5 / 34
温かい食事
しおりを挟む
結果を端的に言うならば、昨夜は何もなかった。
何も、と言うよりマルガリータを買ったあの黒仮面の男は、寝室に現れもしなかった。
そして何と、既にこの屋敷内にさえ居ないと言う。
不安を胸に抱え、全く眠れないまま朝を迎えたマルガリータの元にやって来たのは、昨日と同じメイドだった。
呆然としている内に使用人の服ではなく、貴族の令嬢が着るつまりはマルガリータの着慣れた、夜会用のコルセットで締め付ける様な苦しさとの戦いではなく屋敷内用ではあるけれど、上等のドレスに着替えさせられ、何もなかったが故に乱れもしていない髪を結い上げられ、薄く化粧までされて、寝室から連れ出される。
「申し訳ございません。旦那様は、お出かけになりました」
連れ出された先、一階の主人用の広い食堂で、綺麗な角度のお辞儀をしたまま主人の不在を告げたのは、昨日玄関先で出迎えた使用人達の中心にいた年長者だ。
あんなに悩んで覚悟を決めて、迎えたこの屋敷での最初の夜。
何もなかった事に安心したのと気が抜けたのと、そして何より戸惑いで困った顔しか出来ないマルガリータを、使用人達は昨日と同じく、何だか優しい表情で出迎えてくれた。
(やっぱり、歓迎ムードを感じるんだけど……何故に?)
「お寂しい事とは存じますが、本日は我々がお相手させて頂きますので、ご容赦下さいませ」
「え? いえ、そんな事は……ありませんから、お気になさらず」
マルガリータの困惑の声に顔を上げた年長者の使用人は、本当に申し訳なさそうな表情をしていて、昨日からずっと続いている頭の中の疑問符の数は、増加の一途を辿っている。
(あの男が出かけてると、どうして私が寂しいって話になるの? 確かに知らない場所だし、知らない人ばっかりに囲まれてるから不安ではあるけど……あの男も知らない人だし! むしろ、貞操の危機しかないし!)
「私はこの屋敷を任されております、執事のダリスと申します。そしてこちらが……」
「今後、マルガリータ様のお世話をさせて頂きます。アリーシアと申します」
「料理長のバルトだ」
「アルフです。主に旦那様の従者をしておりますが、屋敷内に居る間は、どんなご用でもお申し付けさい」
昨日から、マルガリータの世話をしてくれている同年代の女性がアリーシア、その横に体格が良く体育会系の男性が料理長のバルト、そして昨日馬車の従者をしていたマルガリータよりも年若そうな青年がアルフと、それぞれ名乗る。
「こちらの三名の他に、統括メイドと庭師の二名がおります。今は所用で外しておりますが、折を見てご紹介させて頂きます。旦那様があまり人を屋敷に入れる事を良しと致しませんので、少人数故に行き届かない事もあるかもしれません。ご容赦下さいませ」
「え、あ……はい。よろしくお願い致します……?」
マルガリータの挨拶が、疑問系になってしまったのは、許して貰いたい。
自己紹介をされただけなのだが、今のマルガリータの状況に与えられるべき情報内容と、あまりにもかけ離れていて上手く入ってこない。
よくわからないまま、首を傾げながらもそう返事をしたのは、真奈美の社会人として過ごしてきた反射的なものだったと言って良い。
短かったとは言え慣れない奴隷生活から、昨夜の徹夜による寝不足。
頭が上手く働かないのはそのせいなのか、それとも予想外の状況に混乱すると通常でもこうなるのか、きっと両方が重なり合って、結果真っ白になってしまっているマルガリータは、じわじわと湧き上がる疑問を口に乗せる間もなく、流れるように豪華な椅子に座らされる。
完全に、使用人が使うテーブルではない。
そこにバルトとアルフが、どんどん料理を運んで来る。
朝食だからなのか、はたまたこの屋敷のスタイルなのか……使用人の数が少ないと言うから、コースのように少しずつ出すのが難しいのかもしれない。
止まることなく運ばれてくる料理に、マルガリータは若干引き気味になる。
最終的に、十人は軽く座ることが出来るであろう広いテーブルの約三分の一を使って、マルガリータの実家の朝食よりも……いや、もしかしたら夕食よりも豪華な品々が並んだ。
とても、一人で食べきれる量ではない。
「お好みを伺っておりませんでしたので、色々と取り揃えさせて頂きました。どうぞお召し上がり下さい」
どうやら、全てを運び終わったらしい。
丁寧な言葉遣いとは裏腹に、バルトは「どうぞ!」とばかりに両手を広げた気軽な様子で、食事を促してくる。
(もしかして、使用人のみんなと一緒に食べるとか……じゃないわよね、やっぱり)
きょろっと使用人達を見回してみるが、誰もこの広いテーブルの席に着くことはなかった。
けれど皆が皆、マルガリータが並べられた料理を口にするのを、息を飲み緊張した様子の視線で待っている。
もっと険悪な表情でもしていれば、毒でも入っているのかとか、不味い物を大量に与え我慢しながら食べる様子を嘲笑いたいのかとか、疑うことが出来なくもないけれど、昨日からずっと使用人達から好意的な表情と丁寧すぎる対応を見せられ続け居るマルガリータに、そんな卑屈な感情は沸く隙も無い。
(もう、何が何だか全っ然わからないけど……後で考える!)
