38 / 41
38話 自分の人生の始まり
「母上は、これから笑える?」
レオンのその無垢な問いかけに、私は一瞬、言葉を失った。
私がこの数年間、彼を守るために、領地を守るために、どれほど冷たい仮面を被り続けてきたか。
六歳のこの子は、すべてを見抜いていたのだ。
「ええ……笑えるわ。心からね」
私が頬を緩めると、レオンは嬉しそうに破顔し、父の手を引かれて地下室を後にして行った。
♦︎♦︎♦︎
その日の午後。
私は侯爵家の応接室で、ルーカスと向かい合って座っていた。
窓の外では、冬の薄日が庭園の枯れ木を柔らかく照らしている。
温かいアールグレイの香りが、二人の間を穏やかに漂っていた。
「これが、ルクレール家との正式な離縁状、および財産差し押さえの完了報告書です」
ルーカスが机の上に滑らせてきた羊皮紙には、王国法務院の赤い印章がくっきりと押されていた。
「ありがとうございます、ルーカス殿。あなたのお力添えがなければ、ここまで迅速には進みませんでしたわ」
「私はただ、監察官としての職務を全うしたまでです」
ルーカスはいつものように淡々と答えたが、その灰色の瞳には、以前のような冷徹さだけではない、静かな温もりが宿っていた。
私は手元の書類を見つめながら、カップの縁を指でそっとなぞった。
「正妻としての義務。領地を立て直すという役目。すべてが終わりました。でも……なんだか不思議な気分です。明日から、私は何を目標にして生きていけばいいのか」
私は自嘲気味に小さく笑った。
物心ついた時から「貴族の妻としての完璧な振る舞い」を叩き込まれ、嫁いでからは赤字領地の再建にすべてを捧げてきた。
誰かのために生きる以外の方法を、私は知らないのだ。
「母でもなく、妻でもない、私という個人の人生……。それがどんなものなのか、想像もつきません」
私が呟くと、ルーカスはティーカップをソーサーに置き、姿勢を正した。
「それならば、一つ提案があります」
彼の低く落ち着いた声が、静かな部屋に響く。
「現在、王国監察院では、各地の領地で相次ぐ不正経理を見抜くための専門官を急募しています。あなたのその卓越した『計理術』と、領地を立て直した実務経験は、王国にとって喉から手が出るほど欲しい才能です」
私は驚いて顔を上げた。
「私が、監察院で働くということですか?」
「ええ。正式な特別監査官として迎え入れたい。もちろん、レオン殿との生活を第一に考え、王都での書類査読を主とする好待遇をお約束します」
ルーカスは真っ直ぐに私を見据えた。
その視線は、かつてオスヴァルドが私に向けた「便利な道具」としての評価とは全く違う。
私という人間が培ってきた力そのものを、一人の専門家として敬意を持って認めてくれているのだ。
「誰かの妻としての義務ではなく。誰かの尻拭いのためでもなく」
「あなたのために、その力を使いませんか」
レオンのその無垢な問いかけに、私は一瞬、言葉を失った。
私がこの数年間、彼を守るために、領地を守るために、どれほど冷たい仮面を被り続けてきたか。
六歳のこの子は、すべてを見抜いていたのだ。
「ええ……笑えるわ。心からね」
私が頬を緩めると、レオンは嬉しそうに破顔し、父の手を引かれて地下室を後にして行った。
♦︎♦︎♦︎
その日の午後。
私は侯爵家の応接室で、ルーカスと向かい合って座っていた。
窓の外では、冬の薄日が庭園の枯れ木を柔らかく照らしている。
温かいアールグレイの香りが、二人の間を穏やかに漂っていた。
「これが、ルクレール家との正式な離縁状、および財産差し押さえの完了報告書です」
ルーカスが机の上に滑らせてきた羊皮紙には、王国法務院の赤い印章がくっきりと押されていた。
「ありがとうございます、ルーカス殿。あなたのお力添えがなければ、ここまで迅速には進みませんでしたわ」
「私はただ、監察官としての職務を全うしたまでです」
ルーカスはいつものように淡々と答えたが、その灰色の瞳には、以前のような冷徹さだけではない、静かな温もりが宿っていた。
私は手元の書類を見つめながら、カップの縁を指でそっとなぞった。
「正妻としての義務。領地を立て直すという役目。すべてが終わりました。でも……なんだか不思議な気分です。明日から、私は何を目標にして生きていけばいいのか」
私は自嘲気味に小さく笑った。
物心ついた時から「貴族の妻としての完璧な振る舞い」を叩き込まれ、嫁いでからは赤字領地の再建にすべてを捧げてきた。
誰かのために生きる以外の方法を、私は知らないのだ。
「母でもなく、妻でもない、私という個人の人生……。それがどんなものなのか、想像もつきません」
私が呟くと、ルーカスはティーカップをソーサーに置き、姿勢を正した。
「それならば、一つ提案があります」
彼の低く落ち着いた声が、静かな部屋に響く。
「現在、王国監察院では、各地の領地で相次ぐ不正経理を見抜くための専門官を急募しています。あなたのその卓越した『計理術』と、領地を立て直した実務経験は、王国にとって喉から手が出るほど欲しい才能です」
私は驚いて顔を上げた。
「私が、監察院で働くということですか?」
「ええ。正式な特別監査官として迎え入れたい。もちろん、レオン殿との生活を第一に考え、王都での書類査読を主とする好待遇をお約束します」
ルーカスは真っ直ぐに私を見据えた。
その視線は、かつてオスヴァルドが私に向けた「便利な道具」としての評価とは全く違う。
私という人間が培ってきた力そのものを、一人の専門家として敬意を持って認めてくれているのだ。
「誰かの妻としての義務ではなく。誰かの尻拭いのためでもなく」
「あなたのために、その力を使いませんか」
あなたにおすすめの小説
完)嫁いだつもりでしたがメイドに間違われています
オリハルコン陸
恋愛
嫁いだはずなのに、格好のせいか本気でメイドと勘違いされた貧乏令嬢。そのままうっかりメイドとして馴染んで、その生活を楽しみ始めてしまいます。
◇◇◇◇◇◇◇
「オマケのようでオマケじゃない〜」では、本編の小話や後日談というかたちでまだ語られてない部分を補完しています。
14回恋愛大賞奨励賞受賞しました!
