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第9話:『一方その頃、元婚約者と義妹。泥沼の愛憎劇がスタートしておりました』
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ガタンッ! ガタガタガタッ!
車輪が石に乗り上げるたびに、激しい衝撃が全身を襲う。 お尻の皮はとっくに剥け、腰は悲鳴を上げ、頭は天井に何度もぶつかっていた。
「きゃああっ! もう! 運転手! もっと丁寧に運転しなさいよ!」
狭い車内に、マリアの金切り声が響き渡った。 彼女のピンク色のドレスは、三日間の旅路ですっかり薄汚れ、自慢の巻き髪も湿気と汗でペッタリと額に張り付いている。
「無理をおっしゃらないでください! この馬車、サスペンションが壊れてるんですよ!」
御者台から、雇われ御者の投げやりな声が返ってくる。 安い賃金で雇った三流の御者だ。主への敬意など持ち合わせているはずもない。
「うるさい! 言い訳をするな! これだから下民は!」
フェルゼン伯爵が怒鳴るが、その声には以前のような張りがない。 空腹と疲労で頬はこけ、目の下にはどす黒い隈(クマ)ができている。 隣に座る継母のカテリーナも、もはや化粧を直す気力もないのか、能面のような顔で窓の外を流れる荒野を見つめていた。
そして。 向かいの席に座るカイル――エリザの元婚約者であり、次期騎士団長候補(自称)の彼もまた、死んだ魚のような目をしていた。
(……どうして、こうなったんだ)
カイルは揺れる視界の中で、自問自答を繰り返していた。 本来なら今頃、自分はマリアと共に公爵家主催の夜会に出席し、美男美女のカップルとして羨望の眼差しを浴びているはずだった。 あるいは、騎士団の執務室で優雅に書類にサインをし、部下たちから「さすがカイル様」と称賛されているはずだった。
それがどうだ。 今は、汗とカビの臭いが充満するボロ馬車に詰め込まれ、辺境の地へとドナドナされている。 しかも、愛しいはずのマリアは、出発してからというもの、文句と呪詛しか吐いていない。
「ねえカイル様! 聞いてるの!? 私の足、むくんじゃったのよ! マッサージしてよ!」
マリアが、汚れた靴をカイルの膝の上に放り出した。 以前なら「可愛いマリアのお願いなら」と喜んで跪いただろう。 だが今は、そのふくらはぎを見るだけで吐き気がした。
「……悪いが、僕も疲れているんだ。自分でやってくれ」
「はあ!? 何それ! 愛が冷めたの!? 信じられない! お姉様なら、私が『疲れた』って言えばすぐにお茶を淹れてくれたのに!」
まただ。 マリアは何かにつけて「お姉様なら」と言う。 自分からエリザを追い出したくせに、困った時だけエリザの影を求める。 そしてそれは、カイル自身も同じだった。
カイルは深く溜め息をつき、目を閉じた。 瞼の裏に浮かぶのは、一週間前の王都での悪夢のような出来事だ。
◇
【一週間前・王都】
エリザを追放した翌日。 カイルは意気揚々と騎士団へ出勤した。 邪魔な婚約者(エリザ)はいなくなり、愛するマリアとの婚約も内定した。人生の絶頂期だと思っていた。
しかし、その幻想は午前中のうちに崩れ去った。
「おい、カイル。この書類は何だ?」
上官である騎士団副団長が、カイルの提出した『月次報告書』を指先で摘み上げて言った。 汚いものを見るような目だった。
「はっ! 今月の巡回記録と、装備品の補充申請です! 完璧に仕上げました!」
カイルは胸を張った。 エリザがいなくても、これくらい自分で書ける。そう思っていた。
「完璧……だと?」
副団長は呆れたように鼻を鳴らし、書類をデスクに叩きつけた。
「計算が合っていないぞ。装備品の単価と数量を掛けて、なぜ合計金額が減るんだ? お前の隊は錬金術でも使っているのか?」
