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第二十話「初めての抱擁、初めての安心」
王都から届いた「最後の招待状」。 その封蝋には、王太子の紋章ではなく、王家そのものの紋章――すなわち、国王陛下の印が押されていた。 中身は、重々しく、そして冷徹な通達だった。
『グレイフ公爵夫人クラリス殿。 王太子ルドルフ殿下の訴えにより、貴殿の「継母としての適格性」に疑義が生じている。 つきましては、一週間後、王城にて行われる「継嗣保護審問会」への出頭を命じる。 なお、審問の結果次第では、公爵家との婚姻契約の無効化、および子供たちの親権剥奪もあり得るものと心得よ』
読み上げたレオンハルト様の声が、怒りで低く震えていた。 サロンの空気は一瞬にして凍りついたが、私は静かに紅茶を置いた。
「……なるほど。夜会での失敗を取り戻すために、今度は法廷闘争を選んだわけですね」
「ふざけるな。親権剥奪だと? 言いがかりにも程がある」
レオンハルト様が手紙をテーブルに叩きつける。 けれど、私は彼の手の上に自分の手を重ね、ゆっくりと首を振った。
「落ち着いてください、あなた。これは好機です」
「好機?」
「はい。夜会での騒動はあくまで『噂』の範疇でしたが、公式な審問会ならば、白黒はっきりつけることができます。ここで完全勝利すれば、二度と彼らは手出しできなくなりますわ」
私は不敵に微笑んだ。 悪役令嬢として、売られた喧嘩を買わない趣味はない。 それに、今の私たちには最強の武器がある。
「大丈夫です。私たちには『真実』と、そして『家族の絆』がありますから」
私の言葉に、そばで聞いていた子供たちが顔を見合わせた。 不安そうな顔ではない。 「やってやるぞ」という、小さな戦士たちの顔だ。
「僕、また証言します。何度だって言います」 アルフォンス様が拳を握る。
「私もよ。あんな意地悪な王子様、ぎゃふんと言わせてやるんだから」 ミレイユ様も強気だ。
「ぼくも……ママといっしょ、いく」 ノア様が私のスカートをぎゅっと掴む。
レオンハルト様は、そんな私たちを見て、深く息を吐き、そして表情を緩めた。 氷のような冷たさは消え、そこには春の陽だまりのような温かさがあった。
「……そうだな。俺たちは、もう一人じゃない」
彼は手紙を畳み、暖炉の火へと放り込んだ。 紙が燃え尽きるのを背に、彼は宣言した。
「決戦は一週間後だ。……だが、今日という日は二度と来ない。せっかくの休日だ。難しい話は忘れて、家族の時間を過ごそう」
◇
外は、昨夜からの雪が上がり、雲ひとつない快晴だった。 降り積もったばかりの新雪が、太陽の光を浴びてダイヤモンドのように輝いている。
「わあぁっ!」
子供たちの歓声が庭に響いた。 厳重な警備体制が敷かれた屋敷の中庭で、私たちは雪遊びに興じていた。
「待てー!」
雪玉を手に追いかけるのは、なんとレオンハルト様だ。 普段の軍服姿からは想像もできない、ラフなニットとズボン姿。 氷の公爵が、本気で雪玉を作って子供たちを追いかけている。
「きゃっ! パパ、容赦ない!」
ミレイユ様が悲鳴を上げて逃げ回る。 彼女の投げた雪玉がレオンハルト様の胸にポスっと当たるが、彼はびくともしない。
「甘いな、ミレイユ。戦場では隙を見せた者が負けるのだ」
「ここは戦場じゃないもん!」
「ふふ、大人げないですよ、旦那様」
私はテラスからその様子を眺めながら、温かいホットワインを用意していた。 アルフォンス様は、ノア様と一緒に雪だるまを作っている。 ノア様が一生懸命に小さな雪玉を転がし、アルフォンス様がそれを積み上げる。
「できた! うさぎさん!」
ノア様が、雪だるまに葉っぱの耳をつけて完成させた。 いびつだけれど、愛らしい雪うさぎだ。
「上手ですね、ノア様」
私が声をかけると、ノア様は満面の笑みで振り返った。 その頬は寒さで林檎のように赤くなっているが、表情は生き生きとしている。 以前のような、怯えた影はもうどこにもない。
やがて、遊び疲れたレオンハルト様とミレイユ様が戻ってきた。 二人とも髪に雪をつけ、息を弾ませている。
