お兄ちゃんがBL作家

郁一

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5:無くしたものと手に入れたもの

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「あら、朱雀まだ起きてたの?」
「うん」
 一階に下りると、台所にふたりがいた。
 食卓には空になった食器が置かれたままだから、たったいま食べ終わったところなんだろう。
 ちらりと壁の時計を見上げる。
 あと五分で十一時だ。
「……今日も遅かったんだね」
 緑茶をすすりながら、疲れたわとふたりが同時に苦笑する。
 父親は弁護士で、母親はその事務所で助手をしている。
「世も末ね……弁護士事務所が連日の残業ラッシュだもの」
「まったくな」
 重く同意して父親が湯のみを傾けた。
「朱雀は遠慮しないで先に寝なさい」
 疲れが隠しきれない声だけど、父親は優しく言ってくれる。
 こんな時に尋ねるのは酷だと思う。
 でも、いまを逃したら二度と尋ねられない気がした。
 食卓に残っていた椅子に座って、ためらいながら口を開いた。
「あのさ。ひとつ、聞きたいことがあるんだ。それ聞いたら寝るから」
「何よ、あらたまって」
 母親が目を丸くしている。
 光が当たると茶色くなる黒髪の父親と違って、母親の黒髪は深い。
 肌の色も母親仲間から羨ましがられるほどに白くて、可愛らしい小顔は年齢を重ねてもまだ若々しい。
 そんな母親に俺は似ているらしい。
 そして、兄貴のデビュー作の弟、南も黒髪と白い肌が特徴だった。
 俺は膝の上で手を握りしめる。
「よく覚えてないから、教えて欲しいんだ……俺って、父さんと血がつながってないの」
 言いながら、言い切る自信が持てなくて、最後の方は声が震えてしまった。
 ふたりを見る勇気がないから、食卓の上の汚れた食器を睨みつけた。
 しばらくふたりは何も言わなかった。
 俺は自分の呼吸だけを聞いていた。
「……あら、ようやく思い出したの?」
「はぁ?」
 母親が緑茶をすする。
「だって朱雀ったら、すんなり新しいお父さんにもお兄ちゃんにも懐いちゃって、しかも再婚する前の記憶を忘れちゃったし。まぁ、いいやって思ってたんだけど、いまごろ思い出したのね」
「…………」
 けろりと母親が言うから、拍子抜けだ。
 あんなに思い悩んだ俺の覚悟を返せ。
「……そ、そうだったんだ」
「前の旦那と離婚しようって決めた時に、相談したのがこの人だったの。もう、私のヒトメボレでね~」
 緑茶をテーブルに置いて、父親に手を伸ばした母親が、その指で父親の頬を突いている。
 細身のスーツとネクタイがよく似あう、渋くて熟成された男性の色気を振りまく父親を、まるで猫みたいに扱えるのは母親だけだ。
 しかも父親は男前をくにゃり、と崩してその指に甘えるんだ。
「ん、もう、奈美さんったら……オレの方が早くヒトメボレしたんだよ~」
「ちがうわ、私よ~」
 ぐりぐり指で頬を突く母親と、その指を舐めそうな勢いで甘える父親。
 交互に見た後で、どっと疲れた俺はもういいや、とふたりに背中を見せた。
 さすが兄貴を育てた父親だ、甘え方がよく似ている。
「飛鳥は生みの母親を知らない。生まれる直前に亡くしたからな……帝王切開だったんだ」
 俺の背中に父親が語りかける。
「それからふたりで生きてきた。辛いと思ったけれど、飛鳥の辛さはオレ以上だったろう。奈美さんはオレたちを救ってくれた。深い愛情でオレたちだけじゃなく、朱雀も包んでくれている。そうだろう?」