「えっ?」
「それに、この漢字。『巡回』が『巡悔』になっているぞ。何を悔いているんだ? さらに、書式が三年前の古いもののままだ。規定が変わったのを知らんのか?」
「そ、それは……い、いつも通りに書いたつもりで……」
カイルは冷や汗を流した。 いつも通り。 そう、彼は「いつも通り」の内容を口頭でエリザに伝え、エリザがそれを清書していたのだ。 エリザは、計算ミスを修正し、誤字を正し、最新の書式に合わせて書類を作成してくれていた。カイルが気づかないうちに。
「……カイル。お前、今までは非常に正確で読みやすい書類を出していたじゃないか。一体どうしたんだ?」
「あ、あの、今日は少し体調が……」
「体調のせいで計算ができなくなるのか? ……まあいい。書き直せ。今日中にな」
突き返された書類の山。 カイルは半泣きでデスクに向かったが、地獄はそこからだった。
インク壺を倒して制服を汚し(いつもはエリザが染み抜きセットを持たせてくれていた)。 羽ペンの先が潰れて文字が滲み(エリザが削っておいてくれていた)。 過去の資料を探そうにも、ファイリングの法則がわからず倉庫で迷子になり(エリザが色分けして整理していた)。
結局、その日の残業は深夜にまで及んだ。 疲労困憊で帰宅したカイルを待っていたのは、散らかり放題の新居(マリアのために借りたアパート)だった。
「おかえりなさーい、カイル様ぁ」
マリアがソファに寝転がったまま、手を振った。 テーブルの上には、食べかけの菓子の袋や、飲みかけのカップが散乱している。 床には脱ぎ捨てられたドレスや靴下が転がっていた。
「……マリア。これは、どういうことだ?」
「え? 何が?」
「部屋が汚すぎるだろう。片付けないのか?」
「だってぇ、私、片付けなんてやったことないもん。お姉様かメイドがやってくれるしぃ」
マリアは悪びれもせずに言った。
「それに、お腹すいたぁ。カイル様、何か作ってよ。私、オムレツが食べたいな」
「は? 僕も仕事で疲れているんだぞ! 君が作ればいいじゃないか!」
「やったことないもん! 火傷したらどうするの!? カイル様は私を傷つける気!?」
マリアがヒステリックに叫び出す。 カイルは頭を抱えた。 エリザなら。 エリザなら、僕が帰る頃には温かい食事を用意し、お風呂を沸かし、着替えを準備して待っていてくれた。 「お疲れ様です、カイル様」という、あの静かな声が、今は狂おしいほど恋しかった。
そんな日々が三日続き、カイルの精神は限界を迎えていた。 そこへ、悪魔の囁き――フェルゼン伯爵からの呼び出しがあったのだ。
『カイル君。どうやら君も困っているようだね?』
伯爵は、やつれたカイルを見てニヤリと笑った。
『実は、我が家もエリザがいなくなって少しばかり不便をしていてね。……どうだ、一緒にエリザを迎えに行かないか?』
『む、迎えに……ですか?』
『ああ。あいつも今頃、辺境の寒さと貧しさに泣いているはずだ。我々が迎えに行けば、泣いて感謝して戻ってくるだろう。そうすれば……』
伯爵は声を潜めた。
『君の書類仕事も、マリアの世話も、全部あいつにやらせればいい。君はマリアと愛を育み、面倒なことはエリザに押し付ける。……元通りの幸せな生活だ。どうだね?』
それは、あまりにも身勝手で、残酷な提案だった。 しかし、思考能力が低下していたカイルにとって、それは「救いの光」に見えてしまったのだ。
「……行きます。エリザを連れ戻しましょう」
こうして、カイルはこの地獄の馬車ツアーに参加することになったのだった。
◇
【現在・馬車の中】
回想から戻ったカイルは、改めて目の前のマリアを見た。 相変わらず「暑い」「喉乾いた」「揺れる」と文句を言い続けている。
「……なあ、マリア」
カイルは低い声で言った。