「いただきます」
想像していた、本格的奴隷生活一日目とはずいぶん違う光景だったが、美味しそうな料理を目の前に、マルガリータは自分が思っているよりずっとお腹が空いていた。
疑問が多すぎる故に、思考は食欲に追いやられ、マルガリータはゆっくりと食事を始めた。
テーブルには色々と取り揃えたと言うだけあって、朝食とは思えないなかなかヘビーそうな肉料理や、手が込んでいるのが見た目だけでもわかる物、芸術的な盛り付けの様々な料理が所狭しと並んでいる。
(朝早くからこんなにも沢山の料理を、一人で用意してくれたのかしら? 凄く大変だったんじゃ……)
料理長だと紹介されたのはバルトだけで、今ここにいる四人以外に使用人は後二人だと聞いた。
つまり、料理を用意するコックは基本的に彼だけと考えられる。
他の使用人も手伝いはするのだろうけれど、それぞれ仕事があるだろう。
この量と内容を、朝食として用意するにはかなりの時間と手間がかかるに違いない。
だが、奴隷に堕とされてからまともな食事を取っていなかったマルガリータに、ガツンとした肉料理は無理だった。
それどころか固形の物自体、まだ身体が受け付ける気がしない。
(申し訳ないけど、あんまり食べられないかも)
大量に並んでいる料理と美味しそうな匂いに、思わず手当たり次第口を付けたくなってしまうけれど、マルガリータは冷静に自分の身体を分析して一番手元にあった胃に優しそうな野菜たっぷりのスープを選ぶ。
ほぼ空っぽのお腹に、ゆっくり染み渡るような優しい味が広がる。
シンプルだからこそ料理人の腕がわかる一品で、素材の味を余すことなく生かす上品なスープだった。
「凄く美味しい……!」
「そうかそうか」
一見、料理人には見えない豪快な体つきのバルトだが、マルガリータの直球な感想を受け、嬉しそうにガハハと笑う姿は、やはり料理が好きな人なのだと思う。
シンプルな中にこの繊細な味を出せるのだから、その腕は一級品なのかもしれない。
正直、こんな町外れの別宅で働いているような人材ではない。
舌の肥えているマルガリータだからこそ、王宮や大貴族の屋敷で働ける位の実力は持っていると判断出来た。
しかも、これらの料理をほぼ一人で作ったのなら尚更。
(さすがに、こんなに大口開けて笑うような性格だと、王宮で働くのは無理かもしれないけど)
スープの後に手に取ったパンも、焼き立てのふわふわだった。
この世界ではパンが主食だから、保存の出来る固めのパンが主流のはずだが、マルガリータの為に、柔らかい物を焼いてくれたのかもしれない。
料理の数々を良く見ると、マルガリータの座った場所から簡単に手の届く範囲には、スープや柔らかいパンの他に口当たりが優しく柔らかい食べやすい料理ばかりが並んでいる。
(もしかしなくても、これは……敢えて、よね)
色々と取り揃えた内の、どれが今のマルガリータに必要なのか、どれなら負担無く食べられるのか、そういう事まで考えられている。
スープとパンを食べきって、マルガリータのお腹は限界だった。
元々、そんなに多く食べる方ではなかったが、普段ならもう少し食べられる量が入らない。
ここ数日、碌な物を口にしていなかったからか、更に胃が縮んでしまったのかもしれない。
それでもスープとパンが美味しくて、腹八分目どころか十二分目位食べてしまった感覚だ。
(優秀すぎる)
昨晩、マルガリータの世話をしてくれたアリーシアに思ったのと全く同じ感想を、バルトにも抱いた。
「ご馳走様でした」
「もう良いのか? 肉や魚は苦手か?」
「いえ。そうではありませんが、もうお腹がいっぱいで」
「随分少食だな。嬢ちゃん細すぎるし、もっと食った方がいいと思うぜ」
「バルト、気安過ぎるぞ」
マルガリータを覗き込むバルトの首根っこを捕まえて、引き剥がすダリスの厳しい口調に慌てる。
やはりどう考えても、マルガリータに対する使用人達の認識がおかしい。