「はぁ、はぁ……パパ、強すぎ」
「ふう。……久しぶりに体を動かしたな」
レオンハルト様が、私の隣のベンチにどかりと腰を下ろした。 私は二人にタオルを渡し、温かい飲み物を差し出した。
「お疲れ様でした。はい、どうぞ」
「ありがとう、クラリス」
レオンハルト様がカップを受け取る時、その指先が私の手に触れた。 冷たい雪の温度と、内側から発する体温。 彼は私の手を離さず、そのまま引き寄せ、私の掌に頬を寄せた。
「……ん?」
子供たちが見ている前での大胆な行動に、私が固まる。
「……温かいな」
彼は目を細め、心底安らいだような顔をした。
「戦場では、寒さだけが友だった。……こうして家族と笑い合い、君の温もりに触れることができるなんて、夢のようだ」
その言葉には、飾らない本音が詰まっていた。 北方の過酷な環境で、彼がどれほどの孤独と戦ってきたか。 そして今、この時間が彼にとってどれほど尊いものか。
「夢ではありませんよ」
私は空いている方の手で、彼の濡れた髪をそっと撫でた。
「これは現実です。私たちが作った、私たちの家族です」
「……ああ」
レオンハルト様は、私の手にキスを落とした。 騎士の誓いのような、恭しく、そして熱烈な口づけ。
「お熱いですねぇ」
ミレイユ様が呆れたように、でもニヤニヤしながら言った。 アルフォンス様は顔を赤くして空を見上げ、ノア様は「パパ、ママ、ちゅー?」と無邪気に聞いている。
私は顔が沸騰しそうになりながら、慌てて手を引っ込めた。
「さ、さあ! そろそろお部屋に入りましょう! 風邪を引いてしまいます!」
私の狼狽ぶりに、レオンハルト様が低く笑い声を上げた。 その笑い声が、冬の空気に溶けていく。 ああ、なんて幸せな音だろう。
◇
その日の夕食は、特別に豪華だった。 料理長のドロテアが腕を振るった、北方の幸をふんだんに使ったフルコース。 メインディッシュは、レオンハルト様が狩ってきた鹿肉のローストだ。
広い食堂には、カチャカチャという食器の音だけでなく、絶えず会話と笑い声が溢れていた。
「このお肉、柔らかくて美味しい!」 「ソースも絶品ですね。ドロテアに礼を言わなくては」 「ぼく、にんじん、たべれるよ!」
かつて、この食堂は「お通夜」のように静かで、冷たかった。 料理は冷め、誰も目を合わせず、ただ栄養を摂取するだけの場所だった。 それが今、こんなにも温かい「食卓」に変わった。
私はグラスワインを傾けながら、その光景を目に焼き付けた。 アルフォンス様が弟の口を拭いてあげている。 ミレイユ様が父に学校の話をしている。 レオンハルト様が、それを目を細めて聞いている。
(守らなくては)
改めて、強く思った。 王都の審問会なんて怖くない。 この笑顔を奪おうとする者がいるなら、私は悪魔にだってなって戦う。
食後、サロンでくつろいでいると、レオンハルト様が不意に立ち上がり、ピアノの前へと歩み寄った。 部屋の隅に置かれたまま、長く使われていなかった黒塗りのグランドピアノ。
「……弾かれるのですか?」
私が驚いて尋ねると、彼は少し照れくさそうに鍵盤に指を置いた。
「昔、母に習ったきりだが。……久しぶりに、そんな気分になった」
彼が弾き始めたのは、穏やかで優しい旋律の曲だった。 プロのような技巧はない。 たどたどしい部分もある。 けれど、その音色は、彼の不器用な優しさをそのまま音にしたように、心に染み入るものだった。
子供たちが静まり返り、聞き入る。 暖炉の火が揺れる。 外の寒さが嘘のような、完璧な平和。
曲が終わると、ノア様がパチパチと拍手をした。
「パパ、すごーい!」
「……指が動かんな。剣の方が楽だ」
レオンハルト様は苦笑いをして戻ってきた。 私は彼に席を譲り、自然と彼の隣に座った。 肩と肩が触れ合う距離。 言葉はいらない。ただ、こうしているだけで十分だった。
◇
夜も更け、子供たちを寝かしつけた後。 私は自室で、審問会に向けた資料の整理をしていた。 家計簿、子供たちの健康記録、領地の運営報告書。 これらは全て、私が「子供たちを適切に養育している」という動かぬ証拠となる。
