Loop✳Resonance

夜空奏音

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-鳴り止まない蒼き残響(レゾナンス)-

Episode11 -7月29日-

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私が目を覚ました時は、次の日の朝を迎えていた。そう、私はあれからずっと寝てしまっていたのだ。しかも、よりによって楓くんの家のソファの上で。

蒼葉「んっ……」

目を擦りながら身体を起こして、時計の方を確認すると、午前8時を指していた。

蒼葉「…私…こんなに…寝てたの……」

楓お母さん「あら、蒼葉ちゃん起きたのね」

蒼葉「…ふわぁ……おはようございます……」

楓お母さん「ふふっ、おはよう」

楓くんのお母さんは、キッチンにいた。私の朝ごはんを準備しているのか、キッチンからは、いい匂いがした。

蒼葉「あの…おばさん、楓くんと双葉は起きてますか?」

楓お母さん「双葉ちゃんはわかんないけど、楓なら叩き起していいわよ」

蒼葉「あっ、はい……」

ソファから立ち上がり、楓くんの部屋へと、ドキドキしながら向かった。

楓くんの部屋に着くと、震えた手でドアを開けた。そして、目の前にはベッドで規則正しい寝息を立てながら、寝ている楓くんがいる。

ベッドの下に、もう一枚布団が敷かれており、そこには、双葉が寝ていた。

2人とも、朝の8時だというのに、まだ起きていなかったのだ。

私は、ドキドキしながら楓くんのベッドに近づいた。そして、布団の上に、膝立ちで立ち、楓くんの布団を揺らして、起こそうとした。

私には、これくらいしか、できることがない。楓くんの身体に、触れてしまうと意識してしまうからだ。

蒼葉「か、楓くん……起きて…」

楓「んっ……」

楓くんが、布団の中で抵抗し始める。

そして、抵抗した勢いで、私は体勢を崩してしまった。

蒼葉「きゃぁっ!」

私は、思わず目を閉じた。

(バタン…!)

目を開けた時、私は、楓くんの隣に倒れていた。目の前には、楓くんの寝顔がある。

蒼葉(えっ…!?嘘でしょ!?この状況からどう抜け出せばいいの…!?)

心臓が、耳のすぐそばで鳴っているのではないかと思うほど激しく打っている。

目を開けた瞬間、世界が楓くんの寝顔だけで埋め尽くされていた。

整った鼻筋、少し長めの睫毛。いつもはぶっきらぼうな彼の表情が、眠りの中では驚くほど無防備で、幼い。

​蒼葉(……ち、近い……っ!)

