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-鳴り止まない蒼き残響(レゾナンス)-
Episode8 -7月26日-
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今日は、待ちに待った海に行く日である。水着選びの時と同様、双葉は私よりも早く起きていた。
一応、予定としては朝の9時にバス停から近い公園に集合して、バスに乗り、そのまま海に行くという予定だ。
私は、いつも通りベッドから体を起こし、壁にかけてある時計を確認する。
視界が悪く、あまり見えない。目を擦って見てみると……。
『午前8時25分』
8時…25分…。集合時間…9時……。
蒼葉「嘘でしょ!?寝坊した!!」
私は、急いでベッドから抜け出し、パジャマを脱ぎ捨てた。ゆっくり服を着ている暇なんかないと思い、Tシャツと半ズボンで済ませた。
蒼葉(どうせ水着に着替えるんだからこれくらいでいい…!)
荷物は昨日の夜の内に、準備しておいたおかげで、なんとかなった。
時間がない中、軽くでもリュックの中の荷物を確認する。
水着、日焼け止め、タオル、着替え、帽子、その他諸々……。よし、ちゃんと入っている。
私は、そのまま走ってリビングに向かった。
リビングに着くと、双葉はもう既に準備万端の状態で、ソファに座って、スマホを触って、私のことを待っていた。
私の寝起きの姿に気づくと、双葉は驚いていた。
双葉「お姉ちゃん!?早くして!急いで!」
蒼葉「わかってるよ双葉!私今急いでるの!」
私は、急いで食卓に座り、朝ご飯を食べた。
双葉「もう、お姉ちゃん! だから言ったのに!」
双葉の怒号に近い催促を背中に受けながら、私は喉に朝食を詰め込み、洗面所へ駆け込んで最短記録で顔を洗った。
鏡に映る自分の髪は少し跳ねていたけれど、直している余裕なんて一秒もない。
蒼葉「ごめん双葉、行こうっ!」
靴を引っかけ、家を飛び出す。外はすでに、肌を焦がすような日差しが降り注いでいた。
「集合時間に間に合わない……!」という焦燥感と、容赦ない猛暑が体力を奪っていく。全力で走る私と、余裕しゃくしゃくで並走する双葉。
公園の入り口が見えたとき、時計の針はちょうど午前九時を指していた。
蒼葉「……はぁっ、はぁっ……! ごめん、みんな、待たせた……っ!」
膝に手をつき、肩で息をする私の前には、すでに三人の姿があった。
冬姫、蛍、そして楓くん。
冬姫は薄手の白いサマーカーディガンを羽織り、蛍ちゃんはスポーティーなTシャツ姿。二人ともラフながらも、どこか夏のお出かけらしい清潔感がある。
楓くんは、シンプルなネイビーのポロシャツにハーフパンツという格好で、木陰に寄りかかっていた。
冬姫「あーおーは! 遅いよぉ、溶けちゃうかと思った!」
蛍「おはよう、蒼葉さん。双葉、お疲れ様。大変だったね」
楓「……おはよう。まあ、ギリギリ間に合ったからいいよ。顔、真っ赤だぞ」
楓くんの落ち着いた声に、少しだけ心臓が跳ねた。走ったせいだと思いたいけれど、彼の視線が自分に向けられているだけで、体温がさらに上がる気がした。
まもなく、海行きのバスが大きな音を立ててバス停に滑り込んできた。
冷房の効いた車内へ逃げ込むようにして乗り込む。
座席は、一番後ろの広い席に私と冬姫、そして楓くん。そのすぐ前の席に、仲良く並んで双葉と蛍ちゃんが座る形になった。
蒼葉「……ふぅ。涼しい……」
ようやく一息ついた、その時だった。冷房で体が冷やされたせいか、あるいは朝の慌ただしさで失念していた「体のサイン」が、突如として主張を始めた。
蒼葉(……あ。嘘、でしょ……?)
下腹部に訪れる、ツンとした違和感。朝、一分一秒を争う戦いの中で、私は一番重要なルーティンを飛ばしていたことに気づいた。
そう、トイレだ。
蒼葉(今……? 目的地まであと四十分はあるのに……!?)
一度意識してしまうと、バスの振動がダイレクトに伝わってくる。
左隣には冬姫が楽しそうに窓の外を指差し、右隣には楓くんが静かにスマホを眺めている。
この二人を退かせて「トイレに行きたいのでバスを降ります」なんて、口が裂けても言えない。
蒼葉は青ざめた顔で、じっと耐えるように膝の上で拳を握りしめた。
窓の外を流れる蒼い夏の景色は綺麗だったけれど、今の私の頭の中は、別の意味での「死活問題」で埋め尽くされていた。
すると、楓くんが私の顔色を見て、心配そうにこちらを見た。
楓「蒼葉…大丈夫か…?顔色悪いぞ」
蒼葉「ひゃっ!?あっ、えっと……」
冬姫「ん?蒼葉、もしかして酔った?」
一番後ろの座席。酔ったと言ったほうが自然だろう。本当はトイレを我慢しているのに…。
蒼葉「……うん…ちょっとね…!」
蒼葉(早く海に着いてよぉ……!)