「……よし。これで矛盾点は潰せるはず」
ペンを置き、伸びをした時だった。
コン、コン。
控えめなノックの音がした。 こんな時間に誰だろう? セレスなら声をかけるはずだし、レオンハルト様ならもっと力強いノックだ。
「……はい、どなた?」
「……私」
小さな声。 ミレイユ様だ。
「開いていますよ。どうぞ」
ドアが少しだけ開き、枕を抱えたミレイユ様が顔を覗かせた。 ネグリジェ姿に、髪を下ろした無防備な姿。 その表情は、どこかバツが悪そうで、でも必死な色を浮かべていた。
「どうしました? 眠れませんか?」
私が椅子から立ち上がると、彼女はモジモジと部屋に入ってきて、ドアを閉めた。
「……あ、あのね」
「はい」
「今日……楽しかったから」
彼女は俯いたまま、ぽつりと言った。
「パパと雪合戦したのも、みんなでご飯食べたのも。……すごく、楽しかったから」
「ええ、私も楽しかったですよ」
「だから……なんか、目が冴えちゃって。一人で部屋にいると、この楽しかったのが、夢で消えちゃうんじゃないかって、不安で……」
彼女は枕をぎゅっと抱きしめた。 かつての孤独な夜の記憶が、幸せな日々の裏側で、まだ彼女を脅かしているのだろう。 幸せであればあるほど、失うのが怖くなる。 それは、大人も子供も同じだ。
「……ここで、寝てもいい?」
蚊の鳴くような声。 あの強気で、生意気で、誰よりもしっかり者の長女が、精一杯の甘えを見せている。
私は胸がキュッとなるのを感じながら、微笑んでベッドを指差した。
「もちろんですよ。ここは広いベッドですから、あなた一人増えたくらい、どうってことありません」
「……ほんと?」
「ええ。おいでなさい」
私が布団をめくると、ミレイユ様はパッと顔を輝かせ、小走りで飛び込んできた。 私が隣に入ると、彼女は迷うことなく私の腕の中に潜り込んできた。 温かい。 洗いたての髪の匂いと、子供特有の甘い匂い。
「……あったかい」
ミレイユ様が呟く。
「クラリス様は……いい匂いがする。お日様の匂い」
「そうですか? 薬草の匂いではありませんか?」
「ううん。……ママの匂い」
ドキリとした。 でも、今度は聞き返さなかった。 彼女も、それ以上は言わなかった。 ただ、私の胸に顔を埋め、安心して力を抜いていく。
「……ねえ」
「なぁに?」
「王都のおばあ様……ヴィルヘルミナ様が言ってたこと」
「はい」
「継母は、自分の子供が生まれたら変わるって。……クラリス様も、そうなの?」
やはり、気にしていたのだ。 大人の残酷な言葉は、子供の心に棘となって刺さる。
私は彼女の背中を、一定のリズムでトントンと叩きながら答えた。
「変わりませんよ。絶対に」
「……どうして言い切れるの?」
「だって、あなたたちは私の『戦友』ですもの」
「せんゆう?」
「ええ。あの冷たい屋敷で、一緒に戦い、笑い合い、今日という日を勝ち取った仲間です。血の繋がりよりも、もっと濃い絆で結ばれているんです」
私は彼女の頭に顎を乗せた。
「それに、もし私に子供ができたら、あなたはお姉様になるんですよ? 私一人で育てるなんて無理です。頼りになるミレイユお姉様がいてくれないと、困ります」
「……そっか。私、お姉様になるのか」
ミレイユ様が、くすりと笑った気配がした。
「任せてよ。私、ノアの面倒も見てるし、子守は得意なんだから」
「頼もしいですね。……期待していますよ」
しばらくして、規則正しい寝息が聞こえ始めた。 私は彼女の寝顔を見つめた。 長い睫毛。少し開いた口。 無防備で、愛らしい、私の娘。
窓の外では、月が静かに輝いている。 平和な夜。 嵐の前の、最後の静寂。
一週間後。 私たちは王都へ向かう。 そこには、私たちの家族を引き裂こうとする悪意が待ち構えている。
でも、怖くはない。 今の私には、この腕の中の温もりがある。 そして、隣の部屋には頼れる夫と、勇敢な息子たちがいる。
(見ていなさい、ルドルフ殿下)
私は闇の中で、静かに宣戦布告をした。
(あなたが捨てた『悪役令嬢』が、どれほどしぶとく、そして厄介な『母親』になったか……骨の髄まで思い知らせてあげますから)
