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第3話:『辺境の地に到着しました。出迎えてくれたのは魔物……ではなく、私を崇拝する祖父母でした』
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ゴゴゴゴゴ……という低い音と共に、馬車は暗く長いトンネルの中を疾走していた。 ここは、王都がある中央平原と、祖父が治める辺境伯領を隔てる巨大な山脈――その腹を貫通する、秘密の直通ルートだ。
窓の外は漆黒の闇。 魔法灯の明かりだけが、飛ぶように流れていく岩肌を照らし出している。 御者の言葉通り、馬車は凄まじいスピードを出しているはずだが、車内は驚くほど静かだった。
「山をくり抜くなんて、本当におじい様らしいわ……」
私はソファの上で、呆れ半分、感動半分で呟いた。 かつて『氷の宰相』と呼ばれ、その冷徹な政治手腕で国を震え上がらせた祖父、ギルバート・フォン・フェルゼン。 「目的のためなら手段を選ばない」という彼の信条が、まさか孫娘に会いたいがために「山に穴を開ける」という物理的な力技(パワープレイ)に向けられるとは、誰が想像しただろうか。
トンネルに入ってから、もう一時間ほど経っただろうか。 ふと、空気の質が変わった気がした。
ひんやりとしていた乾燥した空気が、少しずつ湿り気を帯び、温かくなっていく。 そして、どこからともなく漂ってくる、独特の香り。 それは、太陽に愛された花々の甘い芳香と、潮騒の混じった懐かしい匂い――。
「エリザ様! 出口です! 眩しいですからご注意を!」
御者の叫び声と同時に、前方の闇が急速に薄れていく。 針の穴のような白い光が、見る見るうちに拡大し、視界を覆い尽くすほどの輝きとなって押し寄せてきた。
ザアアアアアアッ!!
トンネルを抜けた瞬間、世界が一変した。
「うわぁ……!!」
私は思わず窓に張り付いた。
そこには、絵画のように鮮烈な色彩の世界が広がっていた。
頭上には、抜けるようなコバルトブルーの空。 眼下には、宝石を溶かしたようなエメラルドグリーンの海。 白い砂浜が弧を描き、海岸線に沿ってヤシの木に似た南国の樹木が並んでいる。 斜面には、王都では見たこともないような極彩色の花々――ハイビスカスやブーゲンビリアに似た花が、競うように咲き乱れていた。
風が吹き抜けるたびに、花の香りと潮の香りが混ざり合い、私の鼻孔をくすぐる。 肌に触れる風は柔らかく、まるで絹のようだ。 王都の、あのどんよりとした曇り空と、煤煙(ばいえん)にまみれた空気とは、まるで別の惑星に来たかのようだった。
「これが……『極寒の辺境』?」
私は鼻で笑った。 父よ、見ていますか。 あなたが「地獄へ行け」と送り出したこの場所は、どう見ても地上の楽園です。
馬車は海沿いの街道を軽快に走り抜ける。 道行く人々も、王都の住民とは違っていた。 みんな、肌を健康的な小麦色に焼き、アロハシャツのような涼しげな服を着て、屈託のない笑顔を浮かべている。 馬車(といっても外見はボロボロだが)を見かけると、彼らは手を振り、口々に何かを叫んでいるようだった。 防音結界のせいで声は聞こえないが、その表情からは敵意など微塵も感じられない。 「領主様の馬車だ!」「おかえりなさい!」と言っているのだろうか。
しばらく走ると、岬の突端に、白亜の豪邸が見えてきた。 断崖の上にそびえ立つその姿は、要塞というよりは、白鳥が羽を休めているかのような優美さを持っている。 屋根はオレンジ色の瓦で葺かれ、広大なテラスからは海が一望できるようになっていた。
あれこそが、フェルゼン辺境伯家の本邸。 そして、私の新しい「我が家」だ。
「到着いたしました、エリザ様」
馬車が緩やかに速度を落とし、大きな鉄格子の門をくぐる。 手入れの行き届いた前庭には、噴水が涼しげな音を立てていた。 そして。 屋敷の正面玄関には、すでに「彼ら」が待ち構えていた。
ずらりと整列した数十人の使用人たち。 その中心に立つ、二人の老夫婦。
一人は、背筋を定規で測ったようにピンと伸ばした、長身の老紳士。 白髪をオールバックにし、仕立ての良い執事服のような燕尾服を着こなしている。その瞳は鋭く、鷲(わし)のようだ。眉間に刻まれた深い皺は、長年の国政の激務と、妥協を許さぬ厳格さを物語っている。 彼こそが、私の祖父、ギルバート・フォン・フェルゼン。
その隣には、銀髪を上品に結い上げ、深紅のドレスを纏った老婦人。 扇子を口元にあて、冷ややかな視線で馬車を見据えている。かつて社交界の華と謳われ、その一言で流行が決まると言われた元公爵令嬢。 私の祖母、エレオノーラだ。