私は、バスの中で必死に耐え続けた。
-✳-
海の近くのバス停に着き、私は急いでトイレに駆け込んだ。そのおかげで、なんとか防ぐことはできた。
そして、トイレから戻ると、双葉、冬姫、楓くん、蛍ちゃんは私のことを見つめていた。
何してるんだこの人と思っているのか、或いは急にトイレに駆け込んだから心配しているのか、どっちなのか分からなかった。
蒼葉「ごめんね!みんな…!」
楓「蒼葉、大丈夫だったか?吐いちゃった?」
蒼葉「…ううん、平気だよ」
楓「そうか、なら良かった。ほら、海行くよ」
蒼葉「う、うん…!」
私達は、暑い中、ビーチへと向かった。
-✳-
蒼葉「あっついね……」
双葉「うん…」
冬姫「蒼葉~海まだ~?」
蒼葉「あとちょっとだから頑張って!」
楓「すまん…俺…限界…うぅ…」
最初に限界を迎えたのは、楓くんだった。
蒼葉「楓くん!頑張って!」
双葉「お姉ちゃん…私も…暑くて…」
蒼葉「もぉ~2人とも…頑張って!」
蒼葉「大丈夫だよ、もうすぐだから」
私は、双葉に手を差し伸べた。
双葉「お姉ちゃん……」
冬姫「ほら!楓くんも立ってよ!私早く海に入りたいの!」
楓「……うぅ……」
楓くんは、呻き声を出しながらも、冬姫から差し伸べられた手を掴んで、なんとか立つことができていた。
蒼葉(あれ…私がやりたかった……)
私が「ずるい」と言う顔をしながら、冬姫をじっと見つめていると、楓くんが反応してしまった。
楓「蒼葉?やっぱり体調悪かったのか?」
蒼葉「ふぇっ…!?あっ、いや…その……」
冬姫「しょうがないよ楓くん。蒼葉照れてるんだから」
私は、顔を赤くしながら前を向いて、俯きながら歩き始めた。
結局、唯一何もせずに歩いていたのは、蛍ちゃんだけだった。
-✳-
そして、やっと目的地のビーチに着いた。私含め、蛍ちゃん以外の全員は、ヘトヘトの状態だった。
そして、ビーチの近くの更衣室に向かった。
更衣室の重い扉を開けると、そこは独特の湿気と日焼け止めの香りに包まれていた。
私と双葉、冬姫と蛍ちゃんの四人は、それぞれの荷物を抱えて狭い個室へと分かれた。
私は、先日モールで慎重に選んだ水着を袋から取り出した。
パステルブルーのセパレート。胸元と腰回りには、ほどよいボリュームのフリルがあしらわれている。
いざ着るとなると、やはり心臓がうるさい。露出が少ないとはいえ、楓くんにこの姿を見られるのだと思うと、更衣室の小さな鏡を見るのさえ気恥ずかしかった。
双葉「お姉ちゃーん、着替えた? 私、先に外出てるよ!」
双葉の弾んだ声が外から聞こえてくる。私は「あ、ちょっと待って……」と慌ててサンダルを履き、リュックを抱えて更衣室を飛び出した。
そこには、一足先に着替えを終えた三人が待っていた。
双葉は白とピンクのチェック柄で、まるでアイドルのような愛らしさだった。
冬姫の水着は、彼女の透き通るような肌によく映える、可憐でありながらどこか目を引く華やかなデザインだった。
冬姫「わぁ……蒼葉、すっごく可愛い! やっぱりその色にして正解だったね!」
冬姫が私の手を取って、くるりと回した。
蒼葉「……ありがとう、冬姫も似合ってるよ。……あ、あれ? 楓くんは?」
私が辺りを見渡すと、少し離れたパラソルの影で、すでに準備を終えた楓くんが立っていた。
海パン姿にラッシュガードを羽織った彼は、眩しそうに海を見つめている。
私たちが近づくと、彼はゆっくりとこちらを振り返った。
楓「......お。着替え、終わったか」
楓くんの視線が、一瞬だけ私に止まった。ほんの数秒のことだったけれど、その瞳に私が映っているという事実だけで、顔に熱が昇るのがわかった。
冬姫「ねぇねぇ楓くん、どうかな? 蒼葉の水着姿、感想は!?」
冬姫が茶化すように楓くんの顔を覗き込む。
楓「……似合ってるよ。派手すぎなくて、蒼葉らしいし」
無造作に放たれたその言葉に、私は「あ、ありがとう……」と俯くのが精一杯だった。
けれど、楓くんの耳の端がほんの少し赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
蛍「……さて、みんな。そろそろ行かないと、いい場所取られちゃうよ」
唯一、マイペースに麦わら帽子を被り直した蛍ちゃんが歩き出す。
私たちの前には、どこまでも広がる真っ青な海。波打ち際で跳ねる太陽の光と、遠くで聞こえる楽しげな歓声。
砂浜を踏みしめるたびに、サンダルの中に熱い砂が入り込んでくる。
夢の中の不気味な声も、お母さんとの冷え切った会話も、今は潮風が遠くへ運んでいってくれたような気がした。
蒼葉、双葉、冬姫、楓、蛍。
この五人で過ごす、一生に一度の「夏」が、今ようやく本当の意味で始まったのだった。
-✳-
双葉と蛍ちゃんは、一目散に海に駆け込んでいった。冬姫は、クールそうな感じで、「子供だな」と言いたそうに、パラソルの下で、双葉と蛍ちゃんを見ていた。
私もパラソルの下で、燥ぐ双葉と蛍ちゃんを見守ることにした。
双葉「えいっ!」
蛍「きゃっ!もぉ!双葉ちゃんやったな~!」
双葉「きゃぁっ!」
双葉と蛍ちゃんは、お互い水をかけあって遊んでいた。更に、砂のお城を作っていた。
