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6:友人と恋人
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夏休み残りわずか。俺は覚悟を決めて、電話をかけた。
柳澤さんに聞いた兄貴の携帯電話番号だ。
呼び出し音が続いて、このまま出ないつもりかなと思ったところで声が聞こえてきた。
『……もしもし?』
怯えたような、弱々しい声だった。
「兄貴。お願いがあるんだけど、聞いてくれない?」
わざと明るい口調で、はきはきと話す。
電話の向こうで兄貴が口ごもる気配がした。
『スー? ど、どうしたの、いきなり……』
「お願い、聞いてくれないかな。可愛い弟のお願いなんだけど」
可愛いと言うのは自分自身で抵抗があった。
『スー、何か変だよ。どーしたの、何かあったの』
兄貴が殴った男に連れ去られた記憶はまだ新しい。
それは兄貴も同じだったようで急に力を取り戻した声に、ひとまず安心する。
心配させる紛らわしい言い方をする罪悪感には目をつぶった。
「あった」
『何ッ!? 何があったんだッ』
高音に飛び上がった兄貴の声に笑いが誘われる。
「兄貴の特製冷やし中華が、いま、すぐ、どうしても食べたくなった」
『……ひや、し……ちゅーか』
ぽろ、ぽろと話す兄貴の姿を想像して、今度こそ声に出して笑った。
絶対に呆然としてる。ひょっとしたら口を半開きにしてるかもしれない。
「食べたいなぁ~。この前は俺がから揚げ作ってやっただろ」
押しかけて勝手に作ったのに、恩着せがましく言ってやる。
こうしなければ兄貴は俺に会ってくれない気がするんだ。
電話の向こうは静かだった。
やっぱり兄貴はためらっている。
「今日はバイト休みだし、兄貴の部屋エアコンあるだろ。涼しいところで思い出の味を食べた~いッ」
会うために口実に使っているけど、兄貴特製冷やし中華が食べたいのは本当だった。
麺は市販のものだけど、かけるタレは兄貴が市販調味料を混ぜ合わせた特製で、それが美味しいんだ。
「教えてもらった通りに作ったんだけど、やっぱり兄貴の味にならないんだ。涼しくなってきたけど、まだ食欲落ちててさ……食べられそうなのが、もうそれだけなんだけど」
この言葉に兄貴は弱いはず。
『わかったよ……作りに行きますよ』
案の定、苦笑と望みとおりの言葉を引き出せた。
「あ、いい。俺が兄貴の部屋に行くから。じゃ、いまから出るね」
兄貴の返事を切るために、一方的に言い放って電話を切った。
毎日帰りが遅いけど、それでも帰ってくるとわかっている両親を待つこの家で、兄貴と話をしたくなかった。
(やっぱり後ろめたいじゃないか)
だれに言い訳するでもなく、内心で呟く。
施錠を確認すると、本当に電話を切ってすぐに家を飛び出した。
兄貴の部屋まで、高校とは反対方向へ電車で三駅。
無人改札を通り抜けて、だいぶ涼しくなった中を歩いて行く。
あの日兄貴の言葉に腹を立てて、苛立ちと悔しさを抱えて走った道のりを、いままた歩いて行くのは不思議な心地がした。
電車の移動時間と、駅からアパートまで歩く時間はそれぞれ二十分くらい。
電話をしてから一時間後には兄貴の部屋についた。
昭和時代に建てられたアパートは、緑色の外壁と赤さびの浮いた屋根の二階建て。
外階段を昇って最奥の扉の前に立ったとたん、内側から扉が勢いよく開いた。
「ぶっ!」
「あっ! ごめん、スー!!」
横っ面を扉の角で殴りつけられて、思わずよろける。
兄貴の声が聞こえて、腕をつかんで支えられた。
「ごめんよ~そろそろ近くに来たかなって、迎えに出るところだったんだよ。大丈夫、顔に傷ついたりしてない?」
