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第9話:ミリアの罠(毒入りワイン事件)
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私が「宰相閣下の溺愛婚約者」として、確固たる地位(と誤解)を築き上げてから、およそ二週間。 王都の季節は、本格的な冬へと向かっていた。
寒さが厳しくなると同時に、貴族たちの社交シーズンも佳境を迎える。 連日のように夜会、茶会、観劇会が開かれ、そこでの振る舞いが翌年の派閥争いに影響するとあって、誰もが目の色を変えて参加している。
当然、時の人である私、エリス・フォン・ローゼンの元にも、招待状の山が届いていた。 今までは「体調不良(精神的引きこもり)」を理由に断り続けていたのだが、今回だけは断れない招待状が届いてしまった。
『王妃陛下主催 初冬のガーデンパーティーへのご招待』
王妃陛下。 我が国の国母であり、社交界の頂点に君臨するお方だ。 しかも、場所は王宮の離宮にある温室庭園。 欠席すれば、それは「王家への不敬」となり、即座に処刑……とまではいかなくとも、実家の公爵家と、婚約者であるクラウス様の顔に泥を塗ることになる。
「……はぁ」
宰相執務室のソファで、私は深いため息をついた。 行きたくない。 お腹が痛い。 王妃様は厳しい方だと聞くし、何より、あのミリアも聖女候補として招待されているに違いない。 また何か仕掛けてくるのではないかという予感が、私の胃をキリキリと締め上げる。
机の向こうで書類と格闘していたクラウス様が、私の重い空気を感じ取って顔を上げた。
「エリス。……ため息をつくなど珍しいな。何か憂いがあるのか?」
私は無言で、手元の招待状を彼に見せた。 クラウス様はそれを見て、眉間に深い皺を刻んだ。
「王妃殿下のパーティーか。……確かに、これは断れないな」
彼はペンを置き、立ち上がって私の隣に座った。 そして、私の冷たい手を包み込むように握る。
「心配するな。私も同行する。公務の調整はつけた」
えっ、来てくれるんですか? 宰相ともあろうお方が、昼間のパーティーに?
「君を一人で猛獣の檻に放り込むような真似はしない。……それに、最近の君への注目度は異常だ。有象無象が君に近づかないよう、私が防波堤にならねば」
過保護だ。 でも、正直ありがたい。 彼の「絶対零度の眼力」があれば、意地悪な貴族婦人たちも近寄ってこないだろう。
私はホッとして、コクコクと頷いた。 クラウス様は私の頭を優しく撫でた。
「ただし、王妃殿下との挨拶の時だけは、私が口を挟むわけにはいかない。そこは君自身の力で乗り切ってもらうことになるが……君なら問題ないだろう。あの断罪の場ですら、一言も発さずに勝利した君だ。王妃殿下の威光にも動じない『鉄の心臓』を持っている」
持ってません。 私の心臓は豆腐並みに脆いです。 でも、そんな本音は言えないまま、運命のパーティー当日はやってきた。
◇
王宮の温室庭園は、外の寒気が嘘のような常春の楽園だった。 ガラス張りの天井からは柔らかな日差しが降り注ぎ、色とりどりの南国の花々が咲き乱れている。 甘い花の香りと、高価な香水の入り混じった空気が、むせ返るようだ。
会場には、すでに多くの貴族が集まっていた。 私たちが入場すると、いつものように視線が集中する。
「見ろ、宰相閣下とローゼン公爵令嬢だ」 「なんて絵になるお二人……」 「閣下がこれほど公の場に女性を伴うなんて」 「やはり、あの『沈黙の聖女』の噂は本当なのだろうな」
囁き声の中を、私たちは王妃陛下の元へと進む。 最奥のテラス席に、その人はいた。 銀色の髪を高く結い上げ、威厳に満ちた表情で座る王妃陛下。
緊張で足が震える。 転ばないように、クラウス様の腕をギュッと掴む。 それが「慎ましやかな頼り方」に見えたのか、王妃陛下は目を細めた。
「よく来てくれましたね、アイゼンベルク侯爵、そしてローゼン公爵令嬢」