「少し、黙ってくれないか」
「え?」
「君の声を聞いていると、頭が割れそうなんだ」
一瞬の静寂。 マリアの顔が、驚愕から怒りへとみるみる赤く染まっていく。
「ひ、酷い! カイル様、私にそんな口を利くなんて! 私がどれだけ辛い思いをしてここまでついてきてあげたと思ってるの!?」
「ついてきてあげた? 君が『お父様たちだけ行くなんてズルい! 私も行く!』って勝手に乗り込んだんじゃないか!」
「だって! お姉様だけ楽してるなんて許せないもの! 私より不幸じゃなきゃ嫌なのよ!」
マリアの本音が爆発した。 そう、彼女の行動原理は常に「エリザへの対抗心」と「自分が一番愛されたい」という幼児的な欲望だけだ。
「……君は、本当に最低だな」
カイルは吐き捨てるように言った。
「最低ですって!? カイル様こそ、無能じゃない! お姉様がいないと書類一枚書けないくせに! 騎士団で噂になってるわよ、『カイルはエリザの操り人形だった』って!」
「なんだと……!?」
図星を突かれたカイルの顔が引きつる。
「やめなさい二人とも!」
見かねたカテリーナが割って入った。
「仲間割れしている場合じゃないわよ! もうすぐ辺境伯領に入るのよ。エリザを説得するためには、私たちが『仲の良い家族』を演じなきゃいけないんだから!」
「ふん、説得など必要ない」
伯爵が不機嫌そうに言った。
「あいつは私の娘だ。父親の命令には逆らえん。……それに、手紙には返事がなかったが、内心では助けを待っているに決まっている」
伯爵は懐から取り出した、固くなった黒パンをかじりながらニヤリと笑った。
「想像してみろ。極寒の地で、食べるものもなく、ボロ布を纏って震えているエリザを。そこに我々が現れるんだ。あいつはきっと、地面に額を擦り付けて『連れて帰ってください』と懇願するだろう」
その言葉に、マリアの機嫌が少し直った。
「そうね……。お姉様がボロボロになって、私の足元で泣いている姿……。うふふ、最高だわ。早く見たい!」
「僕も……彼女には悪いが、戻ってきてもらわないと困る。僕のキャリアのために」
カイルも自分に言い聞かせるように呟いた。 彼らは全員、自分たちの都合のいい妄想の中に逃げ込んでいた。 エリザが今、最高級のエステを受け、イケメン王子とデートし、カニを食べていることなど、知る由もなく。
「おっ、旦那様! 見えてきましたぜ!」
御者の声が弾んだ。 馬車が峠のトンネルを抜けたのだ。
「ほう、ようやくか!」
伯爵たちが窓に張り付く。
トンネルを抜けた瞬間。 彼らの目に飛び込んできたのは、予想していた「雪に閉ざされた不毛の大地」ではなかった。
「……は?」
伯爵の声が裏返った。
そこにあったのは、煌めく海。 咲き乱れる花々。 そして、活気に満ちた美しい街並みだった。
「な、なんだこれは……?」 「暖かい……? いえ、暑いくらいよ!」 「ここは本当に辺境なのか!? 道を間違えたんじゃないか!?」
車内はパニックになった。 しかし、街道沿いの看板には確かに『ようこそ、地上の楽園・フェルゼン辺境伯領へ』と書かれている。
「ら、楽園……だと?」
カイルが呆然と呟く。
馬車が進むにつれ、彼らはさらに驚愕することになる。 道行く人々が、皆、豊かで幸せそうな顔をしているのだ。 服装も洗練されている。 街路樹には果物が実り、どこからか音楽が聞こえてくる。
「お、美味しそうな匂いがする……」
マリアがお腹を鳴らした。 道端の屋台で、串焼きやトロピカルジュースが売られているのが見える。
「な、なんで……なんでこんなに栄えているのよ!?」
マリアが叫んだ。 彼女の予想では、ここは地獄のはずだった。 自分よりも不幸な姉を見るために来たのに。 これでは、まるで――。
「……もしや、エリザはここで、我々よりも良い暮らしをしているのでは?」
