31 / 60
第四章:盤上の攻防
第31話 影の戦い
長かった冬がようやく終わりを告げた。ローゼンベルクの山々を覆っていた雪は解け、せせらぎとなって大地を潤し始める。それは待ちわびた春の訪れ。そして血で血を洗う戦いの季節の始まりでもあった。
私たちが冬の間に戦力を蓄えていたように、王都もまた黙って時を過ごしていたわけではないだろう。リヒター宰相のことだ。きっと狡猾な罠を幾重にも張り巡らせ、私たちが動き出すのを今か今かと待ち構えているに違いない。
案の定、雪解けとほぼ同時にローゼンベルク領内に奇妙な噂が流れ始めた。
「ヴィクトリア様は我々を見捨てるつもりらしい」 「王都に降伏すれば、今の暮らしは保証されるそうだぞ」
明らかに民衆の結束を乱すための流言飛語。王都が放った間諜たちの仕業に違いなかった。彼らは行商人や旅芸人に成りすまし、領内の村々で不安を煽っている。
「許せませんな。このような卑劣な手段を」
コンラートは憤りを隠さない。しかし私は冷静だった。
「いいえ、コンラート。これは好都合よ」
「好都合、でございますか?」
「ええ。敵が動いたということは、こちらの網にかかったということだもの」
私は不敵に微笑んだ。冬の間、私が整えたのは軍備だけではない。領内の情報網もまた蜘蛛の巣のように張り巡らせていたのだ。私が結成した『銀薔薇騎士団』の真の任務は、民を守ること、そして領内に入り込む不審分子を炙り出すことにあった。
「各地の村長やギルドの長にはすでに指示を出してあるわ。見慣れない者が現れたら歓待するふりをして、その素性を探るように、とね」
私の言葉通り、数日のうちに間諜たちは次々と捕えられた。彼らは銀薔薇騎士団の巧みな尋問の前にあっさりと口を割り、王都の内部情報を洗いざらい白状した。
「……なるほど。宰相は王都の北方に位置するガラン砦に主力を集結させているのね。やはり中央街道を進む我々を、そこで叩くつもりか」
間諜たちからもたらされた情報は、私が冬の間に立てた予測を裏付けるものだった。しかし、それだけではなかった。
「ヴィクトリア様。こちらを」
コンラートが、一人の間諜が持っていたという暗号化された密書を私に差し出した。私はそれを解読し、思わず眉をひそめる。
「……これは」
そこにはガラン砦の兵力や配置だけでなく、宰相が別に用意している恐るべき罠の存在がほのめかされていたのだ。
(陽動に、もう一つの陽動を重ねるつもりか。あの狐、食えない男)
敵の動きが少しずつ見えてきた。だがこちらも、ただ待っているだけではない。王都の間諜を捕らえた、まさにその夜。私は城の地下にある秘密の部屋で、一人の男と密会していた。彼は私が王都にいた頃から密かに支援していた、情報屋ギルドの長だ。
「……ご命令の通り、準備は整っております、ヴィクトリア様」
男は闇に溶けるような声で言った。
「そう。ありがとう。それで、首尾はどう?」
「はい。エリオット第二王子殿下とは今も定期的に連絡を取っております。殿下はヴィクトリア様の身を大変ご心配されておられました」
「……そう」
エリオット殿下。その名を口にするだけで、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。彼もまたあの王都で、孤独な戦いを続けているのだ。
「殿下は近々、王都軍の最終的な作戦計画が決定されるだろう、と。その際は必ず我々を通じてヴィクトリア様にお伝えすると、約束してくださいました」
「頼りにしてるわ。……それから、もう一つ頼みたいことがあるの」
私は男に一通の手紙を渡した。
「これを中立派のセドリック伯爵に届けて。ただし、決して私が差出人だと悟られてはいけない。王都の現状を憂う匿名の愛国者から、という形でね」
「……承知いたしました」
男は手紙を受け取ると、音もなく闇の中へと消えていった。表の戦いが始まる前に。この影の戦いを制さなければならない。情報こそが、戦の生命線なのだ。
私は地図の上に新たな駒を置いた。王都の宰相の駒。そしてエリオット殿下の駒。セドリック伯爵の駒。盤上の駒は、全て出揃いつつある。
「リヒター宰相。あなたがどれほどの策を弄そうとも、全て私の手のひらの上よ」
私は誰に言うともなく呟いた。本当の戦いはまだ始まってもいない。この静かな影の攻防こそが、やがて来る決戦の勝敗をすでに決しているのだということを。あの愚かな男は、まだ知る由もなかった。
私たちが冬の間に戦力を蓄えていたように、王都もまた黙って時を過ごしていたわけではないだろう。リヒター宰相のことだ。きっと狡猾な罠を幾重にも張り巡らせ、私たちが動き出すのを今か今かと待ち構えているに違いない。
案の定、雪解けとほぼ同時にローゼンベルク領内に奇妙な噂が流れ始めた。
「ヴィクトリア様は我々を見捨てるつもりらしい」 「王都に降伏すれば、今の暮らしは保証されるそうだぞ」
明らかに民衆の結束を乱すための流言飛語。王都が放った間諜たちの仕業に違いなかった。彼らは行商人や旅芸人に成りすまし、領内の村々で不安を煽っている。