私たちは深々と礼をする。 クラウス様が流暢な挨拶を述べた後、王妃陛下の視線が私に向けられた。
「エリス嬢。アデルとの件では、王家として苦労をかけましたね。……私の愚息が、貴女のような素晴らしい原石を手放したこと、母として恥ずかしく思います」
なんと。 王妃様直々の謝罪だ。 これは「恐れ多いことでございます」とかなんとか、気の利いた言葉を返すべき場面だ。 しかし、緊張で喉が張り付いて声が出ない。
私は無言のまま、ただ深く首を垂れた。 (そんな、謝らないでください。恐縮です) そんな気持ちを込めて、最大限に小さくなった。
すると、王妃陛下はフッと笑みをこぼした。
「……なるほど。言葉よりも態度で示す、か。噂通りの奥ゆかしさね。王家の非を責めることもなく、ただ静かに受け入れるその度量、気に入りました」
クリアした。 無言作戦、王妃様にも通用した。 クラウス様の「沈黙最強説」は正しかったらしい。
挨拶が終わり、私たちは一般の歓談エリアへと移動した。 クラウス様はすぐに数人の大臣に捕まり、少し離れた場所で話し込み始めた。 私は壁際で、一人「置物」になる。 手にはグラスを持っているが、口はつけない。トイレに行きたくなったら困るからだ。
平和だ。 このまま時間が過ぎてくれればいいのに。
そう願った矢先。 私の視界の端に、ピンク色の影が映った。
(げっ)
ミリアだ。 彼女は今日もフリフリの可愛らしいドレスを着て、しかし目は全く笑っていない表情で、私の方へまっすぐに歩いてきた。 後ろには、いつもの取り巻きではなく、使用人を一人引き連れている。 使用人の手には、銀のお盆。 そこには、なみなみと注がれた赤ワインのグラスが二つ乗っていた。
「ごきげんよう、エリス様」
ミリアが声をかけてきた。 周囲の貴族たちが、「おっ、直接対決か?」と興味津々で耳をそばだてる。
私は無言で会釈した。 関わりたくない。 逃げたい。
しかし、ミリアは逃がさなかった。 彼女は殊勝な顔を作り、涙ぐんでみせた。
「先日のダンスでは、ごめんなさい。私、転んでしまって……エリス様にもご迷惑をおかけしました。今日はそのお詫びと、仲直りのしるしに、特別なワインをお持ちしたんです」
仲直り? 貴女と? あり得ない。 私の人生を破滅させようとした人間と、どの面下げて仲直りするというのか。
ミリアは使用人からグラスを一つ取り、私に差し出した。
「これ、私の実家の領地で採れた、最高級のヴィンテージワインなんです。陛下にも献上したことがあるんですよ? ぜひ、乾杯させてください」
笑顔。 完璧な営業スマイルだ。 断りにくい空気を作っている。 周囲も「おや、和解の申し出か」「男爵令嬢も反省したようだな」「公爵令嬢として、これを受けないわけにはいかないだろう」という雰囲気になっている。
私は差し出されたグラスを見つめた。 濃い赤色の液体。 芳醇な香り。
その瞬間。 私の脳裏に、前世の記憶が強烈にフラッシュバックした。
あれは、学園の卒業パーティーだった。 ミリアが同じような笑顔で、「仲直りしましょう」とジュースを持ってきた。 私は素直にそれを受け取り、飲んだ。 その三十分後。 私は地獄の腹痛に襲われ、トイレに駆け込んだ。 しかしトイレのドアは外から鍵をかけられており、私は……。 その後の惨劇は、思い出すのもおぞましい。 ドレスを汚し、皆の前で恥をかき、「だらしない女」とアデルに軽蔑されたあの日。
(……同じだ)
シチュエーションが酷似している。 謝罪と称して飲み物を勧める手口。 周りの目を気にして断れないようにする圧力。
このワインには、何かが入っている。 間違いなく、下剤だ。 それも、最強クラスの即効性があるやつだ。
もしこれを飲めば、私はこの王妃主催のパーティーで、取り返しのつかない醜態を晒すことになる。 「宰相の婚約者がお漏らし」なんて、社会的な死だ。処刑されるより恥ずかしい。
(絶対に、飲むものか!)