カテリーナが震える声で核心を突いた。
その瞬間、伯爵の目にギラリとした欲望の光が宿った。
「……そうか。親父(ギルバート辺境伯)のやつ、隠居してボケたと思っていたが、こんな隠し財産を持っていたとはな」
伯爵は舌なめずりをした。
「これは好都合だ。エリザを連れ戻すだけではない。この領地の『利権』も、少しばかり分けてもらおうじゃないか」
「そ、そうねあなた! 私たち、家族ですものね!」 「私も! この街で一番高い服を買わせるわ!」
彼らの思考は、瞬時に切り替わった。 「可哀想なエリザを救う」という建前から、「豊かなエリザに集(たか)る」という浅ましい本音へ。
「急げ御者! 屋敷へ向かえ! ご馳走が待っているぞ!」
馬車がスピードを上げる。 彼らはまだ知らない。 その屋敷には、魔物よりも恐ろしい『孫溺愛モンスター(祖父母)』と、国一番の権力を持つ『王子(彼氏)』が待ち構えていることを。
◇
一方その頃、フェルゼン辺境伯邸。
私はテラスで優雅にアフタヌーンティーを楽しんでいた。 今日のメニューは、マンゴーのタルトと、冷たいハーブティー。 対面にはレオンが座り、いつものように穏やかな笑顔で私を見つめている。
「……ん? なんか、寒気が」
私はふと、肩を震わせた。 南国の暖かい風が吹いているはずなのに、背筋に冷たいものが走ったのだ。
「どうした? 風邪か?」
レオンが心配そうに身を乗り出す。
「ううん、違うの。なんかこう……嫌なものが近づいてきているような、粘着質な気配というか……」
「虫かな? 俺が追い払おうか」
「ふふ、ありがとう。でも大丈夫。……多分、気のせいね」
私は気を取り直して、タルトを一口食べた。 「美味しい! ……そういえばレオン、今日はこれからどうするの?」
「ああ。実は、祖父殿(ギルバート卿)に呼ばれているんだ。『男同士の話がある』そうでね」
「おじい様と? 珍しいわね。いじめられないといいけど」
「ははは、大丈夫さ。……俺も、彼に話したいことがあったから丁度いい」
レオンは意味深に微笑んだ。 その瞳の奥には、強い意志の光が宿っている。
「話って?」
「……内緒だ。まだ、君には秘密にしておきたい」
「えー、ずるい」
私が頬を膨らませると、彼は楽しそうに笑って、私の頭をポンポンと撫でた。
「すぐにわかるさ。……君が驚く顔を見るのが楽しみだよ」
その時。 門番が慌てた様子で走ってきた。
「え、エリザ様! 大変です!」
「どうしたの? そんなに慌てて」
「き、来ました! 王都からの馬車が!」
「馬車?」
「はい! ボロボロの馬車に乗った、あ、怪しい集団が……『ここがエリザの家か! 入れろ!』と門の前で騒いでおります! 自称・フェルゼン伯爵と名乗っておりますが……あまりに身なりが汚いので、浮浪者かと……」
「…………あ」
私は察した。 先ほどの寒気の正体は、これだったのか。 (本当に来ちゃったんだ……)
私は呆れると同時に、少しワクワクしてしまった。 だって、今の私はもう、かつてのように彼らに怯えるだけの弱い娘ではない。 後ろには最強の祖父母と、頼もしい彼氏(仮)がいる。
これは、絶好の「ざまぁ」の機会ではないか。
「通してあげて」
私はニッコリと笑って言った。
「遠路はるばる、地獄からお客様がいらっしゃったわ。……最高のおもてなしをしてあげなくちゃね」
「エリザ……?」
レオンが少し引くほどの「悪女スマイル」を浮かべていた自覚はある。 でも、止められない。 さあ、ショータイムの始まりよ。
次回、ついに直接対決! 勘違い家族vs最強リゾート軍団。 祖父の物理攻撃(?)が炸裂するか、それともレオンの権力が火を吹くか。
――次回、『祖母の秘密の部屋。そこには私のアクスタ……ではなく、肖像画がびっしり飾られていました』。 ……おっと、その前に、少しだけほっこりエピソード(祖母の重すぎる愛)を挟んでから、地獄の断罪パーティーへ移行しましょう。嵐の前の静けさというやつですね。