すると、双葉と蛍ちゃんが、パラソルの方に来て、とある提案をしてきた。
双葉「ねぇお姉ちゃん!一緒にビーチバレーしようよ!」
蒼葉「えぇ…私はいいよ…日焼けするの嫌だし…」
双葉「もぉ!それだと水着買った意味ないじゃん!」
蒼葉「うっ…!確かに……」
冬姫「まぁまぁ蒼葉、せっかくなんだし行ってきなよ。日焼け止め塗ってあげるから!」
私は、仕方なく冬姫に背中を向けた。そして、不機嫌そうな顔で、隣の楓くんを見つめていた。
冬姫「あれれぇ~?もしかして楓くんに塗って欲しかったの?」
冬姫がそう言った瞬間、隣にいた楓くんがこちらを向いてきた。
私は一気に、恥ずかしくなった。
蒼葉「うっ…うるさいわね…!!」
冬姫の言っていることは、まさに図星だった。本当は楓くんに塗ってもらいたい。でも、そんな事を冬姫の前で言える訳がない。
そして、少し経って…。
冬姫「はい、塗り終わったよ」
蒼葉「ふぅ……ありがと冬姫…」
恥ずかしさはまだ多少残っていたが、日焼け止めを塗ってくれた冬姫には感謝している。
私は、立ち上がって、ビーチバレーに参加した。
ビーチバレーとは言っても、ガチの試合のような感じではない。
試合前の練習のような感じのことしかしない。
蛍「蒼葉さん!そっちいきましたよ!」
蒼葉「よぉし!えいっ!」
双葉「ナイスお姉ちゃん!蛍ちゃん!」
蛍「行きますよぉ…!って、きゃっ!」
蛍ちゃんのボールは、思わぬ方向に飛んでいった。その先は…冬姫の顔面だった。
蛍「お姉ちゃん避けて!!」
冬姫「…えっ…?……きゃぁぁっ!!」
そして、ボールは冬姫の顔面に直撃し、冬姫はその場で倒れてしまった。
蛍「お姉ちゃん大丈夫!?」
蛍ちゃんが泣きながら、冬姫の所へと走って行った。
冬姫「……うぅ…」
蛍「お姉ちゃん!お姉ちゃん…!!」
冬姫は、ちょっとずつ体を起こした。 そして、冬姫の目の前には大泣きした蛍ちゃんがいる。
冬姫「蛍?何でそんなに泣いてるの?」
蛍「…だって…!おっ…お姉ちゃんが…!」
そして、冬姫は微笑んで、蛍ちゃんを抱きしめて、そっと頭を撫でた。
冬姫「大丈夫だよ蛍。お姉ちゃん、それくらいで死んじゃったりしないから」
冬姫の抱擁の仕方は、まさに自分の子供を慰める小さなお母さんのようだった。
双葉「…ねぇお姉ちゃん!私にもあれやってよ!」
蒼葉「……まあ…後でね……」
双葉にバレないよう、私は楓くんの方をチラッと見た。
-✳-
蛍ちゃんのバレーボール騒動から少し経ち、双葉のお腹が鳴り始めた。
双葉「うぅ…お腹すいた…」
時刻は午前12時。そろそろお昼の時間だ。海の家が近くにあったので、そこで昼食を取った。
みんな同じ焼きそばを食べて、デザートにかき氷を食べた。
双葉は、かき氷を一気食いして、頭がキーンとなっていた。
冬姫「あはは!双葉ちゃん、焦りすぎだよ」
頭を抱えて悶絶する双葉を見て、冬姫が鈴を転がすような声で笑った。
双葉「だって、冷たくて美味しいんだもん……うぅ、まだ頭が痛い……」
涙目になりながらもスプーンを離さない双葉の姿は、まるで小さな子供のようで、見ているこちらの頬が緩んでしまう。
焼きそばのソースの香ばしい匂いと、かき氷の冷たさ。
海の家の、少しベタつくプラスチックの椅子。そんな何気ない「夏」の断片が、今はとても愛おしく感じられた。
楓「……蒼葉、お前のは?」
隣に座る楓くんが、私の手元を覗き込んできた。
蒼葉「え? あ、私のはレモンだよ。楓くんは、ブルーハワイ?」
楓「あぁ。……これ、食うと舌が真っ青になるんだよな」
そう言って、楓くんが少しだけ舌を出して見せた。確かに、鮮やかな青色に染まっている。
蒼葉「あはは、本当だ。」
あまりの無防備さに、心臓がまた小さく跳ねる。楓くんとの距離が、いつもよりずっと近く感じられるのは、開放的な海の空気のせいだろうか。
ふと視線を感じて横を見ると、蛍ちゃんが、溶けかかったイチゴ味のかき氷を静かに口に運びながら、私たちをじっと見つめていた。
蛍「……仲が良いのはいいことだけど。そろそろ行かないと、午後の部が始まるよ」
蛍ちゃんは、口元についたシロップを指先で拭いながら、どこか意味深な視線を一瞬だけ私に向けた。
冬姫「そうだね! 休憩終わり! よーし、次はあっちの深い方まで行ってみようよ!」
冬姫が立ち上がり、太陽に向かって大きく背伸びをする。
その背中に落ちる影が、一瞬だけ「蒼く」沈んだような気がして、私は思わず息を呑んだ。
蒼葉「……冬姫?」
冬姫「ん? どうしたの、蒼葉。早く行こ?」
振り返った冬姫は、相変わらず眩しいほどの笑顔だった。
見間違い。そう、ただの光の加減。今はこんなに幸せで、みんなで笑い合っているのだから。
私たちは空になった器を片付け、再び灼熱の砂浜へと足を踏み出した。
お腹がいっぱいになって、少しだけ眠たげな双葉の背中を追いかけながら、私は祈るような気持ちで青い空を見上げた。
-✳-
午後もたくさん遊んで、夕方になった。双葉、冬姫、蛍ちゃんの3人は、先程海の家にあった花火を買いに行った。
そして、楓くんと私は2人きりになった。
楓「3人が買いに行っている間、何しようか?」
蒼葉「……ねぇ楓くん、ちょっと付き合ってもらってもいい?」
