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31話「王都が欲しがるもの」
「条件を出す、だと?」
オスカーは眉を深く寄せ、机上の書簡を睨みつけた。
暖炉の火が、彼の険しい横顔に深い影を落としている。
「相手は王都の政務院、そして王太子だ。下手に交渉の余地を与えれば、何らかの法的な罠を仕掛けて強制的な召還命令を出してくる危険がある。ここは完全に無視を決め込み、辺境伯領の独立性を盾にするのが上策ではないのか」
「無視をすれば、彼らは私が怯えている、あるいは北辺で辺境伯閣下に軟禁されていると都合よく解釈し、さらなる強硬手段に出てくるでしょう」
セレナは書簡を手に取り、その羊皮紙の滑らかな感触を指先で確かめながら、冷静に言葉を紡いだ。
「王都が今一番欲しがっているのは、私の名誉回復でも、過去の謝罪でもありません。滞りきった政務の遅れを取り戻すための、ただの『実務能力』です。彼らは私個人を求めているのではなく、私の計算式と整理能力を欲しているだけ。ならば、それを対価として、こちらが本当に欲しいものを引き出します」
「欲しいもの……王都に残してきた証拠か」
「はい」
セレナは深く頷いた。
国庫横領の冤罪を晴らし、ローデリク侯爵の不正の構造を根底から暴くための決定的な証拠。王立文書院の奥深くに隠されたままの、草案の控えと押印簿。
「現在、王都の文書院はローデリク侯爵の息がかかっており、外部からの調査は完全にシャットアウトされています。ですが、王太子補佐の権限を持つ者への『業務上の引き継ぎ』という名目であれば、閲覧を拒むことはできません」
「だが、お前は王都には戻らないと言ったはずだ」
「戻りません。王都の土を踏む気は毛頭ありません」
セレナは冷ややかに言い切った。
「ここは北辺の領政監補佐として、書面でのやり取りを提案します。『王都の政務に関する助言を文書で行う用意がある。ただし、その前提条件として、過去五年間の北辺支援に関する特秘資料の完全な閲覧権、およびその写しを辺境伯領へ送達することを要求する』と」
隣で話を聞いていたイザークが、感嘆の息を漏らしながら眼鏡を押し上げた。
「なるほど……。彼らが喉から手が出るほど欲しい『助言』を餌にして、証拠の開示を迫るわけですか。向こうがこの条件を飲めば証拠が手に入り、飲まなければ政務の破綻が続く。どちらに転んでも、我々に損はありません」
「ローデリク侯爵が、自分の首を絞める証拠を素直に渡すとは思えんがな」
オスカーの懸念はもっともだった。海千山千の政治家が、見え透いた罠に簡単にかかるはずがない。
「ええ。ですから、この手紙は時間を稼ぐための牽制でもあります」
セレナは窓の外、雪に覆われた領都の景色を見つめた。
「彼らが条件の裏を読み、検討して躊躇している間に、私たちは別のルートから証拠に繋がる糸をたぐり寄せます」
セレナは、自室の机に残してきた『白星学術院の後輩たちからの手紙』を思い浮かべていた。
王都の内部で、完全に権力に取り込まれていない純粋な者たち。彼女の本当の姿を知り、真実を探ろうとしてくれている小さな味方たち。
「……分かった。交渉の文面はお前に任せる。だが、少しでも身の危険を感じるような動きがあれば、すぐに俺に言え」
オスカーは立ち上がり、セレナの目の前まで歩み寄った。
その灰青色の瞳には、領主としての威厳だけでなく、一人の女性を守り抜こうとする強烈な意志が宿っていた。
「王都が何を言ってこようと、お前は俺の補佐だ。辺境伯の全権限を使ってでも、理不尽な命令は弾き返す。お前を二度と、あんな真似の道具にはさせない」
その低く力強い言葉に、セレナの胸が小さく、しかし確かに高鳴った。
呼吸が少しだけ浅くなるのを感じながら、彼女は視線を逸らさずに微笑んだ。
「ありがとうございます、オスカー様。ですが、私はもう、黙って奪われるだけの令嬢ではありません。彼らが私を安易に呼び戻せると思っているのなら、その認識の甘さを後悔させてみせます」
完璧な礼の姿勢を取る彼女の背筋は、かつてなく真っ直ぐだった。
王都へ送る返書は、美しい敬語で彩られた、最も鋭い刃となるだろう。
