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3話「可哀想、の正体」
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数日後。
リディアが執務室で書類の整理をしていると、ノックの音もなく扉が開いた。
現れたのは、夫のオスヴァルドだった。
彼は上機嫌な様子で室内に入ってくると、リディアの執務机の前に立ち、甘ったるい笑みを浮かべた。
「やあ、リディア。仕事中すまないね」
「何かご用でしょうか、旦那様」
リディアはペンを止めず、視線も上げずに答えた。
オスヴァルドは少し不満そうに眉を寄せたが、すぐに気を取り直したように口を開いた。
「実は、セレナの部屋のことなんだが。今彼女が使っている客室は少し日当たりが悪くてね。南側の、あの広い部屋を開けてやってくれないか?」
南側の広い部屋。
そこは本来、正妻であるリディアが使うべき主寝室だった。
リディアは執務に集中するためという理由で北側の部屋を使っているが、だからといって愛人に明け渡していい場所ではない。
リディアはようやく顔を上げ、オスヴァルドの顔を観察した。
身なりの整った、見目良い男。
しかしその瞳の奥には、自分の要求が通って当然だという幼児のような甘えが透けて見える。
「あそこは主寝室です。客人に貸し与える部屋ではありません」
「客人じゃないさ。彼女はこの家で暮らしていくんだ。それに……彼女は可哀想なんだよ。狭くて暗い部屋では、心が休まらないと言っていてね」
まただ。
『彼女は可哀想』。
オスヴァルドの口癖であり、彼のすべての行動を正当化する魔法の言葉。
「リディア、君は強いから、少しの不便など気にならないだろう? だがセレナは繊細なんだ。わかってくれるね?」
強いから、我慢しろ。
可哀想だから、優遇しろ。
リディアは内心の冷たさを完璧な微笑みの裏に隠し、静かに頷いた。
「ええ、わかりました。使用人に命じておきます」
「ありがとう! やはり君は話がわかる妻だ」
オスヴァルドは満足そうに微笑むと、足取りも軽く執務室を出て行った。
扉が閉まる音を聞き届けた後、リディアは手元の紙をぐしゃりと握りつぶした。
♦︎♦︎♦︎
それから数時間後。
廊下から小さな足音が聞こえ、執務室の扉が控えめにノックされた。
「入っていいわよ」
扉の隙間から顔を出したのは、六歳になる息子のレオンだった。
プラチナブロンドの髪と、リディアと同じ翡翠色の瞳。
レオンは部屋に入ってくると、モジモジと手を揉みながらリディアのそばに近寄ってきた。
「お母様、お仕事の邪魔をしてごめんなさい」
「いいのよ、レオン。どうしたの?」
リディアは椅子から立ち上がり、レオンの目線に合わせてしゃがみ込んだ。
レオンの小さな手が、リディアのドレスの袖をきゅっと掴む。
「あのね、お母様」
レオンの翡翠色の瞳が、不安げに揺れている。
彼は言葉を探すように俯き、やがて小さな声で言った。
「僕、下でいいよ」
その瞬間、リディアの耳の奥で、何かが千切れるような凄まじい音がした。
「カイルお兄ちゃん、お父様と一緒にお庭で剣の練習をしてたの。お父様、すごく楽しそうで……だから、僕が下になれば、お父様も、あの女の人も、みんな笑ってくれるんでしょ?」
レオンの声は震えていた。
空気を読みすぎる聡いこの子は、昨晩の晩餐会での空気の異変を正確に感じ取っていたのだ。
そして、自分が我慢すれば丸く収まると、六歳の頭で必死に考えたのだろう。
リディアの視界が、一瞬だけ真っ赤に染まった。
自分のことなら、どれだけ理不尽な要求でも微笑んで受け流せた。
だが、この子が、自分から「下でいい」と諦めることだけは。
リディアはレオンの小さな体を、壊れ物を扱うように、しかし力強く抱きしめた。
レオンの体がビクッと跳ね、やがてリディアの胸の中で小さく震え始める。