私の背筋に悪寒が走ると同時に、強い拒絶の意志が湧き上がった。 私は手を後ろに組み、頑としてグラスを受け取らなかった。 無言で、ミリアを凝視する。 目は恐怖で見開かれているが、傍から見れば「射抜くような鋭い眼差し」に見えただろう。
ミリアの笑顔が少し引きつった。
「ど、どうされたのですか? 受け取ってくださいよ。私の謝罪が受け入れられないのですか?」
受け入れられません。 貴女が持ってくるものは、空気ですら吸いたくありません。
私は首を横に振った。 ゆっくりと、しかし断固として。
会場がざわめく。 公衆の面前で、和解の申し出を拒否したのだ。 これは「私は貴女を許さない」という強烈な意思表示となる。
「ひどい……! 私がこんなに下手にでているのに! やっぱりエリス様は、私をいじめるおつもりなんですね!」
ミリアが大きな声を出した。 逆ギレだ。 「ほら、みんな見て! この女は冷酷よ!」とアピールしている。
貴族たちも「少し大人げないのでは?」「形だけでも受け取ればいいのに」と囁き始める。 空気が悪い。 アウェイだ。
でも、飲んだら社会的に死ぬ。 私は唇を噛み締め、石像のように固まったまま動かなかった。
その時。
「――どうした、騒がしいな」
人垣を割って、クラウス様が現れた。 救世主登場。 彼は私の青ざめた顔と、ミリアが差し出しているワイングラスを見て、瞬時に状況を分析した。
「ミリア嬢。……私の婚約者に、何を強要している?」
冷たい声。 ミリアはビクリと震えたが、すぐに涙目で訴えた。
「強要なんて! 私はただ、お詫びのワインを勧めただけですぅ。でも、エリス様ったら、無視して受け取ってもくれないんです……」
クラウス様は私を見た。 「なぜ受け取らないんだ?」という問いかけではない。 「何か理由があるんだな?」という信頼の眼差しだ。
私は目で訴えた。 (これ、ヤバいです。絶対に飲みたくないです)
クラウス様は私の瞳の奥にある「断固たる拒絶」と、微かな「恐怖」を読み取った。 そして、視線をミリアの持つグラスへと移した。
「……ほう。謝罪のワインか」
彼はゆっくりとミリアに近づいた。 そして、彼女の手からグラスを取り上げた。
「エリスがこれほど頑なに拒むとは、珍しい。彼女は本来、寛容な女性だ。多少の無礼なら微笑んで許す。……だというのに、このワインには指一本触れようとしない」
彼はグラスを光にかざし、液体を揺らした。
「まるで、本能的に『危険だ』と察知しているかのようだ」
ドキッ。 ミリアの心臓の音が聞こえそうなほど、彼女の顔色が揺らいだ。
「き、危険だなんて……! 失礼な! ただのワインですよ!」
「ならば、君が飲んでみるといい」 クラウス様はグラスをミリアに差し出した。
「え?」
「君が口をつけて安全を証明すれば、エリスも安心して飲むだろう。……さあ、飲みなさい」
ミリアが後退る。 飲めるわけがない。 これを飲んだら、数分後には自分が地獄を見ることになる。
「い、いえ、それはエリス様のために用意したもので……私が飲むわけには……」
「遠慮はいらない。乾杯とは、互いに杯を交わすものだ。君が飲まないのなら、私が毒見をしようか?」
クラウス様がグラスを自分の口元に運ぼうとした。 あ、待って! クラウス様が下痢になったら大変だ! 国の機能が麻痺してしまう!
私は慌ててクラウス様の袖を引っ張った。 ブンブンと首を横に振る。 (ダメです! 飲まないで!)