そう言って、私が楓くんを連れて来たのは、人気の少ない海岸だった。
オレンジ色に焼けた空が、静かに夜の藍色に飲み込まれようとしていた。
賑やかだった双葉たちの声は遠く、今の二人の間にあるのは、寄せては返す波の音だけだ。潮風が、泳ぎ疲れた体に少しだけ冷たく触れる。
蒼葉は、隣に立つ楓を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、最後の夕陽が反射して、零れそうなほどキラキラと輝いている。
蒼葉「ねぇ楓くん、小さい時はさ、私が泣いて、楓くんが愛おしそうに頭を撫でてくれてたよね」
不意に溢れ出した思い出。楓は一瞬驚いたように瞬きをし、それから目を細めて遠い海を見つめた。
楓「あの時か……本当に懐かしいな……」
楓の声は、潮騒に溶けるように優しかった。だが、蒼葉の決意は揺るがない。彼女は一歩、砂を踏みしめて距離を詰める。
蒼葉「私、前みたいにしてほしい」
楓「……えっ……?」
戸惑う楓の瞳に、蒼葉の真剣な眼差しが突き刺さる。
蒼葉「……抱きしめてよ。あの頃みたいに」
楓「……蒼葉……お前……」
楓が絶句する。その声は、驚きと、ずっと隠してきた熱い感情が混ざり合ったように震えていた。蒼葉は、さらに言葉を重ねる。
蒼葉「……人見知りで恥ずかしい私はいい加減卒業。楓くんもそうして欲しいでしょ?」
楓「……蒼葉……」
楓は、彼女を「幼馴染」という枠に閉じ込めていた自分に気づかされる。蒼葉は、もう守られるだけの子供ではない。
彼女は震える声を振り絞るように、最後のお願いを口にした。
蒼葉「だからさ、今はこのままでいさせて」
蒼葉「お願い」
その瞬間、楓の腕がゆっくりと、だが確かな意志を持って動いた。
壊れ物を扱うような慎重さで、けれど二度と離さないという強さで、彼女をその胸に抱き寄せる。
蒼葉の耳に届くのは、波の音よりもずっと速く、激しく打つ楓の心音だった。
-✳-
抱きしめてくれた余韻が残っている中、双葉、冬姫、蛍ちゃんの3人が帰ってきた。
冬姫「ただいまぁー!って、あれ?蒼葉何で顔赤いの?」
双葉「ほへぇ~!夕日綺麗だねお姉ちゃん!」
蛍「蒼葉さん、楓さんと何かあったんですか?」
蒼葉「えっと…その……」
流石に、3人から一斉に話しかけられると、困ってしまう。しかも、私は聖徳太子ではない。
楓「別に何もなかったぞ。ただ話してただけだ」
蒼葉(楓くん…!ナイスフォロー!)
冬姫「そっか。じゃあさ、花火やろうよ!せっかく買ってきたからさ!」
楓「ああ、そうだな。皆で花火でもやるか」
私達は、花火の袋を開けて、それぞれ、好きな花火を持って行った。
蒼葉「あれ…火は…?」
冬姫「あぁ!火なら私が持ってるよ!」
冬姫がライターを持っていてくれた。まるで、私達が花火をやるのを予測したかのように、用意周到だった。
私が選んだ花火は、落ち着いた線香花火だった。楓くんとお揃いである。
冬姫と双葉は、ド派手な花火を選んでいた。蛍ちゃんは、私と楓くんと同じ線香花火だった。
双葉「お姉ちゃん!見て!すごいでしょ!」
双葉は、何本も花火を持って振り回していた。
蒼葉「こら双葉!危ないよ!」
蛍「そうだよ双葉ちゃん!ほら!」
蛍ちゃんは、双葉の危険な行動を止めてくれた。
楓「なぁ蒼葉」
蒼葉「ふぇっ!?あっ、何…?」
楓「この線香花火、まるで蒼葉みたい」
私は、頭が真っ白になり、顔が真っ赤になった。可愛い…ということなのか、或いは別の意味なのか…よく分からなかったが、褒められているっていうことはなんとなく理解できていた。
蒼葉「それって…どういうことなの…?」
楓「この線香花火、昔人見知りで臆病だった蒼葉にそっくりでさ…」
蒼葉「……もぉ…!からかってるの……?」
楓「冗談だよ。本当はね、こう言いたかったんだ。線香花火はほかの花火と比べて強さは弱いだろ?でもな、その分優しい火花が散ってくれてる。それが蒼葉の優しい心に似ているっていうこと。」
その言葉を聞いた瞬間、私の恥ずかしさは、限界値を迎えていた。
そして、小声で「……ばか…」とだけ言った。
-✳-
その後、私達は、花火を片付けて静かにバス停でバスが来るのを待っていた。
双葉は、遊び疲れた小さな子のように、私の肩でうとうとしていた。
蒼葉「ほら双葉!バス来るから起きて!」
双葉「……ほへぇ…おねぃちゃぁん……えへへっ…」
蒼葉「全く……」
そして、バスが来た。私は、双葉を何とかしてバスの中に入れることができたが、先程の楓くんとの花火、そして海での抱擁の余韻はまだしっかりと心の中に残っていた。
一応、予定としては朝の9時にバス停から近い公園に集合して、バスに乗り、そのまま海に行くという予定だ。
私は、いつも通りベッドから体を起こし、壁にかけてある時計を確認する。
視界が悪く、あまり見えない。目を擦って見てみると……。
『午前8時25分』
8時…25分…。集合時間…9時……。
蒼葉「嘘でしょ!?寝坊した!!」
私は、急いでベッドから抜け出し、パジャマを脱ぎ捨てた。ゆっくり服を着ている暇なんかないと思い、Tシャツと半ズボンで済ませた。
蒼葉(どうせ水着に着替えるんだからこれくらいでいい…!)