「……父さん」
 振り返ると、母親と手をつなぎ合った父親が俺を見上げて笑っていた。
「オレはみなと家族になれたことを、これ以上ない幸せだと思っている」
「朱雀も、そう思える人を見つけたら、しっかり手をつないでおきなさいね」
 若々しく見えるけれど、俺よりも長く人生を歩いてきたふたりの顔に、拭いきれない影がある。
 母親が離婚までを語らないのは、俺に罪悪感があるからかもしれない。
 その母親を支えてくれる父親のまなざしが、血のつながりを越えた温度で俺を見ている。
 ふたりが苦い影を背負いながらも、笑っていることが羨ましく思えた。
 胸が熱くなって、泣きそうだった。
「……年がいもなく、イチャイチャするなよ。恥ずかしいな」
 慌ててふたりに背中を向けて、捨て台詞を残して台所から逃げだした。


 アスファルトにかげろうが立ち昇る。
 揺れる道路に弾かれた日差しが肌を焼いていく感覚がわかる。
「……あっちぃ~……帰ったら、マスターに何かもらおう」
 額の汗を拭おうと腕を上げるとがさり、と音がした。
 手には店の常備品、買い物袋がぶらさがっている。
 毎朝、前日の営業終了後に業者に発注しているけれど、予想よりも客足が伸びていくつか食材が切れてしまいそうだった。
 そこでマスターに頼まれて、近くのスーパーまで買い出しに行った帰り道だ。
 とくにレタスが入った買い物袋はずしりと腕に響く。
 二時のランチタイム終了直前に店を出たから、いまが一番日差しが強い時間帯だ。
 交差点で信号が変わるのを待つのもしんどい。早く冷房の効いた店に入りたいと気が焦った。
 暑さのせいで疲労感が体中を重くする。
 そんな俺の肩を、だれかが叩いた。
 条件反射で振り返ると、信号待ちをしている数人とひとりの男性が視界に映った。
 俺の肩を叩いたのはその男性らしい。
 ビルの窓掃除をする作業員みたいに、あちこちにベルトや道具をぶらさげたグレーの作業着を着ている。
 こんなに暑いのに、その作業着は長袖で見たところ厚い生地で出来ているみたいだった。
 作業着はそれなりにくたびれているから、なりたての作業員ではないみたいだった。
 にこりと笑っている顔を見ると、たぶん二十代後半くらい。
 大きめの鼻がまず目を引く、男らしいごつごつした顔立ちで、人の良さそうな笑顔を浮かべているけど、俺にはまったく見覚えがない。
「……何ですか」
 不審人物の登場に、暑さのあまり機嫌が悪かった俺は無愛想なまま男性に言った。
 相手が笑っているからって、俺が笑わないといけないわけもないし。
 そう思っていると、男性がさらに笑顔を深くした。
「きみ、本巣朱雀くんだよね」
「……答える義務はないだろ」
 だれとも知らない人間に、いきなり名前を言い当てられても、いい気分にはなれないもんだ。
 さらにぶっきらぼうに言葉を投げ返し、さっと交差点へ向き直ろうとした。
 その腕をつかんで、男性が言葉を続ける。
「本巣飛鳥の知り合いなんだけど、ちょっとこっちに来てくれない?」
「……うるさいな、離せよ」
 汗ばんだ肌をつかむ男性の手が不愉快だった。
 腕を振って振り払おうとしたけど、見かけよりも強く握られていて、まるで離れそうにない。
「彼に頼まれて、きみのお父さんを探していたんだ。見つけたから、お父さんに会ってあげてくれないか」
「……な、なに?」
 男性の手を振り払うのを忘れて、ぽかんと俺は口を開けた。
 いま、こいつは何て言った?
