辺境伯は才女を隠さない

放浪人

文字の大きさ
62 / 65

62話「帰る場所がある」

迎賓館に案内されたセレナは、あてがわれた豪華な客室で一人、明日の公聴会に備えて証拠書類の最終確認を行っていた。

部屋は暖かく、壁紙から絨毯、小さな調度品に至るまでどれも一級品だ。
だが、その甘く息の詰まるような豪奢さが、かえってセレナの心をひどく落ち着かなくさせていた。
王宮の空気は、昔と何も変わっていない。人を能力ではなく見栄えと血筋で測り、都合のいいように利用し合う、あの重く淀んだ空気そのものだ。

(私は明日、この場所で、お父様と……そして王権そのものと戦うことになる)

セレナはペンを置き、冷たい窓ガラスに額を当てた。
恐怖はないと自分に言い聞かせたはずだった。北辺で得た自信は本物だ。だが、いざこの物理的な空間に身を置くと、かつて「道具」として扱われ、感情を殺し続けた記憶が、黒い泥のように足元からじわじわと這い上がってくる感覚があった。

もし、法廷でローデリク侯爵がさらなる罠を仕掛けてきたら。
もし、また誰も自分の言葉を信じてくれず、すべてが闇に葬られたら。

「……アルヴェイン嬢。入るぞ」

不意に、低い声とともに扉を叩く音が響いた。
返事をする間もなく扉が開かれ、オスカーが部屋に入ってくる。彼は部屋の華美な装飾には一瞥もくれず、真っ直ぐに窓際で肩をこわばらせているセレナへと歩み寄った。

「顔色が悪いな。やはり、この王宮の空気は性に合わないか」

「閣下……申し訳ありません。少し、昔の記憶を思い出してしまって」

セレナが自嘲気味に微笑むと、オスカーは彼女のすぐそばに立ち、同じように窓の外の暗い王都の景色を見下ろした。

「無理もない。ここは、お前が最も理不尽に傷つけられ、理不尽に追放された場所だ。いくら北辺で覚悟を決めていても、その痛みが一日で完全に消えるわけがない」

オスカーの言葉は、セレナの弱さを否定せず、ただそこにある事実として静かに受け止めてくれた。

「だが、忘れるな」

彼はセレナの肩に、そっと自分の分厚い外套を掛けた。
北辺の冷たい風と、獣の毛皮の匂い。その無骨で圧倒的な温もりが、セレナの身体を強張らせていた王都の呪縛を、内側から溶かしていく。

「お前はもう、この腐った王都の人間じゃない。お前の帰る場所は、あの北辺だ。大石橋にお前の名が刻まれている限り、お前はいつでもあそこに帰ってこられる」

帰る場所がある。
その絶対的な事実が、どれほど心を強くし、恐怖を退けてくれるか。

「……はい」

セレナは外套の襟元をぎゅっと握りしめ、深く、冷たい息を吸い込んだ。

「私はもう、この街の評価に縛られることはありません。私の仕事を見て、私の名前を呼んでくれる人たちが、あの雪の降る街で待っていてくれるのですから」

「その通りだ。明日は、存分に暴れてこい。どんな理不尽な圧力がかかろうと、お前の背中は俺が守る」

オスカーが力強く頷く。
その灰青色の瞳には、セレナへの絶対的な信頼と、彼女を傷つけるすべてのものから守り抜くという強烈な意志が宿っていた。

セレナはもう一度、王都の夜景を見下ろした。
かつては巨大な牢獄のように見え、自分を押し潰そうとしていたこの街が、今はただの、過去の手続きを終わらせるための通過点に過ぎないと思える。

(失う恐怖よりも、前へ出る決意を)

セレナは振り返り、オスカーに真っ直ぐな、一点の曇りもない視線を向けた。
もう、何も怖くはない。彼女の心は、北辺の冷たくも確かな風と、目の前にいるたった一人の理解者によって、完全に守られていた。

あなたにおすすめの小説

捨てられた花嫁は没落公爵と未来を簿に刻む

なつめ
恋愛
巨額の持参金とともに伯爵家へ嫁いだミレーヌ・オルヴェイユは、夫にも婚家にも実家にも、妻ではなく“財布”として扱われていた。 夫は彼女の金で愛人を囲い、義母は宝石を買い、実家はさらに金を無心する。 すべてを帳簿に記録していたミレーヌは、ある日静かに離縁を選ぶ。 行き場を失った彼女が次に向かったのは、借金まみれで社交界から見放されたヴァルクレア公爵家。 そこで彼女は、誇り高く不器用な若き公爵エルネスト・ヴァルクレアと出会う。 彼は彼女の持参金には手を出さず、こう言った。 「君の金ではなく、君の目を借りたい。帳簿を見る目を」 財布扱いされた女と、没落しかけた公爵家。 帳簿、領地改革、使用人の再配置、社交界復帰。 数字を一つずつ整えるたび、二人の距離も少しずつ近づいていく。

