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1話「正妻としての務め??」
重厚なオーク材の扉が、ギイイ……と耳障りな音を立てて開いた。
月に一度、ルクレール伯爵家の親族と主要な家臣が集う晩餐会。
無数の蝋燭が灯るシャンデリアの眩い光の下で、その場にいた全員の視線が入り口へと釘付けになる。
そこに立っていたのは、当主である夫オスヴァルドだった。
だが、人々の目を惹きつけたのは彼ではない。
オスヴァルドの腕にすがりつくようにして立つ、見知らぬ女と子供の姿だった。
女は陽光のように明るい金糸の髪を持ち、不安げに潤んだ瞳で周囲を見回している。
その足元には、七歳くらいだろうか、オスヴァルドによく似た面影を持つ少年が隠れるように立っていた。
晩餐会の空気が、水を打ったように静まり返る。
リディアは上座に座ったまま、手元のティーカップをソーサーに置いた。
カチャリ、という硬い音が、静寂の広間にやけに大きく響く。
「皆に紹介したい」
オスヴァルドの甘く響く声が、沈黙を破った。
彼は女の華奢な肩を抱き寄せ、自慢げに胸を張る。
「私の幼馴染であるセレナと、その息子のカイルだ」
親族たちが顔を見合わせ、ひそひそと囁き交わし始める。
リディアは表情を変えず、ただ静かに夫の次の言葉を待った。
指先が、ドレスの絹の布地を無意識になぞる。少しだけ冷たかった。
「彼女は不運な境遇で、夫を亡くして身寄りがない。とても可哀想なんだ。だから、私がこの家で庇護することにした」
可哀想。
その単語を聞いた瞬間、セレナと呼ばれた女が、オスヴァルドの胸元に顔を埋めるようにして身を縮めた。
「そして――」
オスヴァルドは、言葉を区切った。
広間の空気が、さらに張り詰める。
「このカイルを、我がルクレール伯爵家の跡取りとして迎え入れたいと思う」
ドガァァン!
見えない雷が落ちたかのような衝撃が、広間を駆け抜けた。
家臣の一人が持っていた銀のフォークを取り落とし、床に甲高い音を立てる。
リディアの隣に座っていた六歳の息子、レオンが、小さな肩をビクッと揺らした。
リディアはテーブルの下で、震える息子の手をそっと握りしめる。
冷たい息子の手が、リディアの指にすがりつくように力強く握り返してきた。
オスヴァルドは、驚愕に包まれる周囲の反応など気にも留めない様子で、真っ直ぐにリディアを見た。
その顔には、一点の曇りもない。
自分が正しいことをしているのだという、無邪気なまでの確信に満ちていた。
「リディア。君は優秀で強いから、わかってくれるね?」
甘ったるい声が、リディアの鼓膜を撫でる。
「レオンは、カイルの“下”で学べばいい。兄を支える、立派な弟になるはずだ」
自分の息子を、今日突然連れてきた愛人の子の「下」にする。
それを、大勢の家臣と親族の前で平然と言い放つ夫。
リディアの胸の奥で、何かが静かに、しかし決定的に音を立てて崩れ落ちた。
怒りではない。悲しみでもない。
ただ、氷のように冷たくて澄み切った感情が、全身を満たしていく。
ああ、終わったのだ。
愛のない政略結婚であっても、この領地を支え、家を保つために尽くしてきた。
それが「正妻の務め」だと思っていたから。
けれど、その役目は今、完全に終わった。
リディアはゆっくりと立ち上がり、オスヴァルドを見つめ返した。
顔の筋肉を動かし、完璧な貴族の微笑みを作る。
「承知いたしました。では――正妻の役目は終わりましたね」
静かな声は、喧騒の中でもはっきりとオスヴァルドの耳に届いたはずだった。
だが彼は、安堵したように顔をほころばせただけだった。
♦︎♦︎♦︎
その夜。
自室に戻ったリディアは、重い天鵞絨のカーテンを閉め切った。
部屋の中は、一本の蝋燭の炎だけが微かに揺れている。
彼女は鍵のかかった机の引き出しを開け、厳重に保管されていた革張りの筒を取り出した。
中から引き出したのは、一枚の古い羊皮紙。
実家である侯爵家から伯爵家へ嫁ぐ際に交わされた『持参金契約書』だ。
羊皮紙の表面を指でなぞる。
乾いた紙の感触とともに、右下に刻まれた『契約紋』が、微かな魔力を帯びて青白く発光した。
印章と魔力署名によって結ばれた、決して改ざんできない絶対の誓約。
リディアの目は、暗がりの中で冷たい光を宿していた。
彼女の視線が、ずらりと並んだ条文の一つでピタリと止まる。
用途制限、管理責任、そして――跡取りに関する取り決め。