痛いくらいに腕をつかんで、じろじろと顔を覗きこんでくる。
ちょっとかがんで、猫背になっている。
つまりそれだけ身長差があるってことで、俺は理不尽な怒りを兄貴に抱いた。
「べつに何ともなってねぇよ、こんくらい……」
だいたい男の顔に傷ついたとしても、大げさに騒ぐことじゃないだろう。
「嘘。あ~あ~、やっぱり頬っぺた赤くなってるよ~」
俺の顔を撫でながら、半泣きの表情で兄貴が情けなく嘆いている。
その手が頬骨の辺りに触れると、びっくりするくらいに痛かった。
「いってぇ~!」
条件反射で体が兄貴の手を振り払っていた。
兄貴は、無言でつかんでいた俺の腕を引っ張って部屋の中に入っていく。
引っ張られるままに後をついていくと、和室のちゃぶ台の横に座らされた。
「座って待ってなさい。冷やさないと」
「……だ、大丈夫だって」
腕を離して、兄貴が台所に歩いて行く。
水音が聞こえてきた。
「これくらい、放っておけば治るって」
「ダメ。ほら、いいからこれを当てて」
水で濡らしたタオルを手に兄貴が戻ってきて、顔面にタオル押し付けてくる。
(こんなに心配性だったかな、兄貴って)
またひとつ、知らなかった兄貴を見つけた気がした。
そのまま大人しくタオルで顔を冷やす俺を見て、ようやく安心したらしい。
「もうちょっと待っててね」
兄貴がそう言い置いて、台所に戻って行った。
手際良く動く背中をぼんやり眺めていて、そう言えばあそこでから揚げを作ったんだよなと思い出した。
(今日はちゃんとエアコンがつけてある。言った通りにしてくれたんだ)
はじめてこの部屋に入った時はついてなかった。
あの時稼働中だった扇風機は、エアコンの風が吹き下りる辺りでいまも働いている。
(暑くなかったのかな、兄貴……あの時の請求書とか、全部払えたんだろうか)
深く考えてもしょうがないけど考えだしたところで、兄貴がちゃぶ台に冷たい水と冷やし中華を二人前置いた。
「うわぁ~、俺忘れてた。このために来たんだった」
顔面強打騒動ですっかり脳味噌から吹っ飛んでいた。
兄貴特製タレの冷やし中華。これを食べるために残暑厳しい中を歩いて来たんだ。
箸を手渡しながら、兄貴が苦笑する。
「スーは変わらないねぇ」
兄貴の言葉は聞き流す。
うきうきと箸を冷やし中華の山に突っ込んで、麺を取り上げてすすった。
ほどよく酸味の効いたタレが麺にからんで、舌の上でうまみが弾ける。
「ん~、うまいっ! やっぱり兄貴の冷やし中華が一番うまい!」
「本当にスーはこれが好きだよねぇ……夏になるといっつも作ってって、うるさいくらいに付きまとってきてさ」
しみじみ回想しながら兄貴も麺をすすりはじめる。
「毎年、夏になると食欲無くして、これくらいしか食べられなくなってたもんね。僕が家を出た後もそうなの」
「んん、最近はそうでもない」
兄貴が手を止めて、目を細めた。
「やっぱり。母上から電話で、食欲は変わりないって聞いたばかりだから、おかしいと思ってたんだよ……スー、白状しなさい。本当は何の目的で来たの」
俺のこめかみを冷や汗が流れ落ちた。
しまった、家を出ても兄貴と母さんは連絡を取っていたのか。
「いや、別に、目的って……」
目があちこち彷徨う。
年代物の扇風機は我関せずの顔で首を振るだけ。
壁紙に汚れや沁みがいくつもある。その間に掛けられた大きなカレンダーには、仕事の納期らしき丸印が書き込まれていた。
「あ、兄貴の仕事が、はかどってるかなって……よ、様子見に」
兄貴が目を細めてじっと見てくる時は、悪いことをして怒られる時だから、緊張が口の中から水分を奪っていく。
「……スーは……嫌がったでしょ」
「へ?」
長いため息をついて、兄貴が目を伏せた。
