「君を愛することはない」と言われたので、私も愛しません。次いきます。 〜婚約破棄はご褒美です!

放浪人

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第十話 初夜はありません(契約です)。でも寝室が一つしかないんですが?

 王宮の大ホールは、異様な緊張感に包まれていた。  私の隣で、宰相アシュ・ヴァレンシュタインが指を鳴らす。  それを合図に、天井裏から現れた魔導士たちが、枢機卿と異端審問官たちを完全に包囲していた。

「さて、枢機卿。貴殿はこれを『呪詛の契約書』だと言ったな?」

 アシュ様は、枢機卿の手から黒い羊皮紙をひったくると、片眼鏡(モノクル)を装着して冷ややかに見下ろした。

「い、いかにも! その禍々しい魔力、リディアが悪魔と契約した証拠だ!」

 枢機卿が脂汗を流しながら叫ぶ。  アシュ様は鼻で笑った。

「ほう。……では問うが、なぜこの羊皮紙から『聖油』の匂いがする?」

「なっ……」

「この羊皮紙は、教会内部で『聖遺物』の管理に使われる特殊な紙だ。一般には流通していない。さらに、使用されているインク。これは『枢機卿級』の高位聖職者にのみ配給される、魔力混入インクだな? 成分分析にかければ、製造ロットまで特定できるぞ」

 アシュ様の畳み掛けるような論理的追求に、枢機卿の顔色が土気色に変わっていく。

「そ、それは……リディアが盗んだのだ! そう、教会に忍び込んで!」

「無理がありますわ、枢機卿」

 私は扇子を開き、呆れ顔で助け舟を出した(もちろん、アシュ様への)。

「私の屋敷の警備記録と、教会の入退室記録を照合すれば、私がそんな時間に教会へ行けるはずがないことは明白です。……それに、もっと決定的な証人がいますし」

 私は、震えているミレイユ様の背中を優しく押した。  彼女は一度だけ深呼吸をすると、勇気を振り絞って声を上げた。

「……見ました」

 会場が静まり返る。

「私、見ました! 昨日の夜、枢機卿様がその羊皮紙に、必死で何かを書き込んでいるところを! 『これでリディアを黙らせられる』って、独り言を言いながら!」

 聖女の告発。  その威力は絶大だった。  会場中の貴族たちが、軽蔑の眼差しを枢機卿とレオンハルト殿下に向ける。

「ば、馬鹿な! ミレイユ、貴様、何を血迷ったことを!」 「だ、騙されるな! その女も洗脳されているのだ!」

 殿下と枢機卿が喚き散らすが、もう誰も耳を貸さない。  アシュ様は羊皮紙をパタンと閉じ、冷徹に宣言した。

「勝負あったな。証拠物件の信憑性は崩壊した。よって、リディア・エルヴァインに対する拘束令状は無効とする」

 彼はくるりと踵を返し、異端審問官たちを一瞥した。

「それとも、宰相直轄の監査官である私と、この場で全面戦争をするつもりか? ……今の教会の戦力では、私の部隊の制圧まで約三分とかからないが」

 審問官たちは顔を見合わせ、武器を下ろして道を空けた。  賢明な判断だ。

「行くぞ、リディア。……あと、ミレイユ嬢もだ」

 アシュ様は私の腰を抱き、もう片方の手でミレイユ様に「ついて来い」と指示を出した。

「ま、待て! 私の結婚式はどうなる! ミレイユを連れて行くな!」

 レオンハルト殿下が情けなく叫ぶ。  私は足を止め、振り返らずに言い放った。

「結婚式? 花嫁(ミレイユ)も、元婚約者(私)も、そして民衆の祝福も失った式に、何の意味がありますの? ……どうぞお一人で、虚無と結婚なさいませ」

 私たちは堂々と大ホールを後にした。  背後で殿下の絶叫と、枢機卿の言い訳が虚しく響いていたが、それはもう私たちには関係のない雑音(ノイズ)だった。

 ◇

 王宮を出て、宰相府の用意した馬車に乗り込む。  ミレイユ様は別の馬車で、宰相府管轄の安全な隠れ家(セーフハウス)へと送られることになった。彼女にはこれから、正式な裁判での証言という大仕事が待っている。

 馬車が動き出すと、私はどっと疲れが出てシートに沈み込んだ。

「……疲れました」

 つい、本音が漏れる。  すると、隣に座っていたアシュ様が、無言で私の頭を自分の肩に乗せた。

「えっ、あ、アシュ様?」

「疲労回復には適切な休息が必要だ。屋敷に着くまで十五分。寝ていろ」

 彼の肩は意外としっかりしていて、そして微かにいい匂いがした。  『嘘がつけない』彼がこうしてくれるということは、純粋な親切心なのだろう。  ……でも、心臓に悪い。  この『無愛契約婚』、私の精神的摩耗(ライフ)を削る速度が速すぎる気がする。