クラウス様は動きを止めた。 そして、私の必死な様子を見て、確信を深めたようだ。
「……なるほど。エリスが私を止めるということは、やはり『黒』か」
彼はグラスを近くのテーブルにドンと置いた。 そして、近くにいた近衛騎士を呼んだ。
「このワインを調べろ。今すぐにだ」 「はっ!」
騎士が試験紙のようなものを取り出し、ワインに浸す。 これは毒物検知用の魔法紙だ。
ミリアの顔色が土気色になる。 「ま、待ってください! そんな大げさな!」
数秒後。 試験紙が、どす黒い紫色に変色した。
ざわっ……!! 会場に悲鳴が上がる。
「毒だ! 毒反応が出たぞ!」 「なんてことだ……!」 「和解の席で毒を盛ろうとしたのか!?」
騎士が厳しい顔で報告する。 「閣下! これは『ルシファーの涙』と呼ばれる遅効性の劇薬です! 微量なら激しい腹痛と下痢を引き起こしますが、この量なら……脱水症状でショック死する恐れがあります!」
え。 死ぬの? ただの下剤じゃなくて、そんなヤバいものだったの? ミリア、あんた私を殺す気だったのか、それとも分量間違えたのか。
ミリアは腰を抜かしてへたり込んだ。
「ち、違う……! 私はただ、ちょっとお腹を壊させて、恥をかかせてやろうと……死ぬなんて……知らなかったのよぉぉ!」
自白した。 完全に自白した。 しかも動機が「恥をかかせるため」という低俗なものだ。
会場の空気が、ミリアに対する軽蔑と怒りで満たされる。 王妃陛下も、扇子で顔を隠しながら冷ややかに言い放った。
「……見下げた性根ですね。神聖な社交の場を、そのような悪意で汚すとは」
クラウス様は、氷のような目でミリアを見下ろした。 怒りすら通り越して、ゴミを見る目だ。
「連行しろ。殺人未遂の容疑だ。……男爵家への沙汰も覚悟しておけ」
衛兵たちがミリアを取り囲む。 彼女は半狂乱になって叫んだ。
「なんでよ! なんでバレたのよ! なんであんたは飲まないのよぉぉ! いっつもいっつも、黙ってすました顔して! 何がわかってるっていうのよぉぉ!!」
ミリアの絶叫が遠ざかっていく。 彼女は最後まで、自分の愚かさに気づくことなく、破滅への道を転がり落ちていった。
静寂が戻った会場で、クラウス様が私を抱きしめた。
「……エリス。無事でよかった」
彼の腕が微かに震えている。 もし私が空気を読んで飲んでいたら。 今頃、私は死んでいたかもしれない。 そう思うと、私も膝の力が抜けて、彼にしがみついた。
「君の直感は、神の域だな」 クラウス様が感嘆のため息をつく。
「見ただけで毒を見抜くとは。……やはり君は、何らかの加護を受けた『本物』なのかもしれない」
違います。 前世のトラウマです。 下剤への恐怖心が、危機回避能力を極限まで高めただけです。
しかし、周囲の貴族たちは完全に「エリス様=予知能力者」説を信じ込んでしまった。
「毒杯を前にしても動じず、無言で拒否した……」 「言葉で騒ぎ立てず、ただ静かに悪を暴いたのだ」 「彼女の沈黙は、全てを見通す『神の沈黙』だ……」
神格化が止まらない。 私はただ、お腹が痛くなるのが嫌だっただけなのに。
その夜。 クラウス様の屋敷に帰った私は、彼にこれまで以上に溺愛されることになった。 食事は全て彼が毒見をしてから私の口へ運ぶ(あーん状態)という、過保護にも程があるプレイが始まったのだ。
「これからは水一滴たりとも、私の許可なく口にしてはいけない。……君を守るためだ」
真剣な顔で言われたら、断れない。 私の「無言の聖女」ライフは、こうして「完全介護付き令嬢」ライフへと進化(退化?)しつつあった。
そして。 ミリアという最大の敵が自爆したことで、物語は平和なラブコメへと移行する……はずだった。
しかし、運命はそう簡単には私を休ませてくれない。 毒事件の捜査の過程で、ミリアが持っていた毒薬の出処が判明したのだ。 それは、単なる男爵令嬢が手に入れられるような代物ではなかった。