リディアは、冷え切った声で、しかしはっきりと言葉を紡いだ。
「その言葉だけは、絶対に言わせない」
リディアが執務室で書類の整理をしていると、ノックの音もなく扉が開いた。
現れたのは、夫のオスヴァルドだった。
彼は上機嫌な様子で室内に入ってくると、リディアの執務机の前に立ち、甘ったるい笑みを浮かべた。
「やあ、リディア。仕事中すまないね」
「何かご用でしょうか、旦那様」
リディアはペンを止めず、視線も上げずに答えた。
オスヴァルドは少し不満そうに眉を寄せたが、すぐに気を取り直したように口を開いた。
「実は、セレナの部屋のことなんだが。今彼女が使っている客室は少し日当たりが悪くてね。南側の、あの広い部屋を開けてやってくれないか?」
南側の広い部屋。
そこは本来、正妻であるリディアが使うべき主寝室だった。
リディアは執務に集中するためという理由で北側の部屋を使っているが、だからといって愛人に明け渡していい場所ではない。
リディアはようやく顔を上げ、オスヴァルドの顔を観察した。
身なりの整った、見目良い男。
しかしその瞳の奥には、自分の要求が通って当然だという幼児のような甘えが透けて見える。
「あそこは主寝室です。客人に貸し与える部屋ではありません」
「客人じゃないさ。彼女はこの家で暮らしていくんだ。それに……彼女は可哀想なんだよ。狭くて暗い部屋では、心が休まらないと言っていてね」
まただ。
『彼女は可哀想』。
オスヴァルドの口癖であり、彼のすべての行動を正当化する魔法の言葉。
「リディア、君は強いから、少しの不便など気にならないだろう? だがセレナは繊細なんだ。わかってくれるね?」
強いから、我慢しろ。
可哀想だから、優遇しろ。
リディアは内心の冷たさを完璧な微笑みの裏に隠し、静かに頷いた。
「ええ、わかりました。使用人に命じておきます」
「ありがとう! やはり君は話がわかる妻だ」
オスヴァルドは満足そうに微笑むと、足取りも軽く執務室を出て行った。
扉が閉まる音を聞き届けた後、リディアは手元の紙をぐしゃりと握りつぶした。
♦︎♦︎♦︎
それから数時間後。
廊下から小さな足音が聞こえ、執務室の扉が控えめにノックされた。
「入っていいわよ」
扉の隙間から顔を出したのは、六歳になる息子のレオンだった。
プラチナブロンドの髪と、リディアと同じ翡翠色の瞳。
レオンは部屋に入ってくると、モジモジと手を揉みながらリディアのそばに近寄ってきた。
「お母様、お仕事の邪魔をしてごめんなさい」
「いいのよ、レオン。どうしたの?」
リディアは椅子から立ち上がり、レオンの目線に合わせてしゃがみ込んだ。
レオンの小さな手が、リディアのドレスの袖をきゅっと掴む。
「あのね、お母様」
レオンの翡翠色の瞳が、不安げに揺れている。
彼は言葉を探すように俯き、やがて小さな声で言った。
「僕、下でいいよ」
その瞬間、リディアの耳の奥で、何かが千切れるような凄まじい音がした。
「カイルお兄ちゃん、お父様と一緒にお庭で剣の練習をしてたの。お父様、すごく楽しそうで……だから、僕が下になれば、お父様も、あの女の人も、みんな笑ってくれるんでしょ?」
レオンの声は震えていた。
空気を読みすぎる聡いこの子は、昨晩の晩餐会での空気の異変を正確に感じ取っていたのだ。
そして、自分が我慢すれば丸く収まると、六歳の頭で必死に考えたのだろう。
リディアの視界が、一瞬だけ真っ赤に染まった。
自分のことなら、どれだけ理不尽な要求でも微笑んで受け流せた。
だが、この子が、自分から「下でいい」と諦めることだけは。
リディアはレオンの小さな体を、壊れ物を扱うように、しかし力強く抱きしめた。
レオンの体がビクッと跳ね、やがてリディアの胸の中で小さく震え始める。
リディアは、冷え切った声で、しかしはっきりと言葉を紡いだ。
「その言葉だけは、絶対に言わせない」
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