荷物は昨日の夜の内に、準備しておいたおかげで、なんとかなった。
時間がない中、軽くでもリュックの中の荷物を確認する。
水着、日焼け止め、タオル、着替え、帽子、その他諸々……。よし、ちゃんと入っている。
私は、そのまま走ってリビングに向かった。
リビングに着くと、双葉はもう既に準備万端の状態で、ソファに座って、スマホを触って、私のことを待っていた。
私の寝起きの姿に気づくと、双葉は驚いていた。
双葉「お姉ちゃん!?早くして!急いで!」
蒼葉「わかってるよ双葉!私今急いでるの!」
私は、急いで食卓に座り、朝ご飯を食べた。
双葉「もう、お姉ちゃん! だから言ったのに!」
双葉の怒号に近い催促を背中に受けながら、私は喉に朝食を詰め込み、洗面所へ駆け込んで最短記録で顔を洗った。
鏡に映る自分の髪は少し跳ねていたけれど、直している余裕なんて一秒もない。
蒼葉「ごめん双葉、行こうっ!」
靴を引っかけ、家を飛び出す。外はすでに、肌を焦がすような日差しが降り注いでいた。
「集合時間に間に合わない……!」という焦燥感と、容赦ない猛暑が体力を奪っていく。全力で走る私と、余裕しゃくしゃくで並走する双葉。
公園の入り口が見えたとき、時計の針はちょうど午前九時を指していた。
蒼葉「……はぁっ、はぁっ……! ごめん、みんな、待たせた……っ!」
膝に手をつき、肩で息をする私の前には、すでに三人の姿があった。
冬姫、蛍、そして楓くん。
冬姫は薄手の白いサマーカーディガンを羽織り、蛍ちゃんはスポーティーなTシャツ姿。二人ともラフながらも、どこか夏のお出かけらしい清潔感がある。
楓くんは、シンプルなネイビーのポロシャツにハーフパンツという格好で、木陰に寄りかかっていた。
冬姫「あーおーは! 遅いよぉ、溶けちゃうかと思った!」
蛍「おはよう、蒼葉さん。双葉、お疲れ様。大変だったね」
楓「……おはよう。まあ、ギリギリ間に合ったからいいよ。顔、真っ赤だぞ」
楓くんの落ち着いた声に、少しだけ心臓が跳ねた。走ったせいだと思いたいけれど、彼の視線が自分に向けられているだけで、体温がさらに上がる気がした。
まもなく、海行きのバスが大きな音を立ててバス停に滑り込んできた。
冷房の効いた車内へ逃げ込むようにして乗り込む。
座席は、一番後ろの広い席に私と冬姫、そして楓くん。そのすぐ前の席に、仲良く並んで双葉と蛍ちゃんが座る形になった。
蒼葉「……ふぅ。涼しい……」
ようやく一息ついた、その時だった。冷房で体が冷やされたせいか、あるいは朝の慌ただしさで失念していた「体のサイン」が、突如として主張を始めた。
蒼葉(……あ。嘘、でしょ……?)
下腹部に訪れる、ツンとした違和感。朝、一分一秒を争う戦いの中で、私は一番重要なルーティンを飛ばしていたことに気づいた。
そう、トイレだ。
蒼葉(今……? 目的地まであと四十分はあるのに……!?)
一度意識してしまうと、バスの振動がダイレクトに伝わってくる。
左隣には冬姫が楽しそうに窓の外を指差し、右隣には楓くんが静かにスマホを眺めている。
この二人を退かせて「トイレに行きたいのでバスを降ります」なんて、口が裂けても言えない。
蒼葉は青ざめた顔で、じっと耐えるように膝の上で拳を握りしめた。
窓の外を流れる蒼い夏の景色は綺麗だったけれど、今の私の頭の中は、別の意味での「死活問題」で埋め尽くされていた。
すると、楓くんが私の顔色を見て、心配そうにこちらを見た。
楓「蒼葉…大丈夫か…?顔色悪いぞ」
蒼葉「ひゃっ!?あっ、えっと……」
冬姫「ん?蒼葉、もしかして酔った?」
一番後ろの座席。酔ったと言ったほうが自然だろう。本当はトイレを我慢しているのに…。
蒼葉「……うん…ちょっとね…!」
蒼葉(早く海に着いてよぉ……!)