車輪が石に乗り上げるたびに、激しい衝撃が全身を襲う。 お尻の皮はとっくに剥け、腰は悲鳴を上げ、頭は天井に何度もぶつかっていた。
「きゃああっ! もう! 運転手! もっと丁寧に運転しなさいよ!」
狭い車内に、マリアの金切り声が響き渡った。 彼女のピンク色のドレスは、三日間の旅路ですっかり薄汚れ、自慢の巻き髪も湿気と汗でペッタリと額に張り付いている。
「無理をおっしゃらないでください! この馬車、サスペンションが壊れてるんですよ!」
御者台から、雇われ御者の投げやりな声が返ってくる。 安い賃金で雇った三流の御者だ。主への敬意など持ち合わせているはずもない。
「うるさい! 言い訳をするな! これだから下民は!」
フェルゼン伯爵が怒鳴るが、その声には以前のような張りがない。 空腹と疲労で頬はこけ、目の下にはどす黒い隈(クマ)ができている。 隣に座る継母のカテリーナも、もはや化粧を直す気力もないのか、能面のような顔で窓の外を流れる荒野を見つめていた。
そして。 向かいの席に座るカイル――エリザの元婚約者であり、次期騎士団長候補(自称)の彼もまた、死んだ魚のような目をしていた。
(……どうして、こうなったんだ)
カイルは揺れる視界の中で、自問自答を繰り返していた。 本来なら今頃、自分はマリアと共に公爵家主催の夜会に出席し、美男美女のカップルとして羨望の眼差しを浴びているはずだった。 あるいは、騎士団の執務室で優雅に書類にサインをし、部下たちから「さすがカイル様」と称賛されているはずだった。
それがどうだ。 今は、汗とカビの臭いが充満するボロ馬車に詰め込まれ、辺境の地へとドナドナされている。 しかも、愛しいはずのマリアは、出発してからというもの、文句と呪詛しか吐いていない。
「ねえカイル様! 聞いてるの!? 私の足、むくんじゃったのよ! マッサージしてよ!」
マリアが、汚れた靴をカイルの膝の上に放り出した。 以前なら「可愛いマリアのお願いなら」と喜んで跪いただろう。 だが今は、そのふくらはぎを見るだけで吐き気がした。
「……悪いが、僕も疲れているんだ。自分でやってくれ」
「はあ!? 何それ! 愛が冷めたの!? 信じられない! お姉様なら、私が『疲れた』って言えばすぐにお茶を淹れてくれたのに!」
まただ。 マリアは何かにつけて「お姉様なら」と言う。 自分からエリザを追い出したくせに、困った時だけエリザの影を求める。 そしてそれは、カイル自身も同じだった。
カイルは深く溜め息をつき、目を閉じた。 瞼の裏に浮かぶのは、一週間前の王都での悪夢のような出来事だ。
◇
【一週間前・王都】
エリザを追放した翌日。 カイルは意気揚々と騎士団へ出勤した。 邪魔な婚約者(エリザ)はいなくなり、愛するマリアとの婚約も内定した。人生の絶頂期だと思っていた。
しかし、その幻想は午前中のうちに崩れ去った。
「おい、カイル。この書類は何だ?」
上官である騎士団副団長が、カイルの提出した『月次報告書』を指先で摘み上げて言った。 汚いものを見るような目だった。
「はっ! 今月の巡回記録と、装備品の補充申請です! 完璧に仕上げました!」
カイルは胸を張った。 エリザがいなくても、これくらい自分で書ける。そう思っていた。
「完璧……だと?」
副団長は呆れたように鼻を鳴らし、書類をデスクに叩きつけた。
「計算が合っていないぞ。装備品の単価と数量を掛けて、なぜ合計金額が減るんだ? お前の隊は錬金術でも使っているのか?」
「えっ?」
「それに、この漢字。『巡回』が『巡悔』になっているぞ。何を悔いているんだ? さらに、書式が三年前の古いもののままだ。規定が変わったのを知らんのか?」