(うわぁ……相変わらず、迫力がすごい)
何も知らない人が見れば、足がすくむような光景だろう。 「処刑宣告をしに来た裁判官」のような威圧感だ。 父が恐れるのも無理はない。
馬車が静かに停止する。 御者が降りてきて、扉に手をかけた。
カチャリ。
扉が開く。 私は深呼吸を一つして、外へと足を踏み出した。
「……ただいま戻りました、おじい様、おばあ様」
私はドレスの裾を摘み、最上級のカーテシーを披露した。 一瞬の静寂。 波の音だけが、ザザァ……と響く。
祖父が、鋭い眼光で私を凝視した。 祖母が、扇子をパチリと閉じた。
そして。
「エ! リ! ザ! あ! あ! あ!」
祖父が叫んだ。 雷が落ちたかのような大音声だった。
次の瞬間、祖父の姿がブレた。 と思う間もなく、私は強烈な力で抱きしめられていた。
「おおお、エリザ! 我が愛しの孫娘! よくぞ無事で! よくぞ帰ってきてくれた!!」
「ぐえっ」
祖父のハグは、還暦を過ぎた老人とは思えないほどのパワーだった。肋骨が軋む。 あの『氷の宰相』の面影はどこにもない。今の彼はただの『孫溺愛モンスター』と化していた。
「ちょっとあなた! エリザが潰れてしまうでしょう! どきなさい!」
祖母が祖父を突き飛ばし(物理)、代わりに私を優しく、しかし力強く抱きしめる。 高貴な香水の香りに包まれた。
「エリザ、私の可愛い天使……。会いたかったわ。本当に、本当によく頑張ったわね」
祖母の声は震えていた。 見上げると、いつも冷静な祖母の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちている。
「……痩せたんじゃないの? 頬がこけているわ。あの馬鹿息子(私の父)め、まともな食事も与えずに……!」
「服だって、何ですかこのボロ布は! 私の孫にこんな粗末なものを着せるなんて、国家反逆罪で訴えてやる!」
祖父も復活し、私の二の腕をさすりながら涙ぐんでいる。
「手も……こんなに荒れて。毎晩帳簿をつけていたんだろう? 苦労をかけたな。許しておくれ、もっと早く迎えに行ってやればよかった」
二人の、なりふり構わぬ愛情表現。 周囲の使用人たちも、もらい泣きしたり、温かい目で見守ったりしている。誰も「元宰相閣下がキャラ崩壊している」などと驚いたりしない。これが、この屋敷の日常なのだ。
私は、二人の体温を感じながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。
実家では、どれだけ努力しても「当たり前」とされ、褒められることなど一度もなかった。 存在そのものを否定され続けてきた。 けれど、ここには。 私のすべてを肯定し、愛してくれる人たちがいる。 張り詰めていた「悪女」としての仮面が、音を立てて崩れていく。 私は二人の腕の中で、子供のように顔を埋めた。
「……おじい様、おばあ様……ただいま、帰りました……っ」
「「おかえり、エリザ!!」」
南国の青空の下、三人の声が重なった。 それは、私の人生で一番温かい「おかえり」だった。
◇
感動の再会から一時間後。 私はシャワーを浴びて旅の汗を流し、祖母が用意してくれた肌触りの良いシルクのルームウェアに着替えていた。 案内されたのは、海に面した広いテラス。 そこには、冷たいトロピカルジュースと、山盛りのフルーツが用意されていた。
「さて、エリザ」
席に着くと、祖父が咳払いを一つして、真剣な顔つきに戻った。 手には、一枚の手紙を持っている。 それは、私が持参した「父からの紹介状(という名の命令書)」だ。
「お父様からの手紙ですね」
私はストローでマンゴージュースを飲みながら、冷静に答えた。
「うむ。ここには、お前への『処遇』について書かれている」
祖父は忌々しそうに手紙を開き、読み上げ始めた。
「えー……『父上。この娘、エリザは、王都にて数々の悪行を働き、婚約破棄された恥さらしである』……ふんっ、馬鹿め」
祖父は鼻で笑い、続ける。
「『よって、そちらで厳しく再教育されたし。具体的には、朝は4時に起床させ、屋敷中の雑巾掛けを行わせること。食事は一日一食、パンと水のみ。外出は一切禁止。死ぬまで反省させろ』……だそうだ」
読み終わると同時に、祖父の手の中で手紙がメラメラと燃え上がった。 魔法ではない。 怒りのあまり、無意識に発動した火属性魔法だ(祖父は元々、強力な魔法使いでもある)。 灰になった手紙が、風にさらわれていく。
「……ふざけるな」
ドゴォォォォン!!
