「君を愛することはない」と言われたので、私も愛しません。次いきます。 〜婚約破棄はご褒美です!

放浪人

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第二十七話 逃亡先は菓子工房。メイドが全部仕組んでました

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 甘いバターとバニラの香りが漂う、王都の一角にある小さなお店。  『お菓子工房シュクレ』。  ここは私が元聖女ミレイユ様のために出資し、メイドのニナが店長代理を務める予定の、私たちの隠れ家だ。

 その厨房で、私はひたすら無心になってクッキー生地を練っていた。  こねて、伸ばして、型で抜く。  単純作業を繰り返すことで、昨日の「空中庭園でのプロポーズ事件」によってオーバーヒートした脳を冷却しようという作戦だ。

「……お嬢様。そろそろ生地が悲鳴を上げていますよ。それ以上こねると、クッキーじゃなくてレンガになります」

 呆れたような声がして、私はハッと手を止めた。  目の前には、小麦粉まみれになった生地の残骸。  横では、ニナが焼きたてのマドレーヌを並べながら、ジト目で私を見ていた。

「あら、ごめんなさい。つい、アシュ様の石頭を思い出して力が……」

「旦那様の石頭を砕くつもりで生地を練らないでください。……で、どうなんですか? 一晩経ちましたけど、覚悟は決まりました?」

 ニナは容赦がない。  私は粉だらけの手をエプロンで拭い、ため息をついて椅子に座り込んだ。

「……無理よ。まだ決まらないわ」

 昨夜、私は宰相府ではなく、この工房の二階にある仮眠室に逃げ込んだ。  アシュ様からは一時間おきに魔導通信が入っていたけれど、全部無視した。  だって、出たら最後、「契約交渉の続きだ」と言いくるめられて、あの重すぎる愛の誓約書にサインさせられるに決まっているもの。

「リディア様。紅茶が入りましたよ」

 奥からミレイユ様が、湯気の立つティーポットを持って現れた。  彼女はもう聖女の衣装ではなく、可愛らしいパティシエールの制服を着ている。  憑き物が落ちたように表情が明るく、本来の年相応の少女に戻っていた。

「ありがとうございます、ミレイユ。……はぁ、あなたたちの顔を見ると落ち着くわ」

「ふふ。それは光栄ですけど……でも、外の様子を見ると、そうも言っていられませんよ?」

 ミレイユ様が窓の外を指差した。  私はそっとカーテンの隙間から通りを見下ろした。

 そこには。

 工房の向かいにある街路樹の陰に、見覚えのある銀髪の男が立っていた。  腕組みをして、仁王立ちで、工房の入り口をじっと凝視している。  その周りには、宰相府の護衛騎士たちが「またか……」という顔で遠巻きに待機している。

 アシュ・ヴァレンシュタイン宰相閣下だ。

「……なんで、いるのよ」

 私は悲鳴を上げそうになった。  ここは極秘の隠れ家のはずなのに!

「私が教えました」

 ニナがしれっと言った。

「はぁ!? ニナ、あなた裏切ったの!?」

「人聞きが悪いですね。これは『適切な情報開示』です。旦那様が昨夜、あまりにも必死な形相で『妻が消えた。誘拐か? それとも次元の裂け目に落ちたか? 世界中を捜索する』とか言い出したので、国がパニックになる前に『ここにおります』と伝えただけです」

 ニナはマドレーヌをかじりながら続けた。

「ただし、『お嬢様は心の整理が必要なので、絶対に入ってこないでください。もし無理やり入ったら、お嬢様は一生口を利かないそうです』と脅しておきました」

「……それで、あんな忠犬みたいに待っているわけ?」

 窓の外のアシュ様は、微動だにしない。  通行人が驚いて振り返ろうが、野良猫が足元に擦り寄ろうが、ただひたすらに工房のドアを見つめている。  その目は、獲物を狙う猛獣というよりは、ご主人様の帰りを待つ捨て犬のように切ない。

「リディア様」

 ミレイユ様が私の隣に座り、優しく手を握った。

「私、思うんです。愛されるって、怖いことかもしれません」

「え?」

「だって、相手の心を受け取るということは、自分の心も差し出すということですから。……傷つくかもしれないし、変わってしまうかもしれない。レオンハルト殿下とのことで、私はそれが怖くなりました」

 ミレイユ様の言葉には実感がこもっていた。  偽りの愛に振り回され、利用された彼女だからこそわかる恐怖。

「でもね、リディア様。あの方の愛は、きっと違います」

 彼女は窓の外のアシュ様を見つめ、微笑んだ。

「あの方は、リディア様が『嫌だ』と言えば、こうして外で待ち続ける方です。……あなたの意志を尊重して、あなたの言葉を待ってくれる。それって、すごく素敵なことだと思いませんか?」

 ……そうだった。  アシュ様は、いつだって私の言葉を聞いてくれた。  「愛さない」という契約も、最初は私の心を守るための提案だった。  そして今も、私が「重い」と言って逃げ出したから、無理に踏み込んでこないで、ただ待っている。

 不器用で、合理的で、でも誰よりも誠実な人。

「……ニナ。これ、届いているんでしょう?」

 私はテーブルの上に置かれた、分厚い封筒を指差した。  今朝、ニナが「旦那様からの差し入れです(書類ですが)」と言って持ってきたものだ。

「ええ。読んであげてください。徹夜で書いたみたいですよ」

 私は封筒を開けた。  中に入っていたのは、数枚の羊皮紙。  そこには、震えるような筆跡で、びっしりと文字が書かれていた。

 『契約書改定案(第五稿・修正版)』

 また契約書か、と思って読み進めると、そこには昨日のような行政用語はほとんどなかった。

『第五条の撤廃について。  私は君を愛さないことを誓ったが、その誓いを守ることが物理的かつ精神的に不可能となった。  理由は単純だ。  君が朝、おはようと言う声。  君が紅茶を飲む時の仕草。  君が敵を論破する時の、誇り高い表情。  それら全てが、私の思考を占拠し、君以外のことを考える容量(メモリ)を圧迫しているからだ』

 ……なにこれ。  これ、反省文? それともポエム?