「あの、私に過分な気遣いはいりませんから……」
「ほら、嬢ちゃんもこう言ってるじゃねぇか」
「「「バルト(さん)!!!」」」
最初の挨拶は、随分畏まっていてくれていたようだ。
水を得たりという様に、口調を崩して笑うバルトに対して、ダリスだけでなくアリーシアとアルフさえも同時にバルトを咎める。
三人の息がぴったり過ぎて、マルガリータは何だかおかしくなってきた。
ダリスは線の細い五十代位の紳士で絵に描いたような執事、という雰囲気だったのだが、バルトを軽く引っ張り上げたままお説教を続けようとしている所から見ると、実は見た目と違って結構な力持ちらしい。
「ふふ、ふふふふふ」
この屋敷に連れて来られてから、いや突然真奈美の記憶が呼び覚まされ黒仮面の男に買われてから、もしかしたらマルガリータとしては、ゲーム本編時間軸の断罪イベントの時からずっと。
張り詰めていた緊張や不安や、その他にもなんと言って良いかわからない感情、それらが胸でずっと渦巻いていたのが、ゆっくり解けていく。
(やっぱり人間、空腹でいるのは良くないし、敵意のある人に囲まれて過ごすのも良くないのね)
まだ、マルガリータがこの屋敷でどういう状況に置かれているのか、全く理解は出来ていなかったけれど、笑えるだけの心の余裕が持てた事だけは確かだった。
絶賛お説教され中の、ごつくて腕が良くて気が利いて明るい料理長には、マルガリータとしては感謝しかない。
「……嬢ちゃん?」
「ごめんなさい。何だか、気が抜けてしまって」
「お前がそんな態度だから、呆れられてしまっただろう」
「いえ、私は気にしませんから。ぜひ、そのままでお願いします」
「ですが」
お説教の続きを再開しようとするのを先んじて制すると、ダリスは納得いかないという様子だったが、そのまま口をつぐんだ。
思わず伯爵令嬢だった頃の癖で、目上の人を手で制するという動作をしてしまったが、どうやらダリスはそれを不快には思わなかった様で安心する。
ちょうど良い機会かもしれないと考え、マルガリータはそのままずっと疑問に思っていた事を、直接聞いてしまうことにした。
「皆さんに、伺いたい事があるのですが」
「何なりと」
「奴隷である私に、どうしてこんなにも良くして下さるのですか?」
「「「「奴隷?」」」」
今度は、四人の声が綺麗に揃った。
何を言っているんだと言わんばかりの、不思議そうな表情もお揃いだ。仲が良い。
「私は昨日、黒仮面の男性に街で買われて、ここへ連れて来られた、ただの奴隷です」
「マルガリータ様は、私どもが旦那様よりお世話を言いつかった大切な方であり、我々にとって唯一の方です」
(何だか、思った以上に扱いが最上級!)
「……どなたか、他の方とお間違えでは?」
「いいえ。昨日旦那様は、マルガリータ様を示してはっきりとおっしゃったのですから。それに、私どもが旦那様の意思を、履き違えるはずがございません」
はっきりと宣言するダリスに、他の三人も深く頷いている。
どうやらこの屋敷の使用人達にとって、マルガリータは共に働く最下層の奴隷ではなく、主人の大切な客人という言わば真逆の存在として認識されているらしい。
そしてそれが、主人である黒仮面の男の意思だと信じて疑わない。
確かにそれなら、丁寧すぎる対応や上質な着替えと与えられる食事、何より通されたのが主人級の部屋だった事、全てに納得はいく。
昨夜の風呂も、特に性奴隷として主人の前に出す為に清められたのではなく、通常の客人に対する扱いだったのだろう。
だからこそ、使用人達の態度に違和感しかなかったのだ。
けれど、マルガリータが奴隷として買われてこの屋敷に連れて来られたのは紛れもない事実で、何故こんな扱いになっているのかは全く見当が付かない。
マルガリータを買い、ここに連れてきた黒仮面の男に直接聞けば早いのだろうけど、あいにく朝食前に外出したと聞いたばかりだ。
(全く疑問が解決しない……!)