祖父がテーブルを叩くと、衝撃波でテラスの柵がビリビリと震えた。
「私の孫を、奴隷扱いだと!? 雑巾掛け? パンと水? あいつの脳みそは腐っているのか!? いや、元々空っぽだったか!」
「落ち着いてください、あなた。血管が切れますわよ」
祖母が冷静にたしなめるが、その手にはいつの間にか氷の槍(アイスランス)が生成されており、虚空に向けて構えられている。おばあ様も大概だ。
「ですがおじい様、一応お父様は私の保護者でしたから……建前上、何らかの『罰』を与えないと、お父様がうるさいのでは?」
私が小首を傾げると、祖父はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。 かつて政敵を論破し、葬り去ってきた『氷の宰相』の顔だ。
「安心しろ、エリザ。わしは手紙の指示を『忠実』に守るつもりだ」
「はい?」
「あいつは『厳しく再教育しろ』と言ったな? もちろんだ。わし流の『再教育』を施してやる」
祖父は指をパチンと鳴らした。 控えていた執事が、一枚のスケジュール表のようなものを広げる。
「まず、『朝4時に起床』という点だが……これは『朝4時まで遊び明かしても良い』と解釈する。夜更かしもまた、淑女の嗜み(?)だからな」
「ええっ?」
「次に、『雑巾掛け』だが……これは『床を磨くように、己自身を磨け』という意味に違いない。よって、領地で一番高級なエステサロンを貸し切りにし、全身をピカピカに磨き上げさせる」
「解釈が斜め上すぎませんか?」
「そして、『食事は一日一食』……これは『一食に魂を込めろ』という意味だ。つまり、朝昼晩の区別がつかないほど、一日中ずっと美味しいものを食べ続けろということだ! 専属シェフを三人つけたぞ!」
「それはただの暴飲暴食では……」
「最後に、『死ぬまで反省させろ』……これは『死ぬほど楽しんで、過去の苦労を忘れろ』という意味だ! 異論は認めん!」
祖父は立ち上がり、海に向かって両手を広げた。
「よいかエリザ! 今日から貴様に課す『刑罰』は以下の通りだ!」
「第一に、毎朝好きな時間に起きること!」 「第二に、食べたいものを食べたいだけ食べること!」 「第三に、欲しいものは値札を見ずに買うこと!」 「第四に、絶対に働かないこと!」
「以上だ! これを破ったら、じいじは悲しくて泣いちゃうからな!」
祖父はビシッと私を指差した。 その顔は真剣そのものだが、言っていることは滅茶苦茶だ。
私は呆気にとられ、そして吹き出した。
「ふふ……あはははは!」
お腹を抱えて笑った。 涙が出るほど笑った。
こんな「罰」があるだろうか。 こんなに幸せな「地獄」があるだろうか。
「わかりました、おじい様。その刑罰……謹んでお受けいたします」
私が涙を拭いながら答えると、祖父と祖母も満足そうに微笑んだ。
「よろしい。では、早速『刑の執行』だ。今夜はエリザの歓迎パーティーだぞ! 領海で獲れた最高級のマグロを解体する!」
「デザートは新作のトロピカルパフェよ!」
◇