私は、バスの中で必死に耐え続けた。
-✳-
海の近くのバス停に着き、私は急いでトイレに駆け込んだ。そのおかげで、なんとか防ぐことはできた。
そして、トイレから戻ると、双葉、冬姫、楓くん、蛍ちゃんは私のことを見つめていた。
何してるんだこの人と思っているのか、或いは急にトイレに駆け込んだから心配しているのか、どっちなのか分からなかった。
蒼葉「ごめんね!みんな…!」
楓「蒼葉、大丈夫だったか?吐いちゃった?」
蒼葉「…ううん、平気だよ」
楓「そうか、なら良かった。ほら、海行くよ」
蒼葉「う、うん…!」
私達は、暑い中、ビーチへと向かった。
-✳-
蒼葉「あっついね……」
双葉「うん…」
冬姫「蒼葉~海まだ~?」
蒼葉「あとちょっとだから頑張って!」
楓「すまん…俺…限界…うぅ…」
最初に限界を迎えたのは、楓くんだった。
蒼葉「楓くん!頑張って!」
双葉「お姉ちゃん…私も…暑くて…」
蒼葉「もぉ~2人とも…頑張って!」
蒼葉「大丈夫だよ、もうすぐだから」
私は、双葉に手を差し伸べた。
双葉「お姉ちゃん……」
冬姫「ほら!楓くんも立ってよ!私早く海に入りたいの!」
楓「……うぅ……」
楓くんは、呻き声を出しながらも、冬姫から差し伸べられた手を掴んで、なんとか立つことができていた。
蒼葉(あれ…私がやりたかった……)
私が「ずるい」と言う顔をしながら、冬姫をじっと見つめていると、楓くんが反応してしまった。
楓「蒼葉?やっぱり体調悪かったのか?」
蒼葉「ふぇっ…!?あっ、いや…その……」
冬姫「しょうがないよ楓くん。蒼葉照れてるんだから」
私は、顔を赤くしながら前を向いて、俯きながら歩き始めた。
結局、唯一何もせずに歩いていたのは、蛍ちゃんだけだった。
-✳-
そして、やっと目的地のビーチに着いた。私含め、蛍ちゃん以外の全員は、ヘトヘトの状態だった。
そして、ビーチの近くの更衣室に向かった。
更衣室の重い扉を開けると、そこは独特の湿気と日焼け止めの香りに包まれていた。
私と双葉、冬姫と蛍ちゃんの四人は、それぞれの荷物を抱えて狭い個室へと分かれた。
私は、先日モールで慎重に選んだ水着を袋から取り出した。
パステルブルーのセパレート。胸元と腰回りには、ほどよいボリュームのフリルがあしらわれている。
いざ着るとなると、やはり心臓がうるさい。露出が少ないとはいえ、楓くんにこの姿を見られるのだと思うと、更衣室の小さな鏡を見るのさえ気恥ずかしかった。
双葉「お姉ちゃーん、着替えた? 私、先に外出てるよ!」
双葉の弾んだ声が外から聞こえてくる。私は「あ、ちょっと待って……」と慌ててサンダルを履き、リュックを抱えて更衣室を飛び出した。
そこには、一足先に着替えを終えた三人が待っていた。
双葉は白とピンクのチェック柄で、まるでアイドルのような愛らしさだった。
冬姫の水着は、彼女の透き通るような肌によく映える、可憐でありながらどこか目を引く華やかなデザインだった。
冬姫「わぁ……蒼葉、すっごく可愛い! やっぱりその色にして正解だったね!」
冬姫が私の手を取って、くるりと回した。
蒼葉「……ありがとう、冬姫も似合ってるよ。……あ、あれ? 楓くんは?」
私が辺りを見渡すと、少し離れたパラソルの影で、すでに準備を終えた楓くんが立っていた。
海パン姿にラッシュガードを羽織った彼は、眩しそうに海を見つめている。
私たちが近づくと、彼はゆっくりとこちらを振り返った。
楓「......お。着替え、終わったか」
楓くんの視線が、一瞬だけ私に止まった。ほんの数秒のことだったけれど、その瞳に私が映っているという事実だけで、顔に熱が昇るのがわかった。
冬姫「ねぇねぇ楓くん、どうかな? 蒼葉の水着姿、感想は!?」
冬姫が茶化すように楓くんの顔を覗き込む。
楓「……似合ってるよ。派手すぎなくて、蒼葉らしいし」
無造作に放たれたその言葉に、私は「あ、ありがとう……」と俯くのが精一杯だった。
けれど、楓くんの耳の端がほんの少し赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
蛍「……さて、みんな。そろそろ行かないと、いい場所取られちゃうよ」
唯一、マイペースに麦わら帽子を被り直した蛍ちゃんが歩き出す。
私たちの前には、どこまでも広がる真っ青な海。波打ち際で跳ねる太陽の光と、遠くで聞こえる楽しげな歓声。
砂浜を踏みしめるたびに、サンダルの中に熱い砂が入り込んでくる。
夢の中の不気味な声も、お母さんとの冷え切った会話も、今は潮風が遠くへ運んでいってくれたような気がした。
蒼葉、双葉、冬姫、楓、蛍。
この五人で過ごす、一生に一度の「夏」が、今ようやく本当の意味で始まったのだった。
-✳-
双葉と蛍ちゃんは、一目散に海に駆け込んでいった。冬姫は、クールそうな感じで、「子供だな」と言いたそうに、パラソルの下で、双葉と蛍ちゃんを見ていた。
私もパラソルの下で、燥ぐ双葉と蛍ちゃんを見守ることにした。
双葉「えいっ!」
蛍「きゃっ!もぉ!双葉ちゃんやったな~!」