リディアの唇から、小さな吐息が漏れた。
「――第7条。これで終わらせられる」
月に一度、ルクレール伯爵家の親族と主要な家臣が集う晩餐会。
無数の蝋燭が灯るシャンデリアの眩い光の下で、その場にいた全員の視線が入り口へと釘付けになる。
そこに立っていたのは、当主である夫オスヴァルドだった。
だが、人々の目を惹きつけたのは彼ではない。
オスヴァルドの腕にすがりつくようにして立つ、見知らぬ女と子供の姿だった。
女は陽光のように明るい金糸の髪を持ち、不安げに潤んだ瞳で周囲を見回している。
その足元には、七歳くらいだろうか、オスヴァルドによく似た面影を持つ少年が隠れるように立っていた。
晩餐会の空気が、水を打ったように静まり返る。
リディアは上座に座ったまま、手元のティーカップをソーサーに置いた。
カチャリ、という硬い音が、静寂の広間にやけに大きく響く。
「皆に紹介したい」
オスヴァルドの甘く響く声が、沈黙を破った。
彼は女の華奢な肩を抱き寄せ、自慢げに胸を張る。
「私の幼馴染であるセレナと、その息子のカイルだ」
親族たちが顔を見合わせ、ひそひそと囁き交わし始める。
リディアは表情を変えず、ただ静かに夫の次の言葉を待った。
指先が、ドレスの絹の布地を無意識になぞる。少しだけ冷たかった。
「彼女は不運な境遇で、夫を亡くして身寄りがない。とても可哀想なんだ。だから、私がこの家で庇護することにした」
可哀想。
その単語を聞いた瞬間、セレナと呼ばれた女が、オスヴァルドの胸元に顔を埋めるようにして身を縮めた。
「そして――」
オスヴァルドは、言葉を区切った。
広間の空気が、さらに張り詰める。
「このカイルを、我がルクレール伯爵家の跡取りとして迎え入れたいと思う」
ドガァァン!
見えない雷が落ちたかのような衝撃が、広間を駆け抜けた。
家臣の一人が持っていた銀のフォークを取り落とし、床に甲高い音を立てる。
リディアの隣に座っていた六歳の息子、レオンが、小さな肩をビクッと揺らした。
リディアはテーブルの下で、震える息子の手をそっと握りしめる。
冷たい息子の手が、リディアの指にすがりつくように力強く握り返してきた。
オスヴァルドは、驚愕に包まれる周囲の反応など気にも留めない様子で、真っ直ぐにリディアを見た。
その顔には、一点の曇りもない。
自分が正しいことをしているのだという、無邪気なまでの確信に満ちていた。
「リディア。君は優秀で強いから、わかってくれるね?」
甘ったるい声が、リディアの鼓膜を撫でる。
「レオンは、カイルの“下”で学べばいい。兄を支える、立派な弟になるはずだ」
自分の息子を、今日突然連れてきた愛人の子の「下」にする。
それを、大勢の家臣と親族の前で平然と言い放つ夫。
リディアの胸の奥で、何かが静かに、しかし決定的に音を立てて崩れ落ちた。
怒りではない。悲しみでもない。
ただ、氷のように冷たくて澄み切った感情が、全身を満たしていく。
ああ、終わったのだ。
愛のない政略結婚であっても、この領地を支え、家を保つために尽くしてきた。
それが「正妻の務め」だと思っていたから。
けれど、その役目は今、完全に終わった。
リディアはゆっくりと立ち上がり、オスヴァルドを見つめ返した。
顔の筋肉を動かし、完璧な貴族の微笑みを作る。
「承知いたしました。では――正妻の役目は終わりましたね」
静かな声は、喧騒の中でもはっきりとオスヴァルドの耳に届いたはずだった。
だが彼は、安堵したように顔をほころばせただけだった。
♦︎♦︎♦︎
その夜。
自室に戻ったリディアは、重い天鵞絨のカーテンを閉め切った。
部屋の中は、一本の蝋燭の炎だけが微かに揺れている。
彼女は鍵のかかった机の引き出しを開け、厳重に保管されていた革張りの筒を取り出した。
中から引き出したのは、一枚の古い羊皮紙。
実家である侯爵家から伯爵家へ嫁ぐ際に交わされた『持参金契約書』だ。
羊皮紙の表面を指でなぞる。
乾いた紙の感触とともに、右下に刻まれた『契約紋』が、微かな魔力を帯びて青白く発光した。
印章と魔力署名によって結ばれた、決して改ざんできない絶対の誓約。
リディアの目は、暗がりの中で冷たい光を宿していた。
彼女の視線が、ずらりと並んだ条文の一つでピタリと止まる。
用途制限、管理責任、そして――跡取りに関する取り決め。
リディアの唇から、小さな吐息が漏れた。
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