「そ、それは……い、いつも通りに書いたつもりで……」
カイルは冷や汗を流した。 いつも通り。 そう、彼は「いつも通り」の内容を口頭でエリザに伝え、エリザがそれを清書していたのだ。 エリザは、計算ミスを修正し、誤字を正し、最新の書式に合わせて書類を作成してくれていた。カイルが気づかないうちに。
「……カイル。お前、今までは非常に正確で読みやすい書類を出していたじゃないか。一体どうしたんだ?」
「あ、あの、今日は少し体調が……」
「体調のせいで計算ができなくなるのか? ……まあいい。書き直せ。今日中にな」
突き返された書類の山。 カイルは半泣きでデスクに向かったが、地獄はそこからだった。
インク壺を倒して制服を汚し(いつもはエリザが染み抜きセットを持たせてくれていた)。 羽ペンの先が潰れて文字が滲み(エリザが削っておいてくれていた)。 過去の資料を探そうにも、ファイリングの法則がわからず倉庫で迷子になり(エリザが色分けして整理していた)。
結局、その日の残業は深夜にまで及んだ。 疲労困憊で帰宅したカイルを待っていたのは、散らかり放題の新居(マリアのために借りたアパート)だった。
「おかえりなさーい、カイル様ぁ」
マリアがソファに寝転がったまま、手を振った。 テーブルの上には、食べかけの菓子の袋や、飲みかけのカップが散乱している。 床には脱ぎ捨てられたドレスや靴下が転がっていた。
「……マリア。これは、どういうことだ?」
「え? 何が?」
「部屋が汚すぎるだろう。片付けないのか?」
「だってぇ、私、片付けなんてやったことないもん。お姉様かメイドがやってくれるしぃ」
マリアは悪びれもせずに言った。
「それに、お腹すいたぁ。カイル様、何か作ってよ。私、オムレツが食べたいな」
「は? 僕も仕事で疲れているんだぞ! 君が作ればいいじゃないか!」
「やったことないもん! 火傷したらどうするの!? カイル様は私を傷つける気!?」
マリアがヒステリックに叫び出す。 カイルは頭を抱えた。 エリザなら。 エリザなら、僕が帰る頃には温かい食事を用意し、お風呂を沸かし、着替えを準備して待っていてくれた。 「お疲れ様です、カイル様」という、あの静かな声が、今は狂おしいほど恋しかった。
そんな日々が三日続き、カイルの精神は限界を迎えていた。 そこへ、悪魔の囁き――フェルゼン伯爵からの呼び出しがあったのだ。
『カイル君。どうやら君も困っているようだね?』
伯爵は、やつれたカイルを見てニヤリと笑った。
『実は、我が家もエリザがいなくなって少しばかり不便をしていてね。……どうだ、一緒にエリザを迎えに行かないか?』
『む、迎えに……ですか?』
『ああ。あいつも今頃、辺境の寒さと貧しさに泣いているはずだ。我々が迎えに行けば、泣いて感謝して戻ってくるだろう。そうすれば……』
伯爵は声を潜めた。
『君の書類仕事も、マリアの世話も、全部あいつにやらせればいい。君はマリアと愛を育み、面倒なことはエリザに押し付ける。……元通りの幸せな生活だ。どうだね?』
それは、あまりにも身勝手で、残酷な提案だった。 しかし、思考能力が低下していたカイルにとって、それは「救いの光」に見えてしまったのだ。
「……行きます。エリザを連れ戻しましょう」
こうして、カイルはこの地獄の馬車ツアーに参加することになったのだった。
◇
【現在・馬車の中】
回想から戻ったカイルは、改めて目の前のマリアを見た。 相変わらず「暑い」「喉乾いた」「揺れる」と文句を言い続けている。
「……なあ、マリア」
カイルは低い声で言った。
「少し、黙ってくれないか」
「え?」
「君の声を聞いていると、頭が割れそうなんだ」
一瞬の静寂。 マリアの顔が、驚愕から怒りへとみるみる赤く染まっていく。
「ひ、酷い! カイル様、私にそんな口を利くなんて! 私がどれだけ辛い思いをしてここまでついてきてあげたと思ってるの!?」