双葉「きゃぁっ!」
双葉と蛍ちゃんは、お互い水をかけあって遊んでいた。更に、砂のお城を作っていた。
すると、双葉と蛍ちゃんが、パラソルの方に来て、とある提案をしてきた。
双葉「ねぇお姉ちゃん!一緒にビーチバレーしようよ!」
蒼葉「えぇ…私はいいよ…日焼けするの嫌だし…」
双葉「もぉ!それだと水着買った意味ないじゃん!」
蒼葉「うっ…!確かに……」
冬姫「まぁまぁ蒼葉、せっかくなんだし行ってきなよ。日焼け止め塗ってあげるから!」
私は、仕方なく冬姫に背中を向けた。そして、不機嫌そうな顔で、隣の楓くんを見つめていた。
冬姫「あれれぇ~?もしかして楓くんに塗って欲しかったの?」
冬姫がそう言った瞬間、隣にいた楓くんがこちらを向いてきた。
私は一気に、恥ずかしくなった。
蒼葉「うっ…うるさいわね…!!」
冬姫の言っていることは、まさに図星だった。本当は楓くんに塗ってもらいたい。でも、そんな事を冬姫の前で言える訳がない。
そして、少し経って…。
冬姫「はい、塗り終わったよ」
蒼葉「ふぅ……ありがと冬姫…」
恥ずかしさはまだ多少残っていたが、日焼け止めを塗ってくれた冬姫には感謝している。
私は、立ち上がって、ビーチバレーに参加した。
ビーチバレーとは言っても、ガチの試合のような感じではない。
試合前の練習のような感じのことしかしない。
蛍「蒼葉さん!そっちいきましたよ!」
蒼葉「よぉし!えいっ!」
双葉「ナイスお姉ちゃん!蛍ちゃん!」
蛍「行きますよぉ…!って、きゃっ!」
蛍ちゃんのボールは、思わぬ方向に飛んでいった。その先は…冬姫の顔面だった。
蛍「お姉ちゃん避けて!!」
冬姫「…えっ…?……きゃぁぁっ!!」
そして、ボールは冬姫の顔面に直撃し、冬姫はその場で倒れてしまった。
蛍「お姉ちゃん大丈夫!?」
蛍ちゃんが泣きながら、冬姫の所へと走って行った。
冬姫「……うぅ…」
蛍「お姉ちゃん!お姉ちゃん…!!」
冬姫は、ちょっとずつ体を起こした。 そして、冬姫の目の前には大泣きした蛍ちゃんがいる。
冬姫「蛍?何でそんなに泣いてるの?」
蛍「…だって…!おっ…お姉ちゃんが…!」
そして、冬姫は微笑んで、蛍ちゃんを抱きしめて、そっと頭を撫でた。
冬姫「大丈夫だよ蛍。お姉ちゃん、それくらいで死んじゃったりしないから」
冬姫の抱擁の仕方は、まさに自分の子供を慰める小さなお母さんのようだった。
双葉「…ねぇお姉ちゃん!私にもあれやってよ!」
蒼葉「……まあ…後でね……」
双葉にバレないよう、私は楓くんの方をチラッと見た。
-✳-
蛍ちゃんのバレーボール騒動から少し経ち、双葉のお腹が鳴り始めた。
双葉「うぅ…お腹すいた…」
時刻は午前12時。そろそろお昼の時間だ。海の家が近くにあったので、そこで昼食を取った。
みんな同じ焼きそばを食べて、デザートにかき氷を食べた。
双葉は、かき氷を一気食いして、頭がキーンとなっていた。
冬姫「あはは!双葉ちゃん、焦りすぎだよ」
頭を抱えて悶絶する双葉を見て、冬姫が鈴を転がすような声で笑った。
双葉「だって、冷たくて美味しいんだもん……うぅ、まだ頭が痛い……」
涙目になりながらもスプーンを離さない双葉の姿は、まるで小さな子供のようで、見ているこちらの頬が緩んでしまう。
焼きそばのソースの香ばしい匂いと、かき氷の冷たさ。
海の家の、少しベタつくプラスチックの椅子。そんな何気ない「夏」の断片が、今はとても愛おしく感じられた。
楓「……蒼葉、お前のは?」
隣に座る楓くんが、私の手元を覗き込んできた。
蒼葉「え? あ、私のはレモンだよ。楓くんは、ブルーハワイ?」
楓「あぁ。……これ、食うと舌が真っ青になるんだよな」
そう言って、楓くんが少しだけ舌を出して見せた。確かに、鮮やかな青色に染まっている。
蒼葉「あはは、本当だ。」
あまりの無防備さに、心臓がまた小さく跳ねる。楓くんとの距離が、いつもよりずっと近く感じられるのは、開放的な海の空気のせいだろうか。
ふと視線を感じて横を見ると、蛍ちゃんが、溶けかかったイチゴ味のかき氷を静かに口に運びながら、私たちをじっと見つめていた。
蛍「……仲が良いのはいいことだけど。そろそろ行かないと、午後の部が始まるよ」
蛍ちゃんは、口元についたシロップを指先で拭いながら、どこか意味深な視線を一瞬だけ私に向けた。
冬姫「そうだね! 休憩終わり! よーし、次はあっちの深い方まで行ってみようよ!」
冬姫が立ち上がり、太陽に向かって大きく背伸びをする。
その背中に落ちる影が、一瞬だけ「蒼く」沈んだような気がして、私は思わず息を呑んだ。
蒼葉「……冬姫?」
冬姫「ん? どうしたの、蒼葉。早く行こ?」
振り返った冬姫は、相変わらず眩しいほどの笑顔だった。
見間違い。そう、ただの光の加減。今はこんなに幸せで、みんなで笑い合っているのだから。
私たちは空になった器を片付け、再び灼熱の砂浜へと足を踏み出した。
お腹がいっぱいになって、少しだけ眠たげな双葉の背中を追いかけながら、私は祈るような気持ちで青い空を見上げた。
