から力が抜けた。
 俺の心臓が激しく鳴りだす。
(この人、俺に会いに来たんだ……っ)
 柳澤さんが俺を見る。
 目が合ったとたんに、そう直感した。
「浩二、いま話をしててもいいか」
 マスターに柳澤さんが了承を得る。
「店内は見ての通りの有様です。全然かまわないよ。それよりも飛鳥に無断で来たね……ボクは飛鳥から何も聞いてない」
「その通りだが、いい加減にしてもらわないとオレの責任問題がかかってるんだ。当事者に解決する意志がない以上、外野がでしゃばらないと埒があかねぇって」
 俺にはさっぱりな会話がふたりの間で交わされる。
 同級生だからか、親密な色合いだ。
「時期が来たら飛鳥が自分の口で話すよ」
「いまこそが時期とやらだ。というわけで、朱雀くん。ちょっと話を聞いてくれないかな」
 いきなり会話を振られて、俺はまばたいた。
「本巣くん、カツミの隣に座りなよ」
 マスターが背中を押してくれる。
 ためらいながらカウンターから客席フロアへ出て、カウンター席に歩み寄る。
「カツミの隣に座らせるのは、本巣くんだからだよ。特別にだからね」
「と、特別にって」
 営業時間中に個人的な会話をするから、という意味じゃないらしい。
 柳澤さんがうろたえて、両手を意味なく振り回す。
「ちょ……浩二、何を言いやがるッ」
 マスターはいつもの笑顔で、さらりと言い放った。
「カツミの隣の席は、永久的にボクの物だもの」
「…………」
 俺と柳澤さんは言葉を失った。
 マスターの笑顔の裏に何かがある。俺はちょっと肌寒さを感じた。
「……じゃ、じゃあ…おコトバに甘えて、隣失礼します」
「浩二が変な事言いやがるから、朱雀くんが怯えてるじゃねぇか」
 柳澤さんがマスターを睨みつけたけど、マスターの笑顔は怯まない。
(すごい、マスターってこんな人だったっけ……?)
 こっそり胸の奥でマスターの情報を書き換える。
「変な事じゃないよ。ボクにとっては譲れない事実。カツミはボクの恋人ですからね」
 さらなる爆弾発言に俺は凍りついた。せっかく書き換え中だった情報がすべて真っ白になる。
「こ、コイビト……」
 呆然と呟く俺の横で、顔を真っ赤にした柳澤さんがマスターに食ってかかっている。
「浩二ッ! てめ、オレの許可なく他人に言わないって約束しただろっ」
「朱雀くんは充分関係者です。他人じゃないよ、理由を言おうか」
 しれっと言うマスターを柳澤さんは止めようとしたけど、わざと無視したマスターが先を言ってしまう。
「ひとつ、ボクの雇用者。ふたつ、ボクの同級生飛鳥の弟。みっつ、カツミが気を揉んでいる問題の当事者。みっつめはボクからカツミの気持ちを奪っているという点で、ボクにとっては最大級の問題です」
「わ、わかったから……ったく」
「……ごめんなさい」
 意味もなく謝罪の言葉が口から飛び出した。
 穏やかなマスターしか知らなかった。
 こんなに感情を現した言葉を立て続けに吐き出すマスターをはじめて知った。
 柳澤さんは隣に立って俯いた俺の頭に手を乗せて、ぽんぽんと叩いてくれる。
「おまえさんが謝る必要はねぇよ。謝らなきゃならねぇのは飛鳥の方だ。小説家になったってのに、自分の気持ちを言葉にできずに、おまえさんを勘違いさせた。それを解こうとする勇気もなくて、ひきこもってんだ。まったく浩二を見習えって」
 いいから座れ、と隣の席の座面を叩かれた。
 そこに座るとマスターが俺の分のアイスコーヒーを置いた。
「本巣くん……ではわかりにくいね、ボクも朱雀くんと呼ぶよ。朱雀くんを責めるつもりじゃなかったんだよ、ごめんね」
「いえ……大丈夫です」
 本音はまだ胸が変に脈打っている。