「マルガリータ様、少し休まれては如何ですか? 慣れない場所でお疲れでしょう」
混乱で頭を抱えたくなるマルガリータを見て、アリーシアがそっと提案をくれる。
恐らく朝の準備を手伝ってくれた彼女は、マルガリータが昨晩眠れなかった事にも、気付いているのかもしれない。
真奈美の記憶が戻ってから、マルガリータの置かれている状況についてゆっくり考える暇も無かった。
これ以上このまま使用人達に話を聞いても、マルガリータ自身の中で情報が整理し切れていないから、上手く処理出来るかもわからない。
時間をくれるというのなら、それは大変有り難い提案で、マルガリータはこくりと小さく頷いてその気遣いを受け入れることにした。
何も、と言うよりマルガリータを買ったあの黒仮面の男は、寝室に現れもしなかった。
そして何と、既にこの屋敷内にさえ居ないと言う。
不安を胸に抱え、全く眠れないまま朝を迎えたマルガリータの元にやって来たのは、昨日と同じメイドだった。
呆然としている内に使用人の服ではなく、貴族の令嬢が着るつまりはマルガリータの着慣れた、夜会用のコルセットで締め付ける様な苦しさとの戦いではなく屋敷内用ではあるけれど、上等のドレスに着替えさせられ、何もなかったが故に乱れもしていない髪を結い上げられ、薄く化粧までされて、寝室から連れ出される。
「申し訳ございません。旦那様は、お出かけになりました」
連れ出された先、一階の主人用の広い食堂で、綺麗な角度のお辞儀をしたまま主人の不在を告げたのは、昨日玄関先で出迎えた使用人達の中心にいた年長者だ。
あんなに悩んで覚悟を決めて、迎えたこの屋敷での最初の夜。
何もなかった事に安心したのと気が抜けたのと、そして何より戸惑いで困った顔しか出来ないマルガリータを、使用人達は昨日と同じく、何だか優しい表情で出迎えてくれた。
(やっぱり、歓迎ムードを感じるんだけど……何故に?)
「お寂しい事とは存じますが、本日は我々がお相手させて頂きますので、ご容赦下さいませ」
「え? いえ、そんな事は……ありませんから、お気になさらず」
マルガリータの困惑の声に顔を上げた年長者の使用人は、本当に申し訳なさそうな表情をしていて、昨日からずっと続いている頭の中の疑問符の数は、増加の一途を辿っている。
(あの男が出かけてると、どうして私が寂しいって話になるの? 確かに知らない場所だし、知らない人ばっかりに囲まれてるから不安ではあるけど……あの男も知らない人だし! むしろ、貞操の危機しかないし!)
「私はこの屋敷を任されております、執事のダリスと申します。そしてこちらが……」
「今後、マルガリータ様のお世話をさせて頂きます。アリーシアと申します」
「料理長のバルトだ」
「アルフです。主に旦那様の従者をしておりますが、屋敷内に居る間は、どんなご用でもお申し付けさい」
昨日から、マルガリータの世話をしてくれている同年代の女性がアリーシア、その横に体格が良く体育会系の男性が料理長のバルト、そして昨日馬車の従者をしていたマルガリータよりも年若そうな青年がアルフと、それぞれ名乗る。
「こちらの三名の他に、統括メイドと庭師の二名がおります。今は所用で外しておりますが、折を見てご紹介させて頂きます。旦那様があまり人を屋敷に入れる事を良しと致しませんので、少人数故に行き届かない事もあるかもしれません。ご容赦下さいませ」
「え、あ……はい。よろしくお願い致します……?」
マルガリータの挨拶が、疑問系になってしまったのは、許して貰いたい。
自己紹介をされただけなのだが、今のマルガリータの状況に与えられるべき情報内容と、あまりにもかけ離れていて上手く入ってこない。
よくわからないまま、首を傾げながらもそう返事をしたのは、真奈美の社会人として過ごしてきた反射的なものだったと言って良い。
短かったとは言え慣れない奴隷生活から、昨夜の徹夜による寝不足。
頭が上手く働かないのはそのせいなのか、それとも予想外の状況に混乱すると通常でもこうなるのか、きっと両方が重なり合って、結果真っ白になってしまっているマルガリータは、じわじわと湧き上がる疑問を口に乗せる間もなく、流れるように豪華な椅子に座らされる。
