お兄ちゃんがBL作家

郁一

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7:手をつなぐのは

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 この部屋に入ってから、俺って兄貴に押し倒されてばかりだ。
「待て、ちょっ……まだ話は、全部終わってねぇっ!」
 じたばたあがきながら声を張り上げる。
 外観から想像するに、隣の部屋との壁は薄いと思うけど、いまここで遠慮したら流されてしまいそうだ。
「ちゃんと説明してくれよ、兄貴の口からッ」
「……説明って、何を」
 押さえつけてくる兄貴の手が急に緩んだ。
 きょとん、と目を丸くしている。
「高校出てからいままで、ずっと音沙汰なかっただろ。それが何でいきなり電話してきたんだよ」
 ひとつずつ気になっていることを聞いていく。
「僕が朱雀を置いて行った年だから。朱雀が僕を置いて行くかもしれないと思って。夏休みなら自由が効くしね」
「お、俺を置いて行くことになるってわかっていて、置いて行ったんだな」
「……あのまま一緒に暮らしてたら、絶対にヤっちゃってた。中学校の学ラン姿、めちゃくちゃ可愛かったもん」
 ほんのり頬を染めて言う。
「変態、変態兄貴発見!」
「何がよ~、好きな子に一途なだけだよ」
 一途だろうが未成年に手を出したら犯罪だ。
「家を出てくれて、ありがとう」
 真面目な顔で礼を言ったら、俺の上に乗ったまま兄貴が頭を少し下げた。
「どういたしまして」
 俺は本当に兄貴を好きになってよかったんだろうか。
 少しだけ不安になってきた。
「……いつから俺を好きだった?」
「初対面で陥落。以後、着々と深度を増していく日々です。ふたりに降り注ぐ時間と同じだけ、この想いは色を濃くしていくのでありま~す」
 俺の不安は強くなる一方だ。
(おかしい、不安をなくすために質問してるはずなのに)
「で、スーはいつから?」
「え……え~っと」
 質問し返されるとは予想してなかった。
 いつと聞かれると困る。
「……たぶん、初対面じゃない」
 俺の答えに兄貴が失望したのがわかった。
「だって、覚えてなかったんだから」
「はじめて見た朱雀は、表情まるでなくってねぇ。笑わせてあげたいって張りきっちゃったよ。まさかその気持ちが好きだからだとは考えもしませんでしたよ」
 いまは違うけど、と言いながら殴打して赤くなった頬にキスしてきた。
 油断も隙もない。
「まだ聞きたいことがあるんだって。じゃあ、BL小説が書けないって嘘ついたのは何で」
 真上から俺を見下ろしてくる兄貴の目が、一瞬だけ鋭くなった。
「克己だな、僕の許しなく話してくれちゃって……」
「マスターも言ってたけど、許しって何」
 片手で体重を支えて、空いた手で俺の額から頬を優しく撫でる。
 何度も撫でながら苦笑して話してくれた。
「喫茶ロゼのマスター、前は浩二のお祖父さんだったのに、いつ変わったんだろ。本当は朱雀にこの気持ちを伝えるつもりはなかったの。朱雀は僕を本当のお兄さんだと信じ切っていたからね……さっき告白されるまで、本音を言うとためらってました。一回きりの記憶を抱いて、一生離れて暮らそうと考えてました」
 だからふたりにも口止めしてたのにな、と兄貴が呟いた。
 いまだけでいい、ただの男だと思って抱かせてと言った兄貴が、どれだけの覚悟を秘めていたのかを知る。
「……どうでもいいけど、あの請求書、ちゃんと払ったのかよ」
 兄貴の覚悟を知って、悲しいようなうれしいような複雑な心境で、どうでもいいことを代わりに聞いた。
「請求書?」
「電話もらって、この部屋にはじめて入った時、兄貴の周りに散らばってたやつ」