「本巣飛鳥に頼まれて、朱雀くんのお父さんを見つけてきたんだ。いまそこにいる。会いたがっているんだ。だから会ってあげてくれ」
 反応の薄い俺をどう思ったのか、男性がゆっくりともう一度説明し直した。
 それでも俺の頭は止まったままで、男性の言葉を半分も理解できなかった。
 両親に確認したし、兄貴の書いた本を読んだとしても、俺の中ではやっぱり父親はいまの父さんしかいない。
 しかも兄貴が俺に黙って、本当の父親を探していたなんて知らない。
 こいつは何を言ってんだ、と頭が理解を拒む。
 いつまでも立ち尽くす俺に痺れを切らしたのか、男性がつかんだ腕を引っ張って歩き出した。
 信号待ちをしていた交差点に背を向けて、引っ張られるままに歩き出した。
「……ちょ、ちょっと、離せよ、離せって」
 二、三歩、彼の後を歩いたところで正気を取り戻した。
 俺はまた男性の手を離そうと腕を振るけど、さっきよりも強く握りこまれた。
 指が皮膚に食い込み、筋肉を圧迫する痛みに顔をしかめて呻いた。
 男性は俺を無視して、ずんずん歩いて行く。
 出てきたばかりのスーパーを横切り、角を曲がる。
 細い道の先は行き止まりで、中華料理店の裏口があり、生ゴミが積まれているだけだ。
 そこに何の用だ、と思ったところで腹に思わぬ衝撃を受けて息が止まった。
 暗くなっていく視界の中で男性が俺を見下ろして笑っていた。
 その膝に腹を蹴られたのだとわかったところで、俺は意識を失った。


 変な匂いに意識が引きずられるように戻ってきた。
 顔をしかめたくなるような匂いと、熱せられて薄くなった空気に息苦しさに不快感が増す。
 目を開けると、薄赤い部屋の中にいるのだとわかった。
 パチンコ屋かゲームセンターのように、大音量で激しい音楽が鳴っている。
 壁には大きな鏡が何枚もついていて、大きなベッドがふたつ、室内の中央に並んでいた。
 俺はそのひとつに横向きで寝転がっていて、目の前のベッドを眺める形になった。
 そこにはふたりの人間がいた。
 どちらも裸で、四つん這いになったひとりの上に、もうひとりが覆いかぶさっている。
 ガンガン鳴り響く音楽の合間に、彼らの荒い呼吸と粘着的な音が聞こえた。
 それは覆いかぶさる人間が動くたびに聞こえてくる。
「気持ちいいか、ん?」
「あっ、あ……い、い……んぅ、んっ」
「淫乱な子だな……オレのを咥えて、うまそうに締まってるぜ」
 嘲笑う声は、俺を強引に引っ張って来た男性の声だった。
 彼は十代半ばくらいの少年を後ろから抱えて、腰を少年に打ちつけていた。
 俺は目を見開いた。
 何か運動部に所属しているのだろう、少年の体はきれいに発達した筋肉をまとい、性別を疑うような外見はしていない。その子を四つん這いにさせて、尻を付き出す姿勢させ、そこに腰を打ちつけている。
 無知な俺でも何をしているのかわかる。
「いやっ、ああん」
 少年が一際大きな声を出した。全身を突っ張った後、脱力してベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。
 その尻から自身を引き抜いて、彼が全裸のまま俺を振り向いた。
「よう、気づいたか? 心配しなくてもいいぜ、次はおまえさんの番だからな。すぐに気持ちよくなれるぜ。慣れたらこいつみたいに、自分から通ってくるようになるさ」
「な……何を言って」
 そこでようやく体が動かせないことに気づいた。
 顔を曲げて見ると、服を脱がされて背中に両腕を回され、そこで何かで固定されているらしかった。
 膝と足首をロープのような物で縛られて、曲げ伸ばしもできないほどきつく締めあげられていた。
「さ、パーティーをはじめようぜ。朱雀くん」