 苛立ちを紛らわすために頬杖をついた柳澤さんが、指でカツカツと木を叩いた。
「あまり緊張しないでくれ。オレはこういうの苦手なんだよ」
「……こういうのって」
「お節介、他人の恋路の口出し」
「こ、恋路って……」
 頬杖を解いた柳澤さんが、内側の胸ポケットから名刺入れを取り出す。
 一枚を俺に手渡してくれた。
 受け取った名刺を読み上げる。
「塩尻出版、プラチネール文庫編集部、柳澤克己さん」
「飛鳥とは高校からの友人であり、いまは担当編集者と作家という関係でもある」
「兄に次の作品はBL小説を書けって言った人ですね」
 すると柳澤さんは俺を見て顔をしかめた。
「んだ、そりゃ……何の話で、だれに聞いた」
「え……兄から聞いたんです。体験したことないから書けないって」
 柳澤さんが本気で驚いているようで、俺は不安になってきた。
 そんな俺をまじまじと見てから、ぐああっと奇声をあげて柳澤さんは頭を抱えた。
「ぬわにが、体験してないだっ!」
「ち、違いましたか……すみません」
 人違いだったなら悪いことをしたな。
 そう思って謝ったのに、柳澤さんは違う違うと手を振った。
 新しいストローでアイスコーヒーをすすってから、またポケットから今度は大きめの何かを取りだした。
 テーブルに置いて、手で押してくる。
 柳澤さんの手が離れて、表面が見えた。
「うわっ、これ……」
「オレの勤め先が出している文庫本だ。飛鳥は二年前にこの本を出版して、小説家デビューをしたんだ」
 華やかな色使いで、一見すると女性にも見える男性と、サラリーマン風の男性が抱き合うイラストが表紙だった。
 作者名は飛雀とわへ。
 見たことも聞いたこともなかった。
 これが兄貴が書いた小説なんだと、すぐには信じられない。
 帯には流れるような形の文字で、煽り文句が書いてある。
『あなたに抱かれるなら、すべてを捨ててもいい――』
 すると柳澤さんが遠慮がちに口を開いた。
「わかるか? BL小説と分類される内容だ。オレのいる部署、プラチネール文庫っていうのはな、そういう内容の本しか扱わない部署だ」
「え……?」
 BL小説を扱うプラチネール文庫。
 そこから二年前に本を出版した。
「つまり……兄貴は最初からBL小説を書いていた……?」
 苦々しいため息をついて、柳澤さんが頷く。
「ったく、あいつも白々しいうそをつきやがって……って、おい。何を泣いてんだ」
 柳澤さんが慌てて言うから、俺は何がとぼんやり顔を上げる。
 その時、頬をするりとすべっていく感覚があって、ようやく俺が泣いているんだと気づいた。
「おいおい、勘弁してくれよ。おまえを泣かせたなんて飛鳥にバレたら、首絞められるだけじゃすまねぇよ」
「……大げさです」
 もうすぐ高校を卒業する男なのに、人前で泣いたことが気恥ずかしい。
 手で涙を拭いて、苦笑いでごまかそうとした。
 ところが柳澤さんはまじめな表情だ。
「いや、ほんとなんだって。飛鳥が会社員だったのは知っているだろ」
「はい。親に聞きました」
 東証一部に上場している大手会社に就職したらしくて、お年玉の額も上乗せされたんだ。
「会社をクビになったんだよ。その本の中で、主人公がクビ切られる場面があるんだが、リアルに体験したからだろうな、すごくよく書けてる。それはともかく、飛鳥が会社をクビになったのは、子会社の社員を殴ったからでな」
「あ、兄貴が人を殴った……?」
 マスターが洗い終わったグラスを拭きながら、会話に入ってきた。
「飛鳥がその事件を起こした時、会社の上司にどれだけ厳しく理由を問い質されても、最後まで何も言わなかったらしい」
「オレたちには話してくれたんだが……理由はな、おまえさんだ」