私はミレイユ様を抱きしめたまま、深い眠りへと落ちていった。 夢の中では、恐ろしい審問会ではなく、いつまでも続く雪遊びの笑い声が響いていた。
『グレイフ公爵夫人クラリス殿。 王太子ルドルフ殿下の訴えにより、貴殿の「継母としての適格性」に疑義が生じている。 つきましては、一週間後、王城にて行われる「継嗣保護審問会」への出頭を命じる。 なお、審問の結果次第では、公爵家との婚姻契約の無効化、および子供たちの親権剥奪もあり得るものと心得よ』
読み上げたレオンハルト様の声が、怒りで低く震えていた。 サロンの空気は一瞬にして凍りついたが、私は静かに紅茶を置いた。
「……なるほど。夜会での失敗を取り戻すために、今度は法廷闘争を選んだわけですね」
「ふざけるな。親権剥奪だと? 言いがかりにも程がある」
レオンハルト様が手紙をテーブルに叩きつける。 けれど、私は彼の手の上に自分の手を重ね、ゆっくりと首を振った。
「落ち着いてください、あなた。これは好機です」
「好機?」
「はい。夜会での騒動はあくまで『噂』の範疇でしたが、公式な審問会ならば、白黒はっきりつけることができます。ここで完全勝利すれば、二度と彼らは手出しできなくなりますわ」
私は不敵に微笑んだ。 悪役令嬢として、売られた喧嘩を買わない趣味はない。 それに、今の私たちには最強の武器がある。
「大丈夫です。私たちには『真実』と、そして『家族の絆』がありますから」
私の言葉に、そばで聞いていた子供たちが顔を見合わせた。 不安そうな顔ではない。 「やってやるぞ」という、小さな戦士たちの顔だ。
「僕、また証言します。何度だって言います」 アルフォンス様が拳を握る。
「私もよ。あんな意地悪な王子様、ぎゃふんと言わせてやるんだから」 ミレイユ様も強気だ。
「ぼくも……ママといっしょ、いく」 ノア様が私のスカートをぎゅっと掴む。
レオンハルト様は、そんな私たちを見て、深く息を吐き、そして表情を緩めた。 氷のような冷たさは消え、そこには春の陽だまりのような温かさがあった。
「……そうだな。俺たちは、もう一人じゃない」
彼は手紙を畳み、暖炉の火へと放り込んだ。 紙が燃え尽きるのを背に、彼は宣言した。
「決戦は一週間後だ。……だが、今日という日は二度と来ない。せっかくの休日だ。難しい話は忘れて、家族の時間を過ごそう」
◇
外は、昨夜からの雪が上がり、雲ひとつない快晴だった。 降り積もったばかりの新雪が、太陽の光を浴びてダイヤモンドのように輝いている。
「わあぁっ!」
子供たちの歓声が庭に響いた。 厳重な警備体制が敷かれた屋敷の中庭で、私たちは雪遊びに興じていた。
「待てー!」
雪玉を手に追いかけるのは、なんとレオンハルト様だ。 普段の軍服姿からは想像もできない、ラフなニットとズボン姿。 氷の公爵が、本気で雪玉を作って子供たちを追いかけている。
「きゃっ! パパ、容赦ない!」
ミレイユ様が悲鳴を上げて逃げ回る。 彼女の投げた雪玉がレオンハルト様の胸にポスっと当たるが、彼はびくともしない。
「甘いな、ミレイユ。戦場では隙を見せた者が負けるのだ」
「ここは戦場じゃないもん!」
「ふふ、大人げないですよ、旦那様」
私はテラスからその様子を眺めながら、温かいホットワインを用意していた。 アルフォンス様は、ノア様と一緒に雪だるまを作っている。 ノア様が一生懸命に小さな雪玉を転がし、アルフォンス様がそれを積み上げる。
「できた! うさぎさん!」
ノア様が、雪だるまに葉っぱの耳をつけて完成させた。 いびつだけれど、愛らしい雪うさぎだ。
「上手ですね、ノア様」
私が声をかけると、ノア様は満面の笑みで振り返った。 その頬は寒さで林檎のように赤くなっているが、表情は生き生きとしている。 以前のような、怯えた影はもうどこにもない。
やがて、遊び疲れたレオンハルト様とミレイユ様が戻ってきた。 二人とも髪に雪をつけ、息を弾ませている。
「はぁ、はぁ……パパ、強すぎ」
「ふう。……久しぶりに体を動かしたな」
