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第6話:『実家からの手紙。「業務が回らないから戻ってこい」? 残念ですが、今はカニを食べるのに忙しいので』
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エリザが祖父母の楽園で「イケメン拾いました」イベントを発生させていた頃。 王都にあるフェルゼン伯爵邸では、静かに、しかし確実に「地獄」の釜の蓋が開こうとしていた。
エリザを追放してから三日目の朝。 食堂には、不穏な空気が漂っていた。
「おい! 朝食はまだか! いつまで待たせるんだ!」
フェルゼン伯爵の怒鳴り声が響く。 彼はイライラとテーブルを指で叩き、苛立ちを隠そうともしなかった。 いつもなら、この時間には完璧にセッティングされた朝食が並び、新聞には綺麗にアイロンがかけられ、今日のスケジュールの確認が行われているはずだった。
しかし今、テーブルの上は空っぽだ。 「も、申し訳ございません旦那様! 今、厨房がてんてこ舞いでして……!」
年配の執事が、顔色を青くして駆け寄ってくる。 「てんてこ舞いだと? たかが朝食の準備に何を戸惑っている! シェフは何をしているんだ!」
「それが……食材の配達が来ていないのです」
「は?」
「いつもの肉屋も、八百屋も、『今月の支払いが確認できていないので納品できない』と……」
「なんだと!?」
伯爵は椅子を蹴倒して立ち上がった。
「支払いくらいしてあるだろう! 経理担当は何をやっている!」
「ですから、その……経理を担当していたのは、エリザお嬢様でしたので……」
執事の言葉に、伯爵は「あ」と口を開けたまま固まった。 そういえば、そうだった。 金の管理、支払いの手続き、業者との交渉。 面倒なことは全て「小賢しい娘の仕事」としてエリザに丸投げしていたのだった。
「ちっ……あの役立たずめ、引き継ぎもせずに消えおって!」
伯爵は舌打ちをして座り直した。自分の娘を「役立たず」と罵りながら、その娘がいなくなった途端に飯も食えなくなっているという矛盾には気づかない。
「まあまあ、あなた。イライラしないで。エリザがいなくても、私たちが本気を出せばどうにかなりますわ」
継母のカテリーナが、優雅に(といっても化粧が少し崩れているが)微笑んだ。 彼女の手には、金庫の鍵束が握られている。 エリザが出て行った後、彼女が真っ先に確保したのがこの鍵束だった。
「私が直接、業者に金を払えば済む話でしょう? さあ、金庫を開けて……あら?」
カテリーナは鍵束をジャラジャラと弄りながら、首を傾げた。 「開かないわ」
「何?」
「どの鍵を差しても、金庫が開かないのよ。これ、本当に金庫の鍵かしら?」
「貸してみろ!」
伯爵が鍵束をひったくり、ガチャガチャと鍵穴に突っ込む。 しかし、重厚な魔導金庫の扉はビクともしない。 それもそのはず。この金庫は最新式の魔道具で、登録された魔力(つまりエリザの魔力)と、特定の物理鍵の二重認証がなければ開かない仕組みになっているのだ。 エリザが「お父様が無駄遣いしないように」と、こっそりセキュリティレベルを最高設定に上げていたことを、彼らは知らない。
「くそっ! 開かん! これでは金が出せんではないか!」
「やだ、今日新しいドレスの代金を払わなきゃいけないのに!」
そこへ、寝癖がついたままのマリアが入ってきた。 彼女もまた、不満げな顔をしている。
「お父様、お母様! 私の専属メイドがいないの! 髪を結ってくれる人がいないから、こんなボサボサ頭で起きなきゃいけなかったのよ!」