完全に、使用人が使うテーブルではない。
そこにバルトとアルフが、どんどん料理を運んで来る。
朝食だからなのか、はたまたこの屋敷のスタイルなのか……使用人の数が少ないと言うから、コースのように少しずつ出すのが難しいのかもしれない。
止まることなく運ばれてくる料理に、マルガリータは若干引き気味になる。
最終的に、十人は軽く座ることが出来るであろう広いテーブルの約三分の一を使って、マルガリータの実家の朝食よりも……いや、もしかしたら夕食よりも豪華な品々が並んだ。
とても、一人で食べきれる量ではない。
「お好みを伺っておりませんでしたので、色々と取り揃えさせて頂きました。どうぞお召し上がり下さい」
どうやら、全てを運び終わったらしい。
丁寧な言葉遣いとは裏腹に、バルトは「どうぞ!」とばかりに両手を広げた気軽な様子で、食事を促してくる。
(もしかして、使用人のみんなと一緒に食べるとか……じゃないわよね、やっぱり)
きょろっと使用人達を見回してみるが、誰もこの広いテーブルの席に着くことはなかった。
けれど皆が皆、マルガリータが並べられた料理を口にするのを、息を飲み緊張した様子の視線で待っている。
もっと険悪な表情でもしていれば、毒でも入っているのかとか、不味い物を大量に与え我慢しながら食べる様子を嘲笑いたいのかとか、疑うことが出来なくもないけれど、昨日からずっと使用人達から好意的な表情と丁寧すぎる対応を見せられ続け居るマルガリータに、そんな卑屈な感情は沸く隙も無い。
(もう、何が何だか全っ然わからないけど……後で考える!)
「いただきます」
想像していた、本格的奴隷生活一日目とはずいぶん違う光景だったが、美味しそうな料理を目の前に、マルガリータは自分が思っているよりずっとお腹が空いていた。
疑問が多すぎる故に、思考は食欲に追いやられ、マルガリータはゆっくりと食事を始めた。
テーブルには色々と取り揃えたと言うだけあって、朝食とは思えないなかなかヘビーそうな肉料理や、手が込んでいるのが見た目だけでもわかる物、芸術的な盛り付けの様々な料理が所狭しと並んでいる。
(朝早くからこんなにも沢山の料理を、一人で用意してくれたのかしら? 凄く大変だったんじゃ……)
料理長だと紹介されたのはバルトだけで、今ここにいる四人以外に使用人は後二人だと聞いた。
つまり、料理を用意するコックは基本的に彼だけと考えられる。
他の使用人も手伝いはするのだろうけれど、それぞれ仕事があるだろう。
この量と内容を、朝食として用意するにはかなりの時間と手間がかかるに違いない。
だが、奴隷に堕とされてからまともな食事を取っていなかったマルガリータに、ガツンとした肉料理は無理だった。
それどころか固形の物自体、まだ身体が受け付ける気がしない。
(申し訳ないけど、あんまり食べられないかも)
大量に並んでいる料理と美味しそうな匂いに、思わず手当たり次第口を付けたくなってしまうけれど、マルガリータは冷静に自分の身体を分析して一番手元にあった胃に優しそうな野菜たっぷりのスープを選ぶ。
ほぼ空っぽのお腹に、ゆっくり染み渡るような優しい味が広がる。
シンプルだからこそ料理人の腕がわかる一品で、素材の味を余すことなく生かす上品なスープだった。
「凄く美味しい……!」
「そうかそうか」
一見、料理人には見えない豪快な体つきのバルトだが、マルガリータの直球な感想を受け、嬉しそうにガハハと笑う姿は、やはり料理が好きな人なのだと思う。
シンプルな中にこの繊細な味を出せるのだから、その腕は一級品なのかもしれない。
正直、こんな町外れの別宅で働いているような人材ではない。
舌の肥えているマルガリータだからこそ、王宮や大貴族の屋敷で働ける位の実力は持っていると判断出来た。
しかも、これらの料理をほぼ一人で作ったのなら尚更。
(さすがに、こんなに大口開けて笑うような性格だと、王宮で働くのは無理かもしれないけど)
スープの後に手に取ったパンも、焼き立てのふわふわだった。