ほっとしたのも束の間、次の兄貴の台詞に心臓が止まる。
「僕に抱かれたくないって、部屋から飛び出して行ったじゃない」
「…………」
この部屋に入ってから二度目の後悔をした。
そうだよ、兄貴はBL小説を書かなきゃいけなくなって、でも体験したことがないから書けない。だから僕を抱きたいんだ、そう言ったんだ。
それに対して、ふざけるなと叫んで飛び出して、そのままだった。
俺の方でいろいろ起きたから、兄貴の中ではあの時から止まったままだと言うことを忘れていた。
俺は箸を置いて、大きく呼吸した。
「……抱かれたくないわけじゃない。だから嫌だったんだ」
慎重に、自分の中を覗きながら言葉を紡ぎ出す。
「兄貴がわからなかったんだ。好きだと言ったくせに、その場限りの関係で良いと言った。俺が兄貴を好きだと知っていたから、利用しようとしてるんだと思ったんだ」
「スー……が、好き……?」
驚いたように息を飲む兄貴の気配がする。
「バイト先に柳澤さんが来て聞いたんだ。マスターと柳澤さんが兄貴の同級生で恋人同士だとか、ふたりの馴れ初めも。兄貴のデビュー作、もらって読んだ。父さんたちにも確認したし、さらわれた時、俺は必死になって兄貴のことを考えた」
兄貴と俺の間に血のつながりはないんだと確認して、本音はすごく安心した。
実父と再会して、すべて片付いたと手紙をもらった後で、俺は何度も実父の家に通った。
異性と再婚した母親より、やっぱり同性と再婚した父親の方が相談相手にふさわしいと思ったんだ。
(相談って言っても、ほとんど話を聞いてもらっただけだけどさ)
話している間に自分の中で気持ちがまとまって、俺は素直に受け入れられるようになった。
もう一度呼吸をして、兄貴の顔を正面から見て言う。
「俺は兄貴が好きなんだ」
「……スー……何を、言ってんの」
「兄貴が言った通りだよ。電話をもらって、うれしかった。兄貴が家を出て行った時、悲しかった。それきり部屋に呼ばれない。だから電話をもらって、兄貴が俺を忘れてなかったんだとわかってうれしかった。部屋に入ったら倒れてただろ、俺すごく怖かったんだぜ。一緒に食べたから揚げは美味しかった……よく考えたら、あの料理が食べられたんだから食欲無くしてないって、すぐわかるよな」
つい会話が脱線したら、兄貴もつられたみたいに苦笑する。
「キスされて、体が熱くなった。あの男にさらわれた部屋で、中年男に触られても不快感しかなかったのにさ。これが兄貴の手だったらいいのにって、そればかり考えてた。兄貴が助けに来てくれた時、抱きしめられてすごく安心した……兄貴が兄貴じゃなければいいと思ってたんだよ、ずっとずっと俺の意識してない深いところで」
兄貴は遠い存在だった。
何を考えているのか、よくわからない顔で俺を見ていた。
その時からぼんやりと思っていたんだ。
あの人のそばにいけたらいいのに。
「柳澤さんが言ってたんだ。好きには、理屈が役に立たないって。俺は兄貴と血がつながっていたとしても、好きだ」
他に何か言いたかっただろうかって、考えるけど頭の中は舞い上がっていて、思考が散発してしまう。
好きな人に告白するのは、こんなに辛いものなのかと、はじめて知った。
心臓が兄貴に聞こえそうな鼓動を鳴らす。
手のひらは汗で濡れて、炎天下に放り出されたみたいに全身汗まみれだ。
気力を振り絞って兄貴の顔を見ているけど、目を閉じたい欲求に飲みこまれそうだった。
(な、何か言ってくれよ)
箸を持ったまま、兄貴は呆けたように俺を見るだけだ。
和室の中央で食べかけの冷やし中華を間に、お互いを見つめ合ったまま動かない俺たちは、さぞかし滑稽だろう。
カタカタ、と扇風機の羽がかすかな音を生んだ。
ようやく兄貴が箸を置いて目を閉じた。