「マリアのメイド? ああ、あの子なら先週、君が『紅茶の淹れ方が悪い』ってクビにしたじゃないか」
「そうだったかしら? でも、代わりの子がすぐに来るはずでしょ?」
「……手配していたのは、エリザだったな」
再び沈黙が流れる。 メイドの面接、教育、シフト管理。それも全てエリザの仕事だった。 マリアが次々とメイドを辞めさせるため、エリザは常に求人票を出し、頭を下げて人をかき集めていたのだ。
「もう! お姉様のせいで最悪よ! 早くなんとかして!」
マリアが地団駄を踏んだその時、玄関の呼び鈴が鳴った。 来客だ。
「お、おお! カイル君か! ちょうどよかった!」
現れたのは、マリアの婚約者となったカイルだった。 しかし、彼もまた、いつもとは様子が違っていた。 騎士団の制服を着ているが、襟元がヨレており、目の下には濃い隈(クマ)がある。
「フェルゼン伯爵……少し、お話が……」
「どうしたんだね? そんなにやつれて」
「書類が……書けないのです」
「は?」
カイルは頭を抱えて、呻くように言った。
「騎士団の活動報告書、予算申請書、部下の評価シート……。今まで私は口頭でエリザに伝えて、彼女が清書してくれていたのですが……自分で書こうとしたら、書式が全くわからなくて……」
「な、なんだと?」
「昨日、上官に提出したら『なんだこの落書きは! 幼児の作文か!』と破り捨てられました……。このままでは、来月の昇進試験に響きます……!」
カイルは半泣きだった。 彼にとってエリザは、「都合の良い婚約者」である以前に、「超優秀な秘書」だったのだ。 その秘書をクビにした結果、彼の無能さが白日の下に晒されつつあった。
「ええい、どいつもこいつも!」
伯爵は頭を掻きむしった。 腹は減るわ、金は出せないわ、娘はうるさいわ、婿候補は泣きついてくるわ。 全てエリザのせいだ。 あいつが、ちゃんと引き継ぎをしてから出て行かないからこうなるのだ。
「……手紙だ」
伯爵はギリリと奥歯を噛み締め、執事に命じた。
「早馬を出せ! 辺境のエリザ宛だ! 『業務が滞っている。貴様の責任だ。至急、書類の保管場所と金庫の開け方を記して返信しろ』とな!」
「は、はい! すぐに!」
「あと、『反省しているなら、戻ってきて手伝わせてやってもいい』とも書き添えておけ! どうせ泣いて詫びている頃だろうからな!」
伯爵はニヤリと笑った。 そうだ、エリザは今頃、極寒の地で後悔しているはずだ。 「帰りたい」と泣いているはずだ。 こちらから「帰っていい」と言えば、尻尾を振って戻ってきて、また馬車馬のように働くだろう。 そうすれば、全て元通りだ。
ああ、私はなんて慈悲深い父親なのだろう。
伯爵は空腹も忘れ、歪んだ優越感に浸るのだった。 まさかその娘が、今まさに極上のカニを食べているとも知らずに。
◇
一方、フェルゼン辺境伯領。 時刻は午前十時。 遅めの朝食(ブランチ)の時間である。
海からの心地よい風が吹き抜けるテラス席には、今日も今日とて、王族の晩餐会かと思うほどの料理が並べられていた。
「さあ、エリザ。今日はエビ祭りだぞ」
祖父ギルバートが、満面の笑みで巨大なロブスターの皿を私の前に置いた。 「わぁ、大きい! おじい様、ありがとうございます!」
「遠慮はいらん。殻はわしが剥いてやるからな。ほれ、あーん」
「あーん」
私は大きな口を開けて、プリプリの身を頬張った。 甘い。そして濃厚な味噌の味がたまらない。
「ふふ、よく食べるわねぇ。見ているだけで幸せだわ」
祖母エレオノーラも、嬉しそうに私の口元をナプキンで拭いてくれる。
そして、その向かいの席には。 昨夜拾った謎のイケメン、レオンが座っていた。