「え、何で俺?」
 盆と正月に帰ってきた兄貴と、いま何してるんだとか、関係ないだろとか話すくらいだった俺が、兄貴の喧嘩理由になりようがない。
「あいつが殴った子会社の社員が中高生の盗撮画像をネットで販売してたらしい。飛鳥はたまたまおまえさんが映ってる画像を見つけて、子会社の社員の仕業だと調べ上げた。隠し撮りだからおまえさんは気づいてないだろうが、電車内で痴漢されてるところ」
 心当たりはあった。
 高校一年になったばかりで、はじめての電車通学にも不慣れだった頃に、俺は何度か痴漢行為に遭っていた。
 中でも性質の悪い行為があって、それから乗車時間と車両を変えて友人と同じ時間に登校するようにしたんだ。
 思い出したら顔色が悪くなったみたいで、マスターが大丈夫と声をかけてくる。
「あぁ、はい……平気です」
「我慢できずに殴っちまったとさ。その社員だけじゃねぇ、パソコン本体も粉々になるまで。当時のあいつの両手は悲惨だったぜ……何も素手で殴らんでもいいのになぁ。あいつがそんなになるほど理性を吹っ飛ばしたのは、盗撮されてたのが弟だからじゃねぇよ。朱雀くんだからだ」
 微妙な言いかえをされて、俺の理解力が追いつけない。
 マスターがやんわりと口を挟む。
「カツミが盗撮されてたら、ボクだったらその社員殴るだけじゃ済ませないよ。海に縛りあげて重石つけて沈める」
 相変わらず穏やかな口調なのに、本気だとわかるから背筋を冷たい何かが滑り落ちていく。
 柳澤さんも同じだったみたいで表情が強張っていた。
「オレは朱雀くんみたいにキレイじゃねぇから平気だって」
 きれいと言われるのは心外だ。
 柳澤さんはしわを寄せた俺の眉間をつついた指で、兄貴の本を示した。
「こんだけ言ってもわかんねぇなら、この本を読んでやってくれ。飛鳥が抱えてきた想いの端をオレたちは聞いてきたし、見て来た。この本の中で語られる想いは、間違いなく飛鳥の想いに重なっている」
 手をつけていないアイスコーヒーの中で、氷が溶けて崩れ、グラスを弾いた。
「飛鳥はおまえさんに嫌われて、締め切りを破るくらい落ち込んでいる。オレが叱り飛ばしても、おだてても無駄だった。後はおまえさんだけが頼りだ。どうにかしてやってくれ。今日はそれを言いに来たんだ」
「柳澤さんがどうにもできないなら、俺にだってどうにもできませんよ」
 立ち上がりかけた柳澤さんの腕を、とっさに掴んでいた。
「俺たちは約五年間、ほとんど顔も合わせずに生活してきたんだ。そんな俺が何を言ったって……兄貴には関係ないはずです」
 柳澤さんの返答はなく、マスターも何も言わなかった。
 エアコンの動作音がやたら大きく聞こえる。
「オレは飛鳥の友達だから、飛鳥が幸せになって欲しいと思っている。その為にここに来たんだ。朱雀くんは飛鳥の幸せそのものだからな」
「……気持ち、悪くないんですか」
 兄貴の本を見下ろしたまま、無意識に問いかけていた。
 言葉はないけど、ふたりが俺を見て視線で何がと問いかけられているのがわかった。
「ふたりとも、同性ですよね……俺と兄貴だって、そうです。それに俺たちは兄弟なのに……好きに、なれるんですか。そもそも好きって、何ですかッ」
 なぜだかわからない。言いながら、涙が目からあふれた。
 恥ずかしいと頭の片隅で思うけど、さっきと違って全然止められなかった。
 仕事用のエプロンをつけたままの胸元を握りしめた。
 心が痛かった。
 俯いて涙を膝に落とす俺の頭を抱き寄せて、柳澤さんが背中を叩いてくれる。
「……泣くなって言ったのに。こんなところ飛鳥に見られたら海に沈められちまう」
 力ない柳澤さんの言葉が頭上から降り注ぐ。