「ついてきてあげた? 君が『お父様たちだけ行くなんてズルい! 私も行く!』って勝手に乗り込んだんじゃないか!」
「だって! お姉様だけ楽してるなんて許せないもの! 私より不幸じゃなきゃ嫌なのよ!」
マリアの本音が爆発した。 そう、彼女の行動原理は常に「エリザへの対抗心」と「自分が一番愛されたい」という幼児的な欲望だけだ。
「……君は、本当に最低だな」
カイルは吐き捨てるように言った。
「最低ですって!? カイル様こそ、無能じゃない! お姉様がいないと書類一枚書けないくせに! 騎士団で噂になってるわよ、『カイルはエリザの操り人形だった』って!」
「なんだと……!?」
図星を突かれたカイルの顔が引きつる。
「やめなさい二人とも!」
見かねたカテリーナが割って入った。
「仲間割れしている場合じゃないわよ! もうすぐ辺境伯領に入るのよ。エリザを説得するためには、私たちが『仲の良い家族』を演じなきゃいけないんだから!」
「ふん、説得など必要ない」
伯爵が不機嫌そうに言った。
「あいつは私の娘だ。父親の命令には逆らえん。……それに、手紙には返事がなかったが、内心では助けを待っているに決まっている」
伯爵は懐から取り出した、固くなった黒パンをかじりながらニヤリと笑った。
「想像してみろ。極寒の地で、食べるものもなく、ボロ布を纏って震えているエリザを。そこに我々が現れるんだ。あいつはきっと、地面に額を擦り付けて『連れて帰ってください』と懇願するだろう」
その言葉に、マリアの機嫌が少し直った。
「そうね……。お姉様がボロボロになって、私の足元で泣いている姿……。うふふ、最高だわ。早く見たい!」
「僕も……彼女には悪いが、戻ってきてもらわないと困る。僕のキャリアのために」
カイルも自分に言い聞かせるように呟いた。 彼らは全員、自分たちの都合のいい妄想の中に逃げ込んでいた。 エリザが今、最高級のエステを受け、イケメン王子とデートし、カニを食べていることなど、知る由もなく。
「おっ、旦那様! 見えてきましたぜ!」
御者の声が弾んだ。 馬車が峠のトンネルを抜けたのだ。
「ほう、ようやくか!」
伯爵たちが窓に張り付く。
トンネルを抜けた瞬間。 彼らの目に飛び込んできたのは、予想していた「雪に閉ざされた不毛の大地」ではなかった。
「……は?」
伯爵の声が裏返った。
そこにあったのは、煌めく海。 咲き乱れる花々。 そして、活気に満ちた美しい街並みだった。
「な、なんだこれは……?」 「暖かい……? いえ、暑いくらいよ!」 「ここは本当に辺境なのか!? 道を間違えたんじゃないか!?」
車内はパニックになった。 しかし、街道沿いの看板には確かに『ようこそ、地上の楽園・フェルゼン辺境伯領へ』と書かれている。
「ら、楽園……だと?」
カイルが呆然と呟く。
馬車が進むにつれ、彼らはさらに驚愕することになる。 道行く人々が、皆、豊かで幸せそうな顔をしているのだ。 服装も洗練されている。 街路樹には果物が実り、どこからか音楽が聞こえてくる。
「お、美味しそうな匂いがする……」
マリアがお腹を鳴らした。 道端の屋台で、串焼きやトロピカルジュースが売られているのが見える。
「な、なんで……なんでこんなに栄えているのよ!?」
マリアが叫んだ。 彼女の予想では、ここは地獄のはずだった。 自分よりも不幸な姉を見るために来たのに。 これでは、まるで――。
「……もしや、エリザはここで、我々よりも良い暮らしをしているのでは?」
カテリーナが震える声で核心を突いた。
その瞬間、伯爵の目にギラリとした欲望の光が宿った。
「……そうか。親父(ギルバート辺境伯)のやつ、隠居してボケたと思っていたが、こんな隠し財産を持っていたとはな」
伯爵は舌なめずりをした。