「許せませんな。このような卑劣な手段を」
コンラートは憤りを隠さない。しかし私は冷静だった。
「いいえ、コンラート。これは好都合よ」
「好都合、でございますか?」
「ええ。敵が動いたということは、こちらの網にかかったということだもの」
私は不敵に微笑んだ。冬の間、私が整えたのは軍備だけではない。領内の情報網もまた蜘蛛の巣のように張り巡らせていたのだ。私が結成した『銀薔薇騎士団』の真の任務は、民を守ること、そして領内に入り込む不審分子を炙り出すことにあった。
「各地の村長やギルドの長にはすでに指示を出してあるわ。見慣れない者が現れたら歓待するふりをして、その素性を探るように、とね」
私の言葉通り、数日のうちに間諜たちは次々と捕えられた。彼らは銀薔薇騎士団の巧みな尋問の前にあっさりと口を割り、王都の内部情報を洗いざらい白状した。
「……なるほど。宰相は王都の北方に位置するガラン砦に主力を集結させているのね。やはり中央街道を進む我々を、そこで叩くつもりか」
間諜たちからもたらされた情報は、私が冬の間に立てた予測を裏付けるものだった。しかし、それだけではなかった。
「ヴィクトリア様。こちらを」
コンラートが、一人の間諜が持っていたという暗号化された密書を私に差し出した。私はそれを解読し、思わず眉をひそめる。
「……これは」
そこにはガラン砦の兵力や配置だけでなく、宰相が別に用意している恐るべき罠の存在がほのめかされていたのだ。
(陽動に、もう一つの陽動を重ねるつもりか。あの狐、食えない男)
敵の動きが少しずつ見えてきた。だがこちらも、ただ待っているだけではない。王都の間諜を捕らえた、まさにその夜。私は城の地下にある秘密の部屋で、一人の男と密会していた。彼は私が王都にいた頃から密かに支援していた、情報屋ギルドの長だ。
「……ご命令の通り、準備は整っております、ヴィクトリア様」
男は闇に溶けるような声で言った。
「そう。ありがとう。それで、首尾はどう?」
「はい。エリオット第二王子殿下とは今も定期的に連絡を取っております。殿下はヴィクトリア様の身を大変ご心配されておられました」
「……そう」
エリオット殿下。その名を口にするだけで、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。彼もまたあの王都で、孤独な戦いを続けているのだ。
「殿下は近々、王都軍の最終的な作戦計画が決定されるだろう、と。その際は必ず我々を通じてヴィクトリア様にお伝えすると、約束してくださいました」
「頼りにしてるわ。……それから、もう一つ頼みたいことがあるの」
私は男に一通の手紙を渡した。
「これを中立派のセドリック伯爵に届けて。ただし、決して私が差出人だと悟られてはいけない。王都の現状を憂う匿名の愛国者から、という形でね」
「……承知いたしました」
男は手紙を受け取ると、音もなく闇の中へと消えていった。表の戦いが始まる前に。この影の戦いを制さなければならない。情報こそが、戦の生命線なのだ。
私は地図の上に新たな駒を置いた。王都の宰相の駒。そしてエリオット殿下の駒。セドリック伯爵の駒。盤上の駒は、全て出揃いつつある。
「リヒター宰相。あなたがどれほどの策を弄そうとも、全て私の手のひらの上よ」
私は誰に言うともなく呟いた。本当の戦いはまだ始まってもいない。この静かな影の攻防こそが、やがて来る決戦の勝敗をすでに決しているのだということを。あの愚かな男は、まだ知る由もなかった。
あなたにおすすめの小説
悪役令嬢にされたので婚約破棄を受け入れたら、なぜか全員困っています
かきんとう
恋愛
王城の大広間は、いつも以上に華やいでいた。
磨き上げられた床は燭台の光を反射し、色とりどりのドレスが揺れるたびに、まるで花畑が動いているかのように見える。貴族たちの笑い声、楽団の優雅な旋律、そして、ひそやかな噂話が、空気を満たしていた。
その中心に、私は立っていた。
――今日、この瞬間のために。
「エレノア・フォン・リーベルト嬢」
高らかに呼ばれた私の名に、ざわめきがぴたりと止む。
結婚結婚煩いので、愛人持ちの幼馴染と偽装結婚してみた
夏菜しの
恋愛
幼馴染のルーカスの態度は、年頃になっても相変わらず気安い。
彼のその変わらぬ態度のお陰で、周りから男女の仲だと勘違いされて、公爵令嬢エーデルトラウトの相手はなかなか決まらない。
そんな現状をヤキモキしているというのに、ルーカスの方は素知らぬ顔。
彼は思いのままに平民の娘と恋人関係を持っていた。
いっそそのまま結婚してくれれば、噂は間違いだったと知れるのに、あちらもやっぱり公爵家で、平民との結婚など許さんと反対されていた。
のらりくらりと躱すがもう限界。
いよいよ親が煩くなってきたころ、ルーカスがやってきて『偽装結婚しないか?』と提案された。
彼の愛人を黙認する代わりに、贅沢と自由が得られる。
これで煩く言われないとすると、悪くない提案じゃない?