『君が「重い」と言ったことについて、深く反省し、分析した。  確かに、独占権や全生涯の譲渡は、君の自由を阻害する恐れがある。  よって、条件を緩和する。  一生でなくていい。明日一日だけでもいい。  いや、今、この瞬間だけでもいい。  君が私の隣にいてくれるなら、私はそれだけで満足するよう努力する』

 文字が、ところどころ滲んでいる。  インクの染みだろうか。それとも……?

『追伸。  君が作ったクッキーが食べたい。  君がいないと、コーヒーが泥水のように不味い。  ……早く帰ってきてくれ、リディア』

 読み終えた私は、手紙を胸に抱きしめて、大きく息を吐いた。

「……馬鹿な人」

 こんな手紙、最強の宰相が書いたなんて誰が信じるだろう。  まるで迷子になった子供みたいじゃない。  「合理的」なんて仮面はもうボロボロで、そこにあるのは、ただ私を求めてやまない一人の男の素顔だ。

 私の薬指にある『真実の誓約印』が、温かく脈打った。  私も、会いたい。  今すぐドアを開けて、あの不器用な胸に飛び込みたい。

 でも。  それだけじゃダメだ。

「……ニナ、ミレイユ。私、決めたわ」

 私は顔を上げた。  もう迷いはない。

「私、契約更新しに行くわ。……ただし、彼(アシュ)の条件をそのまま飲むつもりはない。私の方からも、特大の条件を突きつけてやるわ!」

「おおっ! さすがはお嬢様!」 「その意気です、リディア様!」

 二人が拍手喝采する。  私はエプロンを外し、鏡の前で髪を整えた。  小麦粉で汚れた頬を拭き、深紅のルージュを引く。  『鉄薔薇』の戦闘準備完了だ。

「ニナ、ドアを開けて。……私の『夫』を迎えに行くわよ」

「はいっ!」

 ニナが勢いよく工房のドアを開け放った。  カランカラン、とベルが鳴る。

 外の空気が流れ込んでくる。  そして、街路樹の下で石像になっていたアシュ様が、弾かれたようにこちらを向いた。

「……リディア!」

 彼の顔が、パァッと輝いた。  目の下にクマがあるし、髪も少し乱れているけれど、私を見る瞳だけは宝石のように澄んでいる。

 彼は駆け寄ろうとして、ハッと足を止めた。  ニナとの約束(勝手に入らない)を守ろうとしているのだ。  その健気さに、胸がキュンとする。

 私は一歩、外へ踏み出した。  そして、彼に向かって両手を広げた。

「お待たせしました、アシュ様。……随分と長い待ち時間でしたわね?」

「リディア……! ああ、君は……!」

 アシュ様はもう我慢できなかったようだ。  「約束」の境界線を飛び越え、猛ダッシュで私のもとへ駆け寄ってきた。

 そして、勢いそのままに私を抱きしめる――かと思いきや、私の手前一メートルで急ブレーキをかけ、膝をついて私の手を取った。

「無事でよかった……! 君がいなくなってからの十二時間四十三分、私の人生で最も無駄で、最も苦痛な時間だった!」

「ふふっ。相変わらず細かいですわね」

 私は彼の手を握り返し、屈み込んで視線を合わせた。

「アシュ様。手紙、読みましたわ」

「! ……そ、そうか。あれは深夜のテンションで書いたもので、推敲が不十分だが……」

「条件の緩和なんて、認めません」

「えっ?」

 アシュ様が絶望的な顔をする。  私はニヤリと笑った。

「『一生じゃなくていい』? 『今だけでいい』? ……そんな弱気な契約、私が承認すると思いましたか?」

 私は彼の方に顔を寄せ、耳元で囁いた。

「私が欲しいのは、『一生』だけです。……それ以外の妥協なんて、許しませんわよ?」

 アシュ様が目を見開き、そして――震える手で私を抱きしめた。  今度は、ためらいなく。力強く。

「……ああ。契約成立だ、リディア。……愛している」

 その言葉を聞いた瞬間、私の視界が涙で滲んだ。  ああ、やっと言えた。やっと聞けた。  契約書の文字ではなく、生きた言葉としての愛。

 工房の窓から、ニナとミレイユ様が拍手しているのが見える。  通りすがりの人々も、足を止めて祝福してくれている。    これで、本当に私たちは『夫婦』になれる。  でも、ここで終わらせる私じゃない。  まだ一つ、大事な儀式が残っているもの。

「アシュ様。……次、いきますわよ」

「次? どこへだ?」

「決まってるじゃないですか。……『結婚式』のやり直しです!」
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