彼は祖父の若い頃の服(上質なリネンのシャツ)を着て、少し緊張した面持ちでナイフとフォークを動かしている。 端正な顔立ちと、育ちの良さを感じさせる優雅なテーブルマナーは、この豪華な食事の席に驚くほど馴染んでいた。
ただし、その表情は「困惑」一色だった。
(……なんだ、この空間は)
レオンは心の中で冷や汗を流していた。 目の前にいるのは、かつて「氷の宰相」と恐れられ、王族ですら敬語を使ったという伝説の男、ギルバート・フォン・フェルゼンだ。 その彼が、デレデレの笑顔で孫娘にエビを食べさせている。 「……あの、閣下」
レオンは恐る恐る声をかけた。
「なんだ、若造。エビが足りんのか? 殻なら自分で剥けよ」
祖父の声色が、私に向けるものと比べて氷点下まで下がる。 この温度差。風邪を引きそうだ。
「いえ、そうではなく……昨夜は助けていただき、本当にありがとうございました。食事までご馳走になり、感謝の言葉もありません」
「ふん。エリザが拾ってきたから置いているだけだ。エリザの機嫌を損ねるような真似をしたら、即座に海に放り込むからそのつもりでな」
「は、はい! 肝に銘じます!」
レオンは直立不動(座ったまま)で敬礼した。 その様子がおかしくて、私はクスクスと笑った。
「おじい様、レオンさんをいじめないで。彼は私の命の恩人……じゃないわね、私が命の恩人か。まあ、とにかくお客様よ」
「むぅ……エリザがそう言うなら」
祖父は不承不承といった感じで矛を収めた。 レオンが私を見る。 その瞳には「助かった……」という安堵と、そして「君は猛獣使いか?」という尊敬の念が宿っていた。
「それにしても……ここは素晴らしいところだな」
レオンは話題を変えるように、テラスからの景色を眺めた。
「王都では、辺境伯領は『魔物が跋扈する極寒の地』だと噂されていたが……まさか、これほどの楽園だったとは」
「ふっふっふ、そうでしょう?」
私は胸を張った。自分の領地ではないけれど、自慢したくてたまらない。
「魔物なんて、おじい様が睨めば逃げていくわ。ここは平和そのものよ」
「なるほど。宰相閣下の威光は魔物にも通じるのか」
「違う、誤解を生む言い方をするなエリザ! わしは平和主義者だぞ!」
祖父が慌てて訂正する。 平和な朝だ。 美味しいご飯、綺麗な景色、そして楽しい会話。 この幸せな時間が、ずっと続けばいいのに。 そう思った、その時だった。
バサバサバサッ!!
空から一羽の鷹が舞い降りてきた。 王都からの速達便を運ぶ、伝書鷹だ。 鷹はテーブルの端に止まり、「手紙を受け取れ」と言わんばかりに脚を差し出した。
「む? 王都からか」
祖父の顔が曇る。 私も、嫌な予感がしてナイフを置いた。 このタイミングで王都から手紙なんて、ろくなことじゃない。
執事が手紙を受け取り、封を確認する。 「旦那様、フェルゼン伯爵……つまり、旦那様のご子息からの手紙です。宛先は、エリザお嬢様となっております」
「……お父様から?」
場の空気が一瞬にして凍りついた。 レオンも察して、口を閉ざす。
祖父が「燃やすか?」という目で私に尋ねてきたが、私は首を横に振った。
「いえ、読みます。……何を言ってきたのか、楽しみですし」
私は手紙を受け取り、ペーパーナイフで封を切った。 中から取り出した便箋には、父の乱暴な筆跡で、こう書かれていた。
『エリザへ。 貴様がいなくなってから、屋敷の業務が滞っている。 これは全て、貴様が十分な引き継ぎを行わずに逃げ出したせいだ。 至急、以下の点について回答せよ。 1.領地経営の帳簿の保管場所 2.取引業者リストのファイル 3.カイル君の書類作成マニュアル 4.金庫の鍵のありか(手持ちの鍵では開かないぞ!)
