『妹に全部あげました――婚約者も爵位も。代わりに“自由”をもらいます。』

放浪人

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3話「ユノの谷」

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硫黄の匂いが、風に乗って鼻をくすぐる。
山の斜面にへばりつくようにして建つ家々。
ここが、辺境の温泉村「ユノの谷」だ。

「まさか、本当に王都のお嬢様が来なさるとはねえ」

深い皺を刻んだ顔で、村長のグスタフがため息をついた。
彼の隣には、薬師だというミレーナ婆さんが、興味深そうに私を見つめている。

村の集会所は、土と木材の匂いがした。
隙間風が吹き込み、私の冷え切った頬を撫でる。
でも、不思議と嫌な感じはしない。

「手紙にあった通りです。私をこの村に置いていただけないでしょうか。もちろん、働き口は自分で見つけます」

私が頭を下げると、村長は頭を掻いた。
そして、チラリと私の後ろを見る。

私の足元には、あの白銀の大狼が、ぺたりと伏せていた。

血の汚れは村の入り口の湧き水で軽く拭き取ったけれど、その巨体と圧倒的な存在感は隠しようがない。
村長が警戒するのも当然だった。

「お嬢さんを預かるのは構わねえ。村外れの、使ってない古い湯治小屋なら貸せる」

「ありがとうございます」

「だが……その獣はどうするつもりだ。森の獣は、村に災いをもたらすかもしれねえぞ」

集会所の外から覗き込んでいる村人たちからも、不安げな声が漏れていた。
『教会の許可がいるんじゃないか』
『ただの獣じゃない、守り獣様だべ』

私はぎゅっとスカートの布地を握りしめた。
ここでこの子を手放せば、きっとまた怪我をする。
あの冷たい森の中で、たった一匹で。

「……大丈夫です。この子は、私が責任を持ちます」

大狼の頭にそっと手を置く。
彼は短い唸り声を上げたが、私の手には逆らわず、目を閉じた。

その様子を見ていたミレーナ婆さんが、ふっと笑う。

「まあ、ええじゃないか。守り獣が人に懐くなんて、珍しいこともあるもんだ。それに……あんた、いい手をしてるね」

婆さんの言葉に、村長も渋々といった様子で頷いた。

案内されたのは、森と村の境界にある小さな木組みの小屋だった。
床は埃をかぶり、隙間からは容赦なく風が入り込む。
王都の豪奢な自室とは比べ物にならない、みすぼらしい場所。

でも、窓の向こうには湯けむりが上がり、広大な森が続いている。

「……ここが、私の新しい家」

埃を払いながら呟くと、大狼が鼻先で私の腰を小突いた。
手伝おうとしているのか、ただ甘えているのか。

夜。
冷たい床に薄い毛布を敷いて横になる。
ストーブの薪が、パチパチと爆ぜる音だけが響く。

アォォォォォン……。

ふいに、森の奥深くから、背筋が凍るような遠吠えが聞こえた。
ただの獣ではない。空気を震わせるほどの、異質な気配。
瘴気のような重苦しい風が、窓をガタガタと揺らす。

ガタッ!

足元で丸くなっていた大狼が、弾かれたように立ち上がった。
黄金の瞳が見開かれ、全身の毛が逆立っている。
ぶるぶると、その巨体が小刻みに震えていた。
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