 しばらく考えていた兄貴が、ようやくああと言って笑う。
「あれは受領書だよ、銀行口座から引き落としましたって。せっかちだな~スーってば……それとも僕が心配でたまらなくて、余裕がなかったから勘違いしちゃった?」
 図星だ、こんちくしょう。
 でも認めるもんか、と顔を背けた。
「ふふ、愛を感じるよ~うれしーい~」
 奇声を上げて、兄貴が頬をくっつけてくる。
「……だぁーっ。顔をくっつけるな、スリスリするなッ!」
「髭は剃ったから痛くないでしょ~」
「打ったところが痛いっ」
 そんなに痛くないけど、痛がってみたら兄貴が勢いよく離れた。
 眉を下げて、捨てられた犬みたいに目を潤ませている。
「ごめん、本当にごめん」
 頬を手で包んで、何度も謝ってくる。
 ちょっと言いすぎた。
「……少し痛いだけだから」
「うん……気をつけるね、この後」
「何、この後って」
「初夜」
 昼間の明るいうちから、何て言葉を使うんだ。
 それでも小説家かと言いたいのをこらえた。
「まだ昼間だぞ」
「あれ、そこが問題? するのは嫌じゃないんだ」
 ぐっ、と言葉に詰まる。
「い、やじゃ……ないけどさ」
「けど? やっぱりあんなことがあったから、するのが怖い?」
 また顔が近づいてきて、息が触れるくらいの位置でじっと見つめられると、かなり話しにくい。
 目を反らすと、言いなさいって感じで、頬を包む手の親指で俺の唇を撫でてくる。
 ぞくり、と背筋に悪寒が走った。
「それはない。大丈夫、本当にそんなんじゃないんだ。ただしたことないから、ちゃんと」
 そこまで打ち明けてから、はたと気づく。
「兄貴は体験したことがないと小説に書けないって言ってたよな」
 デビュー作しか読んでないけど、未経験者には毒なくらい描写されていた。
 にっこり笑う兄貴がちょっと怖い。
「朱雀は経験なくていいの。僕が勉強しておいたからね……一応体験済みだよ、女性とはもちろん、男性相手でも。ただし、どっちもプロに相手してもらったんだけどね」
 どっちもプロがいるんだと聞いて、生々しさに気絶しそうだ。
 俺はそういう話に疎い方なんだ。
 実父の部屋に通って、同性との仕方について聞いたりもしたけど、薫はいきいきと教えてくれたのに、実父は苦笑いして同じ台詞をくり返した。
『好きな人となら、その場になれば自然と体が動いてくれるよ』
 もちろんちゃんと注意しないといけないことはあるけど。
 そう言った実父をいまは信じるしかない。
 左耳に口を寄せて、兄貴が囁く。
「僕を感じていればいいんだよ、朱雀……触ってもいい?」
「……もう、触ってんじゃん」
 言い返したのは照れ隠しだと、兄貴にはバレている。
 くすりと笑う吐息が耳を掠めて、びくりと痙攣してしまう。
「もっといっぱい、朱雀の全部、触りたい」


 兄貴が布団を敷いている。
 気分出さなきゃね、とやけに楽しそうに笑っている。
 邪魔にならない場所でその姿を眺めながら、俺は自分の胸を押さえていた。
(だ、大丈夫……怖くない)
 自分の心に言い聞かせるたびに、もうひとりの自分が嘘つきと叫ぶ。
「大丈夫、朱雀……顔、こわいよ?」
 突然覗きこまれて、俺の心臓が跳ねた。
「い、い、いつの間にそこに……ッ」
 情けなくも声が裏返った。
 兄貴は大人の顔で苦笑して、早かったかなと呟く。
「やっぱりやめよう。僕は朱雀の気持ちが聞けただけで十分だよ」
 頭を撫でる兄貴の手を、俺はとっさに掴んだ。
 まだわからない部分だらけだけど、自分の性格はよくわかっている。
 いまここでやめたら、俺はきっかけを失って、言いだせなくなってしまう。
 たぶん兄貴も俺を優先して考えてくれる。