​楓くんの体温が、布団越しに伝わってくる。逃げなきゃ。そう思うのに、あまりの近さに身体が硬直して動かない。

そんな私のパニックをあざ笑うかのように、下の布団から「カサッ」と、何かが擦れる音が聞こえた。

​双葉「……んぅ……。お姉ちゃん、うるさい……」

​双葉の、まだ眠気の取れていない声。最悪のタイミングだった。

双葉がゆっくりと上体を起こし、まだ半分閉じている目をこすりながら、兄のベッドの上を見上げる。

​双葉「…………えっ?」

​双葉の動きが、ぴたりと止まった。彼女の視線の先には、楓くんの隣に倒れ込み、今にも抱きつかんばかりの距離で固まっている私の姿。

​双葉「……お、お姉ちゃん……? 朝から何してんの……?」

蒼葉「ち、違うの! 双葉、これはその、……不可抗力で!」

​私の必死の弁明が届いたのか、それとも私たちの騒がしさに反応したのか。

目の前の「主」が、ゆっくりとまぶたを震わせた。

​楓「……ん……。……蒼葉……?」

​低くて、まだ覚醒しきっていない微睡んだ声。楓くんが目を薄く開け、目の前にいる私をじっと見つめる。

1秒、2秒。

状況が理解できた瞬間、楓くんの瞳が大きく見開かれた。

​楓「っ……!? お、お前……っ!」

蒼葉「ひゃあああっ! ごめんなさいっ!!」

​私は弾かれたようにベッドから飛び降りた。勢い余って床に膝をつき、そのまま顔を伏せて俯く。

視界に入るのは、自分の震える指先だけ。でも、顔が熱くて、沸騰してしまいそうなのは自分でも分かった。

​双葉「……最悪。お姉ちゃんに何したのよ」

楓「俺は何もしてねぇよ! 蒼葉が勝手に降ってきたんだろ!」

双葉「うるさい! デリカシーなさすぎ! ざぁーこ、ざぁーこ!」

​双葉の容赦ない「ツン」が炸裂する中、私はただただ、床の木目を見つめ続けることしかできなかった。

お泊まり2日目の朝。私の心臓は、早くも一日のエネルギーを使い果たしてしまいそうだった。

​-✳-

​結局、顔が真っ赤なままリビングへ降りた私たちは、おばさんが作ってくれた朝食を囲むことになった。

焼きたての目玉焼きに、香ばしいトースト。

いつもなら双葉と競うように食べるのに、今は一口運ぶごとに、楓くんと目が合わないかビクビクしてしまう。

楓くんも楓くんで、不自然なほど黙々とコーヒーを飲んでいた。

​楓お母さん「さて、今日はこれからどうするの? 夏祭りの準備もあるんでしょ?」

おばさんの明るい声に、私はようやく顔を上げた。

蒼葉「……あ、はい。……着替えたら、少し外に出ようかなって」

楓お母さん「そうね。じゃあ、女の子チームから先にお着替えしちゃいなさい。楓、あんたはリビングで待機よ」

​おばさんの指示で、私と双葉は2階へ向かった。自分の部屋ではなく、楓くんの部屋での着替え。

ドアを閉め、鍵をかけたことを何度も確認する。

​双葉「お姉ちゃん、まだ顔赤いよ。……そんなにあいつの隣、良かったの?」

蒼葉「もう、双葉! 言わないでってば!」

​双葉にからかわれながら、私はお泊りの前に用意した、お気に入りの私服に着替えていく。

その後、交代で部屋に入った楓くんが降りてくるのを待つ間、私は玄関の鏡で何度も髪型を直した。

​2日目。

ハプニングから始まった今日が、どんな一日になるのか。期待と、それ以上の不安を抱えながら、私はお気に入りの靴の紐をぎゅっと結んだ。