この世界ではパンが主食だから、保存の出来る固めのパンが主流のはずだが、マルガリータの為に、柔らかい物を焼いてくれたのかもしれない。
料理の数々を良く見ると、マルガリータの座った場所から簡単に手の届く範囲には、スープや柔らかいパンの他に口当たりが優しく柔らかい食べやすい料理ばかりが並んでいる。
(もしかしなくても、これは……敢えて、よね)
色々と取り揃えた内の、どれが今のマルガリータに必要なのか、どれなら負担無く食べられるのか、そういう事まで考えられている。
スープとパンを食べきって、マルガリータのお腹は限界だった。
元々、そんなに多く食べる方ではなかったが、普段ならもう少し食べられる量が入らない。
ここ数日、碌な物を口にしていなかったからか、更に胃が縮んでしまったのかもしれない。
それでもスープとパンが美味しくて、腹八分目どころか十二分目位食べてしまった感覚だ。
(優秀すぎる)
昨晩、マルガリータの世話をしてくれたアリーシアに思ったのと全く同じ感想を、バルトにも抱いた。
「ご馳走様でした」
「もう良いのか? 肉や魚は苦手か?」
「いえ。そうではありませんが、もうお腹がいっぱいで」
「随分少食だな。嬢ちゃん細すぎるし、もっと食った方がいいと思うぜ」
「バルト、気安過ぎるぞ」
マルガリータを覗き込むバルトの首根っこを捕まえて、引き剥がすダリスの厳しい口調に慌てる。
やはりどう考えても、マルガリータに対する使用人達の認識がおかしい。
「あの、私に過分な気遣いはいりませんから……」
「ほら、嬢ちゃんもこう言ってるじゃねぇか」
「「「バルト(さん)!!!」」」
最初の挨拶は、随分畏まっていてくれていたようだ。
水を得たりという様に、口調を崩して笑うバルトに対して、ダリスだけでなくアリーシアとアルフさえも同時にバルトを咎める。
三人の息がぴったり過ぎて、マルガリータは何だかおかしくなってきた。
ダリスは線の細い五十代位の紳士で絵に描いたような執事、という雰囲気だったのだが、バルトを軽く引っ張り上げたままお説教を続けようとしている所から見ると、実は見た目と違って結構な力持ちらしい。
「ふふ、ふふふふふ」
この屋敷に連れて来られてから、いや突然真奈美の記憶が呼び覚まされ黒仮面の男に買われてから、もしかしたらマルガリータとしては、ゲーム本編時間軸の断罪イベントの時からずっと。
張り詰めていた緊張や不安や、その他にもなんと言って良いかわからない感情、それらが胸でずっと渦巻いていたのが、ゆっくり解けていく。
(やっぱり人間、空腹でいるのは良くないし、敵意のある人に囲まれて過ごすのも良くないのね)
まだ、マルガリータがこの屋敷でどういう状況に置かれているのか、全く理解は出来ていなかったけれど、笑えるだけの心の余裕が持てた事だけは確かだった。
絶賛お説教され中の、ごつくて腕が良くて気が利いて明るい料理長には、マルガリータとしては感謝しかない。
「……嬢ちゃん?」
「ごめんなさい。何だか、気が抜けてしまって」
「お前がそんな態度だから、呆れられてしまっただろう」
「いえ、私は気にしませんから。ぜひ、そのままでお願いします」
「ですが」
お説教の続きを再開しようとするのを先んじて制すると、ダリスは納得いかないという様子だったが、そのまま口をつぐんだ。
思わず伯爵令嬢だった頃の癖で、目上の人を手で制するという動作をしてしまったが、どうやらダリスはそれを不快には思わなかった様で安心する。
ちょうど良い機会かもしれないと考え、マルガリータはそのままずっと疑問に思っていた事を、直接聞いてしまうことにした。
「皆さんに、伺いたい事があるのですが」
「何なりと」
「奴隷である私に、どうしてこんなにも良くして下さるのですか?」
「「「「奴隷?」」」」
今度は、四人の声が綺麗に揃った。
何を言っているんだと言わんばかりの、不思議そうな表情もお揃いだ。仲が良い。
「私は昨日、黒仮面の男性に街で買われて、ここへ連れて来られた、ただの奴隷です」
「マルガリータ様は、私どもが旦那様よりお世話を言いつかった大切な方であり、我々にとって唯一の方です」
(何だか、思った以上に扱いが最上級!)