レオンハルト様が、私の隣のベンチにどかりと腰を下ろした。 私は二人にタオルを渡し、温かい飲み物を差し出した。
「お疲れ様でした。はい、どうぞ」
「ありがとう、クラリス」
レオンハルト様がカップを受け取る時、その指先が私の手に触れた。 冷たい雪の温度と、内側から発する体温。 彼は私の手を離さず、そのまま引き寄せ、私の掌に頬を寄せた。
「……ん?」
子供たちが見ている前での大胆な行動に、私が固まる。
「……温かいな」
彼は目を細め、心底安らいだような顔をした。
「戦場では、寒さだけが友だった。……こうして家族と笑い合い、君の温もりに触れることができるなんて、夢のようだ」
その言葉には、飾らない本音が詰まっていた。 北方の過酷な環境で、彼がどれほどの孤独と戦ってきたか。 そして今、この時間が彼にとってどれほど尊いものか。
「夢ではありませんよ」
私は空いている方の手で、彼の濡れた髪をそっと撫でた。
「これは現実です。私たちが作った、私たちの家族です」
「……ああ」
レオンハルト様は、私の手にキスを落とした。 騎士の誓いのような、恭しく、そして熱烈な口づけ。
「お熱いですねぇ」
ミレイユ様が呆れたように、でもニヤニヤしながら言った。 アルフォンス様は顔を赤くして空を見上げ、ノア様は「パパ、ママ、ちゅー?」と無邪気に聞いている。
私は顔が沸騰しそうになりながら、慌てて手を引っ込めた。
「さ、さあ! そろそろお部屋に入りましょう! 風邪を引いてしまいます!」
私の狼狽ぶりに、レオンハルト様が低く笑い声を上げた。 その笑い声が、冬の空気に溶けていく。 ああ、なんて幸せな音だろう。
◇
その日の夕食は、特別に豪華だった。 料理長のドロテアが腕を振るった、北方の幸をふんだんに使ったフルコース。 メインディッシュは、レオンハルト様が狩ってきた鹿肉のローストだ。
広い食堂には、カチャカチャという食器の音だけでなく、絶えず会話と笑い声が溢れていた。
「このお肉、柔らかくて美味しい!」 「ソースも絶品ですね。ドロテアに礼を言わなくては」 「ぼく、にんじん、たべれるよ!」
かつて、この食堂は「お通夜」のように静かで、冷たかった。 料理は冷め、誰も目を合わせず、ただ栄養を摂取するだけの場所だった。 それが今、こんなにも温かい「食卓」に変わった。
私はグラスワインを傾けながら、その光景を目に焼き付けた。 アルフォンス様が弟の口を拭いてあげている。 ミレイユ様が父に学校の話をしている。 レオンハルト様が、それを目を細めて聞いている。
(守らなくては)
改めて、強く思った。 王都の審問会なんて怖くない。 この笑顔を奪おうとする者がいるなら、私は悪魔にだってなって戦う。
食後、サロンでくつろいでいると、レオンハルト様が不意に立ち上がり、ピアノの前へと歩み寄った。 部屋の隅に置かれたまま、長く使われていなかった黒塗りのグランドピアノ。
「……弾かれるのですか?」
私が驚いて尋ねると、彼は少し照れくさそうに鍵盤に指を置いた。
「昔、母に習ったきりだが。……久しぶりに、そんな気分になった」
彼が弾き始めたのは、穏やかで優しい旋律の曲だった。 プロのような技巧はない。 たどたどしい部分もある。 けれど、その音色は、彼の不器用な優しさをそのまま音にしたように、心に染み入るものだった。
子供たちが静まり返り、聞き入る。 暖炉の火が揺れる。 外の寒さが嘘のような、完璧な平和。
曲が終わると、ノア様がパチパチと拍手をした。
「パパ、すごーい!」
「……指が動かんな。剣の方が楽だ」
レオンハルト様は苦笑いをして戻ってきた。 私は彼に席を譲り、自然と彼の隣に座った。 肩と肩が触れ合う距離。 言葉はいらない。ただ、こうしているだけで十分だった。
◇
夜も更け、子供たちを寝かしつけた後。 私は自室で、審問会に向けた資料の整理をしていた。 家計簿、子供たちの健康記録、領地の運営報告書。 これらは全て、私が「子供たちを適切に養育している」という動かぬ証拠となる。
「……よし。これで矛盾点は潰せるはず」
ペンを置き、伸びをした時だった。
コン、コン。