なお、今すぐ戻ってきて詫びるなら、再び屋敷に入れてやらなくもない。 反省の色が見えるような返信を期待する。 父より』
「…………」
私は手紙を読み終え、無言でそれをテーブルに置いた。 「エリザ? 何と書いてあった?」
祖父が心配そうに覗き込んでくる。 私は、ゆっくりと顔を上げた。 そして。
「ぷっ」
吹き出した。
「あはははは! 傑作! お父様ったら、最高に笑えるわ!」
「エリザ?」
「見てください、これ。『戻ってきて詫びるなら入れてやる』ですって! 自分が困ってるくせに、なんでそんなに上から目線なの!? 馬鹿なの!?」
私はお腹を抱えて笑い転げた。 想像以上だった。 もう少し「困っている、助けてくれ」と泣きついてくるかと思ったが、プライドの高さが邪魔をして、まだ父親としての威厳を保とうとしている。 その滑稽さがたまらない。
「金庫の鍵が開かない、ですって。当たり前じゃない、セキュリティ設定を変えたの私だもの」
私は胸元のペンダントを指で弾いた。 ロケットの中には、小さな魔法石が入っている。これが認証キーだ。
「私がいないと何もできないって、自分で証明してるようなものね。……あー、お腹痛い」
ひとしきり笑った後、私は涙を拭ってスッキリとした顔をした。 祖父が手紙を読み、顔を真っ赤にして怒り狂い始めた。
「なっ、なんだこのふざけた手紙は! 『貴様のせいだ』だと!? 自分たちが無能なだけだろうが! 許さん! 今すぐ王都へ飛んで行って、屋敷ごと焼き払ってやる!」
祖父の手から炎が立ち上る。 レオンが「ひえっ」と椅子ごと後退る。
「まあまあ、おじい様。落ち着いて」
私は優雅に紅茶を啜りながら、祖父を宥めた。
「放っておきましょうよ。こんな手紙、返事をするインクと紙の無駄ですわ」
「しかし! 腹の虫が治まらん!」
「いいじゃないですか。彼らが困れば困るほど、私の『価値』が証明されるんですから。……それに」
私はニッコリと、小悪魔的な笑みを浮かべた。
「今、私は忙しいんです」
「忙しい? 何を……」
「これから、獲れたての『カニ』を食べに行かなくちゃいけませんから!」
そう。 昨日の夜、シェフが言っていたのだ。 今日は特別に、近くの漁港で水揚げされたばかりの「幻の巨大ガニ」が入荷すると。 実家の没落と、幻のカニ。 比べるまでもない。カニの圧勝だ。
「……ふっ」
横で聞いていたレオンが、吹き出した。
「ははっ、はははは!」
「何よ、レオン。笑うところ?」
「いや、すまない。……君は、本当に強いなと思って」
レオンは涙目になりながら、私を見つめた。 その瞳は、昨日よりもずっと優しく、熱を帯びているように見えた。
「普通なら、実家からのそんな手紙を見たら動揺するか、怒るか、悲しむかする。でも君は、笑い飛ばして『カニの方が大事』だと言い切った。……その強さが、眩しいよ」
「……褒め言葉として受け取っておくわ」
私は少し照れて、視線を逸らした。 別に強いわけじゃない。 ただ、もう彼らに心を乱されるのが癪なだけだ。 私の人生の主役は私。彼らはもう、ただのエキストラ(しかも悪役)なのだから。
「よし! そういうことなら、今日は『カニ・パーティー』だ!」
祖父が立ち上がり、宣言した。
「エリザの言う通りだ。あんな馬鹿どもの相手をしている暇はない。執事! 漁港へ連絡しろ! 一番大きなカニを確保するんだ!」
「かしこまりました!」
「レオン、貴様も来るか? カニの殻剥きくらいなら手伝わせてやるぞ」
祖父がぶっきらぼうに誘う。 レオンは目を輝かせ、即答した。
「はい! 喜んでお供します! カニの殻剥き、得意なんです!」
「ほう? 王子のくせにか……いや、なんでもない」