エーデルトラウトは軽い気持ちでその提案に乗った。
天然の仮面を被った令嬢は、すべてを賭けて傭兵領主に嫁ぐ──愛と復讐を誓う、たったひとりのあなたへ
葵 すみれ
恋愛
没落貴族の令嬢パメラは、売られるように元傭兵の成り上がり領主に嫁がされる。
──けれどそれは、たったひとつ残された自分自身を賭けた、最後の勝負でもあった。
冷たく迎えられた屋敷、素性を隠す夫。
けれど、微笑みの仮面の下で牙を研ぐパメラもまた、彼を利用する覚悟を秘めていた。
ただの偽りの夫婦──そう思っていたはずなのに。
重ねた誓いの先で、ふたりの心はひとつになる。
そして、交わした誓いはただひとつ。
「奪われたすべてを、取り戻す」
これは、仮面を被った令嬢と傭兵領主が、愛を知り、復讐に挑む物語。
(他サイトにも掲載しています)
「地味で無能」と捨てられた令嬢は、冷酷な【年上イケオジ公爵】に嫁ぎました〜今更私の価値に気づいた元王太子が後悔で顔面蒼白になっても今更遅い
腐ったバナナ
恋愛
伯爵令嬢クラウディアは、婚約者のアルバート王太子と妹リリアンに「地味で無能」と断罪され、公衆の面前で婚約破棄される。
お飾りの厄介払いとして押し付けられた嫁ぎ先は、「氷壁公爵」と恐れられる年上の冷酷な辺境伯アレクシス・グレイヴナー公爵だった。
当初は冷徹だった公爵は、クラウディアの才能と、過去の傷を癒やす温もりに触れ、その愛を「二度と失わない」と固く誓う。
彼の愛は、包容力と同時に、狂気的な独占欲を伴った「大人の愛」へと昇華していく。
無能だとクビになったメイドですが、今は王宮で筆頭メイドをしています
如月ぐるぐる
恋愛
「お前の様な役立たずは首だ! さっさと出て行け!」
何年も仕えていた男爵家を追い出され、途方に暮れるシルヴィア。
しかし街の人々はシルビアを優しく受け入れ、宿屋で住み込みで働く事になる。
様々な理由により職を転々とするが、ある日、男爵家は爵位剥奪となり、近隣の子爵家の代理人が統治する事になる。
この地域に詳しく、元男爵家に仕えていた事もあり、代理人がシルヴィアに協力を求めて来たのだが……
男爵メイドから王宮筆頭メイドになるシルビアの物語が、今始まった。
「地味ブス」と捨てられた私、文化祭の大型スクリーンで王子様の裏の顔を全校生に配信します
スカッと文庫
恋愛
「お前みたいな地味女、引き立て役にもならないんだよ」
眼鏡にボサボサ頭の特待生・澪(みお)は、全校生徒が見守る中、恋人だった学園の王子・ハルトから冷酷に捨てられた。
隣には、可憐な微笑みを浮かべる転校生・エマ。
エマの自作自演により「いじめの犯人」という濡れ衣まで着せられ、学園中から蔑まれる澪。
しかし、彼女を嘲笑う者たちはまだ知らない。
彼女が眼鏡の奥に、誰もが平伏す「真実の美貌」と、学園さえも支配できる「最強の背景」を隠していることを――。
「……ねぇ、文化祭、最高のステージにしてあげる」
裏切りへのカウントダウンが今、始まる。
スクリーンの裏側を暴き、傲慢な王子と偽りのヒロインを奈落へ突き落とす、痛快・学園下剋上ファンタジー!
妹に婚約者を奪われたので、田舎暮らしを始めます
tartan321
恋愛
最後の結末は??????
本編は完結いたしました。お読み頂きましてありがとうございます。一度完結といたします。これからは、後日談を書いていきます。