 お互いに近づけなくて、いつまでも触れ合えなくなってしまうだろう。
 肉体関係のない感情のままでもいいと、ふたりが納得しているなら関係は続けていけるけど、兄貴は違う。
 俺の体に触れて、もっと深くまで近づきたいと思っているんだ。
 そう思うのは俺だって同じだ。
「……いい。やろう。俺だってしたいんだ……兄貴が俺じゃないだれかを抱いたって聞いて、俺が嫉妬しないと思ってんの」
「朱雀……」
「知らないだれかを抱いたくせに、俺は抱かないなんて、嫌だ」
 これは恋心じゃなくて、独占欲かもしれない。
 掴んだ手が、見知らぬだれかに触れて、快楽を共にした。
 そう思うだけで胸が焼けた。
「……おいで」
 掴んでいた兄貴の手が、逆に俺の手を掴んで引っ張る。
 布団の上に誘導されると、さすがに覚悟ができた。
「俺本当に任せるぞ。どうしたらいい」
 開き直って布団にあぐらをかいて座る。
 見上げると、兄貴が苦笑していた。
「ムード、ぜんぜんない」
「俺に期待するなよ、そんなもの」
「ん、まぁ……すぐに出てくるね。そっちに期待します」
 兄貴が屈んで、俺にキスを仕掛けてくる。
 触れるだけのキスから、吸って唇で挟んだり、兄貴が優しく教えてくれる。
 真似してごらん、と言われているようで、ぎこちなく唇を舐めた。
「……シャツ脱いで」
 言われるままにTシャツを脱ぐ。
 俺に合わせて兄貴もシャツを脱ぎ捨てて、裸になったお互いの胸を合わせるように抱き寄せられた。
「気持ち悪い?」
「……ううん。大丈夫……むしろ、変な気分」
「変?」
 ゆっくりと手が俺の髪を梳くように動く。
「何か……むず痒いような、わくわくしてくるような」
「……もっとして欲しい?」
 照れ臭くなって、俺はぎゅっと目を閉じた。
「もう、聞くなよ。ひとつひとつ確認される方が恥ずかしいって。いっそ、ばばっとやってくれ」
 この台詞は危険だと頭の片隅で警告が鳴る。
 でもひとつひとつ尋ねられたら、俺の理性がもたない。
「ん~……さっきまでそれもいいかなって、思ってたんだけど」
 のんびりと兄貴が呟く。手は休まずに動いて、頭皮に伝わる温もりと刺激に緊張が少しずつ解けてきた。
 その手が俺の体を抱きしめて、優しく布団に押し倒す。
「いまは朱雀を確かめながら先に進みたい。できるだけゆっくり、朱雀を味わいたい」
「ちょ……な、何を言って」
 間近にある兄貴の顔が男の性に染まっている。
 はじめて見る、まるで知らない人のようで不安が強くなる。
 それが伝わったわけでもないのに、兄貴の手が俺の胸をそっと撫でた。
「言ったでしょ……ずっと諦めてきた。ただ一度だけ許してもらえたなら、すべてを捨て去ろうと思ってきたんだよ。だからまだ信じられない。いまが夢や幻じゃないって、この体が朱雀のなんだって、僕が納得したいんだ」
「兄貴……」
 丹念に手が俺の体を撫でていく。
 まばたきすら惜しむように兄貴が俺を見つめ続ける。
「名前で呼んでくれないかな。いつまでも兄と呼ばれたら、さすがにやりにくいじゃない?」
 苦笑した後で名前を呼んだ俺の唇をそっと塞いだ。


 飛鳥の手が肌を滑る。
 その手の感触に、いつもはぼんやりしている自分の体の形が、はっきりと意識させられていく。
 首筋や胸元、足の長さや指の間まで、丹念にくまなく全身を飛鳥の手が撫でる。
 ズボンも下着も脱がされて、時折唇が肌に触れるのがわかった。
「……ぁ……も、やだ……」
 飛鳥に全神経が研ぎ澄まされていく気がする。
 じわじわと内側から熱が高まって、むず痒いような痺れが体の奥を駆けまわる。
「やめる?」
 顔を覗きこんで、嫌味なほど冷静に飛鳥が聞いてくる。
 もちろん、俺が頷くなんて思ってもいない。
「ん……なわけ、ない……だろ」