『不気味だ』と追放された精霊翻訳官、念願の自由な旅に出る〜王都の精霊がストライキを始めましたが私は精霊と賑やかに過ごしているのでもう遅いです

ぱすた屋さん
恋愛
「何を考えているか分からなくて不気味だ。お前のような女、翻訳官も婚約者も解任だ!」 王城の最下層で、十年間一度の休みもなく精霊との「契約(交渉)」を担ってきた公爵令嬢エレイン。 第一王子から理不尽な追放を言い渡された彼女は、しかし絶望するどころか、密かに喜びを噛み締めていた。 (……やっと、行きたかった場所へ行けるのね!) エレインは、精霊が好む「古代精霊語」の使い手であり、彼らの権利を守る唯一の理解者だった。 彼女が去り、聖女の「祈り」という名の雑音が響き始めた途端、王都の精霊たちは一斉にストライキを宣言する。 上水道は泥水が逆流し、灯りは消え、調理場からは火が消えた。 「戻って契約書を書いてくれ!」と泣きつく王子だが、もう遅い。 当のエレインは、憧れだった「水晶の湖」や「歌う花園」を巡る自由な旅を満喫中。 行く先々で、彼女の言葉に感動した雪狐や雷鳥といった強力な精霊たちと「個人契約」を結び、気づけば彼女の周りは賑やかで過保護な精霊仲間でいっぱいに。 「私はもう、自分のためにこの声を紡ぐと決めたのです」 氷の令嬢と呼ばれた翻訳官が、世界の声を聞き、愛でる――これは、彼女が真の自由を手に入れるまでの物語。

【完結】広間でドレスを脱ぎ捨てた公爵令嬢は優しい香りに包まれる【短編】

青波鳩子
恋愛
シャーリー・フォークナー公爵令嬢は、この国の第一王子であり婚約者であるゼブロン・メルレアンに呼び出されていた。 婚約破棄は皆の総意だと言われたシャーリーは、ゼブロンの友人たちの総意では受け入れられないと、王宮で働く者たちの意見を集めて欲しいと言う。 そんなことを言いだすシャーリーを小馬鹿にするゼブロンと取り巻きの生徒会役員たち。 それで納得してくれるのならと卒業パーティ会場から王宮へ向かう。 ゼブロンは自分が住まう王宮で集めた意見が自分と食い違っていることに茫然とする。 *別サイトにアップ済みで、加筆改稿しています。 *約2万字の短編です。 *完結しています。 *11月8日22時に1、2、3話、11月9日10時に4、5、最終話を投稿します。

五年間この国を裏で支えた公爵令嬢、婚約破棄されたので全部置いていきます ~帳簿も外交草案も私の著作物ですので、勝手にお使いになれませんよ?~

今井 幻
恋愛
「——お前は、この国にとって害悪だ」 卒業舞踏会の大広間で、王太子リオンに公開断罪された公爵令嬢エレノア。 彼女は五年間、王太子の名の下に南部同盟との外交交渉の草案を書き、疫病対策の法案を起草し、国庫の帳簿を一人で管理してきた。功績はすべてリオンのものとして奪われ、代わりに王太子の隣を手にしたのは、転入わずか一年で計算し尽くされた涙を武器にのし上がった男爵令嬢リリアーナだった。 婚約破棄の翌日、父はエレノアを物置同然の離れに追いやり、母の形見の白百合の花壇はリリアーナの好みの薔薇に植え替えられる。社交界からも締め出され、居場所を完全に失ったエレノア。 けれど、左手の甲に幼い頃から浮かんでいた金の紋様が光を放ち始めたとき、すべてが動き出す。 離れの暖炉の奥に隠されていた母の秘密の書斎。そこに遺された一通の手紙には、母がヴェルザンド帝国の古代魔導師の血を引く者であること、そしてエレノアが千年に一度の「契約の継承者」であることが記されていた。 『帝国があなたの味方になります』 折しも届いた帝国皇帝カイからの招待状にはこうあった。 『貴女の母君との約束を果たしに参ります』 ——「死神」の異名を持つ大陸最強の皇帝。母の追伸には「本当はとても優しい子です。昔はよく泣いていました」と書かれていた。 守るべきものを全て奪われた令嬢は、自分の足で帝国への一歩を踏み出す。 一方、エレノアという「国の土台」を失った王国では、外交交渉の決裂、帳簿の解読不能、偽聖女の不正が次々と露呈し始め——今さら「戻ってきてくれ」と泣きつかれても、もう遅い。

婚約破棄され「彼女だけを守る」と告げられた伯爵令嬢~承りました、どうぞ末永くお幸せに! 婚約破棄を止める? いえ、お断りいたします!