背後に見え隠れする、闇の組織。 そして、隣国の影。
私の「沈黙」が、国家規模の陰謀を暴く鍵となってしまうまで、あと少し。
寒さが厳しくなると同時に、貴族たちの社交シーズンも佳境を迎える。 連日のように夜会、茶会、観劇会が開かれ、そこでの振る舞いが翌年の派閥争いに影響するとあって、誰もが目の色を変えて参加している。
当然、時の人である私、エリス・フォン・ローゼンの元にも、招待状の山が届いていた。 今までは「体調不良(精神的引きこもり)」を理由に断り続けていたのだが、今回だけは断れない招待状が届いてしまった。
『王妃陛下主催 初冬のガーデンパーティーへのご招待』
王妃陛下。 我が国の国母であり、社交界の頂点に君臨するお方だ。 しかも、場所は王宮の離宮にある温室庭園。 欠席すれば、それは「王家への不敬」となり、即座に処刑……とまではいかなくとも、実家の公爵家と、婚約者であるクラウス様の顔に泥を塗ることになる。
「……はぁ」
宰相執務室のソファで、私は深いため息をついた。 行きたくない。 お腹が痛い。 王妃様は厳しい方だと聞くし、何より、あのミリアも聖女候補として招待されているに違いない。 また何か仕掛けてくるのではないかという予感が、私の胃をキリキリと締め上げる。
机の向こうで書類と格闘していたクラウス様が、私の重い空気を感じ取って顔を上げた。
「エリス。……ため息をつくなど珍しいな。何か憂いがあるのか?」
私は無言で、手元の招待状を彼に見せた。 クラウス様はそれを見て、眉間に深い皺を刻んだ。
「王妃殿下のパーティーか。……確かに、これは断れないな」
彼はペンを置き、立ち上がって私の隣に座った。 そして、私の冷たい手を包み込むように握る。
「心配するな。私も同行する。公務の調整はつけた」
えっ、来てくれるんですか? 宰相ともあろうお方が、昼間のパーティーに?
「君を一人で猛獣の檻に放り込むような真似はしない。……それに、最近の君への注目度は異常だ。有象無象が君に近づかないよう、私が防波堤にならねば」
過保護だ。 でも、正直ありがたい。 彼の「絶対零度の眼力」があれば、意地悪な貴族婦人たちも近寄ってこないだろう。
私はホッとして、コクコクと頷いた。 クラウス様は私の頭を優しく撫でた。
「ただし、王妃殿下との挨拶の時だけは、私が口を挟むわけにはいかない。そこは君自身の力で乗り切ってもらうことになるが……君なら問題ないだろう。あの断罪の場ですら、一言も発さずに勝利した君だ。王妃殿下の威光にも動じない『鉄の心臓』を持っている」
持ってません。 私の心臓は豆腐並みに脆いです。 でも、そんな本音は言えないまま、運命のパーティー当日はやってきた。
◇
王宮の温室庭園は、外の寒気が嘘のような常春の楽園だった。 ガラス張りの天井からは柔らかな日差しが降り注ぎ、色とりどりの南国の花々が咲き乱れている。 甘い花の香りと、高価な香水の入り混じった空気が、むせ返るようだ。
会場には、すでに多くの貴族が集まっていた。 私たちが入場すると、いつものように視線が集中する。
「見ろ、宰相閣下とローゼン公爵令嬢だ」 「なんて絵になるお二人……」 「閣下がこれほど公の場に女性を伴うなんて」 「やはり、あの『沈黙の聖女』の噂は本当なのだろうな」
囁き声の中を、私たちは王妃陛下の元へと進む。 最奥のテラス席に、その人はいた。 銀色の髪を高く結い上げ、威厳に満ちた表情で座る王妃陛下。
緊張で足が震える。 転ばないように、クラウス様の腕をギュッと掴む。 それが「慎ましやかな頼り方」に見えたのか、王妃陛下は目を細めた。
「よく来てくれましたね、アイゼンベルク侯爵、そしてローゼン公爵令嬢」
私たちは深々と礼をする。 クラウス様が流暢な挨拶を述べた後、王妃陛下の視線が私に向けられた。