 もっと触って欲しいなんて、言えるわけがない。
 だから飛鳥の首の後ろに腕を回して、やけ半分で顔を近づけてキスをしてやった。
 飛鳥はしばらく呆然として、いきなり抱きついてきた。
 きりきり締め上げるみたいに腕に力を入れてくる。
「欲しい、朱雀」
 余裕がない、追い詰められた犯罪者のような声だった。
 さっきまでの手つきがうそみたいに、乱暴に俺の両足を持ち上げて広げた。
「う、わ……やめ、んなとこ見るなって」
 他人が触りたがらない場所を晒されて、俺の顔が火を吹いた。
「……ん、ちょっと我慢してね」
 そこに何かを塗りたくられて、冷たさと感触に背筋が震える。
「あっ……いた、いっ」
 容赦なく受け入れる場所に指を挿入されて、弄られる。
 その手つきの性急さが、飛鳥の心情を伝えてくれる。
「お、男だろ……俺」
 はじめて他人の手に与えられる刺激に、頭の芯が火花を散らして白濁する。
 途切れる意識の中で、うわ言みたいに呟いた。
「気持ち、悪く……な、いの」
 体中どこもかしこも柔らかい肉がない。
「俺……の、なに、が……いいんだ」
 涙が勝手に目尻から滑り落ちていく。
 自分でも何で泣くのかわからない。熱にうかされた意識は、鮮明になったかと思えばすぐに吹き飛んで、俺自身がとらえられない。
 ぎゅっと抱きしめられた。
「朱雀だから。男だとか、弟、家族とかも越えて、朱雀の丸ごとが好きだから、したいの」
「っ、あ……」
 言葉は言葉でしかないけど、俺の中は飛鳥の言葉に満たされた。
 異物感しかなかった部分が、飛鳥の指に歓喜を感じはじめる。
 未知の感覚に怯えはあるけど、俺は飛鳥にいまできる精一杯の笑顔を向けた。
「好き、だよ……飛鳥」
 もう迷わない。後悔もしない。
 持ち上げた俺の両足を抱え直して、飛鳥が俺の腰を掴む。
 熱く解された秘所に、剥きだしになった飛鳥の肉棒の先端が触れる。
 いいの、と視線だけで問われて、もう一度俺が微笑んだのを確認して、飛鳥が入ってきた。
 飛鳥の本を読んだ時に、うっすらと覚悟はしていたけど、現実はやっぱり違う。
 痛いなんて、生易しすぎる。
「朱雀、朱雀……」
 顔をしかめる俺を心配して、飛鳥が呼んでいるのに気づくのが遅れた。
「息を吐いて、大丈夫」
 飛鳥の声に息を吐こうと努力して、少しずつ体から力が抜けた。
 辛抱強く時間をかけてくれて、飛鳥がすべて俺の中に収まった。
 はっ、と息を吐き出して、俺は少し笑った。
 腹の奥底で揺れた拍子に飛鳥を強く感じて、ぞくりとする。
「飛鳥……」
 体の関係にのめり込む人間の気持ちがわかる気がした。
 飛鳥の肩に手を伸ばす。
 いまだけは、飛鳥のすべてが俺にだけ向いている。
 俺も、飛鳥にすべて奪われていた。
「……あっ、あ……や、あっ」
 やがて飛鳥が動きだした。
 繋がった部分に痛みが走り、飛鳥にしがみついて体を反らした。
 痛みに少しずつ違う感覚が混じるようになって、気がつけば俺は夢中で飛鳥にすがりついていた。
 荒い呼吸はどちらも同じで、擦れる肌が汗で滑る。
 触れ合う肌は火傷しそうに熱く、繋がった部分から絶えず音が聞こえる。
 内部を貫く飛鳥に体を揺らされながら、俺は壊れた機械みたいに、ただ飛鳥を呼び続けた。
 何も考えられない。頭の中は真っ白で、飛鳥にすがりついていなければ、自分すら忘れてしまいそうだった。
 熱くて、白い、生々しい時間の果てに俺は全身を強張らせて精を放つと、体の奥で飛鳥を感じながら意識を手放した。 


『あなたに抱かれるなら、すべてを捨ててもいい――』
 
 
 飛雀とわへのデビュー作の煽り文句は、そのまま飛鳥の気持ちだったんだ。
「……俺の方が抱かれる役だったけど」