その夜。 広間で行われた夕食会は、まるで王族の晩餐会のようだった。 テーブルには乗り切らないほどの料理が並び、祖父秘蔵のワインが開けられ、楽団が生演奏を奏でる。 私は祖父と祖母に挟まれ、ひたすら甘やかされた。 カニの殻は祖父が剥いてくれるし、口元のソースは祖母が拭いてくれる。 「ああ、エリザ。この魚は皮が美味いのだ。ほれ、あーん」 「エリザ、このドレス似合うわぁ。明日は仕立屋を呼んで、夏用のドレスを50着ほど作らせましょうね」 「50着も!?」
会話の中で、私は王都での出来事を詳細に話した。 カイルの浮気、マリアの嫌がらせ、父の横領……。 話せば話すほど、祖父母の顔から笑顔が消え、修羅のような形相になっていくのがわかったが、私が「でも、今はこうして幸せだから」と笑うと、二人も表情を緩めてくれた。
「……そうだな。あやつらへの制裁(おしおき)は、後でじっくり考えるとして……今はエリザの笑顔が最優先だ」
祖父はワイングラスを傾けながら、瞳の奥で冷たい光を宿していた。 ああ、お父様たち。 私、知らないからね。 おじい様が「じっくり考える」と言った時は、大抵ろくなことにならないんだから。
夜も更け、私はふかふかの天蓋付きベッドに潜り込んだ。 窓からは月の光が差し込み、波の音が子守唄のように聞こえる。
「……幸せ」
枕に顔を埋め、小さく呟く。 昨日の今頃は、まだ実家の硬いベッドで、明日の不安に震えていた。 それが今は、こんなにも満たされている。
「ありがとう、おじい様、おばあ様……」
私は感謝の祈りを捧げ、眠りに落ちた。
しかし、私はまだ気づいていなかった。 祖父母の「溺愛」が、これ序の口に過ぎないことを。 そして明日の朝、浜辺で運命の出会いが待っていることを。
翌朝。 目が覚めると、枕元には山のようなプレゼントの箱と、一枚の張り紙があった。
『おはよう、天使よ。今日の刑罰は「朝寝坊」と「極上エステ」と「専属シェフの海鮮フルコース」だ。準備ができたら庭へ来なさい。――じいじより』
……どうやら、私の「過酷な」流刑生活は、まだ始まったばかりのようだ。
窓の外は漆黒の闇。 魔法灯の明かりだけが、飛ぶように流れていく岩肌を照らし出している。 御者の言葉通り、馬車は凄まじいスピードを出しているはずだが、車内は驚くほど静かだった。
「山をくり抜くなんて、本当におじい様らしいわ……」
私はソファの上で、呆れ半分、感動半分で呟いた。 かつて『氷の宰相』と呼ばれ、その冷徹な政治手腕で国を震え上がらせた祖父、ギルバート・フォン・フェルゼン。 「目的のためなら手段を選ばない」という彼の信条が、まさか孫娘に会いたいがために「山に穴を開ける」という物理的な力技(パワープレイ)に向けられるとは、誰が想像しただろうか。
トンネルに入ってから、もう一時間ほど経っただろうか。 ふと、空気の質が変わった気がした。
ひんやりとしていた乾燥した空気が、少しずつ湿り気を帯び、温かくなっていく。 そして、どこからともなく漂ってくる、独特の香り。 それは、太陽に愛された花々の甘い芳香と、潮騒の混じった懐かしい匂い――。
「エリザ様! 出口です! 眩しいですからご注意を!」
御者の叫び声と同時に、前方の闇が急速に薄れていく。 針の穴のような白い光が、見る見るうちに拡大し、視界を覆い尽くすほどの輝きとなって押し寄せてきた。
ザアアアアアアッ!!