「エリス嬢。アデルとの件では、王家として苦労をかけましたね。……私の愚息が、貴女のような素晴らしい原石を手放したこと、母として恥ずかしく思います」
なんと。 王妃様直々の謝罪だ。 これは「恐れ多いことでございます」とかなんとか、気の利いた言葉を返すべき場面だ。 しかし、緊張で喉が張り付いて声が出ない。
私は無言のまま、ただ深く首を垂れた。 (そんな、謝らないでください。恐縮です) そんな気持ちを込めて、最大限に小さくなった。
すると、王妃陛下はフッと笑みをこぼした。
「……なるほど。言葉よりも態度で示す、か。噂通りの奥ゆかしさね。王家の非を責めることもなく、ただ静かに受け入れるその度量、気に入りました」
クリアした。 無言作戦、王妃様にも通用した。 クラウス様の「沈黙最強説」は正しかったらしい。
挨拶が終わり、私たちは一般の歓談エリアへと移動した。 クラウス様はすぐに数人の大臣に捕まり、少し離れた場所で話し込み始めた。 私は壁際で、一人「置物」になる。 手にはグラスを持っているが、口はつけない。トイレに行きたくなったら困るからだ。
平和だ。 このまま時間が過ぎてくれればいいのに。
そう願った矢先。 私の視界の端に、ピンク色の影が映った。
(げっ)
ミリアだ。 彼女は今日もフリフリの可愛らしいドレスを着て、しかし目は全く笑っていない表情で、私の方へまっすぐに歩いてきた。 後ろには、いつもの取り巻きではなく、使用人を一人引き連れている。 使用人の手には、銀のお盆。 そこには、なみなみと注がれた赤ワインのグラスが二つ乗っていた。
「ごきげんよう、エリス様」
ミリアが声をかけてきた。 周囲の貴族たちが、「おっ、直接対決か?」と興味津々で耳をそばだてる。
私は無言で会釈した。 関わりたくない。 逃げたい。
しかし、ミリアは逃がさなかった。 彼女は殊勝な顔を作り、涙ぐんでみせた。
「先日のダンスでは、ごめんなさい。私、転んでしまって……エリス様にもご迷惑をおかけしました。今日はそのお詫びと、仲直りのしるしに、特別なワインをお持ちしたんです」
仲直り? 貴女と? あり得ない。 私の人生を破滅させようとした人間と、どの面下げて仲直りするというのか。
ミリアは使用人からグラスを一つ取り、私に差し出した。
「これ、私の実家の領地で採れた、最高級のヴィンテージワインなんです。陛下にも献上したことがあるんですよ? ぜひ、乾杯させてください」
笑顔。 完璧な営業スマイルだ。 断りにくい空気を作っている。 周囲も「おや、和解の申し出か」「男爵令嬢も反省したようだな」「公爵令嬢として、これを受けないわけにはいかないだろう」という雰囲気になっている。
私は差し出されたグラスを見つめた。 濃い赤色の液体。 芳醇な香り。
その瞬間。 私の脳裏に、前世の記憶が強烈にフラッシュバックした。
あれは、学園の卒業パーティーだった。 ミリアが同じような笑顔で、「仲直りしましょう」とジュースを持ってきた。 私は素直にそれを受け取り、飲んだ。 その三十分後。 私は地獄の腹痛に襲われ、トイレに駆け込んだ。 しかしトイレのドアは外から鍵をかけられており、私は……。 その後の惨劇は、思い出すのもおぞましい。 ドレスを汚し、皆の前で恥をかき、「だらしない女」とアデルに軽蔑されたあの日。
(……同じだ)
シチュエーションが酷似している。 謝罪と称して飲み物を勧める手口。 周りの目を気にして断れないようにする圧力。
このワインには、何かが入っている。 間違いなく、下剤だ。 それも、最強クラスの即効性があるやつだ。
もしこれを飲めば、私はこの王妃主催のパーティーで、取り返しのつかない醜態を晒すことになる。 「宰相の婚約者がお漏らし」なんて、社会的な死だ。処刑されるより恥ずかしい。
(絶対に、飲むものか!)