 彼の言葉が終わったところで、だれかが覆いかぶさってきた。
 五十代くらいの中年の男性が、たるんだ頬の肉を揺らして笑いながら、俺の体を撫で回してくる。
「おまえのはじめてのお客さんだ。この方は常連で、その手管に評価が高い。可愛がって気持ちよくしてもらえるぞ、よかったな」
「はっ、な……にをするっ」
 肌を撫でまわされる不快感に鳥肌が立つ。
「なにって、いま見てただろ? おまえには注文が殺到してたのに、本巣飛鳥に邪魔されて、オレは大損害だ。その分も稼いでもらわないとな」
「い、いやだ……触るなあっ!」
 彼の話していることなんて、ほとんど理解できてない。
 撫でまわす手、舐める舌や圧し掛かってくる体への恐怖、嫌悪感しか頭になかった。
「盗撮した映像を見たお客さんが、こいつが欲しいって注文してくれたら、その子をさらってくる。そうやって楽しんできたのに、おまえのせいで自粛しないといけなくなった。でもさすがにそろそろいいだろうと再開したところで、おまえさんを見つけたわけ。これはもう、詫びてもらうしかないだろ、そのきれいな体でさ」
「ほんとうにきれいだねぇ、きみ。はじめてを味わえるなんて、感激だよ」
 中年男性が震えながら囁いてキスをしてくるのを、顔を振って避ける。
 その度に頬や首にキスされて、気持ち悪さに吐き気がする。
 こんなことなら、持っていたレタス入りの買い物袋を振り回して逃げてくるべきだった。
 なんで大人しくついて歩いてしまったんだろう。
 縛られて自由のない体では、後悔しかできなかった。
 するりと背中を撫でた中年男性の手が尻の谷間へ移動したのがわかって、体を強張らせた。
「力を抜いてなさいよ、痛くしたくないんだから」
 ねっとりと糸を引くような中年男性の声に悪寒を感じる。
 尻の穴を撫でられて、ぎゅっと目を閉じた。
 喫茶ロゼでマスターに言われた言葉が、なぜかいま思い出された。
(これが、兄貴にされているんだとしたら?)
 つぷ、と滑りを良くするために何かを塗っていた指が穴の中に入ってきた。
 俺は目を閉じたまま、必死になってその指は兄貴のだとくり返し言い聞かせた。
 から揚げを作って食べたあの日の続きをしているんだ。
 ここは兄貴の部屋で、兄貴に抱かれているんだ。
 そう思えば耐えられるかもしれない。
「ふっ、あ……」
 何かが入ってくることのない場所に入れられる感覚に、だけどそれも吹き飛んでしまう。
 どんなに思いこもうとしたって、理性はだまされてくれない。
 いま抱きしめているのは兄貴じゃないし、指を挿入してくるのも見知らぬ男性だ。
 俺は心の中で兄貴を呼び続けた。そうしないと正気でいられない気がした。
「かわいいねえ~」
 耳のすぐ後ろで男性が囁いた時だった。
 バンッ、と鋭い音が音楽を切り裂いた。
 俺を抱いていた男性の体が強張って、震えた後で離れて行った。
「朱雀ッ」
 音楽を突き抜けてきた声に、俺は目を開いた。
 いまのは、兄貴の声だよな。
 聞き間違いじゃないよな、理性がだまされてくれただけじゃないよな。
 証拠が欲しくて声をたどった視線が、駆け寄ってくる人影を捕えた。
 和室の中で倒れていたり、から揚げを作る俺を労わってくれた姿が、どっと思い出されて俺の目に涙が浮かんできた。
「……あに、き」
「朱雀、朱雀ッ、ごめん、遅くなってごめんっ」
 整った顔立ちを歪ませて、泣きそうになっている本巣飛鳥が見えて、俺は長く息を吐き出した。
 安心したなんて言葉じゃ生温い。
「兄貴……遅くない、よ……」
 抱きしめてくる腕が今度こそ本当に、本物の兄貴なんだ。
 そう思ったら全身の力が抜けて、意識まで吹っ飛んだ。