楓くんが、せっかくなので出かけたいとのことらしい。行くのは、恐らく近くの公園か、散歩程度だろう。

幼い頃に行った場所を周るのもあり。

考え事をしていると、楓くんがラフな格好で、玄関に来た。

楓「よし、行こっか」

双葉は、「行かない」「お留守番する」と言い張っていた。双葉がいないと、私と楓くんは2人きりになり、沈黙の空気が流れてしまう。

それは、どうしても避けたかった。

双葉「お姉ちゃんとお兄ちゃん、2人でいってきて。私は家で待ってるから」

蒼葉「双葉、本当に行かなくていいの?」

双葉「だから行かないって言ってるじゃん」

双葉は、段々と不機嫌そうな顔になってきた。絶対、内心しつこいと思っている。

蒼葉「…じゃあ、お姉ちゃん行ってくるね」

双葉「…ん、いってらっしゃい」

-✳-

​蒼葉「……二人っきりになっちゃったね」

​玄関を出て数歩。隣を歩く楓くんの肩が、いつもより近く感じる。

双葉がいないだけで、街の喧騒が遠のき、世界には私たち二人しかいないような錯覚に陥る。

楓くんはポケットに手を入れ、ゆっくりとした足取りで歩き出した。

​楓「まずは……あそこ、行ってみるか。ほら、蒼葉が昔、迷子になって泣いてた公園」

蒼葉「ちょ、ちょっと! 昔の話はいいじゃない!」

恥ずかしがる私を置いて、楓くんは懐かしむように歩みを進める。

辿り着いたのは、色褪せた遊具が並ぶ小さな公園だった。

錆びたブランコが、風に吹かれてキー、キーと鳴っている。

​蒼葉「……あ、あの砂場。あそこで楓くん、泥団子作りに熱中して、私のこと無視したんだから」

楓「ははっ、そうだったな。蒼葉が『一緒に遊んでよぉ』って泣きついてきたの、覚えてるぜ」

(回想)
蒼葉「ねぇ…!一緒に遊んで!私と遊んでよぉ!」

楓「よし……ここをこうして……」

蒼葉「ねぇ!楓くん…!!」

私は泣き叫びながら、楓くんの服を引っ張ったりした。どうしても構ってほしかった。

楓「できた…!」

蒼葉「うっ…うわあああん!!」

楓「…蒼葉、どうして泣いてるの?痛かったの?」

蒼葉「…違う…!楓くんが遊んでくれないから!」

あの後、楓くんは一緒に遊んでくれたが、家に帰るまで、私は泣き止まなかった。

(現在)
​笑い合う声が、夏の午後の空気に溶けていく。あの頃の私たちは、手をつなぐことに何の躊躇もなかった。転べば助けを求め、泣けば頭を撫でてもらう。

けれど、今はどうだろう。偶然、手が触れそうになるだけで、静電気に打たれたように指先が跳ねてしまう。

​私たちは公園を抜け、かつてよく通った駄菓子屋の角を曲がり、古い神社の境内へと向かった。

石段に腰を下ろすと、木陰を吹き抜ける風が、汗ばんだ肌に心地よい。

​楓「……なぁ、蒼葉」

蒼葉「……ん?」

​楓くんが、遠くの入道雲を見つめたまま、ぽつりと呟いた。

​楓「さっき、公園でさ……昔みたいに泣いてるお前を思い出して。……でも、今の蒼葉は、あの時とは全然違うよな」

​楓くんの視線が、ゆっくりと私の方へ向けられる。海辺で私を見た時の、あの真剣な眼差し。

楓「……強くなったっていうか。……綺麗になった」

​その一言で、私の思考は完全にフリーズした。幼馴染という「安全な距離」から、彼が土足で踏み込んできたような感覚。

ドキドキという心臓の音が、セミの鳴き声よりも大きく耳の奥で鳴り響く。

​蒼葉(……綺麗、だなんて……)