私の背筋に悪寒が走ると同時に、強い拒絶の意志が湧き上がった。 私は手を後ろに組み、頑としてグラスを受け取らなかった。 無言で、ミリアを凝視する。 目は恐怖で見開かれているが、傍から見れば「射抜くような鋭い眼差し」に見えただろう。
ミリアの笑顔が少し引きつった。
「ど、どうされたのですか? 受け取ってくださいよ。私の謝罪が受け入れられないのですか?」
受け入れられません。 貴女が持ってくるものは、空気ですら吸いたくありません。
私は首を横に振った。 ゆっくりと、しかし断固として。
会場がざわめく。 公衆の面前で、和解の申し出を拒否したのだ。 これは「私は貴女を許さない」という強烈な意思表示となる。
「ひどい……! 私がこんなに下手にでているのに! やっぱりエリス様は、私をいじめるおつもりなんですね!」
ミリアが大きな声を出した。 逆ギレだ。 「ほら、みんな見て! この女は冷酷よ!」とアピールしている。
貴族たちも「少し大人げないのでは?」「形だけでも受け取ればいいのに」と囁き始める。 空気が悪い。 アウェイだ。
でも、飲んだら社会的に死ぬ。 私は唇を噛み締め、石像のように固まったまま動かなかった。
その時。
「――どうした、騒がしいな」
人垣を割って、クラウス様が現れた。 救世主登場。 彼は私の青ざめた顔と、ミリアが差し出しているワイングラスを見て、瞬時に状況を分析した。
「ミリア嬢。……私の婚約者に、何を強要している?」
冷たい声。 ミリアはビクリと震えたが、すぐに涙目で訴えた。
「強要なんて! 私はただ、お詫びのワインを勧めただけですぅ。でも、エリス様ったら、無視して受け取ってもくれないんです……」
クラウス様は私を見た。 「なぜ受け取らないんだ?」という問いかけではない。 「何か理由があるんだな?」という信頼の眼差しだ。
私は目で訴えた。 (これ、ヤバいです。絶対に飲みたくないです)
クラウス様は私の瞳の奥にある「断固たる拒絶」と、微かな「恐怖」を読み取った。 そして、視線をミリアの持つグラスへと移した。
「……ほう。謝罪のワインか」
彼はゆっくりとミリアに近づいた。 そして、彼女の手からグラスを取り上げた。
「エリスがこれほど頑なに拒むとは、珍しい。彼女は本来、寛容な女性だ。多少の無礼なら微笑んで許す。……だというのに、このワインには指一本触れようとしない」
彼はグラスを光にかざし、液体を揺らした。
「まるで、本能的に『危険だ』と察知しているかのようだ」
ドキッ。 ミリアの心臓の音が聞こえそうなほど、彼女の顔色が揺らいだ。
「き、危険だなんて……! 失礼な! ただのワインですよ!」
「ならば、君が飲んでみるといい」 クラウス様はグラスをミリアに差し出した。
「え?」
「君が口をつけて安全を証明すれば、エリスも安心して飲むだろう。……さあ、飲みなさい」
ミリアが後退る。 飲めるわけがない。 これを飲んだら、数分後には自分が地獄を見ることになる。
「い、いえ、それはエリス様のために用意したもので……私が飲むわけには……」
「遠慮はいらない。乾杯とは、互いに杯を交わすものだ。君が飲まないのなら、私が毒見をしようか?」
クラウス様がグラスを自分の口元に運ぼうとした。 あ、待って! クラウス様が下痢になったら大変だ! 国の機能が麻痺してしまう!
私は慌ててクラウス様の袖を引っ張った。 ブンブンと首を横に振る。 (ダメです! 飲まないで!)