-✳-
午後もたくさん遊んで、夕方になった。双葉、冬姫、蛍ちゃんの3人は、先程海の家にあった花火を買いに行った。
そして、楓くんと私は2人きりになった。
楓「3人が買いに行っている間、何しようか?」
蒼葉「……ねぇ楓くん、ちょっと付き合ってもらってもいい?」
そう言って、私が楓くんを連れて来たのは、人気の少ない海岸だった。
オレンジ色に焼けた空が、静かに夜の藍色に飲み込まれようとしていた。
賑やかだった双葉たちの声は遠く、今の二人の間にあるのは、寄せては返す波の音だけだ。潮風が、泳ぎ疲れた体に少しだけ冷たく触れる。
蒼葉は、隣に立つ楓を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、最後の夕陽が反射して、零れそうなほどキラキラと輝いている。
蒼葉「ねぇ楓くん、小さい時はさ、私が泣いて、楓くんが愛おしそうに頭を撫でてくれてたよね」
不意に溢れ出した思い出。楓は一瞬驚いたように瞬きをし、それから目を細めて遠い海を見つめた。
楓「あの時か……本当に懐かしいな……」
楓の声は、潮騒に溶けるように優しかった。だが、蒼葉の決意は揺るがない。彼女は一歩、砂を踏みしめて距離を詰める。
蒼葉「私、前みたいにしてほしい」
楓「……えっ……?」
戸惑う楓の瞳に、蒼葉の真剣な眼差しが突き刺さる。
蒼葉「……抱きしめてよ。あの頃みたいに」
楓「……蒼葉……お前……」
楓が絶句する。その声は、驚きと、ずっと隠してきた熱い感情が混ざり合ったように震えていた。蒼葉は、さらに言葉を重ねる。
蒼葉「……人見知りで恥ずかしい私はいい加減卒業。楓くんもそうして欲しいでしょ?」
楓「……蒼葉……」
楓は、彼女を「幼馴染」という枠に閉じ込めていた自分に気づかされる。蒼葉は、もう守られるだけの子供ではない。
彼女は震える声を振り絞るように、最後のお願いを口にした。
蒼葉「だからさ、今はこのままでいさせて」
蒼葉「お願い」
その瞬間、楓の腕がゆっくりと、だが確かな意志を持って動いた。
壊れ物を扱うような慎重さで、けれど二度と離さないという強さで、彼女をその胸に抱き寄せる。
蒼葉の耳に届くのは、波の音よりもずっと速く、激しく打つ楓の心音だった。
-✳-
抱きしめてくれた余韻が残っている中、双葉、冬姫、蛍ちゃんの3人が帰ってきた。
冬姫「ただいまぁー!って、あれ?蒼葉何で顔赤いの?」
双葉「ほへぇ~!夕日綺麗だねお姉ちゃん!」
蛍「蒼葉さん、楓さんと何かあったんですか?」
蒼葉「えっと…その……」
流石に、3人から一斉に話しかけられると、困ってしまう。しかも、私は聖徳太子ではない。
楓「別に何もなかったぞ。ただ話してただけだ」
蒼葉(楓くん…!ナイスフォロー!)
冬姫「そっか。じゃあさ、花火やろうよ!せっかく買ってきたからさ!」
楓「ああ、そうだな。皆で花火でもやるか」
私達は、花火の袋を開けて、それぞれ、好きな花火を持って行った。
蒼葉「あれ…火は…?」
冬姫「あぁ!火なら私が持ってるよ!」
冬姫がライターを持っていてくれた。まるで、私達が花火をやるのを予測したかのように、用意周到だった。
私が選んだ花火は、落ち着いた線香花火だった。楓くんとお揃いである。
冬姫と双葉は、ド派手な花火を選んでいた。蛍ちゃんは、私と楓くんと同じ線香花火だった。
双葉「お姉ちゃん!見て!すごいでしょ!」
双葉は、何本も花火を持って振り回していた。
蒼葉「こら双葉!危ないよ!」
蛍「そうだよ双葉ちゃん!ほら!」
蛍ちゃんは、双葉の危険な行動を止めてくれた。
楓「なぁ蒼葉」
蒼葉「ふぇっ!?あっ、何…?」
楓「この線香花火、まるで蒼葉みたい」
私は、頭が真っ白になり、顔が真っ赤になった。可愛い…ということなのか、或いは別の意味なのか…よく分からなかったが、褒められているっていうことはなんとなく理解できていた。
蒼葉「それって…どういうことなの…?」
楓「この線香花火、昔人見知りで臆病だった蒼葉にそっくりでさ…」
蒼葉「……もぉ…!からかってるの……?」
楓「冗談だよ。本当はね、こう言いたかったんだ。線香花火はほかの花火と比べて強さは弱いだろ?でもな、その分優しい火花が散ってくれてる。それが蒼葉の優しい心に似ているっていうこと。」
その言葉を聞いた瞬間、私の恥ずかしさは、限界値を迎えていた。
そして、小声で「……ばか…」とだけ言った。
-✳-
その後、私達は、花火を片付けて静かにバス停でバスが来るのを待っていた。
双葉は、遊び疲れた小さな子のように、私の肩でうとうとしていた。
蒼葉「ほら双葉!バス来るから起きて!」
双葉「……ほへぇ…おねぃちゃぁん……えへへっ…」
蒼葉「全く……」
そして、バスが来た。私は、双葉を何とかしてバスの中に入れることができたが、先程の楓くんとの花火、そして海での抱擁の余韻はまだしっかりと心の中に残っていた。
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