「……どなたか、他の方とお間違えでは?」
「いいえ。昨日旦那様は、マルガリータ様を示してはっきりとおっしゃったのですから。それに、私どもが旦那様の意思を、履き違えるはずがございません」
はっきりと宣言するダリスに、他の三人も深く頷いている。
どうやらこの屋敷の使用人達にとって、マルガリータは共に働く最下層の奴隷ではなく、主人の大切な客人という言わば真逆の存在として認識されているらしい。
そしてそれが、主人である黒仮面の男の意思だと信じて疑わない。
確かにそれなら、丁寧すぎる対応や上質な着替えと与えられる食事、何より通されたのが主人級の部屋だった事、全てに納得はいく。
昨夜の風呂も、特に性奴隷として主人の前に出す為に清められたのではなく、通常の客人に対する扱いだったのだろう。
だからこそ、使用人達の態度に違和感しかなかったのだ。
けれど、マルガリータが奴隷として買われてこの屋敷に連れて来られたのは紛れもない事実で、何故こんな扱いになっているのかは全く見当が付かない。
マルガリータを買い、ここに連れてきた黒仮面の男に直接聞けば早いのだろうけど、あいにく朝食前に外出したと聞いたばかりだ。
(全く疑問が解決しない……!)
「マルガリータ様、少し休まれては如何ですか? 慣れない場所でお疲れでしょう」
混乱で頭を抱えたくなるマルガリータを見て、アリーシアがそっと提案をくれる。
恐らく朝の準備を手伝ってくれた彼女は、マルガリータが昨晩眠れなかった事にも、気付いているのかもしれない。
真奈美の記憶が戻ってから、マルガリータの置かれている状況についてゆっくり考える暇も無かった。
これ以上このまま使用人達に話を聞いても、マルガリータ自身の中で情報が整理し切れていないから、上手く処理出来るかもわからない。
時間をくれるというのなら、それは大変有り難い提案で、マルガリータはこくりと小さく頷いてその気遣いを受け入れることにした。
1
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
完璧(変態)王子は悪役(天然)令嬢を今日も愛でたい
咲桜りおな
恋愛
オルプルート王国第一王子アルスト殿下の婚約者である公爵令嬢のティアナ・ローゼンは、自分の事を何故か初対面から溺愛してくる殿下が苦手。
見た目は完璧な美少年王子様なのに匂いをクンカクンカ嗅がれたり、ティアナの使用済み食器を欲しがったりと何だか変態ちっく!
殿下を好きだというピンク髪の男爵令嬢から恋のキューピッド役を頼まれてしまい、自分も殿下をお慕いしていたと気付くが時既に遅し。不本意ながらも婚約破棄を目指す事となってしまう。
※糖度甘め。イチャコラしております。
第一章は完結しております。只今第二章を更新中。
本作のスピンオフ作品「モブ令嬢はシスコン騎士様にロックオンされたようです~妹が悪役令嬢なんて困ります~」も公開しています。宜しければご一緒にどうぞ。
本作とスピンオフ作品の番外編集も別にUPしてます。
「小説家になろう」でも公開しています。
ヒロインしか愛さないはずの公爵様が、なぜか悪女の私を手放さない
魚谷
恋愛
伯爵令嬢イザベラは多くの男性と浮名を流す悪女。
そんな彼女に公爵家当主のジークベルトとの縁談が持ち上がった。
ジークベルトと対面した瞬間、前世の記憶がよみがえり、この世界が乙女ゲームであることを自覚する。
イザベラは、主要攻略キャラのジークベルトの裏の顔を知ってしまったがために、冒頭で殺されてしまうモブキャラ。
ゲーム知識を頼りに、どうにか冒頭死を回避したイザベラは最弱魔法と言われる付与魔法と前世の知識を頼りに便利グッズを発明し、離婚にそなえて資金を確保する。
いよいよジークベルトが、乙女ゲームのヒロインと出会う。
離婚を切り出されることを待っていたイザベラだったが、ジークベルトは平然としていて。
「どうして俺がお前以外の女を愛さなければならないんだ?」
予想外の溺愛が始まってしまう!
(世界の平和のためにも)ヒロインに惚れてください、公爵様!!