「オレは浩二が苦手だった。友達として付きあってはいたけどな、飛鳥といる方が楽だった。だから高校卒業したら会わなくなって、それっきりになると思ってたさ」
 くたびれてはいるけど、ちゃんと手入れしてあるスーツに沁みが出来ると思って、柳澤さんから離れようとした。
 でも後頭部に手を添えて、宥めるように撫でてくる温もりが気持ちよくて、目を閉じて甘えることにした。
「ところが大学三年の頃、浩二がいきなり部屋にやってきて、オレは強姦されちまった。悲惨な馴れ初めだろ?」
「ま、マスターが……」
 穏やかなマスターという印象と正反対な言葉に、俺の涙が引っ込んだ。
 見上げると、苦笑している柳澤さんと目が合った。
「死にたかったぜ。でもな、舌を噛もうとすると浩二が自分の舌を入れてきて、噛むなら一緒に噛んでって言いやがる。オレが食事を断つと浩二も何も食べない。生き死にを一緒にするって言いやがって……オレの方が折れた」
 マスターを見ると、少し切なそうな笑顔で俺を見つめ返していた。
「部屋に居座って、当たり前の顔でオレの世話を焼いて、一緒に寝る。朝から寝るまで、好きだとくり返して、付きまとう。オレはうんざりしてた。消えてくれって心底思った。そしたらある日本当に姿を消しちまってよ。これでせいせいしたぜって思うはずなのに、俺は狂ったように浩二の居場所を探して歩き回ってた」
 淡々と語られる声の陰に、柳澤さんの痛みが伝わってくる。
「やっと会えた時はいきなり消えるなって怒ったし、また会えてよかったって安心しすぎて泣いちまった。まったく、オレらしくもねぇ……浩二は苦手だったのに。いまじゃ、いないと生きてる心地がしないんだぜ。好きになるってのは、こういうもんなんじゃねぇの。選択した覚えもねぇのに、いきなり実体験させられたオレが言うんだ。好きだとかそういう想いの前に、理屈なんて役立たずだぜ」
 そうなんだろうか。自分の中の霧はまだ晴れない。
「……朱雀くん、もし飛鳥が遠くへ行ったり、結婚してしまったら、どう感じる?」
 マスターが穏やかに切り出した。
 問いかけをくり返した俺の胸に、亀裂が入ったような痛みが走る。
「ふたりの戸籍上の関係の通り、ただの兄と弟になっても、朱雀くんは笑っていられる?」
「…………」
 答えられない俺に、マスターが体を乗り出した。
「ちょ、おいっ、浩二! それはヤバイって」
 焦る柳澤さんの制止もきかず、マスターが俺の唇に唇をさっと重ねて離れた。
 呆然とマスターを見上げる。
「ボクにキスされて、どう感じた? 気持ち悪かったかな」
 だったらごめんね、と謝る声にはからかう気配が見えた。
「飛鳥とキスはした? 朱雀くん、よく考えてごらん。カツミはボクに抱かれて、死ぬほど嫌がった。男として当然の反応だとボクでも思うよ。朱雀くんはどうだった?」
 ふたりがどこまで聞いているのかわからない。
 だけど俺自身は覚えている。
 一度目のキスは、不意打ちでほとんど覚えていない。
 二度目のキスはから揚げの味がした。
 抱きしめられて、押し倒された時に怖かったけど、嫌悪感はなかったと思う。
(そ、うだよ……俺、男でしかも兄貴に押し倒されたってのに、全然気持ち悪いとか思わなかった)
 マスターの問いかけに導かるように、浮かび上がった感情に俺はうろたえた。
 俺はカウンターに震える手を伸ばした。
 兄貴のデビュー本を取り上げる。
「……今日は客足が遠いようだから、あがっていいよ。朱雀くん」
 マスターの声に頭を下げて、エプロンを脱いだ。
 家に帰る道のりが、いつもより何倍も遠く感じた。


『兄さんは、俺が実の弟じゃないって、いつ知ったんだ』