これも読んでくださったり投票してくださった皆様のおかげです。
ありがとうございました!
ざっくりと見直し終わりました。完璧じゃないけど、とりあえずこれで。
この後本格的に手直し予定。(多分時間がかかります)
五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~
放浪人
恋愛
「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」
大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。
生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。
しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。
「すまない。私は父としての責任を果たす」
かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。
だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。
これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。
白い結婚のまま、旦那様は薔薇のような美人に夢中になりました
柴田はつみ
恋愛
伯爵令嬢リディアは、美貌で有名な侯爵レオンハルトに嫁いだ。
けれど結婚して二年、夫婦は一度も結ばれないまま――白い結婚だった。
それでも旦那様は優しかった。
冷たいわけではない。気づかいの言葉も、穏やかな笑顔もくれる。
だからリディアは、愛されてはいなくても、いつか少しは夫婦になれるのではないかと信じていた。
そんなある日、彼女は知ってしまう。
旦那様が薔薇の君と呼ばれる絶世の美女に心を奪われていることを。
彼が触れなかったのは私にだけだったのだと。
都合のいい奥方として、役に立っていたと悟る
静かに離縁を決意したリディアは、実家へ戻ったあと、女子学院で働き始める。
すると侯爵夫人時代には当たり前だった実務のすべてが、外では驚くほど必要とされていた。
感謝され、認められ、自分の足で立ち始めた彼女は、少しずつ見違えるほど美しくなっていく
「離縁状の印が乾く前に、王太子殿下から花束が届きました」〜五年間「置物」と呼ばれた侯爵夫人、夫が青ざめるのは王家との縁が切れてからでした〜
まさき
恋愛
侯爵夫人として過ごした五年間、夫に名前を呼ばれたことが一度もなかった。
愛人を夜会に連れてきた翌朝、私は離縁状を置いて屋敷を出た。
夫は「すぐ戻る」と思っていたらしい。
でも届いたのは、王太子殿下からの白薔薇だった。
「五年、待ちすぎました。今度こそ私の隣に」
幼馴染の殿下は、いつも私を「アメリア」と呼んでくれた。
ただそれだけで、五年分の何かが、ほどけていった。
夫が全てを失うのはこれからの話。
私が本当の笑顔を取り戻すのも、これからの話。
短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜
美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?
私を裏切った不倫夫に「どなたですか?」と微笑むまで 〜没落令嬢の復讐劇〜
恋せよ恋
恋愛
「早くあんな女と別れて、可愛い子と一緒になりたいよ」
不倫中の夫が笑う声を聞き、絶望の中で事故に遭うジェシカ。
結婚五年目に授かったお腹の子を失った彼女は、
「記憶を失ったフリ」で夫と地獄の婚家を捨てることを決意。
元男爵令嬢の薄幸ヒロインは、修道院で静かに時を過ごす。
独り身領主の三歳の男の子に懐かれ、なぜか領主まで登場!
無実の罪をなすりつけ、私を使い潰した報いを受けなさい。
記憶喪失を装った没落令嬢による、「ざまぁ」が幕を開ける!
※本作品には、馬車事故による流産の描写が含まれます。
苦手な方はご注意ください。主人公が絶対に幸せになる
物語ですので、安心してお読みいただければ幸いです。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
悪役令嬢にされたので婚約破棄を受け入れたら、なぜか全員困っています
かきんとう
恋愛
王城の大広間は、いつも以上に華やいでいた。
磨き上げられた床は燭台の光を反射し、色とりどりのドレスが揺れるたびに、まるで花畑が動いているかのように見える。貴族たちの笑い声、楽団の優雅な旋律、そして、ひそやかな噂話が、空気を満たしていた。
その中心に、私は立っていた。
――今日、この瞬間のために。
「エレノア・フォン・リーベルト嬢」
高らかに呼ばれた私の名に、ざわめきがぴたりと止む。