「これは好都合だ。エリザを連れ戻すだけではない。この領地の『利権』も、少しばかり分けてもらおうじゃないか」
「そ、そうねあなた! 私たち、家族ですものね!」 「私も! この街で一番高い服を買わせるわ!」
彼らの思考は、瞬時に切り替わった。 「可哀想なエリザを救う」という建前から、「豊かなエリザに集(たか)る」という浅ましい本音へ。
「急げ御者! 屋敷へ向かえ! ご馳走が待っているぞ!」
馬車がスピードを上げる。 彼らはまだ知らない。 その屋敷には、魔物よりも恐ろしい『孫溺愛モンスター(祖父母)』と、国一番の権力を持つ『王子(彼氏)』が待ち構えていることを。
◇
一方その頃、フェルゼン辺境伯邸。
私はテラスで優雅にアフタヌーンティーを楽しんでいた。 今日のメニューは、マンゴーのタルトと、冷たいハーブティー。 対面にはレオンが座り、いつものように穏やかな笑顔で私を見つめている。
「……ん? なんか、寒気が」
私はふと、肩を震わせた。 南国の暖かい風が吹いているはずなのに、背筋に冷たいものが走ったのだ。
「どうした? 風邪か?」
レオンが心配そうに身を乗り出す。
「ううん、違うの。なんかこう……嫌なものが近づいてきているような、粘着質な気配というか……」
「虫かな? 俺が追い払おうか」
「ふふ、ありがとう。でも大丈夫。……多分、気のせいね」
私は気を取り直して、タルトを一口食べた。 「美味しい! ……そういえばレオン、今日はこれからどうするの?」
「ああ。実は、祖父殿(ギルバート卿)に呼ばれているんだ。『男同士の話がある』そうでね」
「おじい様と? 珍しいわね。いじめられないといいけど」
「ははは、大丈夫さ。……俺も、彼に話したいことがあったから丁度いい」
レオンは意味深に微笑んだ。 その瞳の奥には、強い意志の光が宿っている。
「話って?」
「……内緒だ。まだ、君には秘密にしておきたい」
「えー、ずるい」
私が頬を膨らませると、彼は楽しそうに笑って、私の頭をポンポンと撫でた。
「すぐにわかるさ。……君が驚く顔を見るのが楽しみだよ」
その時。 門番が慌てた様子で走ってきた。
「え、エリザ様! 大変です!」
「どうしたの? そんなに慌てて」
「き、来ました! 王都からの馬車が!」
「馬車?」
「はい! ボロボロの馬車に乗った、あ、怪しい集団が……『ここがエリザの家か! 入れろ!』と門の前で騒いでおります! 自称・フェルゼン伯爵と名乗っておりますが……あまりに身なりが汚いので、浮浪者かと……」
「…………あ」
私は察した。 先ほどの寒気の正体は、これだったのか。 (本当に来ちゃったんだ……)
私は呆れると同時に、少しワクワクしてしまった。 だって、今の私はもう、かつてのように彼らに怯えるだけの弱い娘ではない。 後ろには最強の祖父母と、頼もしい彼氏(仮)がいる。
これは、絶好の「ざまぁ」の機会ではないか。
「通してあげて」
私はニッコリと笑って言った。
「遠路はるばる、地獄からお客様がいらっしゃったわ。……最高のおもてなしをしてあげなくちゃね」
「エリザ……?」
レオンが少し引くほどの「悪女スマイル」を浮かべていた自覚はある。 でも、止められない。 さあ、ショータイムの始まりよ。
次回、ついに直接対決! 勘違い家族vs最強リゾート軍団。 祖父の物理攻撃(?)が炸裂するか、それともレオンの権力が火を吹くか。
――次回、『祖母の秘密の部屋。そこには私のアクスタ……ではなく、肖像画がびっしり飾られていました』。 ……おっと、その前に、少しだけほっこりエピソード(祖母の重すぎる愛)を挟んでから、地獄の断罪パーティーへ移行しましょう。嵐の前の静けさというやつですね。
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