 しばらくして、馬車は王都の一等地にあるアシュ様の私邸に到着した。  外観は、主人の性格を反映したような、無駄な装飾のないシンプルな石造りの館だった。    玄関ホールに入ると、年配の執事が出迎えてくれた。

「お帰りなさいませ、旦那様、奥様」

「うむ。セバス、例の件はどうなっている?」

 アシュ様が尋ねると、執事は申し訳なさそうに頭を下げた。

「はっ。急なご成婚でしたので、奥様用の個室の準備が間に合っておりません。現在、壁紙の張り替えと家具の搬入を行っておりますが、完成は三日後になります」

「そうか。ならば仕方ない」

 アシュ様は頷き、私に向き直った。

「リディア。聞いた通りだ。今夜から三日間、君は私の寝室を使え」

「……はい?」

 私は耳を疑った。  アシュ様の寝室?  え、それってつまり……。

「同室だ」

 彼は事も無げに言った。

「ちょ、ちょっと待ってください! 契約書には『寝室は別とする』と明記しましたよね!?」

「不可抗力だ。それに、教会や王太子派が刺客を送ってくる可能性もゼロではない。護衛の観点から見ても、私が君の側にいるのが最も効率的だ」

 ぐうの音も出ない。  確かに合理的だ。合理的すぎる。  でも、情緒というものが欠落している!

「ですが、その……ベッドはどうなさいますの?」

「私のベッドはキングサイズだ。二人で寝ても物理的な干渉は発生しない。問題ない」

 物理的な干渉の問題じゃないんです!  精神的な干渉が大問題なんです!

 しかし、抗議も虚しく、私はアシュ様の寝室へと連行された。  部屋は予想通り、本と書類だらけの殺風景な空間だった。  部屋の中央には、確かに広大なベッドが鎮座している。

「先に入ってくれ。私は少し残った仕事を片付ける」

 アシュ様はそう言って、隣の書斎へと消えていった。  私はニナに手伝ってもらい、慌ててシャワーを浴びてネグリジェに着替えた。    ――落ち着け、リディア。  相手はあの氷の宰相よ。  私を『政治的な盾』としか見ていないし、『愛さない契約』もある。  指一本触れてくるはずがないわ。

 私は自分にそう言い聞かせ、ベッドの端っこ――落ちる寸前のギリギリの位置――に潜り込んだ。

 一時間後。  部屋の明かりが消え、アシュ様が入ってきた。  彼はシャツとズボンだけのラフな姿で、濡れた銀髪をタオルで拭いている。  月の光に照らされたその姿は、昼間の冷徹な宰相とは違う、無防備な『男』の色気を放っていた。

 ひっ。  私は布団を頭まで被った。

 ベッドが沈む。  隣に、彼が横たわった気配がする。  背中合わせ。距離にして約五十センチ。  でも、彼の体温と、お風呂上がりの石鹸の香りが伝わってくる。

 緊張で心臓が破裂しそうだ。  沈黙が痛い。  何か、何か話さないと……。

「……あの、アシュ様」

「なんだ」

 低い、くぐもった声。

「その……今日の夜会、助けていただいてありがとうございました。あの、契約とはいえ、少し嬉しかったです」

 言ってしまった。  『嘘がつけない』から、社交辞令ではなく本心だ。

「……必要ない。私は私の利益のために動いただけだ」

 アシュ様の声はぶっきらぼうだった。  ああ、やっぱりビジネスライクね。  そう思って、私が瞳を閉じようとした時。

「それに」

 アシュ様が、ボソリと続けた。

「君が他の男に侮辱されるのは、なぜか……ひどく腹が立つ」

 え?

「契約書にはない感情だ。非合理的だ。だが……君が私の隣で笑っていると、思考がクリアになる気がする。……悪くない」

 ドクン。  布団の中で、私の身体が跳ねた。    それ、どういう意味ですか?  『嘘がつけない』あなたがそれを言うってことは……。

 私は恐る恐る振り返った。  アシュ様もこちらを向いていた。  暗闇の中で、青い瞳が微かに光っている。

「……寝ろ。明日は早い」

 彼は慌てたように背を向けた。  でも、私には見えてしまった。  月の光に照らされた彼の耳が、真っ赤に染まっているのを。

 ――これ、もしかして。  『愛さない契約』を守るのが一番難しいのは、私じゃなくて彼の方なんじゃない?

 そんな予感に胸を高鳴らせながら、私は長い長い一日を終えた。  隣から聞こえる彼の規則正しい寝息が、不思議と心地よい子守唄のように聞こえた。

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