オスカーは眉を深く寄せ、机上の書簡を睨みつけた。
暖炉の火が、彼の険しい横顔に深い影を落としている。
「相手は王都の政務院、そして王太子だ。下手に交渉の余地を与えれば、何らかの法的な罠を仕掛けて強制的な召還命令を出してくる危険がある。ここは完全に無視を決め込み、辺境伯領の独立性を盾にするのが上策ではないのか」
「無視をすれば、彼らは私が怯えている、あるいは北辺で辺境伯閣下に軟禁されていると都合よく解釈し、さらなる強硬手段に出てくるでしょう」
セレナは書簡を手に取り、その羊皮紙の滑らかな感触を指先で確かめながら、冷静に言葉を紡いだ。
「王都が今一番欲しがっているのは、私の名誉回復でも、過去の謝罪でもありません。滞りきった政務の遅れを取り戻すための、ただの『実務能力』です。彼らは私個人を求めているのではなく、私の計算式と整理能力を欲しているだけ。ならば、それを対価として、こちらが本当に欲しいものを引き出します」
「欲しいもの……王都に残してきた証拠か」
「はい」
セレナは深く頷いた。
国庫横領の冤罪を晴らし、ローデリク侯爵の不正の構造を根底から暴くための決定的な証拠。王立文書院の奥深くに隠されたままの、草案の控えと押印簿。
「現在、王都の文書院はローデリク侯爵の息がかかっており、外部からの調査は完全にシャットアウトされています。ですが、王太子補佐の権限を持つ者への『業務上の引き継ぎ』という名目であれば、閲覧を拒むことはできません」
「だが、お前は王都には戻らないと言ったはずだ」
「戻りません。王都の土を踏む気は毛頭ありません」
セレナは冷ややかに言い切った。
「ここは北辺の領政監補佐として、書面でのやり取りを提案します。『王都の政務に関する助言を文書で行う用意がある。ただし、その前提条件として、過去五年間の北辺支援に関する特秘資料の完全な閲覧権、およびその写しを辺境伯領へ送達することを要求する』と」
隣で話を聞いていたイザークが、感嘆の息を漏らしながら眼鏡を押し上げた。
「なるほど……。彼らが喉から手が出るほど欲しい『助言』を餌にして、証拠の開示を迫るわけですか。向こうがこの条件を飲めば証拠が手に入り、飲まなければ政務の破綻が続く。どちらに転んでも、我々に損はありません」
「ローデリク侯爵が、自分の首を絞める証拠を素直に渡すとは思えんがな」
オスカーの懸念はもっともだった。海千山千の政治家が、見え透いた罠に簡単にかかるはずがない。
「ええ。ですから、この手紙は時間を稼ぐための牽制でもあります」
セレナは窓の外、雪に覆われた領都の景色を見つめた。
「彼らが条件の裏を読み、検討して躊躇している間に、私たちは別のルートから証拠に繋がる糸をたぐり寄せます」
セレナは、自室の机に残してきた『白星学術院の後輩たちからの手紙』を思い浮かべていた。
王都の内部で、完全に権力に取り込まれていない純粋な者たち。彼女の本当の姿を知り、真実を探ろうとしてくれている小さな味方たち。
「……分かった。交渉の文面はお前に任せる。だが、少しでも身の危険を感じるような動きがあれば、すぐに俺に言え」
オスカーは立ち上がり、セレナの目の前まで歩み寄った。
その灰青色の瞳には、領主としての威厳だけでなく、一人の女性を守り抜こうとする強烈な意志が宿っていた。
「王都が何を言ってこようと、お前は俺の補佐だ。辺境伯の全権限を使ってでも、理不尽な命令は弾き返す。お前を二度と、あんな真似の道具にはさせない」
その低く力強い言葉に、セレナの胸が小さく、しかし確かに高鳴った。
呼吸が少しだけ浅くなるのを感じながら、彼女は視線を逸らさずに微笑んだ。
「ありがとうございます、オスカー様。ですが、私はもう、黙って奪われるだけの令嬢ではありません。彼らが私を安易に呼び戻せると思っているのなら、その認識の甘さを後悔させてみせます」
完璧な礼の姿勢を取る彼女の背筋は、かつてなく真っ直ぐだった。
王都へ送る返書は、美しい敬語で彩られた、最も鋭い刃となるだろう。
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