こうして、王都からの督促状は、そのままゴミ箱(暖炉)へと直行した。 返事は書かない。 沈黙こそが、最大のお返しだ。
「待っててね、カニさん! 今行くわよー!」
私は祖父の手を取り、レオンを従えて、意気揚々とテラスを飛び出した。 王都の空は曇りだろうか。 でも、ここの空はどこまでも青く、私の心もまた、一点の曇りもなかった。
この時の私は、まだ知らなかった。 私が無視を決め込んだことで、王都の実家がパニックになり、父が「エリザを連れ戻すために直接リゾートへ乗り込む」という暴挙に出ることを。 そして、そのことが彼らの破滅を決定的にすることを。
まあ、それはもう少し先のお話。 今はただ、目の前のカニと、隣にいる素敵な人たちとの時間を楽しむことにしよう。
エリザを追放してから三日目の朝。 食堂には、不穏な空気が漂っていた。
「おい! 朝食はまだか! いつまで待たせるんだ!」
フェルゼン伯爵の怒鳴り声が響く。 彼はイライラとテーブルを指で叩き、苛立ちを隠そうともしなかった。 いつもなら、この時間には完璧にセッティングされた朝食が並び、新聞には綺麗にアイロンがかけられ、今日のスケジュールの確認が行われているはずだった。
しかし今、テーブルの上は空っぽだ。 「も、申し訳ございません旦那様! 今、厨房がてんてこ舞いでして……!」
年配の執事が、顔色を青くして駆け寄ってくる。 「てんてこ舞いだと? たかが朝食の準備に何を戸惑っている! シェフは何をしているんだ!」
「それが……食材の配達が来ていないのです」
「は?」
「いつもの肉屋も、八百屋も、『今月の支払いが確認できていないので納品できない』と……」
「なんだと!?」
伯爵は椅子を蹴倒して立ち上がった。
「支払いくらいしてあるだろう! 経理担当は何をやっている!」
「ですから、その……経理を担当していたのは、エリザお嬢様でしたので……」
執事の言葉に、伯爵は「あ」と口を開けたまま固まった。 そういえば、そうだった。 金の管理、支払いの手続き、業者との交渉。 面倒なことは全て「小賢しい娘の仕事」としてエリザに丸投げしていたのだった。
「ちっ……あの役立たずめ、引き継ぎもせずに消えおって!」
伯爵は舌打ちをして座り直した。自分の娘を「役立たず」と罵りながら、その娘がいなくなった途端に飯も食えなくなっているという矛盾には気づかない。
「まあまあ、あなた。イライラしないで。エリザがいなくても、私たちが本気を出せばどうにかなりますわ」
継母のカテリーナが、優雅に(といっても化粧が少し崩れているが)微笑んだ。 彼女の手には、金庫の鍵束が握られている。 エリザが出て行った後、彼女が真っ先に確保したのがこの鍵束だった。
「私が直接、業者に金を払えば済む話でしょう? さあ、金庫を開けて……あら?」
カテリーナは鍵束をジャラジャラと弄りながら、首を傾げた。 「開かないわ」
「何?」
「どの鍵を差しても、金庫が開かないのよ。これ、本当に金庫の鍵かしら?」
「貸してみろ!」
伯爵が鍵束をひったくり、ガチャガチャと鍵穴に突っ込む。 しかし、重厚な魔導金庫の扉はビクともしない。 それもそのはず。この金庫は最新式の魔道具で、登録された魔力(つまりエリザの魔力)と、特定の物理鍵の二重認証がなければ開かない仕組みになっているのだ。 エリザが「お父様が無駄遣いしないように」と、こっそりセキュリティレベルを最高設定に上げていたことを、彼らは知らない。
「くそっ! 開かん! これでは金が出せんではないか!」
「やだ、今日新しいドレスの代金を払わなきゃいけないのに!」
そこへ、寝癖がついたままのマリアが入ってきた。 彼女もまた、不満げな顔をしている。