トンネルを抜けた瞬間、世界が一変した。
「うわぁ……!!」
私は思わず窓に張り付いた。
そこには、絵画のように鮮烈な色彩の世界が広がっていた。
頭上には、抜けるようなコバルトブルーの空。 眼下には、宝石を溶かしたようなエメラルドグリーンの海。 白い砂浜が弧を描き、海岸線に沿ってヤシの木に似た南国の樹木が並んでいる。 斜面には、王都では見たこともないような極彩色の花々――ハイビスカスやブーゲンビリアに似た花が、競うように咲き乱れていた。
風が吹き抜けるたびに、花の香りと潮の香りが混ざり合い、私の鼻孔をくすぐる。 肌に触れる風は柔らかく、まるで絹のようだ。 王都の、あのどんよりとした曇り空と、煤煙(ばいえん)にまみれた空気とは、まるで別の惑星に来たかのようだった。
「これが……『極寒の辺境』?」
私は鼻で笑った。 父よ、見ていますか。 あなたが「地獄へ行け」と送り出したこの場所は、どう見ても地上の楽園です。
馬車は海沿いの街道を軽快に走り抜ける。 道行く人々も、王都の住民とは違っていた。 みんな、肌を健康的な小麦色に焼き、アロハシャツのような涼しげな服を着て、屈託のない笑顔を浮かべている。 馬車(といっても外見はボロボロだが)を見かけると、彼らは手を振り、口々に何かを叫んでいるようだった。 防音結界のせいで声は聞こえないが、その表情からは敵意など微塵も感じられない。 「領主様の馬車だ!」「おかえりなさい!」と言っているのだろうか。
しばらく走ると、岬の突端に、白亜の豪邸が見えてきた。 断崖の上にそびえ立つその姿は、要塞というよりは、白鳥が羽を休めているかのような優美さを持っている。 屋根はオレンジ色の瓦で葺かれ、広大なテラスからは海が一望できるようになっていた。
あれこそが、フェルゼン辺境伯家の本邸。 そして、私の新しい「我が家」だ。
「到着いたしました、エリザ様」
馬車が緩やかに速度を落とし、大きな鉄格子の門をくぐる。 手入れの行き届いた前庭には、噴水が涼しげな音を立てていた。 そして。 屋敷の正面玄関には、すでに「彼ら」が待ち構えていた。
ずらりと整列した数十人の使用人たち。 その中心に立つ、二人の老夫婦。
一人は、背筋を定規で測ったようにピンと伸ばした、長身の老紳士。 白髪をオールバックにし、仕立ての良い執事服のような燕尾服を着こなしている。その瞳は鋭く、鷲(わし)のようだ。眉間に刻まれた深い皺は、長年の国政の激務と、妥協を許さぬ厳格さを物語っている。 彼こそが、私の祖父、ギルバート・フォン・フェルゼン。
その隣には、銀髪を上品に結い上げ、深紅のドレスを纏った老婦人。 扇子を口元にあて、冷ややかな視線で馬車を見据えている。かつて社交界の華と謳われ、その一言で流行が決まると言われた元公爵令嬢。 私の祖母、エレオノーラだ。
(うわぁ……相変わらず、迫力がすごい)
何も知らない人が見れば、足がすくむような光景だろう。 「処刑宣告をしに来た裁判官」のような威圧感だ。 父が恐れるのも無理はない。
馬車が静かに停止する。 御者が降りてきて、扉に手をかけた。
カチャリ。
扉が開く。 私は深呼吸を一つして、外へと足を踏み出した。
「……ただいま戻りました、おじい様、おばあ様」
私はドレスの裾を摘み、最上級のカーテシーを披露した。 一瞬の静寂。 波の音だけが、ザザァ……と響く。
祖父が、鋭い眼光で私を凝視した。 祖母が、扇子をパチリと閉じた。
そして。
「エ! リ! ザ! あ! あ! あ!」
祖父が叫んだ。 雷が落ちたかのような大音声だった。
次の瞬間、祖父の姿がブレた。 と思う間もなく、私は強烈な力で抱きしめられていた。