 雪のように白い南の頬に、透明の涙がすべり落ちていく。
 その目元を隠す黒髪に明かりが輪を作っていた。
『優秀な南らしくないね……ぼくが十二の時に親が再婚したんだ。ぼんくらなぼくでも、そんな年になっていれば理解できる』
『はじめから、俺をそういう目で見ていたのか。優しい兄貴面して、本当は弟だと思っていなかったんだろ!』
 顔を上げた南の濡れた目が、火を吹きそうな激しさでぼくを睨みつけた。
 いつも冷静沈着な南が、はじめてぼくの前で激情をあらわにしている。
 それがうれしくて、痛々しくて、ぼくは南を両腕で包みこんだ。
『ふざけるなッ、俺に触るんじゃない!』
 南は両腕を振りまわしてぼくから逃れようとするけれど、ぼくは南の体を抱き寄せた。
 ほとんど同じ目線にある南の目を見つめながら、ごめんねと囁いた。
『ごめん……兄になれなくて、ごめん。本当にごめん』
 ごめんとくり返し続けるぼくに、南がいい加減に焦れてきたらしい。
 目を閉じて頭を振った。
『うるさいッ、他に言うことはないのか』
『好きだよ。ずっと、ずっと好きで……南が言う通り、はじめて会った時から好きになってた』
『……俺はおまえの、そういうところが大嫌いだ』
『そういうところって?』
 南は唇を尖らせてぼくを睨んだ。
 ぼくが南がかわいいなと思う表情のひとつだ。
『何でもかんでもひとりで抱え込んで、ひとりだけで我慢して、それなのに幸せですって顔して笑うところだよ』
『み、なみ』
『何でもっと早く言わなかった、馬鹿ッ』
 そう吐き捨てると、信じられないけれど、南の方がぼくの頭を両手でつかんで顔を近づけた。
 体だけを繋げたあの日とは違う。
 重ね合わせた唇から、熱に包まれていろんな想いがぼくの胸に伝わってくる。
 長い年月、秘め続けた想いに冷え固まっていた胸が、熱くて痛くて今度はぼくが泣いた。


 本を読み終えると、俺はしばらく宙を見上げて、ただ呼吸をくり返していた。
 兄貴が書いた物語は、義理の兄弟の恋愛物語だった。
 学生時代から不登校や中退をくり返して、就職してもすぐにクビにされて、家事手伝いをしている兄。
 一方、高校生にして起業し、成功をおさめた弟。
 兄は弟に恋心を抱いていることにも苦しんでいた。
 抱えきれずにあふれた想いを書きとめたメモを、南が読んでしまう。
 ただの小説なんだと主張する兄を、ならば実体験してみるかと南が抱いて、ふたりはそれから体の関係を持つようになる。
 想いは絶対に口にしないまま、弟に抱かれることで満足しようとする兄と。
 信頼していた部下に裏切られて会社を失い、いまの両親と暮らす前の記憶を取り戻して、精神的に追い詰められていく弟。
 恋愛物語のお約束通り、ふたりは障害を乗り越えて、想いを通わせることができた。
「どこまでが兄貴の想い?」
 だれもいない部屋の中で、だれもいない宙に向けて、ただ呟いた。
 もちろん返事があるわけもない。
 俺は本を床に投げ落として、ベッドにもぐりこんだ。
 目を閉じると、あの日の兄貴の声がよみがえってくる。
『僕をただの男の、本巣飛鳥だと思って』
 俺は両手で耳を塞いで丸まった。
 いまは何も考えたくないんだ。
 かたく目を閉じて、そのまま時間をやり過ごしていく。
 時計の秒針が時を刻む。
 一階で物音がしていて、まだ両親は起きているんだとわかった。
「……はぁ~……やっぱり眠れない、か」
 心は疲れているはずなのに、どこか一部分だけが妙に高揚していて、眠気はまったく近づいてこない。
 ため息をついて、俺は起き上がった。
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