クラウス様は動きを止めた。 そして、私の必死な様子を見て、確信を深めたようだ。
「……なるほど。エリスが私を止めるということは、やはり『黒』か」
彼はグラスを近くのテーブルにドンと置いた。 そして、近くにいた近衛騎士を呼んだ。
「このワインを調べろ。今すぐにだ」 「はっ!」
騎士が試験紙のようなものを取り出し、ワインに浸す。 これは毒物検知用の魔法紙だ。
ミリアの顔色が土気色になる。 「ま、待ってください! そんな大げさな!」
数秒後。 試験紙が、どす黒い紫色に変色した。
ざわっ……!! 会場に悲鳴が上がる。
「毒だ! 毒反応が出たぞ!」 「なんてことだ……!」 「和解の席で毒を盛ろうとしたのか!?」
騎士が厳しい顔で報告する。 「閣下! これは『ルシファーの涙』と呼ばれる遅効性の劇薬です! 微量なら激しい腹痛と下痢を引き起こしますが、この量なら……脱水症状でショック死する恐れがあります!」
え。 死ぬの? ただの下剤じゃなくて、そんなヤバいものだったの? ミリア、あんた私を殺す気だったのか、それとも分量間違えたのか。
ミリアは腰を抜かしてへたり込んだ。
「ち、違う……! 私はただ、ちょっとお腹を壊させて、恥をかかせてやろうと……死ぬなんて……知らなかったのよぉぉ!」
自白した。 完全に自白した。 しかも動機が「恥をかかせるため」という低俗なものだ。
会場の空気が、ミリアに対する軽蔑と怒りで満たされる。 王妃陛下も、扇子で顔を隠しながら冷ややかに言い放った。
「……見下げた性根ですね。神聖な社交の場を、そのような悪意で汚すとは」
クラウス様は、氷のような目でミリアを見下ろした。 怒りすら通り越して、ゴミを見る目だ。
「連行しろ。殺人未遂の容疑だ。……男爵家への沙汰も覚悟しておけ」
衛兵たちがミリアを取り囲む。 彼女は半狂乱になって叫んだ。
「なんでよ! なんでバレたのよ! なんであんたは飲まないのよぉぉ! いっつもいっつも、黙ってすました顔して! 何がわかってるっていうのよぉぉ!!」
ミリアの絶叫が遠ざかっていく。 彼女は最後まで、自分の愚かさに気づくことなく、破滅への道を転がり落ちていった。
静寂が戻った会場で、クラウス様が私を抱きしめた。
「……エリス。無事でよかった」
彼の腕が微かに震えている。 もし私が空気を読んで飲んでいたら。 今頃、私は死んでいたかもしれない。 そう思うと、私も膝の力が抜けて、彼にしがみついた。
「君の直感は、神の域だな」 クラウス様が感嘆のため息をつく。
「見ただけで毒を見抜くとは。……やはり君は、何らかの加護を受けた『本物』なのかもしれない」
違います。 前世のトラウマです。 下剤への恐怖心が、危機回避能力を極限まで高めただけです。
しかし、周囲の貴族たちは完全に「エリス様=予知能力者」説を信じ込んでしまった。
「毒杯を前にしても動じず、無言で拒否した……」 「言葉で騒ぎ立てず、ただ静かに悪を暴いたのだ」 「彼女の沈黙は、全てを見通す『神の沈黙』だ……」
神格化が止まらない。 私はただ、お腹が痛くなるのが嫌だっただけなのに。
その夜。 クラウス様の屋敷に帰った私は、彼にこれまで以上に溺愛されることになった。 食事は全て彼が毒見をしてから私の口へ運ぶ(あーん状態)という、過保護にも程があるプレイが始まったのだ。
「これからは水一滴たりとも、私の許可なく口にしてはいけない。……君を守るためだ」
真剣な顔で言われたら、断れない。 私の「無言の聖女」ライフは、こうして「完全介護付き令嬢」ライフへと進化(退化?)しつつあった。
そして。 ミリアという最大の敵が自爆したことで、物語は平和なラブコメへと移行する……はずだった。
しかし、運命はそう簡単には私を休ませてくれない。 毒事件の捜査の過程で、ミリアが持っていた毒薬の出処が判明したのだ。 それは、単なる男爵令嬢が手に入れられるような代物ではなかった。
背後に見え隠れする、闇の組織。 そして、隣国の影。
私の「沈黙」が、国家規模の陰謀を暴く鍵となってしまうまで、あと少し。
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