「おおお、エリザ! 我が愛しの孫娘! よくぞ無事で! よくぞ帰ってきてくれた!!」
「ぐえっ」
祖父のハグは、還暦を過ぎた老人とは思えないほどのパワーだった。肋骨が軋む。 あの『氷の宰相』の面影はどこにもない。今の彼はただの『孫溺愛モンスター』と化していた。
「ちょっとあなた! エリザが潰れてしまうでしょう! どきなさい!」
祖母が祖父を突き飛ばし(物理)、代わりに私を優しく、しかし力強く抱きしめる。 高貴な香水の香りに包まれた。
「エリザ、私の可愛い天使……。会いたかったわ。本当に、本当によく頑張ったわね」
祖母の声は震えていた。 見上げると、いつも冷静な祖母の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちている。
「……痩せたんじゃないの? 頬がこけているわ。あの馬鹿息子(私の父)め、まともな食事も与えずに……!」
「服だって、何ですかこのボロ布は! 私の孫にこんな粗末なものを着せるなんて、国家反逆罪で訴えてやる!」
祖父も復活し、私の二の腕をさすりながら涙ぐんでいる。
「手も……こんなに荒れて。毎晩帳簿をつけていたんだろう? 苦労をかけたな。許しておくれ、もっと早く迎えに行ってやればよかった」
二人の、なりふり構わぬ愛情表現。 周囲の使用人たちも、もらい泣きしたり、温かい目で見守ったりしている。誰も「元宰相閣下がキャラ崩壊している」などと驚いたりしない。これが、この屋敷の日常なのだ。
私は、二人の体温を感じながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。
実家では、どれだけ努力しても「当たり前」とされ、褒められることなど一度もなかった。 存在そのものを否定され続けてきた。 けれど、ここには。 私のすべてを肯定し、愛してくれる人たちがいる。 張り詰めていた「悪女」としての仮面が、音を立てて崩れていく。 私は二人の腕の中で、子供のように顔を埋めた。
「……おじい様、おばあ様……ただいま、帰りました……っ」
「「おかえり、エリザ!!」」
南国の青空の下、三人の声が重なった。 それは、私の人生で一番温かい「おかえり」だった。
◇
感動の再会から一時間後。 私はシャワーを浴びて旅の汗を流し、祖母が用意してくれた肌触りの良いシルクのルームウェアに着替えていた。 案内されたのは、海に面した広いテラス。 そこには、冷たいトロピカルジュースと、山盛りのフルーツが用意されていた。
「さて、エリザ」
席に着くと、祖父が咳払いを一つして、真剣な顔つきに戻った。 手には、一枚の手紙を持っている。 それは、私が持参した「父からの紹介状(という名の命令書)」だ。
「お父様からの手紙ですね」
私はストローでマンゴージュースを飲みながら、冷静に答えた。
「うむ。ここには、お前への『処遇』について書かれている」
祖父は忌々しそうに手紙を開き、読み上げ始めた。
「えー……『父上。この娘、エリザは、王都にて数々の悪行を働き、婚約破棄された恥さらしである』……ふんっ、馬鹿め」
祖父は鼻で笑い、続ける。
「『よって、そちらで厳しく再教育されたし。具体的には、朝は4時に起床させ、屋敷中の雑巾掛けを行わせること。食事は一日一食、パンと水のみ。外出は一切禁止。死ぬまで反省させろ』……だそうだ」
読み終わると同時に、祖父の手の中で手紙がメラメラと燃え上がった。 魔法ではない。 怒りのあまり、無意識に発動した火属性魔法だ(祖父は元々、強力な魔法使いでもある)。 灰になった手紙が、風にさらわれていく。
「……ふざけるな」
ドゴォォォォン!!