控えめなノックの音がした。 こんな時間に誰だろう? セレスなら声をかけるはずだし、レオンハルト様ならもっと力強いノックだ。
「……はい、どなた?」
「……私」
小さな声。 ミレイユ様だ。
「開いていますよ。どうぞ」
ドアが少しだけ開き、枕を抱えたミレイユ様が顔を覗かせた。 ネグリジェ姿に、髪を下ろした無防備な姿。 その表情は、どこかバツが悪そうで、でも必死な色を浮かべていた。
「どうしました? 眠れませんか?」
私が椅子から立ち上がると、彼女はモジモジと部屋に入ってきて、ドアを閉めた。
「……あ、あのね」
「はい」
「今日……楽しかったから」
彼女は俯いたまま、ぽつりと言った。
「パパと雪合戦したのも、みんなでご飯食べたのも。……すごく、楽しかったから」
「ええ、私も楽しかったですよ」
「だから……なんか、目が冴えちゃって。一人で部屋にいると、この楽しかったのが、夢で消えちゃうんじゃないかって、不安で……」
彼女は枕をぎゅっと抱きしめた。 かつての孤独な夜の記憶が、幸せな日々の裏側で、まだ彼女を脅かしているのだろう。 幸せであればあるほど、失うのが怖くなる。 それは、大人も子供も同じだ。
「……ここで、寝てもいい?」
蚊の鳴くような声。 あの強気で、生意気で、誰よりもしっかり者の長女が、精一杯の甘えを見せている。
私は胸がキュッとなるのを感じながら、微笑んでベッドを指差した。
「もちろんですよ。ここは広いベッドですから、あなた一人増えたくらい、どうってことありません」
「……ほんと?」
「ええ。おいでなさい」
私が布団をめくると、ミレイユ様はパッと顔を輝かせ、小走りで飛び込んできた。 私が隣に入ると、彼女は迷うことなく私の腕の中に潜り込んできた。 温かい。 洗いたての髪の匂いと、子供特有の甘い匂い。
「……あったかい」
ミレイユ様が呟く。
「クラリス様は……いい匂いがする。お日様の匂い」
「そうですか? 薬草の匂いではありませんか?」
「ううん。……ママの匂い」
ドキリとした。 でも、今度は聞き返さなかった。 彼女も、それ以上は言わなかった。 ただ、私の胸に顔を埋め、安心して力を抜いていく。
「……ねえ」
「なぁに?」
「王都のおばあ様……ヴィルヘルミナ様が言ってたこと」
「はい」
「継母は、自分の子供が生まれたら変わるって。……クラリス様も、そうなの?」
やはり、気にしていたのだ。 大人の残酷な言葉は、子供の心に棘となって刺さる。
私は彼女の背中を、一定のリズムでトントンと叩きながら答えた。
「変わりませんよ。絶対に」
「……どうして言い切れるの?」
「だって、あなたたちは私の『戦友』ですもの」
「せんゆう?」
「ええ。あの冷たい屋敷で、一緒に戦い、笑い合い、今日という日を勝ち取った仲間です。血の繋がりよりも、もっと濃い絆で結ばれているんです」
私は彼女の頭に顎を乗せた。
「それに、もし私に子供ができたら、あなたはお姉様になるんですよ? 私一人で育てるなんて無理です。頼りになるミレイユお姉様がいてくれないと、困ります」
「……そっか。私、お姉様になるのか」
ミレイユ様が、くすりと笑った気配がした。
「任せてよ。私、ノアの面倒も見てるし、子守は得意なんだから」
「頼もしいですね。……期待していますよ」
しばらくして、規則正しい寝息が聞こえ始めた。 私は彼女の寝顔を見つめた。 長い睫毛。少し開いた口。 無防備で、愛らしい、私の娘。
窓の外では、月が静かに輝いている。 平和な夜。 嵐の前の、最後の静寂。
一週間後。 私たちは王都へ向かう。 そこには、私たちの家族を引き裂こうとする悪意が待ち構えている。
でも、怖くはない。 今の私には、この腕の中の温もりがある。 そして、隣の部屋には頼れる夫と、勇敢な息子たちがいる。
(見ていなさい、ルドルフ殿下)
私は闇の中で、静かに宣戦布告をした。
(あなたが捨てた『悪役令嬢』が、どれほどしぶとく、そして厄介な『母親』になったか……骨の髄まで思い知らせてあげますから)
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