 目が覚めると、ホテルみたいな清潔感ある部屋だった。
「……ここ、どこ?」
 弁護士の父親に育てられた俺は、貧しくないけど贅沢してもいない。
 一泊が万以上の部屋にひとりで泊った経験もない。
 だけどこの部屋がビジネスホテルとか、修学旅行で泊るような旅館でもないとわかる。
 寝心地のいいベッド、広い部屋。
 すると入口が開いて男性が入ってきた。
 俺はその人に見覚えがあって、あっと声をもらした。
 男性の方も俺を見て、一瞬だけ動きを止めた。
 細身で平均的な身長、まっすぐな茶色い髪と同色の目。
 笑うと下がる目尻、唇の右下にほくろがある。
「……父さん」
 育ててくれた父親じゃない。忘れていたはずの、再婚前の実父だった。
 父親が俺の呼びかけに、ほろ苦い笑みを浮かべて近づいてきた。
「覚えていたの、それとも思い出したのかな?」
 穏やかな声にも聞き覚えがある。
「……思い出したんだ。気絶する前に……あいつらを見て」
 俺をさらった男が少年を犯していたのを見て、幼い頃に見た実父の姿を思い出したんだ。
 夏休みのある日、パートに出掛けた母親の代わりに、父親が休みを取って俺の面倒を見てくれていた。
 近所の友達に誘われて遊びに出掛けた俺は、すぐに忘れ物に気づいて引き返したんだ。
 家の中に入ると父親の声が聞こえて、何だか苦しそうだから心配になって部屋を覗きこんで、そこで父親が少年と同じようにだれかに抱かれているのを見てしまった。
 俺はその衝撃が強すぎたんだろう。記憶と一緒に表情や声を忘れて、責任を感じた父親が離婚を切り出し、母親もそれに賛成したんだ。
 それが離婚の真相。
「そう……ごめん、朱雀」
「謝ることないよ。俺がちょっと……繊細すぎただけだって」
 お互いに気まずさに言葉を飲みこんだところに、別の声が聞こえてきた。
「澄弥が謝る必要はない。責任は俺にあるんだからな」
 また入口が開いて男性が入ってきた。
 彼にも見覚えがあって、思わず指を指した。
「あ、あんた、あの日のッ」
「指さすな、失礼なガキだ、ったく。そうだよ、あの時おまえの父親を犯してた張本人だ」
 肉食獣みたいに油断のない目つきと雰囲気の男性だった。
 彼が父親を犯している場面を見て、俺は記憶を失ったんだ。
「悪かった。おまえが出掛けたと思ってたんだ、まさか見られるとは思ってもみなくてな」
 頭をかきながら不器用に謝ってくる彼に、父親が食ってかかる。
「そもそも、部屋でするのは嫌だと言ってあったのに、無視した薫が悪い」
「どこでだってやりたくなるんだよ。それが恋人だろうが」
 薫と呼ばれた彼は、何を言っているんだという顔つきで父親に反論する。
「あ、の、な……あの時点ではまだわたしは、薫の恋人になるなんて了承していなかったでしょうが」
「ふん。口で言っていなかっただけだろう。それに、遅かれ早かれ俺のものになったことに変わりはないさ」
 父親は薫の言い分に呆れたのか、口を開けたまま立ちつくし、しばらくして俺を振り返った。
「……馬鹿は置いておいて、朱雀、大丈夫?」
「ちょ、馬鹿って俺のことかよ」
 薫の文句もきれいに聞き流す父親に、俺は薫を気にしながら頷いた。
 兄貴に会えた安堵感で気を失っただけで、怪我をしたわけでもないんだ。
 父親はにっこりと笑って、よかったと呟いた。
 そうしておどおどしながら俺を抱きしめて、頭を撫でてくれる。
 俺も遠慮しながら父親に抱きついた。
 血が教えてくれるのかもしれない。どんな証拠もいらない、この人が自分のルーツなんだと実感できた。
「彼が朱雀を狙っていると知って、見張らせていたんだけど、この暑さもあって油断したらしくてね。交差点の手前で見失ったと聞いた時は、心臓が止まるかと思ったよ」