祖父がテーブルを叩くと、衝撃波でテラスの柵がビリビリと震えた。
「私の孫を、奴隷扱いだと!? 雑巾掛け? パンと水? あいつの脳みそは腐っているのか!? いや、元々空っぽだったか!」
「落ち着いてください、あなた。血管が切れますわよ」
祖母が冷静にたしなめるが、その手にはいつの間にか氷の槍(アイスランス)が生成されており、虚空に向けて構えられている。おばあ様も大概だ。
「ですがおじい様、一応お父様は私の保護者でしたから……建前上、何らかの『罰』を与えないと、お父様がうるさいのでは?」
私が小首を傾げると、祖父はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。 かつて政敵を論破し、葬り去ってきた『氷の宰相』の顔だ。
「安心しろ、エリザ。わしは手紙の指示を『忠実』に守るつもりだ」
「はい?」
「あいつは『厳しく再教育しろ』と言ったな? もちろんだ。わし流の『再教育』を施してやる」
祖父は指をパチンと鳴らした。 控えていた執事が、一枚のスケジュール表のようなものを広げる。
「まず、『朝4時に起床』という点だが……これは『朝4時まで遊び明かしても良い』と解釈する。夜更かしもまた、淑女の嗜み(?)だからな」
「ええっ?」
「次に、『雑巾掛け』だが……これは『床を磨くように、己自身を磨け』という意味に違いない。よって、領地で一番高級なエステサロンを貸し切りにし、全身をピカピカに磨き上げさせる」
「解釈が斜め上すぎませんか?」
「そして、『食事は一日一食』……これは『一食に魂を込めろ』という意味だ。つまり、朝昼晩の区別がつかないほど、一日中ずっと美味しいものを食べ続けろということだ! 専属シェフを三人つけたぞ!」
「それはただの暴飲暴食では……」
「最後に、『死ぬまで反省させろ』……これは『死ぬほど楽しんで、過去の苦労を忘れろ』という意味だ! 異論は認めん!」
祖父は立ち上がり、海に向かって両手を広げた。
「よいかエリザ! 今日から貴様に課す『刑罰』は以下の通りだ!」
「第一に、毎朝好きな時間に起きること!」 「第二に、食べたいものを食べたいだけ食べること!」 「第三に、欲しいものは値札を見ずに買うこと!」 「第四に、絶対に働かないこと!」
「以上だ! これを破ったら、じいじは悲しくて泣いちゃうからな!」
祖父はビシッと私を指差した。 その顔は真剣そのものだが、言っていることは滅茶苦茶だ。
私は呆気にとられ、そして吹き出した。
「ふふ……あはははは!」
お腹を抱えて笑った。 涙が出るほど笑った。
こんな「罰」があるだろうか。 こんなに幸せな「地獄」があるだろうか。
「わかりました、おじい様。その刑罰……謹んでお受けいたします」
私が涙を拭いながら答えると、祖父と祖母も満足そうに微笑んだ。
「よろしい。では、早速『刑の執行』だ。今夜はエリザの歓迎パーティーだぞ! 領海で獲れた最高級のマグロを解体する!」
「デザートは新作のトロピカルパフェよ!」
◇
その夜。 広間で行われた夕食会は、まるで王族の晩餐会のようだった。 テーブルには乗り切らないほどの料理が並び、祖父秘蔵のワインが開けられ、楽団が生演奏を奏でる。 私は祖父と祖母に挟まれ、ひたすら甘やかされた。 カニの殻は祖父が剥いてくれるし、口元のソースは祖母が拭いてくれる。 「ああ、エリザ。この魚は皮が美味いのだ。ほれ、あーん」 「エリザ、このドレス似合うわぁ。明日は仕立屋を呼んで、夏用のドレスを50着ほど作らせましょうね」 「50着も!?」
会話の中で、私は王都での出来事を詳細に話した。 カイルの浮気、マリアの嫌がらせ、父の横領……。 話せば話すほど、祖父母の顔から笑顔が消え、修羅のような形相になっていくのがわかったが、私が「でも、今はこうして幸せだから」と笑うと、二人も表情を緩めてくれた。
「……そうだな。あやつらへの制裁(おしおき)は、後でじっくり考えるとして……今はエリザの笑顔が最優先だ」
祖父はワイングラスを傾けながら、瞳の奥で冷たい光を宿していた。 ああ、お父様たち。 私、知らないからね。 おじい様が「じっくり考える」と言った時は、大抵ろくなことにならないんだから。
夜も更け、私はふかふかの天蓋付きベッドに潜り込んだ。 窓からは月の光が差し込み、波の音が子守唄のように聞こえる。
「……幸せ」
枕に顔を埋め、小さく呟く。 昨日の今頃は、まだ実家の硬いベッドで、明日の不安に震えていた。 それが今は、こんなにも満たされている。
「ありがとう、おじい様、おばあ様……」
私は感謝の祈りを捧げ、眠りに落ちた。
しかし、私はまだ気づいていなかった。 祖父母の「溺愛」が、これ序の口に過ぎないことを。 そして明日の朝、浜辺で運命の出会いが待っていることを。
翌朝。 目が覚めると、枕元には山のようなプレゼントの箱と、一枚の張り紙があった。
『おはよう、天使よ。今日の刑罰は「朝寝坊」と「極上エステ」と「専属シェフの海鮮フルコース」だ。準備ができたら庭へ来なさい。――じいじより』
……どうやら、私の「過酷な」流刑生活は、まだ始まったばかりのようだ。
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🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
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