​私は恥ずかしさを隠すように、サンダルの先で地面の砂を弄った。

朝、ベッドの上で至近距離にいた時のこと。さっき、廊下ですれ違った時に感じた体温。

思い出の場所を巡るたびに、過去の幼い記憶は塗り替えられ、新しい「恋」の記憶として上書きされていく。

​蒼葉「……楓くんだって、変わったよ。……昔より、ずっとかっこよくなった」

​消え入りそうな声で、精一杯の反撃を口にする。

楓くんは一瞬驚いたように目を見開き、それから照れ臭そうに視線を逸らした。

​二人の間に流れる、甘くて、少しだけ苦しい沈黙。この散歩が終わる頃、私たちはまた一つ、幼馴染という殻を脱ぎ捨ててしまうのかもしれない。

-✳-

散歩から帰り、お昼ご飯を食べて、私達は午後の時間を過ごしていた。

ソファに座ってゆっくりしていると、双葉が、私の膝の上に頭を置き始めた。

双葉「…ねぇ、お姉ちゃん」

蒼葉「ん?どうしたの?」

双葉「一緒にゲームしたい」

蒼葉「えっ…ああ、うん!いいよ!」

私と双葉は、リビングのテレビの前に座って、ゲーム機を持った。

昨日、楓くんとやっていたからだろうか、ゲーム技術がものすごく高かった。

蒼葉「くっ…また負けた…」

双葉「…お姉ちゃん弱い」

蒼葉「…うぅ……」

私は諦めず、何度も何度も双葉に戦いを挑み続けた。そして、数時間後……。

「20-2」

双葉が20、私が2だった。完敗だ。

蒼葉「負けた……」

私は、その場に崩れ落ちた。

-✳-

午後6時。そろそろお風呂に入る時間だ。楓くんの家のお風呂は、すでに沸いていた…。

というか、お湯張ってない……。まあ、夏だもんね…。お湯張るところはないか…。

双葉「お姉ちゃん、私先に入ってきてもいい?」

蒼葉「うん…いいけど…」

双葉「じゃあ先入ってくるね!」

双葉は、すぐにお風呂場へと駆け込んでいった。

-✳-

双葉がお風呂に入っている間、私はソファでスマホを触っていた。

お風呂場の方からは、双葉がお風呂に入っている音が聞こえる。

蒼葉「…ねぇ、楓くん」

楓「ん?どうした?」

蒼葉「私、次入ってもいい?」

楓「ああ、構わないよ」

蒼葉「うん、ありがとう」

私は再び、スマホを触り始める。そして、双葉が出てくるのをずっと待っていた。

-✳-

お風呂場から聞こえていた水音が止まり、しばらくしてホカホカと湯気を立てた双葉がリビングに戻ってきた。

双葉「あー、さっぱりした。お姉ちゃん、代わっていいよ」

蒼葉「あ、うん。ありがと」

​私はスマホを置き、着替えとバスタオルを抱えて脱衣所へと向かった。

脱衣所の扉を閉め、念入りに鍵をかける。カチリ、という小さな金属音が、今の私には唯一の安心材料だった。 

​浴室に入り、シャワーの温かいお湯を頭から被る。目を閉じると、今日一日の出来事が走馬灯のように浮かんでは消えた。

​蒼葉(……楓くんの、あの寝顔。……それから、散歩の時の言葉)

​──「綺麗になった」。

その言葉が、耳の奥で何度もリフレインする。お湯の熱さのせいだけじゃない。思い出すだけで、心臓の鼓動が早くなっていくのが分かる。

あの海辺で、私は「卒業する」と決めた。

泣いてばかりの妹分じゃなくて、彼と隣り合って歩ける女の子になりたい、と。

でも、実際に二人きりの時間を過ごせば過ごすほど、自分の無防備さや、彼を意識しすぎてしまう弱さが露呈してしまう。

​蒼葉(楓くんは、今、何を考えてるんだろう。……私のこと、少しは一人の女の子として、見てくれてるのかな)

​鏡に映る、お湯で上気した自分の顔を見つめる。幼馴染という近すぎる距離が、今はもどかしくて、少しだけ怖い。

私は丁寧に体を洗い、自分の中に溜まった熱を逃がすように、最後は少しぬるめのシャワーで肌を引き締めた。

​──けれど、その「静かな決意」は、浴室を出た直後に脆くも崩れ去ることになる。

​脱衣所で体を拭き、下着を身につけ、ショートパンツを履き、自分の大きめのTシャツを頭から被ろうとした、その瞬間だった。

​ガタッ、と。

なぜか、かかっていたはずの鍵が外れ、引き戸がわずかに開いた。

​蒼葉「わ……っ!?」

​慌ててTシャツを引き下げたけれど、そこには驚愕で目を見開いた楓くんが立っていた。

時間は、わずか1秒にも満たなかったかもしれない。楓くんが持っていた洗面用具の袋が、床に落ちる小さな音が聞こえた。

​お互いに、言葉は出なかった。

楓くんの顔が、見る見るうちに耳の先まで赤く染まっていく。

彼は何も言わず、弾かれたようにドアを閉め、廊下を走って去っていった。

​後に残されたのは、湿り気を帯びた空気と、バクバクと暴れる私の心音だけ。

​蒼葉(やっちゃった……)