 父親の体を伝って響く声を聞きながら、俺は疑問を投げかけた。
「彼って、だれだよ。何で俺を狙ってたんだ」
「飛鳥くんが会社員だった頃に、子会社の社員を殴ったことがある。それは知っている?」
 柳澤さんたちが教えてくれたことだ。俺は頷く。
「その殴られた社員が彼だ。グループ会社の他の社員や役員と組んで、彼はひそかに売春をしていたんだよ。飛鳥くんが証拠を集めたけど、警察が動くほどは集まらなかった。だからわたしが飛鳥くんと組んで朱雀を見守ってきたんだ。彼らのしていることに反吐が出るけど、潰してやろうとか思うほど正義感はなかった。でも朱雀に手を出したのは許せない。わたしのやり方でやらせてもらうね」
 父親の背後で薫が肩をすくめた。
「澄弥を怒らせるもんじゃないぞ。俺は骨身に沁みて知っている。その彼たちは今後、再起不能にされるだろうな……澄弥は天下のスエール・リル商事の副社長なんだぜ」
 経済世界に疎い一介の高校生でも知っている会社名に、俺はあらためて父親を見上げた。
 穏やかに笑っている父親が、まさかそんな大会社の副社長だとは。
「あれ……スエール・リル……? 兄貴が就職した会社が、確か……」
「そう、僕が就職した会社の副社長が、スーの本当のお父さんだったわけ」
 入口から兄貴が入ってきて、俺の疑問に応えてくれた。
「お久しぶりです」
 そう言って兄貴は父親と、何と薫にまで頭を下げた。
「薫……司部薫が社長で、私が副社長なんだよ。離婚した当時はまだふたりとも課長だったけど」
 父親がそっと説明してくれた。
 社長ってそんなに早くなれるんだろうか。薫も父親も社長、副社長と聞いて思い浮かべる年齢よりも若いのに。
「というわけだ、おまえさんは親父と俺に任せて、何も心配せずに帰ればいい。澄弥が暴走しないように、俺が責任もって舵取りするからな」
「暴走って、それは薫の方だよ」
「うそつけ。家族がからむと、とたんに容赦なくなるくせに」
 言いあうふたりを苦笑しながら、兄貴が近づいてきた。
「スー、帰れそう?」
「もちろん……ていうか、ここ、どこ」
「社長宅。スーの連れ込まれた場所に近かったんだよ。ゆっくり休ませてあげたかったし、これ以上ない安全圏だからね」
 聞けば社長と副社長は同居しているらしい。
 つまりは父親の自宅でもあるわけで、兄貴にとっても安心して俺を預けられる場所なんだ。
 ベッドから立ち上がると、ちゃんと服を着ていたことに安心した。
 お世話になりました、とまだ言いあっていたふたりにお礼を言うと、父親が近づいてきた。
「……いつでもここにおいで。飛鳥くんと仲良くするんだよ」
 そう言って、俺の手に部屋の合いカギを渡して見送ってくれた。
 父親が俺と兄貴のことをどこまで知っているのか、ちょっと気になったけど、兄貴が急かすように背中を押すから聞きそびれた。
 うん、まぁ、兄貴がいる目の前で、どこまで知っているのか話されるのも嫌だけど。
 喫茶ロゼに寄って、心配していたマスターに謝ってから家に帰り、兄貴が両親に事件の話をしてくれた。
 ひとしきり心配した後で、母親はいつでも父親に会いに行っていいよと笑った。
 それからまた平穏な生活が戻ってきた。
 夏休みも終わりに近づいた頃、一通の手紙が届いた。
 実父からで、問題は片付いたから、心配しないようにと書いてあった。
 翌日のテレビニュースで、いくつかの会社が吸収合併、倒産したと報じられた。
 それが俺に関係しているかどうかはわからないけど、実父の言うことを信じようと、俺はテレビを消した。
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