 自嘲した俺に気づいて、飛鳥が顔を上げて顔を覗きこんでくる。
 エアコンの動作音だけの静かな和室。
 布団の中で、向かい合って転がっていた。
「何?」
「……飛雀とわへ、良い名前だなって思っただけ」
 わざと違う話題へすり替える。
「飛鳥と、朱雀。永久へ……そうだろ」
「あはは……他に思いつかなくて。単純でしょ」
「それで小説家なんて、よく続けていられるな」
「こう見えても、結構売れてますよ」
「へ……そうなの?」
 はじめてこの和室に入った時、倒れていた飛鳥の周りにあったのは徴収済みの証明書だと言っていたのを思い出す。
「じゃあ、何でこんなボロ……時代遅れのアパートに住んでるんだ」
「はじめは大学に近くて、家賃が安かったから。卒業後は引っ越しが面倒で、そのままズルズル~っと、ね……朱雀が高校卒業したら、引っ越そうとは思ってたんだよ」
 さっきの言葉を思い出して、胸が痛んだ。
 俺が望む兄であるために、遠くへ行くつもりだったんだ。
「あのさ、これから何かあったら、俺にも話してくれよ。頼りないけどさ」
 飛鳥の手を探り当てて、握りしめた。
 あの日の母親の言葉を思い出す。
『朱雀も、そう思える人を見つけたら、しっかり手をつないでおきなさいね』 
 俺一緒に生きていきたい人、見つけたよ。
 だけどごめん、たぶん泣かせると思う。
 親不孝だとわかっているけど、この手は離したくない。
 飛鳥が手を握り返して、そっと唇を落とす。
「……朱雀、僕は引っ越すよ」
 俺の顔が強張ったんだろう。飛鳥が苦笑して、勘違いしてるねと頬を撫でてくる。
「高校を卒業したら、一緒に住めるような場所にね……一緒に暮らしてくれる?」
 なぜか喉が詰まって、言葉が出なかったから、俺は目を閉じてつないだ手に額をつけた。
 祈るように……。


 車は渋滞することなく、スムーズに街を横切っていく。
「へぇ~結構大きな街ん中じゃないの。朱雀くん、はりきってるねぇ」
 助手席にいたカツミが窓の外を見ながら歓声をあげる。
 ハンドルを操作しながら、ボクは苦笑した。
「飛鳥との『終の巣』になるわけだから当然でしょう。それにボクも共同経営者になれたから、ちょっと無理できたんでしょう」
「はは、オレたちとんだ邪魔者じゃん。着いたとたん、ふたりの濃密ラブシーンだったりするんじゃないのかよ」
「ん~、飛鳥はともかく朱雀くんは良識あるから心配ないと思う」
「どうだかな~」
 ボクたちの共通の友人である本巣飛鳥が、積年の恋を掴んだ夏からもうすぐ四年が経つ。
 飛鳥の恋人で、血のつながらない弟でもある朱雀くんが、半年前に独立してカフェを経営することになり、ボクは共同経営者になった。
 朱雀くんはボクの店でバイトをしていただけでなく、ちゃんと製菓専門学校を卒業して他の店でも修行している。けれど経営については素人で、あまり向いていないことを自覚してボクに相談しに来たのがきっかけだ。
 ボクは祖父から譲り受けた店を経営してきたけど、製造については素人なのでちょうどいいと思って立候補した。それまでの店は別の人に任せて、ボクはカツミも連れて引っ越すと決めたのだ。
 線路を越えて国道を曲がり、坂道を昇るとたくさんの木が見えてきた。
 大きな街なのに雑多な感じがしない。美術館や公共施設があり整備が行き届いているからだろう。道路そのものにゆとりがあって、自然も多く残っている。
 昔ながらの自然と近代的な建物が共存しているような、落ち着いて広々とした街並みだ。
「この道を曲がると店が見えるよ……ほら、あそこ」
 歩道に赤レンガを模した舗装がしてある、洒落た道に入ると、大きく成長した木々に囲まれた敷地が見える。その手前にあるのが朱雀くんと経営する店だ。