​私は脱衣所の隅でうずくまり、Tシャツの裾をぎゅっと握りしめた。

さっきまでの、お風呂での真面目な考え事なんて、どこかへ吹き飛んでしまった。

-✳-

お風呂から出ると、楓くんが気まずそうな雰囲気で、ソファに座って頭を抱えていた。

双葉は、いなかった。恐らく楓くんの部屋か、トイレだろう。

私は、恐る恐る楓くんに近づいた。そして、楓くんの隣に、静かに座った。

蒼葉「か、楓くん……」

楓「…何…?」

私と楓くんの顔は、赤かった。私は、恐る恐る楓くんに話しかけた。

蒼葉「…見た…?」

楓「…っ…!」

楓くんは、そっぽを向いて黙り込んでしまった。そして、数秒後、小さく頷いた。

私の恥ずかしさは、とうとう限界を迎えてしまった。好きな人に、本来見られてはいけないところを見られてしまった。

そう思うと、私の羞恥心は、さらに強くなる。

しばらく重い空気が流れ、双葉が帰ってきた。

蒼葉「あっ、双葉どこ行ってたの?」

双葉「ん?トイレ」

蒼葉「そう…」

双葉「それよりお姉ちゃんどうしたの?顔赤いよ?」

蒼葉「あっ…!えっと、それは…その……」

蒼葉「お…お風呂上がりだから…?」

双葉「…ふーん」

双葉の相変わらず素っ気ない態度。でも、これで何とか誤魔化すことはできた。

-✳-

楓くんのお母さんが腕を振るった夜ご飯が食卓に並ぶ。

今夜のメインは、特製の手作りハンバーグだ。デミグラスソースの香ばしい匂いが部屋中に広がって、いつもなら双葉と真っ先に箸を伸ばすはずだった。

​楓お母さん「さあ、冷めないうちに召し上がれ!」

双葉「わーい! おばさんのハンバーグ、世界で一番好き!」

​双葉が嬉々として椅子に座る。対照的に、私と楓くんは、まるでお互いの存在を消し去ろうとするかのように、不自然なほど静かに席についた。

ちょうど、向かい合わせの席。ふと視線を上げれば、どうしても楓くんの顔が視界に入ってしまう。

​蒼葉(……見られたんだ、本当に……)

​さっきの脱衣所での、楓くんの射抜くような視線を思い出して、私は慌てて手元のサラダを口に運んだ。ドレッシングの味が全くしない。

​楓お母さん「……楓、あんたさっきからハンバーグ、箸でつつきすぎじゃない? 食べないなら私がもらうわよ」

楓「っ……! 食べるよ、今。……うるさいな」

​楓くんの声が、どこか上ずっている。彼もまた、私と同じように心ここにあらずなのだ。

そんな私たちの様子を、楓くんのお母さんが不思議そうに眺めていた。

​楓お母さん「どうしたの二人とも。なんだか今日は、妙に静かね? ケンカでもした?」

楓「……別に。……してないよ」

楓くんが短く答えて、慌ててハンバーグを口に押し込む。

楓お母さん「そう? 蒼葉ちゃんも、お風呂上がりにしては顔が赤すぎる気がするけど……。のぼせちゃったのかしら」

​蒼葉「えっ!? あ、あの、そうです! ちょっと長湯しちゃったみたいで……! あは、あはは……」

​私は必死に愛想笑いを浮かべた。隣で双葉が「お姉ちゃん、さっきからそればっかり」と呆れたように呟く。

双葉と楓くんのお母さんは、「最近の学校はどう?」なんて楽しげに話を咲かせているけれど、私と楓くんの間には、目に見えないほど厚い「気まずさの壁」がそびえ立っていた。