なつの夕凪
恋愛
 伯爵令嬢イリアス・クローディアは、春の舞踏会の夜、婚約者の侯爵家子息ユリウス・アーデルハイドから一方的な婚約破棄を宣言される。 その場に響くのは、ユリウスを称える声とイリアスを非難する怒号──陰で囁かれる嘘があった。 だが、イリアスは微笑を崩さず、静かに空気を支配し、したたかな反撃を開始する。これは、婚約破棄を断絶として受け止めた令嬢が、空気を反転させ、制度の外で生きるための物語。 「爵位契約の破棄として、しかと受けとめました」──その一言が、今を、すべてを変える。 ♧完結までお付き合いいただければ幸いです。

「君を愛することはない」と言われたので、私も愛しません。次いきます。 〜婚約破棄はご褒美です!

放浪人
恋愛
【「愛さない」と言ったのはあなたです。私はもっとハイスペックな次(夫)と幸せになりますので、どうぞお構いなく!】 侯爵令嬢リディアは、建国記念舞踏会の最中に、婚約者である王太子レオンハルトから婚約破棄を宣言される。 「君を愛することはない!」という王太子の言葉は、国中に響く『公的拒絶誓約』となってしまった。 しかし、リディアは泣かなかった。 「承知しました。私も愛しません。次いきます」 彼女は即座に撤退し、その場で慰謝料請求と名誉回復の手続きを開始する。その潔さと有能さに目をつけたのは、国の行政を牛耳る『氷の宰相』アシュ・ヴァレンシュタインだった。 「私の政治的盾になれ。条件は『恋愛感情の禁止』と『嘘がつけない契約』だ」 利害の一致した二人は、愛のない契約結婚を結ぶ。 はずだったのだが――『嘘がつけない契約』のせいで、冷徹なはずの宰相の本音が暴走! 「君を失うのは非合理だ(=大好きだ)」「君は私の光だ(=愛してる)」 隠せない溺愛と、最強の夫婦による論理的で容赦のない『ざまぁ』。 一方、リディアを捨てた王太子は「愛さない誓約」の呪いに苦しみ、自滅していく。 これは、悪役令嬢と呼ばれた女が、嘘のない真実の愛を手に入れ、国中を巻き込んで幸せになるまでの物語。

「君を愛したことはない」と言われたので出て行ったら、元婚約者が毎日謝りに来ます

かきんとう
恋愛
 王都でも有名な名門公爵家、レイヴェルト家の屋敷には、今日も重苦しい空気が流れていた。  磨き上げられた大理石の廊下を歩きながら、エレノア・グランシェは静かに息を吐く。  この家に嫁いで、半年。  正確には、まだ“婚約者”の立場だった。だが周囲はすでに彼女を未来の公爵夫人として扱い、屋敷の使用人たちもそう認識している。

【完結】断罪された悪役令嬢は存在ごと消されました ~見えません、聞こえません、でも殿下の毒杯くらいは弾けます~

Lihito
ファンタジー
前世はごく普通のOL。唯一の趣味は学園恋愛ゲーム。 推しは第三王子。温厚で、誠実で、どうしようもなく顔がいい。 気がつけばそのゲームの悪役令嬢に転生していた。 断罪は覆せない。どれだけ対策しても、シナリオの強制力が全部潰してくる。 入学式の壇上で婚約破棄。退学宣告。控えの間に連れていかれて—— 光に包まれた瞬間、私は透明になった。 声が出ない。姿が映らない。文字を書いても消える。 触れても「風かな」で済まされる。 それでも殿下のそばにいた。 毒の杯を弾いた。刃を逸らした。嘘を暴いた。 全部、殿下には見えないところで。 殿下は夜の礼拝堂で祈っていた。 「リゼット・ヴァルシアのことも、どうかお守りください」 ——ここにいるよ。あなたの、すぐ後ろに。 届かない声。触れられない手。それでも離れられない。 これは透明な私が、見えない距離ゼロで推しを守り続ける、どうしようもなく一方通行な恋の話。