「お父様、お母様! 私の専属メイドがいないの! 髪を結ってくれる人がいないから、こんなボサボサ頭で起きなきゃいけなかったのよ!」
「マリアのメイド? ああ、あの子なら先週、君が『紅茶の淹れ方が悪い』ってクビにしたじゃないか」
「そうだったかしら? でも、代わりの子がすぐに来るはずでしょ?」
「……手配していたのは、エリザだったな」
再び沈黙が流れる。 メイドの面接、教育、シフト管理。それも全てエリザの仕事だった。 マリアが次々とメイドを辞めさせるため、エリザは常に求人票を出し、頭を下げて人をかき集めていたのだ。
「もう! お姉様のせいで最悪よ! 早くなんとかして!」
マリアが地団駄を踏んだその時、玄関の呼び鈴が鳴った。 来客だ。
「お、おお! カイル君か! ちょうどよかった!」
現れたのは、マリアの婚約者となったカイルだった。 しかし、彼もまた、いつもとは様子が違っていた。 騎士団の制服を着ているが、襟元がヨレており、目の下には濃い隈(クマ)がある。
「フェルゼン伯爵……少し、お話が……」
「どうしたんだね? そんなにやつれて」
「書類が……書けないのです」
「は?」
カイルは頭を抱えて、呻くように言った。
「騎士団の活動報告書、予算申請書、部下の評価シート……。今まで私は口頭でエリザに伝えて、彼女が清書してくれていたのですが……自分で書こうとしたら、書式が全くわからなくて……」
「な、なんだと?」
「昨日、上官に提出したら『なんだこの落書きは! 幼児の作文か!』と破り捨てられました……。このままでは、来月の昇進試験に響きます……!」
カイルは半泣きだった。 彼にとってエリザは、「都合の良い婚約者」である以前に、「超優秀な秘書」だったのだ。 その秘書をクビにした結果、彼の無能さが白日の下に晒されつつあった。
「ええい、どいつもこいつも!」
伯爵は頭を掻きむしった。 腹は減るわ、金は出せないわ、娘はうるさいわ、婿候補は泣きついてくるわ。 全てエリザのせいだ。 あいつが、ちゃんと引き継ぎをしてから出て行かないからこうなるのだ。
「……手紙だ」
伯爵はギリリと奥歯を噛み締め、執事に命じた。
「早馬を出せ! 辺境のエリザ宛だ! 『業務が滞っている。貴様の責任だ。至急、書類の保管場所と金庫の開け方を記して返信しろ』とな!」
「は、はい! すぐに!」
「あと、『反省しているなら、戻ってきて手伝わせてやってもいい』とも書き添えておけ! どうせ泣いて詫びている頃だろうからな!」
伯爵はニヤリと笑った。 そうだ、エリザは今頃、極寒の地で後悔しているはずだ。 「帰りたい」と泣いているはずだ。 こちらから「帰っていい」と言えば、尻尾を振って戻ってきて、また馬車馬のように働くだろう。 そうすれば、全て元通りだ。
ああ、私はなんて慈悲深い父親なのだろう。
伯爵は空腹も忘れ、歪んだ優越感に浸るのだった。 まさかその娘が、今まさに極上のカニを食べているとも知らずに。
◇
一方、フェルゼン辺境伯領。 時刻は午前十時。 遅めの朝食(ブランチ)の時間である。
海からの心地よい風が吹き抜けるテラス席には、今日も今日とて、王族の晩餐会かと思うほどの料理が並べられていた。
「さあ、エリザ。今日はエビ祭りだぞ」
祖父ギルバートが、満面の笑みで巨大なロブスターの皿を私の前に置いた。 「わぁ、大きい! おじい様、ありがとうございます!」
「遠慮はいらん。殻はわしが剥いてやるからな。ほれ、あーん」
「あーん」
私は大きな口を開けて、プリプリの身を頬張った。 甘い。そして濃厚な味噌の味がたまらない。
「ふふ、よく食べるわねぇ。見ているだけで幸せだわ」
祖母エレオノーラも、嬉しそうに私の口元をナプキンで拭いてくれる。
そして、その向かいの席には。 昨夜拾った謎のイケメン、レオンが座っていた。
