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安全で優しい場所

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「……ディアン……」

 その名を呼んだのは、夢の中に居る幼さの抜け始めたマリーだったのか、それともこの夢を俯瞰で見ている今のマルガリータだったのかはわからない。
 どちらにしてもその言葉は、ディアンを呼ぶ為のものではなく、もう会えない人を想う呟きでしか無いはずだった。

 はずだったのに、遠くでそれに応える声が聞こえた気がする。
 必死で、少し泣きそうで、絶対に引き戻してやると言う強い意志の籠もったその声が。

「マリー!」

 オブシディアンの懐かしい声が、庭師のディアンの優しい声と重なって、マルガリータの呟きにはっきりと応えた。

「マリー。マルガリータ。俺が、わかる……?」
「ディア、ン……?」

 ゆっくりと重たい瞼を持ち上げると、心配そうに覗き込む黒い瞳と視線がぶつかる。

「あぁ、良かった……目を覚ましてくれて」

 ぎゅっと布団の柔らかさの中で、手に力が込められたのを感じる。
 その手が持ち上げられ、祈るようにディアンの額に押し付けられたのを見て、ずっと傍で手を握ってくれていたのだと知る。

 夢で見たばかりの、遠い昔マルガリータが「友達になろう」と言いながら、両手を包み込んで笑った記憶が思い起こされ、ディアンとオブシディアンが重なっていく。
 マルガリータは仰向けで天井を見つめている状態だったので、首をゆっくりと回して視線を左右に向けてみると、ここが懐かしい見知った場所だとわかった。

「ここは、私の……部屋?」
「そう。オーゼンハイム伯爵家の、君の部屋だよ」
「でも私は、貴族位を剥奪されて……家族に迷惑は掛けたくありません……早く、ここを出ないと」
「マルガリータがここに居る事を、迷惑に思う人なんていない。でも君が気になるというのなら、すぐに俺の屋敷へ……」
「勝手な事を言わないで下さい、殿下。娘はうちで、しっかり面倒を見ます」

 すぐにでもマルガリータを抱き上げて、ここから連れ出そうとするディアンの背後から颯爽と現れた影が、べりっと音がするのではないかという勢いで、マルガリータからディアンを引き剥がす。
 マルガリータの傍というその位置を鮮やかに奪い取り、その頬にそっと手を当てて甘い声を掛けてきたその影は、この屋敷の主人であるオーゼンハイム伯爵、つまりマルガリータの父親だった。

「お、父……様?」
「あぁ、私の可愛いマルガリータ。気分はどうだい?」

(お父様、少しやつれた……?)

 やつれた原因は、マルガリータのせいなのは明らかだ。
 それなのに、学園で王子の不興を買って奴隷に堕とされ、直接の不利益はないにしろ家族に迷惑を掛けた娘を、疎うどころかいつもと変わりなく愛を惜しみなく与えてくれる父親の姿に、涙を抑えることが出来なかった。

「ふっ……ぅ、ごめ……」
「マルガリータ、私の可愛い天使、どうしたんだい?」
「ごめ、ごめんなさい……迷惑ばかりかけて……」
「何を言う、迷惑なんてちっともかけられていないよ。マルガリータに全く非が無いことも、皆わかっている」

 ゆっくりと頬を撫でて涙を拭ってくれる大きな手は、間違いなく幼い頃からいつもどんな時でもマルガリータを守ってくれていた大好きなそれで、涙は引っ込むどころか止めどなく溢れて来る。

(早く笑って、もう大丈夫って言わなきゃいけないのに)

 そう思っているのに、なかなかそれは言葉として形成されず、嗚咽だけが響く。
 すると、そんなマルガリータを抱きしめながら、父親はふいに自身で後ろへ押しのけたディアンへと刺すような視線を向けた。

「殿下」
「オーゼンハイム卿……」
「君は『また』、私の可愛いマルガリータを泣かせたね。やはり君に、娘を任せられないな」
「ま、待って下さい! むしろ今、マルガリータを泣かせたのは貴方では……」
「黙らっしゃい!」
「…………っ、はい」

 父親の冷たい言葉が完全に言いがかりなのは、事情のわからないマルガリータでも理解出来る。
 実際マルガリータの涙腺が崩壊したのは、実家の自分の部屋の雰囲気にほっとした所にディアンの無事な姿があり、父親の優しさに触れたことがとどめになったのだ。
 責任の一端はあったとしても、全部が全部ディアンのせいではない。

 けれど、ディアンはぐっと言葉を飲み込んで受け入れている。
 反抗の言葉さえも遮られてしゅんとしている様子から、どうやらディアンと父親との間には、超えられない上下関係が構築されているのがわかった。

 聞き間違いでなければ、父親はディアンの事を「殿下」と呼んだ気がする。
 そして、マルガリータが意識を失う前の出来事が夢ではなければ、ディアンはアンバーの兄でありこの国の第一王子、という事になる。
 だとしたら何故、こんなに父親に対するディアンの立場が弱いのだろう。

(気を失う前と言ったら……私、刺されたのではなかったかしら……?)