俺ももう限界だった。
(……心臓、止まりそう……気持ち悪くなってきた)
食べたばかりの冷やし中華を戻してしまいそうだ。
Tシャツの胸元を握りしめて、目を閉じる。
電話をかけた時、もう少しまともに話せる気がしていたのに、現実は考えている通りにはいかないもんだ。
一方的に言い募るばかりで、言い終わったとたんに吐きそうになっている。
なんて女々しいんだろうと思うけど、背中が丸まるのを止められない。
肩を掴まれて顔を上げたら、兄貴の顔が間近だった。
息を飲む間に唇が重なる。
表面を撫でるようにそっと動く。俺の体から余分な力が抜けるまでそれは続いた。
「朱雀、好きだよ」
答えようと口を開いたところに舌を入れられて、息ごと兄貴に飲みこまれる。
背中を強く抱き寄せられて、兄貴の体にすがりつく姿勢になった。
その腕も重なった兄貴の胸も、口内で暴れる舌もすべてが熱かった。
「ふぅ、……ん」
息をする間に漏れる自分の声に、思わず耳を塞ぎたくなった。
注ぎこまれる唾液をすべては飲みこめなくて、唇の端からこぼれていくのがわかる。
口を解放されると俺は真っ先に俯いた。
いま自分がどんな顔になっているのか、見られたくない一心だった。
そんな俺の様子にくすり、と兄貴が笑って頭を抱きこんだ。
耳元に口を寄せて、囁く。
「まだ冷やし中華食べたい? それとも僕に食べられたい?」
「……ッ、お、おまえ、なな……何を言ってんだ」
いくら経験のない俺でも、兄貴が何をしたがっているのかはわかった。
「お、お互いに好きだからって、い、いきなり……そうすんのかよ」
俺はみっともないくらいに動揺していた。
「僕に触られて、うれしくないんだ~」
兄貴は余裕いっぱいの顔で、悪戯小僧みたいに片目だけ細めて笑って言う。
(こんちくしょーッ!)
「う、うれしいよ。もっと触って欲しいけ、ど……って、最後まで聞け~ッ!」
聞く耳持ちませんと押し倒されて、俺の悲鳴が宙に浮いた。
柳澤さんに聞いた兄貴の携帯電話番号だ。
呼び出し音が続いて、このまま出ないつもりかなと思ったところで声が聞こえてきた。
『……もしもし?』
怯えたような、弱々しい声だった。
「兄貴。お願いがあるんだけど、聞いてくれない?」
わざと明るい口調で、はきはきと話す。
電話の向こうで兄貴が口ごもる気配がした。
『スー? ど、どうしたの、いきなり……』
「お願い、聞いてくれないかな。可愛い弟のお願いなんだけど」
可愛いと言うのは自分自身で抵抗があった。
『スー、何か変だよ。どーしたの、何かあったの』
兄貴が殴った男に連れ去られた記憶はまだ新しい。
それは兄貴も同じだったようで急に力を取り戻した声に、ひとまず安心する。
心配させる紛らわしい言い方をする罪悪感には目をつぶった。
「あった」
『何ッ!? 何があったんだッ』
高音に飛び上がった兄貴の声に笑いが誘われる。
「兄貴の特製冷やし中華が、いま、すぐ、どうしても食べたくなった」
『……ひや、し……ちゅーか』
ぽろ、ぽろと話す兄貴の姿を想像して、今度こそ声に出して笑った。
絶対に呆然としてる。ひょっとしたら口を半開きにしてるかもしれない。
「食べたいなぁ~。この前は俺がから揚げ作ってやっただろ」
押しかけて勝手に作ったのに、恩着せがましく言ってやる。
こうしなければ兄貴は俺に会ってくれない気がするんだ。
電話の向こうは静かだった。
やっぱり兄貴はためらっている。
「今日はバイト休みだし、兄貴の部屋エアコンあるだろ。涼しいところで思い出の味を食べた~いッ」
会うために口実に使っているけど、兄貴特製冷やし中華が食べたいのは本当だった。
麺は市販のものだけど、かけるタレは兄貴が市販調味料を混ぜ合わせた特製で、それが美味しいんだ。
「教えてもらった通りに作ったんだけど、やっぱり兄貴の味にならないんだ。涼しくなってきたけど、まだ食欲落ちててさ……食べられそうなのが、もうそれだけなんだけど」
この言葉に兄貴は弱いはず。
『わかったよ……作りに行きますよ』
案の定、苦笑と望みとおりの言葉を引き出せた。
「あ、いい。俺が兄貴の部屋に行くから。じゃ、いまから出るね」
兄貴の返事を切るために、一方的に言い放って電話を切った。
毎日帰りが遅いけど、それでも帰ってくるとわかっている両親を待つこの家で、兄貴と話をしたくなかった。
(やっぱり後ろめたいじゃないか)
だれに言い訳するでもなく、内心で呟く。
施錠を確認すると、本当に電話を切ってすぐに家を飛び出した。
兄貴の部屋まで、高校とは反対方向へ電車で三駅。
無人改札を通り抜けて、だいぶ涼しくなった中を歩いて行く。
あの日兄貴の言葉に腹を立てて、苛立ちと悔しさを抱えて走った道のりを、いままた歩いて行くのは不思議な心地がした。
電車の移動時間と、駅からアパートまで歩く時間はそれぞれ二十分くらい。
電話をしてから一時間後には兄貴の部屋についた。
昭和時代に建てられたアパートは、緑色の外壁と赤さびの浮いた屋根の二階建て。
外階段を昇って最奥の扉の前に立ったとたん、内側から扉が勢いよく開いた。
「ぶっ!」
「あっ! ごめん、スー!!」
横っ面を扉の角で殴りつけられて、思わずよろける。
兄貴の声が聞こえて、腕をつかんで支えられた。
「ごめんよ~そろそろ近くに来たかなって、迎えに出るところだったんだよ。大丈夫、顔に傷ついたりしてない?」
痛いくらいに腕をつかんで、じろじろと顔を覗きこんでくる。
ちょっとかがんで、猫背になっている。
つまりそれだけ身長差があるってことで、俺は理不尽な怒りを兄貴に抱いた。
「べつに何ともなってねぇよ、こんくらい……」
だいたい男の顔に傷ついたとしても、大げさに騒ぐことじゃないだろう。
「嘘。あ~あ~、やっぱり頬っぺた赤くなってるよ~」
俺の顔を撫でながら、半泣きの表情で兄貴が情けなく嘆いている。
その手が頬骨の辺りに触れると、びっくりするくらいに痛かった。
「いってぇ~!」
条件反射で体が兄貴の手を振り払っていた。
兄貴は、無言でつかんでいた俺の腕を引っ張って部屋の中に入っていく。
引っ張られるままに後をついていくと、和室のちゃぶ台の横に座らされた。
「座って待ってなさい。冷やさないと」
「……だ、大丈夫だって」
腕を離して、兄貴が台所に歩いて行く。
水音が聞こえてきた。
「これくらい、放っておけば治るって」
「ダメ。ほら、いいからこれを当てて」
水で濡らしたタオルを手に兄貴が戻ってきて、顔面にタオル押し付けてくる。
(こんなに心配性だったかな、兄貴って)
またひとつ、知らなかった兄貴を見つけた気がした。
そのまま大人しくタオルで顔を冷やす俺を見て、ようやく安心したらしい。
「もうちょっと待っててね」
兄貴がそう言い置いて、台所に戻って行った。
手際良く動く背中をぼんやり眺めていて、そう言えばあそこでから揚げを作ったんだよなと思い出した。
(今日はちゃんとエアコンがつけてある。言った通りにしてくれたんだ)
はじめてこの部屋に入った時はついてなかった。
あの時稼働中だった扇風機は、エアコンの風が吹き下りる辺りでいまも働いている。
(暑くなかったのかな、兄貴……あの時の請求書とか、全部払えたんだろうか)
深く考えてもしょうがないけど考えだしたところで、兄貴がちゃぶ台に冷たい水と冷やし中華を二人前置いた。
「うわぁ~、俺忘れてた。このために来たんだった」
顔面強打騒動ですっかり脳味噌から吹っ飛んでいた。
兄貴特製タレの冷やし中華。これを食べるために残暑厳しい中を歩いて来たんだ。
箸を手渡しながら、兄貴が苦笑する。
「スーは変わらないねぇ」
兄貴の言葉は聞き流す。
うきうきと箸を冷やし中華の山に突っ込んで、麺を取り上げてすすった。
ほどよく酸味の効いたタレが麺にからんで、舌の上でうまみが弾ける。
「ん~、うまいっ! やっぱり兄貴の冷やし中華が一番うまい!」
「本当にスーはこれが好きだよねぇ……夏になるといっつも作ってって、うるさいくらいに付きまとってきてさ」
しみじみ回想しながら兄貴も麺をすすりはじめる。
「毎年、夏になると食欲無くして、これくらいしか食べられなくなってたもんね。僕が家を出た後もそうなの」
「んん、最近はそうでもない」
兄貴が手を止めて、目を細めた。
「やっぱり。母上から電話で、食欲は変わりないって聞いたばかりだから、おかしいと思ってたんだよ……スー、白状しなさい。本当は何の目的で来たの」
俺のこめかみを冷や汗が流れ落ちた。
しまった、家を出ても兄貴と母さんは連絡を取っていたのか。
「いや、別に、目的って……」
目があちこち彷徨う。
年代物の扇風機は我関せずの顔で首を振るだけ。
壁紙に汚れや沁みがいくつもある。その間に掛けられた大きなカレンダーには、仕事の納期らしき丸印が書き込まれていた。
「あ、兄貴の仕事が、はかどってるかなって……よ、様子見に」
兄貴が目を細めてじっと見てくる時は、悪いことをして怒られる時だから、緊張が口の中から水分を奪っていく。
「……スーは……嫌がったでしょ」
「へ?」
長いため息をついて、兄貴が目を伏せた。
ほっとしたのも束の間、次の兄貴の台詞に心臓が止まる。
「僕に抱かれたくないって、部屋から飛び出して行ったじゃない」
「…………」
この部屋に入ってから二度目の後悔をした。
そうだよ、兄貴はBL小説を書かなきゃいけなくなって、でも体験したことがないから書けない。だから僕を抱きたいんだ、そう言ったんだ。
それに対して、ふざけるなと叫んで飛び出して、そのままだった。
俺の方でいろいろ起きたから、兄貴の中ではあの時から止まったままだと言うことを忘れていた。
俺は箸を置いて、大きく呼吸した。
「……抱かれたくないわけじゃない。だから嫌だったんだ」
慎重に、自分の中を覗きながら言葉を紡ぎ出す。
「兄貴がわからなかったんだ。好きだと言ったくせに、その場限りの関係で良いと言った。俺が兄貴を好きだと知っていたから、利用しようとしてるんだと思ったんだ」
「スー……が、好き……?」
驚いたように息を飲む兄貴の気配がする。
「バイト先に柳澤さんが来て聞いたんだ。マスターと柳澤さんが兄貴の同級生で恋人同士だとか、ふたりの馴れ初めも。兄貴のデビュー作、もらって読んだ。父さんたちにも確認したし、さらわれた時、俺は必死になって兄貴のことを考えた」
兄貴と俺の間に血のつながりはないんだと確認して、本音はすごく安心した。
実父と再会して、すべて片付いたと手紙をもらった後で、俺は何度も実父の家に通った。
異性と再婚した母親より、やっぱり同性と再婚した父親の方が相談相手にふさわしいと思ったんだ。
(相談って言っても、ほとんど話を聞いてもらっただけだけどさ)
話している間に自分の中で気持ちがまとまって、俺は素直に受け入れられるようになった。
もう一度呼吸をして、兄貴の顔を正面から見て言う。
「俺は兄貴が好きなんだ」
「……スー……何を、言ってんの」
「兄貴が言った通りだよ。電話をもらって、うれしかった。兄貴が家を出て行った時、悲しかった。それきり部屋に呼ばれない。だから電話をもらって、兄貴が俺を忘れてなかったんだとわかってうれしかった。部屋に入ったら倒れてただろ、俺すごく怖かったんだぜ。一緒に食べたから揚げは美味しかった……よく考えたら、あの料理が食べられたんだから食欲無くしてないって、すぐわかるよな」