​一度も目が合わないまま、食事は終わった。食器を片付ける時、楓くんと手が触れそうになり、二人同時に「っ……!」と大きく身を引いてしまった。

​楓お母さん「あら、息ぴったりね」

楓くんのお母さんの何気ない冗談が、今の私たちには最大の刃となって突き刺さる。

-✳- 

夜が更けていく。

寝る準備をするために、私たちは再び二階へと上がった。今日は、楓くんのお母さんが気を利かせて、楓くんの部屋に三人分の布団を並べて敷いてくれていた。

照明を落とした、青白い月光が差し込む部屋。中央に私、右側に双葉、そして左側に楓くん。

昨日のソファとは比べ物にならないほど、その距離は近い。

双葉は遊び疲れたのか、布団に入って数分で「すぅ、すぅ」と規則正しい寝息を立て始めた。

残されたのは、意識が冴え渡ってしまった私と楓くんの二人だけ。

​暗闇の中で、楓くんが寝返りを打った。布団が擦れる音。そのわずかな振動さえも、私の心臓を激しく揺さぶる。

蒼葉(……眠れない。楓くんの体温が、すぐそこに感じる……)

​さっきまで気まずいと思っていたはずなのに。暗闇の中で二人きり(※双葉は寝ているけれど)になると、今度は別の熱がじわじわと込み上げてくる。

私は、布団の端をぎゅっと握りしめ、楓くんがいる左側を見ることができないまま、ただ天井の木目を見つめ続けていた。

静寂が支配する部屋の中で、双葉の寝息だけが遠く聞こえる。

私は、隣の布団から伝わってくる楓くんの微かな気配に、すべての感覚を集中させていた。

脱衣所で見られたあの瞬間。気まずくて、死にたくなるほど恥ずかしかったはずなのに。

暗闇に包まれると、その羞恥心は、もっと別の……彼に触れたいという、切実な渇望に変わっていた。

​蒼葉(……ダメかな。……言ったら、嫌われるかな)


心臓が痛いほど脈打つ。私は意を決して、布団の中でゆっくりと寝返りを打った。楓くんの方を向く。

暗闇に目が慣れてくると、彼もまた、こちらを向いて目を開けているのが分かった。

視線が、熱く重なり合う。

​蒼葉「……楓、くん」

楓「……ん」

​ひそひそ声。二人だけの、秘密の周波数。私は震える手を伸ばし、楓くんの布団の端を、ぎゅっと、壊れ物を扱うように掴んだ。

​蒼葉「……今日、いろいろあって……。……私、なんだか、ドキドキして眠れないの」

楓「……俺も、同じだよ」 

​楓くんの声が、少しだけ掠れている。私はさらに指先に力を込め、喉の奥まで上がってきた言葉を、絞り出すように口にした。

​蒼葉「……ねぇ、楓くん。……わがまま、言ってもいい?」

楓「……なんだよ」

​蒼葉「……一緒に、寝たい。……楓くんの布団に、入れて?」

​言った。言ってしまった。楓くんの息が、一瞬止まったのが分かった。

沈黙…。

自分の心臓の音が、部屋中に響いているのではないかと思うほどうるさい。 嫌だと言われたら、私はもう明日、どんな顔をして彼に会えばいいのか分からない。

​けれど。

​楓「…………こっち、来いよ」

​楓くんの手が、そっと自分の布団の端をめくった。私は吸い寄せられるように、自分の布団を抜け出し、彼の布団の中へと潜り込んだ。

​そこは、想像していたよりもずっと熱くて、そして、楓くんの匂いで満たされていた。

蒼葉「……っ!」

​布団の中で、二人の身体が密着する。私の背中に楓くんの胸が当たり、彼の腕が、おずおずと、けれどしっかりと私の腰に回された。

海辺の時よりも、もっと近い。

楓「……蒼葉、心臓……すごい速いぞ」

蒼葉「……楓くんだって……」

​背中越しに伝わってくる、楓くんの激しい心拍。それは波の音よりもずっと確かな、彼が私を「女の子」として意識している証拠だった。

私は楓くんの腕の中にすっぽりと収まり、その温もりに顔を埋めた。

見られてしまった恥ずかしさも、明日の不安も、今はどうでもいい。

ただ、この熱だけが、私の世界のすべてだった。
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