 身体全体の倦怠感はあるけれど、刺されたはずのあんなに熱を感じていた脇腹辺りに、今は全く痛みがない。
 父親の抱擁をそっと外して二人をよそに布団を捲り、マルガリータは自分のお腹へ服の上から手を当ててみるけれど、やはり何も感じる事は無く、包帯等が巻かれている様な治療の跡さえない。
 不思議に思って、直に確かめようとゆったりとしたワンピースを捲り上げようとした所で、慌てた様子で再びベッドの傍に駆け寄ってきたディアンが、それを制した。

「マ、マルガリータ! 何をしているんだ」
「刺されたはずの場所がちっとも痛まないので、どうなっているのかと思って」
「もちろんそれは、一番に治療したよ。痛みがないと言うのなら、ちゃんと治っているようで幸いだけど……確かめるのは、後にして貰ってもいいかな?」

 顔を赤くして、まるで「早く隠せ」と言うように布団を被せてくるディアンの様子に、やっとマルガリータは自分の失態に気付いた。
 自分の身体に起こっている不思議を解明することに夢中で、父親はともかくディアンが居る前でお腹を丸出しにするのは、確かに令嬢だからとかそういう前に女子としてダメなやつだ。

「そうだね、娘の肌をどこぞの馬の骨に見せるのは、お父様も反対だ」
「ご、ごめんなさい……。でもお父様、ディアンはとても優しくて頼りになる人なんですよ。そんな風に言っては失礼だわ」
「可愛いマルガリータを、傷付けた奴だぞ」
「これは、ディアンのせいじゃないの。むしろディアンは私を守ってくれて……って、そうだわディアン! アンバー様とインカローズ様を、殺したりしていない……ですよね?」
「残念な事に、殺してはいない。マルガリータが、駄目だと言うから……ただ、無事でもないだろうが」

 気を失う前に聞いた言葉と声が不穏すぎた事を思い出し、恐る恐る訪ねたマルガリータに返ってきたのは、苦々しい表情と「本当は殺してやりたかった」と言わんばかりの言葉。
 それでもディアンは最後の一線を越えず、マルガリータの願いをちゃんと聞き届けてくれていた様だ。

「別にあんな馬鹿王子なぞ、ってしまっても良かったのに」
「お父様まで、なんて事を言うのですか! 確かに、どうしようも無い人だとは思いましたけど……ディアンが手を汚す価値さえ、無い人ですから」

 全員が全員、王子であるアンバーを馬鹿扱いしている。
 王の耳にでも入ったら、全員不敬罪は免れない状況ではあるけれど、残念なのか幸いなのかここに居る三人は、今更それを恐れるような性格ではなかった。
 何よりここに王は居ないし、告げ口するような者も居ない。

(ディアンが無事で、その手を血で汚していなくて、本当に良かった……)

 ほっとしたからだろうか、何だか身体の倦怠感が増して段々と瞼が落ちてくる。
 目を開けているのが億劫になって来たマルガリータに気付いて、ディアンがそっと頭を撫でて再びマルガリータを眠りへと誘ってくれた。

「マルガリータ、もう少し眠るといい」
「そうだね。ここは安全な場所だから、ゆっくりとお休み」

 ディアンに続いて優しい父親の声と共に、頬に軽く幼い頃良くして貰っていたお休みのキスが落ちてきて、マルガリータは眠気に抗えないまま、再び意識を手放していく。
 けれど今回はもう、何も不安に思うことはない。
 数年単位で感じる事の出来ていなかった、優しい世界に包まれていたから。

(あの男の子がディアンだったのか、聞きそびれちゃった……)

 マルガリータの父親とディアンは、気安い関係性のようにも思えるやり取りをしていたけれど、本当にディアンはアンバーの兄であり、この国の第一王子なのだろうか。
 今までの経緯から考えると、間違いはないのだろうけれど、それにしては父親との関係性を少し不思議にも思う。
 どう考えても、王子であるはずのディアンより、伯爵位の父親の方が優位に立てるはずがないのだけれど、年長者だという事を差し引いても、完全に父親の方が上位に位置していた。

(ディアンが王子様だったとして、どうして奴隷の私なんかを買ったのかしら?)

 疑問は次々と湧いてくるし、聞きたい事や確認した事は沢山あるのに、身体はまるで言うことをきかない。
 奥深くに沈んでいく意識はしばらく浮上する予定はない様で、色々と湧き出た疑問は声にならず夢の中へと消えていく。

 マルガリータが夢の世界へ旅立つ直前、遠くで「必ず、迎えに来る」というディアンの声が聞こえた気がした。
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