彼は祖父の若い頃の服(上質なリネンのシャツ)を着て、少し緊張した面持ちでナイフとフォークを動かしている。 端正な顔立ちと、育ちの良さを感じさせる優雅なテーブルマナーは、この豪華な食事の席に驚くほど馴染んでいた。
ただし、その表情は「困惑」一色だった。
(……なんだ、この空間は)
レオンは心の中で冷や汗を流していた。 目の前にいるのは、かつて「氷の宰相」と恐れられ、王族ですら敬語を使ったという伝説の男、ギルバート・フォン・フェルゼンだ。 その彼が、デレデレの笑顔で孫娘にエビを食べさせている。 「……あの、閣下」
レオンは恐る恐る声をかけた。
「なんだ、若造。エビが足りんのか? 殻なら自分で剥けよ」
祖父の声色が、私に向けるものと比べて氷点下まで下がる。 この温度差。風邪を引きそうだ。
「いえ、そうではなく……昨夜は助けていただき、本当にありがとうございました。食事までご馳走になり、感謝の言葉もありません」
「ふん。エリザが拾ってきたから置いているだけだ。エリザの機嫌を損ねるような真似をしたら、即座に海に放り込むからそのつもりでな」
「は、はい! 肝に銘じます!」
レオンは直立不動(座ったまま)で敬礼した。 その様子がおかしくて、私はクスクスと笑った。
「おじい様、レオンさんをいじめないで。彼は私の命の恩人……じゃないわね、私が命の恩人か。まあ、とにかくお客様よ」
「むぅ……エリザがそう言うなら」
祖父は不承不承といった感じで矛を収めた。 レオンが私を見る。 その瞳には「助かった……」という安堵と、そして「君は猛獣使いか?」という尊敬の念が宿っていた。
「それにしても……ここは素晴らしいところだな」
レオンは話題を変えるように、テラスからの景色を眺めた。
「王都では、辺境伯領は『魔物が跋扈する極寒の地』だと噂されていたが……まさか、これほどの楽園だったとは」
「ふっふっふ、そうでしょう?」
私は胸を張った。自分の領地ではないけれど、自慢したくてたまらない。
「魔物なんて、おじい様が睨めば逃げていくわ。ここは平和そのものよ」
「なるほど。宰相閣下の威光は魔物にも通じるのか」
「違う、誤解を生む言い方をするなエリザ! わしは平和主義者だぞ!」
祖父が慌てて訂正する。 平和な朝だ。 美味しいご飯、綺麗な景色、そして楽しい会話。 この幸せな時間が、ずっと続けばいいのに。 そう思った、その時だった。
バサバサバサッ!!
空から一羽の鷹が舞い降りてきた。 王都からの速達便を運ぶ、伝書鷹だ。 鷹はテーブルの端に止まり、「手紙を受け取れ」と言わんばかりに脚を差し出した。
「む? 王都からか」
祖父の顔が曇る。 私も、嫌な予感がしてナイフを置いた。 このタイミングで王都から手紙なんて、ろくなことじゃない。
執事が手紙を受け取り、封を確認する。 「旦那様、フェルゼン伯爵……つまり、旦那様のご子息からの手紙です。宛先は、エリザお嬢様となっております」
「……お父様から?」
場の空気が一瞬にして凍りついた。 レオンも察して、口を閉ざす。
祖父が「燃やすか?」という目で私に尋ねてきたが、私は首を横に振った。
「いえ、読みます。……何を言ってきたのか、楽しみですし」
私は手紙を受け取り、ペーパーナイフで封を切った。 中から取り出した便箋には、父の乱暴な筆跡で、こう書かれていた。
『エリザへ。 貴様がいなくなってから、屋敷の業務が滞っている。 これは全て、貴様が十分な引き継ぎを行わずに逃げ出したせいだ。 至急、以下の点について回答せよ。 1.領地経営の帳簿の保管場所 2.取引業者リストのファイル 3.カイル君の書類作成マニュアル 4.金庫の鍵のありか(手持ちの鍵では開かないぞ!)