「うわぁ、すっげぇ~かっこいいなぁ」
「大正時代の洋館みたいでしょう。元外交官の別宅を改装したんだとか」
 店をはじめて見たカツミが身を乗り出して声をあげるのを、ボクは誇らしげに聞く。
 二階にテラスのある洋館風の店の前に車を停めて降りると、店のドアにプレートがかかっていた。
『Café  Tsuta-KI  OPEN 9:00~18:00』。
 仕事が忙しく、なかなか店を訪れることができなかったカツミは、はじめて見た店に興奮しながらプレートを読んで笑った。
「洒落てるね、これも。『Tsuta-KI』って組み合わせると、本巣の巣だろ?つまりもとは巣、本巣ってことだ。いいね~コレ。だれのセンス?」
「……僕じゃあご不満ですか、克己くん」
 カツミがプレートを指さしてボクに問いかけたところへ、店のドアが開いて飛鳥が出てきた。
 いまも小説家として執筆している飛鳥だが、愛しい恋人と少しでも同じ時間を過ごしたいらしく、執筆の合間は店員として手伝っている。
 イタリアンレストランのボーイみたいな制服が、飛鳥によく似合っていた。
「うぉ、飛鳥……久しぶりだな、元気そうでなにより」
「……遅いよ。浩二をいつまでひとりにしておくつもりだったんだ、ボケ編集」
 飛鳥の目が据わっている。なぜか機嫌が悪そうだ。
「仕方ねぇだろ~。作家さまと違って、オレたち編集はサラリーマンと同じなの。いきなり休みくれ、なんて言っても通じないんだよ」
「引っ越しなんて鞄ひとつで十分ですよ、特に克己なんか要らないものしか持ってないんだから」
 カツミが飛鳥にこうも責められているのは、ボクが開店に合わせてこっちに引っ越してしまったからだ。
 おろおろしながら、言い訳を続けるカツミと飛鳥のやりとりを聞きながら、ボクはこっそり微笑んだ。
 この店のすばらしさは建物だけじゃない。
 同じ敷地の奥にもう一軒ある。そこは面白い構造になっていてふたつの家族が住めるように、左右対称の造りになっているのだ。
 共同部分も多いけれど、それでもよければと飛鳥たちがボクたちを誘ってくれた。
 ボクは彼らと近くで暮らせるのがうれしかった。
「飛鳥。誘ってくれて、ありがとうね」
「……礼はスーに言って。僕が提案したわけじゃないんで」
 言い争っていた飛鳥が気まずそうに視線を反らし、口を尖らせる。
 まるで拗ねているようだけど、本当は照れているんだとわかった。
 ちょうどそこへ、話題の当人が店から出てきた。
「飛鳥。ついでにレモンも買ってきて……って、あ~マスターに柳澤さんまで。いつ着いたんですか、そんなとこに立ってないで、入ってきてくださいよ」
 飛鳥と同じ制服を着た朱雀は、成長して凛々しさを増したけれど、あの夏と変わりなくきれいであの夏よりも幸せそうだった。
 カツミは朱雀を見て笑顔になると、片手を上げて挨拶した。
「いやぁ、朱雀くん。お久しぶり。相変わらずきれいだねぇ」
「柳澤さん、だから男にきれいって言葉は、間違ってますってば」
「んなことねぇよ。なぁ、飛鳥?」
 わざとらしくカツミが飛鳥を振り返ると、仏頂面した飛鳥は背中を向けて歩き出してしまった。
「どこへ行くの」
「……買い出しです」
 問いかけたボクを少しだけ振り返って、飛鳥は自分の車に歩いて行った。
 カツミが朱雀くんをかまうと、とたんに飛鳥の機嫌が悪くなる。
 それをわかっていて、カツミはわざと飛鳥の前で朱雀くんをからかうのだ。
「……ボクたちは、これからずっとこんな感じなのかな」
 店内へ入っていくふたりを追いかけながら、走り去る飛鳥の車を振り向いて、ボクはそっと笑った。
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