つい会話が脱線したら、兄貴もつられたみたいに苦笑する。
「キスされて、体が熱くなった。あの男にさらわれた部屋で、中年男に触られても不快感しかなかったのにさ。これが兄貴の手だったらいいのにって、そればかり考えてた。兄貴が助けに来てくれた時、抱きしめられてすごく安心した……兄貴が兄貴じゃなければいいと思ってたんだよ、ずっとずっと俺の意識してない深いところで」
兄貴は遠い存在だった。
何を考えているのか、よくわからない顔で俺を見ていた。
その時からぼんやりと思っていたんだ。
あの人のそばにいけたらいいのに。
「柳澤さんが言ってたんだ。好きには、理屈が役に立たないって。俺は兄貴と血がつながっていたとしても、好きだ」
他に何か言いたかっただろうかって、考えるけど頭の中は舞い上がっていて、思考が散発してしまう。
好きな人に告白するのは、こんなに辛いものなのかと、はじめて知った。
心臓が兄貴に聞こえそうな鼓動を鳴らす。
手のひらは汗で濡れて、炎天下に放り出されたみたいに全身汗まみれだ。
気力を振り絞って兄貴の顔を見ているけど、目を閉じたい欲求に飲みこまれそうだった。
(な、何か言ってくれよ)
箸を持ったまま、兄貴は呆けたように俺を見るだけだ。
和室の中央で食べかけの冷やし中華を間に、お互いを見つめ合ったまま動かない俺たちは、さぞかし滑稽だろう。
カタカタ、と扇風機の羽がかすかな音を生んだ。
ようやく兄貴が箸を置いて目を閉じた。
俺ももう限界だった。
(……心臓、止まりそう……気持ち悪くなってきた)
食べたばかりの冷やし中華を戻してしまいそうだ。
Tシャツの胸元を握りしめて、目を閉じる。
電話をかけた時、もう少しまともに話せる気がしていたのに、現実は考えている通りにはいかないもんだ。
一方的に言い募るばかりで、言い終わったとたんに吐きそうになっている。
なんて女々しいんだろうと思うけど、背中が丸まるのを止められない。
肩を掴まれて顔を上げたら、兄貴の顔が間近だった。
息を飲む間に唇が重なる。
表面を撫でるようにそっと動く。俺の体から余分な力が抜けるまでそれは続いた。
「朱雀、好きだよ」
答えようと口を開いたところに舌を入れられて、息ごと兄貴に飲みこまれる。
背中を強く抱き寄せられて、兄貴の体にすがりつく姿勢になった。
その腕も重なった兄貴の胸も、口内で暴れる舌もすべてが熱かった。
「ふぅ、……ん」
息をする間に漏れる自分の声に、思わず耳を塞ぎたくなった。
注ぎこまれる唾液をすべては飲みこめなくて、唇の端からこぼれていくのがわかる。
口を解放されると俺は真っ先に俯いた。
いま自分がどんな顔になっているのか、見られたくない一心だった。
そんな俺の様子にくすり、と兄貴が笑って頭を抱きこんだ。
耳元に口を寄せて、囁く。
「まだ冷やし中華食べたい? それとも僕に食べられたい?」
「……ッ、お、おまえ、なな……何を言ってんだ」
いくら経験のない俺でも、兄貴が何をしたがっているのかはわかった。
「お、お互いに好きだからって、い、いきなり……そうすんのかよ」
俺はみっともないくらいに動揺していた。
「僕に触られて、うれしくないんだ~」
兄貴は余裕いっぱいの顔で、悪戯小僧みたいに片目だけ細めて笑って言う。
(こんちくしょーッ!)
「う、うれしいよ。もっと触って欲しいけ、ど……って、最後まで聞け~ッ!」
聞く耳持ちませんと押し倒されて、俺の悲鳴が宙に浮いた。
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