なお、今すぐ戻ってきて詫びるなら、再び屋敷に入れてやらなくもない。 反省の色が見えるような返信を期待する。 父より』
「…………」
私は手紙を読み終え、無言でそれをテーブルに置いた。 「エリザ? 何と書いてあった?」
祖父が心配そうに覗き込んでくる。 私は、ゆっくりと顔を上げた。 そして。
「ぷっ」
吹き出した。
「あはははは! 傑作! お父様ったら、最高に笑えるわ!」
「エリザ?」
「見てください、これ。『戻ってきて詫びるなら入れてやる』ですって! 自分が困ってるくせに、なんでそんなに上から目線なの!? 馬鹿なの!?」
私はお腹を抱えて笑い転げた。 想像以上だった。 もう少し「困っている、助けてくれ」と泣きついてくるかと思ったが、プライドの高さが邪魔をして、まだ父親としての威厳を保とうとしている。 その滑稽さがたまらない。
「金庫の鍵が開かない、ですって。当たり前じゃない、セキュリティ設定を変えたの私だもの」
私は胸元のペンダントを指で弾いた。 ロケットの中には、小さな魔法石が入っている。これが認証キーだ。
「私がいないと何もできないって、自分で証明してるようなものね。……あー、お腹痛い」
ひとしきり笑った後、私は涙を拭ってスッキリとした顔をした。 祖父が手紙を読み、顔を真っ赤にして怒り狂い始めた。
「なっ、なんだこのふざけた手紙は! 『貴様のせいだ』だと!? 自分たちが無能なだけだろうが! 許さん! 今すぐ王都へ飛んで行って、屋敷ごと焼き払ってやる!」
祖父の手から炎が立ち上る。 レオンが「ひえっ」と椅子ごと後退る。
「まあまあ、おじい様。落ち着いて」
私は優雅に紅茶を啜りながら、祖父を宥めた。
「放っておきましょうよ。こんな手紙、返事をするインクと紙の無駄ですわ」
「しかし! 腹の虫が治まらん!」
「いいじゃないですか。彼らが困れば困るほど、私の『価値』が証明されるんですから。……それに」
私はニッコリと、小悪魔的な笑みを浮かべた。
「今、私は忙しいんです」
「忙しい? 何を……」
「これから、獲れたての『カニ』を食べに行かなくちゃいけませんから!」
そう。 昨日の夜、シェフが言っていたのだ。 今日は特別に、近くの漁港で水揚げされたばかりの「幻の巨大ガニ」が入荷すると。 実家の没落と、幻のカニ。 比べるまでもない。カニの圧勝だ。
「……ふっ」
横で聞いていたレオンが、吹き出した。
「ははっ、はははは!」
「何よ、レオン。笑うところ?」
「いや、すまない。……君は、本当に強いなと思って」
レオンは涙目になりながら、私を見つめた。 その瞳は、昨日よりもずっと優しく、熱を帯びているように見えた。
「普通なら、実家からのそんな手紙を見たら動揺するか、怒るか、悲しむかする。でも君は、笑い飛ばして『カニの方が大事』だと言い切った。……その強さが、眩しいよ」
「……褒め言葉として受け取っておくわ」
私は少し照れて、視線を逸らした。 別に強いわけじゃない。 ただ、もう彼らに心を乱されるのが癪なだけだ。 私の人生の主役は私。彼らはもう、ただのエキストラ(しかも悪役)なのだから。
「よし! そういうことなら、今日は『カニ・パーティー』だ!」
祖父が立ち上がり、宣言した。
「エリザの言う通りだ。あんな馬鹿どもの相手をしている暇はない。執事! 漁港へ連絡しろ! 一番大きなカニを確保するんだ!」
「かしこまりました!」
「レオン、貴様も来るか? カニの殻剥きくらいなら手伝わせてやるぞ」
祖父がぶっきらぼうに誘う。 レオンは目を輝かせ、即答した。
「はい! 喜んでお供します! カニの殻剥き、得意なんです!」
「ほう? 王子のくせにか……いや、なんでもない」
こうして、王都からの督促状は、そのままゴミ箱(暖炉)へと直行した。 返事は書かない。 沈黙こそが、最大のお返しだ。
「待っててね、カニさん! 今行くわよー!」
私は祖父の手を取り、レオンを従えて、意気揚々とテラスを飛び出した。 王都の空は曇りだろうか。 でも、ここの空はどこまでも青く、私の心もまた、一点の曇りもなかった。
この時の私は、まだ知らなかった。 私が無視を決め込んだことで、王都の実家がパニックになり、父が「エリザを連れ戻すために直接リゾートへ乗り込む」という暴挙に出ることを。 そして、そのことが彼らの破滅を決定的にすることを。
まあ、それはもう少し先のお話。 今はただ、目の前のカニと、隣にいる素敵な人たちとの時間を楽しむことにしよう。
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