転生したら悪役令嬢になりかけてました!〜まだ5歳だからやり直せる!〜
具なっしー
恋愛
5歳のベアトリーチェは、苦いピーマンを食べて気絶した拍子に、
前世の記憶を取り戻す。
前世は日本の女子学生。
家でも学校でも「空気を読む」ことばかりで、誰にも本音を言えず、
息苦しい毎日を過ごしていた。
ただ、本を読んでいるときだけは心が自由になれた――。
転生したこの世界は、女性が希少で、男性しか魔法を使えない世界。
女性は「守られるだけの存在」とされ、社会の中で特別に甘やかされている。
だがそのせいで、女性たちはみな我儘で傲慢になり、
横暴さを誇るのが「普通」だった。
けれどベアトリーチェは違う。
前世で身につけた「空気を読む力」と、
本を愛する静かな心を持っていた。
そんな彼女には二人の婚約者がいる。
――父違いの、血を分けた兄たち。
彼らは溺愛どころではなく、
「彼女のためなら国を滅ぼしても構わない」とまで思っている危険な兄たちだった。
ベアトリーチェは戸惑いながらも、
この異世界で「ただ愛されるだけの人生」を歩んでいくことになる。
※表紙はAI画像です
悪役令嬢が美形すぎるせいで話が進まない
陽炎氷柱
恋愛
「傾国の美女になってしまったんだが」
デブス系悪役令嬢に生まれた私は、とにかく美しい悪の華になろうとがんばった。賢くて美しい令嬢なら、だとえ断罪されてもまだ未来がある。
そう思って、前世の知識を活用してダイエットに励んだのだが。
いつの間にかパトロンが大量発生していた。
ところでヒロインさん、そんなにハンカチを強く嚙んだら歯並びが悪くなりますよ?
バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました
美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?
中身は80歳のおばあちゃんですが、異世界でイケオジ伯爵に溺愛されています
浅水シマ
ファンタジー
【完結しました】
ーー人生まさかの二週目。しかもお相手は年下イケオジ伯爵!?
激動の時代を生き、八十歳でその生涯を終えた早川百合子。
目を覚ますと、そこは異世界。しかも、彼女は公爵家令嬢“エマ”として新たな人生を歩むことに。
もう恋愛なんて……と思っていた矢先、彼女の前に現れたのは、渋くて穏やかなイケオジ伯爵・セイルだった。
セイルはエマに心から優しく、どこまでも真摯。
戸惑いながらも、エマは少しずつ彼に惹かれていく。
けれど、中身は人生80年分の知識と経験を持つ元おばあちゃん。
「乙女のときめき」にはとっくに卒業したはずなのに――どうしてこの人といると、胸がこんなに苦しいの?
これは、中身おばあちゃん×イケオジ伯爵の、
ちょっと不思議で切ない、恋と家族の物語。
※小説家になろうにも掲載中です。
【完結】姉は聖女? ええ、でも私は白魔導士なので支援するぐらいしか取り柄がありません。
猫屋敷 むぎ
ファンタジー
誰もが憧れる勇者と最強の騎士が恋したのは聖女。それは私ではなく、姉でした。
復活した魔王に侯爵領を奪われ没落した私たち姉妹。そして、誰からも愛される姉アリシアは神の祝福を受け聖女となり、私セレナは支援魔法しか取り柄のない白魔導士のまま。
やがてヴァルミエール国王の王命により結成された勇者パーティは、
勇者、騎士、聖女、エルフの弓使い――そして“おまけ”の私。
過去の恋、未来の恋、政略婚に揺れ動く姉を見つめながら、ようやく私の役割を自覚し始めた頃――。
魔王城へと北上する魔王討伐軍と共に歩む勇者パーティは、
四人の魔将との邂逅、秘められた真実、そしてそれぞれの試練を迎え――。
輝く三人の恋と友情を“すぐ隣で見つめるだけ”の「聖女の妹」でしかなかった私。
けれど魔王討伐の旅路の中で、“仲間を支えるとは何か”に気付き、
やがて――“本当の自分”を見つけていく――。
そんな、ちょっぴり切ない恋と友情と姉妹愛、そして私の成長の物語です。
※本作の章構成:
第一章:アカデミー&聖女覚醒編
第二章:勇者パーティ結成&魔王討伐軍北上編
第三章:帰郷&魔将・魔王決戦編
※「小説家になろう」にも掲載(異世界転生・恋愛12位)
※ アルファポリス完結ファンタジー8位。応援ありがとうございます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる