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-鳴り止まない蒼き残響(レゾナンス)-
Episode12 -7月30日-
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カーテンの隙間から差し込む、夏の朝の白く鋭い光。それがまぶたの裏を叩き、私はゆっくりと意識を浮上させた。
蒼葉「……ん……」
目を開けた瞬間、視界が彼の鎖骨あたりで塞がっていることに気づき、ドクン、と心臓が跳ねた。
視線を少し上げれば、そこにはまだ深い眠りの中にいる楓くんの寝顔がある。
昨夜、震える声で「一緒に寝たい」と願ったあの瞬間。あれは、夢じゃなかったんだ。
蒼葉(……温かい……)
本来なら、双葉が起きる前に自分の布団へ戻るべきだろう。それが「幼馴染」としての正しい境界線の守り方だ。
けれど、腕の中に残る楓くんの確かな体温と、鼻先をくすぐるパジャマ越しの彼の匂いが、私の理性を甘く溶かしていく。
蒼葉(あと少しだけ……。双葉が起きる、その瞬間までだけでいいから……)
私は自分への言い訳を胸の中で繰り返しながら、確信犯的に、楓くんの胸元へさらに深く顔を埋めた。
細い指先で彼のパジャマの裾をぎゅっと掴み、その温もりに縋りつく。
その時、楓くんの身体がピクりと動いた。
蒼葉「……っ……」
しまった、起こしちゃった──。
私は咄嗟に目を閉じ、寝たふりをした。楓くんがゆっくりと目を開ける気配がする。彼はすぐに、自分の胸元に顔を押し付けて、離れようとしない私の存在に気づいたはずだ。
静寂。
聞こえるのは、私の激しい心音と、楓くんの少し乱れた呼吸音だけ。
楓くんが困って私を引き離すのを覚悟したけれど…。彼の手が、私の背中にそっと添えられた。
驚いて目を開けそうになるのを必死に堪える。
楓くんは、私が起きていることに気づいているのかもしれない。それでも、彼は何も言わず、むしろ愛おしさを噛み締めるように、私の小さな身体をより強く、その胸に抱き寄せた。
蒼葉(楓くん……。私、……もう、離れられないよ……)
布団の中で、二人の身体が昨日よりもさらに深く密着する。
背中に回された彼の腕の力強さ。トクン、トクンと、私の鼓動に重なるように響く、彼の速い心音。
今、私の世界のすべては、この布団の中に籠もった熱気と、大好きな人の心拍音だけ。
魔法が解けるまでの、刹那の楽園。私は楓くんの胸に耳を当て、その音を一生忘れないように、深く、深く刻み込んだ。
双葉「……んぅ……。……お姉ちゃん、お兄ちゃん……」
その時、不意に、下の布団から双葉の眠たげな声が響いた。
私たちは、雷に打たれたように同時に身体を強張らせた。
双葉「……何、朝から……。二人して……暑苦しいんだけど……」
双葉がゆっくりと上体を起こし、目を擦りながらこちらのベッドを見上げる。
私は弾かれたように楓くんから距離を取り、顔を真っ赤にして布団の端に転がった。
蒼葉「……な、何でもないわよ! 双葉、おはよう!」
双葉「……お兄ちゃん。あんた、昨日から蒼葉を甘やかしすぎ」
双葉のジト目。
楓くんは真っ赤な顔をしてそっぽを向き、「……うるせぇ。先に洗面所行ってくる」と、逃げるように部屋を飛び出していった。
私は、彼が去った後の冷えたシーツを見つめ、火照った頬を両手で押さえた。
今日は、7月30日。夏祭りの前日。
この甘い朝の余韻が、私を運命へと突き動かしていた。
-✳-
私は、顔を赤くしながらも、布団から出て、着替え始めた。
楓くんが帰ってくるまでに、私服に着替えなければ。そう思いながら、急いで着替え始める。
双葉「…お姉ちゃん、何でそんなに急いでるの?」
蒼葉「…えっ…!?あっ、それは…えっと……」
双葉は、まだ昨日のハプニングの事は、全く知らない。しかも、ここで「昨日楓くんに下着姿を見られた」などとは、口が裂けても言えない。
双葉「…お姉ちゃん、私に隠し事?」
蒼葉「いやっ…そういうわけじゃ……」
双葉「…ふーん?ま、後でお兄ちゃんに聞けばいっか」
私は、ここで双葉に負けたくなくて、勢いで、反論した。
蒼葉「…ふ、双葉こそ…!…楓くんに…ツンツンしてるじゃん!デレ…なよ…!」
双葉「…っ!お姉ちゃんのバカ…!」
双葉は、顔を赤くして、その場に俯いてしまった。…少し、言い過ぎただろうか。
双葉がこのモードになった時、いつも面倒くさいことになる。
だから、放置しておくのが、今の私にとっては最適解なのではないかと思う。
そろそろ、楓くんが戻ってくる頃だろう。私は、急いで着替えを済ませた。
着替えを済ませたその時、楓くんが部屋に、戻ってきた。
楓「なぁ蒼葉、俺も着替えたいから部屋から1回部屋から出てもらってもいいか?」
蒼葉「あっ、うん…!そうだね…」
私の声につられて、双葉も立ち上がり、後ろから私の服を掴んで、一緒に楓くんの部屋を出た。
-✳-
楓くんが着替え終わり、部屋から出てきた。その瞬間の出来事だった。
普段から、楓くんには、冷たい態度をとる双葉が、小さな声で「…お兄ちゃん」と言い、楓くんに抱きついたのだ。
蒼葉「えっ…?双葉…?」
これには、さすがの私でも驚いた。あのツンデレな双葉が急に甘え始める。
これはいくらなんでもおかしい。
そう思った私は、記憶を探ってみた。すると、先程の記憶が蘇った。
蒼葉『…ふ、双葉こそ…!…楓くんに…ツンツンしてるじゃん!デレ…なよ…!』
この「デレ」という言葉が、今の双葉の心に深く刺さっていると思う。
じゃないと、双葉がこんなに楓くんに甘えることは、到底無い。
楓くんは、戸惑っていた。私が抱きつくなら、まだ理解できるけど、双葉が抱きつくのは、いくらなんでもあり得ないと言えるほどである。
双葉「……お兄ちゃん、……行かないで」
消え入りそうな、けれど確かな甘えを含んだ声。
双葉は楓くんの腰にしがみついたまま、その顔を彼の背中にうずめている。
いつもなら「うざい」「ざぁーこ」と毒を吐いている彼女の、あまりの豹変ぶりに、部屋の空気が凍りついた。
楓「おい、双葉ちゃん……? どうしたんだよ。熱でもあるのか?」
双葉「……熱なんてない。……ただ、こうしてたいだけ」
楓くんが戸惑いながら私の顔を見るけれど、私だって固まることしかできない。
……あ。
私の脳裏に、数分前の自分の言葉がリフレインした。
蒼葉『──双葉こそ、楓くんにツンツンしてるじゃん! デレなよ……!』
蒼葉(……まさか、私のあの言葉のせい!?)
あんなに頑なだった双葉の「ツン」が、私の冗談めいた一言で、こんなにも脆く崩れてしまうなんて。
双葉はさらに腕に力を込め、楓くんのパジャマをぎゅっと握りしめる。
双葉「……お兄ちゃん、大好き。……ずっと、私のそばにいて」
楓「なっ……!?」
楓くんの顔が、耳まで真っ赤に染まる。一方の私も、胸の奥がチクリと痛んだ。
私の大好きな楓くんを、一番近い距離で独占している双葉。それが妹としての甘えだと分かっていても、今の「デレ全開」の彼女は、同じ女の子としてあまりにも強力なライバルに見えてしまったから。
楓お母さん「あらあら……。朝からずいぶんと仲良しね」
背後から響いた明るい声に、三人の肩が跳ねた。
振り返ると、エプロン姿の楓くんのお母さんが、目を細めて微笑みながら入り口に立っていた。
楓「か、母さん! 違うんだ、これは双葉が急に……!」
楓お母さん「ふふ、いいじゃない。なんだか、二人とも小さかった頃を思い出しちゃうわね」
お母さんは、懐かしむように、どこか遠くを見るような瞳で語り始めた。
楓お母さん「双葉ちゃん、小さい時は本当に楓にべったりでね。楓が学校に行こうとするたびに、こうして泣いて縋り付いて……。……そう、あの子が『いなくなる』前までは、ずっとそうだったわね」
お母さんの言葉に、一瞬だけ、風が止まったような静寂が流れた。
『あの子がいなくなる前』
私は、その言葉にふと疑問を抱いた。「あの子」とは、いったい誰のことなのだろう。
楓お母さん「……さあ、湿っぽい話はおしまい! せっかくの最終日の朝なんだから、美味しいご飯を食べましょう?」
お母さんに促されるようにして、私たちはリビングへ移動した。
食卓には、こんがりと焼けた厚切りトーストと、湯気を立てるスクランブルエッグ。
双葉は席についても、まだ楓くんの袖を掴んだまま、時折彼に「……あーんして」と囁き、楓くんを悶絶させている。
蒼葉(……双葉、本当にどうしちゃったの……?)
賑やかな、けれどどこか「不自然なほど幸せすぎる」朝食。
私は、オレンジジュースのグラスを持つ手が微かに震えているのを隠しながら、無理やり笑顔を作った。
この「デレ」が、単なる双葉の気まぐれなのか。
私は、複雑な感情だった。
-✳-
朝ご飯を食べ終わった後、私は楓くんを彼の部屋に呼んだ。楓くんのお母さんが言っていた「あの子」について聞きたかったからだ。
私は、楓くんにベッドに座るように言い、その隣に、私も座った。
蒼葉「ねぇ楓くん、さっきのあの子って誰のこと…?」
楓「あー、陽葵のこと?」
蒼葉「ひま…り…?」
楓「そう、俺の妹だよ」
蒼葉「えっ…でもいないよ…?」
楓「…陽葵はよ、昔っから身体が弱くてよく入院してたんだ」
蒼葉「今は…どうしてるの?」
私がそう言った瞬間、一瞬の沈黙が流れた。
楓「……亡くなった、病気で」
蒼葉「えっ……?」
楓「もう10年くらい前の話だよ」
楓くんは、無理に笑顔を作ろうとしていた。でも、それが楓くんにとって辛いことだと、私は分かっていた。
楓「あの時…母さん子どもみたいに泣き喚いてたな……ま、俺も泣いたけどね」
楓「…悪いな、母さんのせいで重い話を…」
蒼葉「えっ…!あっ、いや!全然大丈夫…!」
その後、楓くんから陽葵ちゃんについて、詳しく聞いた。
陽葵ちゃんは、生まれつき病気を持っていて、5歳までしか生きられないと告げられていた。
お医者さんも、不治の病だって言っていた。
それでも、陽葵ちゃんは、小さな身体で生きようとしていた。楓くんと遊びたい、もっと一緒にいたいという気持ちがあったから。
でも、5歳になった夏…。
陽葵ちゃんは静かに息を引き取ってしまった…。
楓くんからは、ここまでしか伝えられなかった。病名などの詳しい情報は、覚えていないらしいが、楓くんから聞いた内容は、相当重く、辛い内容だった。
私と出会う前に、こんなことがあったとは……。
楓くんの部屋を出た後、私の胸の奥には、鉛を飲み込んだような重苦しさが居座っていた。
楓くんが無理に作った笑顔が、網膜に焼き付いて離れない。彼がずっと独りで抱えてきた、妹との別れ。
私は、リビングで片付けをしていたお母さんのもとへ向かった。
蒼葉「……おばさん」
楓お母さん「あら、蒼葉ちゃん。どうしたの? そんなに真剣な顔をして」
私は、楓くんから聞いた陽葵ちゃんのことを、もっと詳しく知りたいと伝えた。楓くんのお母さんは一瞬、動きを止めたけれど、すぐに優しく目を細めて「いいわよ」と答えてくれた。
楓くんのお母さんが奥の部屋から持ってきたのは、一冊の分厚いアルバムだった。
テーブルに広げられた写真の中には、驚くほど楓くんに似た、けれどどこか儚げな美少女がいた。
楓お母さん「この子が、陽葵……。生まれた時はね、本当に小さくて……。お医者様からは、心臓の血管が複雑に絡み合う難病だって告げられたの。……名前は覚えてないけれど、何万人に一人という、とても珍しい病気でね」
おばさんの指が、生まれたばかりの陽葵ちゃんの写真をなぞる。保育器の中で、たくさんの管に繋がれながらも、彼女は小さな手を懸命に伸ばしていた。
楓お母さん「陽葵はね、本当にお兄ちゃんが大好きだったの。楓が幼稚園から帰ってくると、どんなに体調が悪くても、一生懸命ベッドの上で笑ってみせるのよ。……あの子、自分の寿命を知っていたのかしらね。最期まで、自分のことより楓や私を気遣うような、優しすぎる子だったわ」
おばさんが語る陽葵ちゃんは、お花の紫陽花が大好きだったこと。甘いお菓子は食べられなかったけれど、楓くんが描いてくれたお菓子の絵を大事そうに抱えて寝ていたこと。
楓お母さん「五歳になった夏……、あの子は眠るように逝ったわ。最期にね、楓の手を握って『ありがとう、お兄ちゃん』って……。それが最期の言葉だった」
楓くんのお母さんの瞳から、一筋の涙が溢れる。
楓お母さん「陽葵が生きていたら、今頃は中学生だったはずね。……きっと、蒼葉ちゃんとも仲良くなれたと思うわ」
私は、アルバムに貼られた、少し色褪せた陽葵ちゃんの笑顔を見つめた。
その時、あの言葉が、不意に頭の中でリフレインした。
『誰かを救う度に、誰かが死ぬ』
もし、この世界のどこかに、彼女を救う「代償」があったとしたら。
陽葵ちゃんが死ななければならなかった理由が、誰かの幸せのためだったとしたら。
蒼葉(そんなの、……残酷すぎるよ)
私は、アルバムの中の彼女の笑顔に、心の中でそっと誓った。
楓くんが二度と、あんな悲しい笑顔をしなくて済むように。私が彼を、この世界の理から守ってみせる、と。
「……見せてくれて、ありがとうございます。おばさん」
アルバムを閉じる音が、楓くんの家の静かなリビングに響いた。
-✳-
お昼が近づいた頃、出張に行っていたお母さんが帰ってきた。
お母さん「ただいま2人とも~!」
お母さんは、玄関前で私と双葉が来るのを待っていた。
蒼葉「あ、お母さんお帰り!」
私が、玄関前を通ると、お母さんが重たそうな荷物を持って立っていた。
そして、同時に双葉も来た。双葉は、少し恥ずかしそうな顔をして、そっぽ向いていた。
双葉は、手紙っぽいものを持っていた。きっと、お母さんにあげるための手紙だろう。
お母さん「あら双葉、手に持ってるそれ、何?」
双葉「お、お母さんへの……手紙……」
双葉は、お母さんに視線を合わせず、顔を赤くしながら手紙を渡した。
お母さんが、わくわくしながら手紙を開けると、こう書いてあった。
『お母さんへ。いつもお仕事お疲れ様。私とってもいい子にしてたから、後でたくさん撫で撫でしてね。双葉より』
不器用な字で、少ししわくちゃになった手紙に、双葉のお母さんへの気持ちが書かれていた。
お母さんは、そっと微笑んだ。
お母さん「双葉、ちょっとこっち来て」
双葉は、恐る恐るお母さんに近づいた。その瞬間のことだった。
双葉「…っ!」
お母さんは、そっと双葉のことを抱きしめた。
お母さん「お母さんも、双葉のこと大好きだよ。後でたくさん撫で撫でしてあげるから」
お母さん「それと蒼葉」
蒼葉「ひゃっ…!?」
私は、急に話しかけられ変な声を出してしまった。恥ずかしくて、服の裾を掴みながら俯いてしまった。
お母さん「双葉のこと、ありがとね」
お母さんは微笑みながらそう言った。その顔は、まるで私の目の前に降り立った「女神」のようだった。
私は、お母さんに全力の笑顔を見せた。
明日はいよいよ夏祭り。お母さんの笑顔で緊張は多少解けたが、それでもまだ全然緊張している。
私達は、荷物をまとめ、楓くんのお母さんと楓くんにお礼をして、彼の家を後にした。
蒼葉「……ん……」
目を開けた瞬間、視界が彼の鎖骨あたりで塞がっていることに気づき、ドクン、と心臓が跳ねた。
視線を少し上げれば、そこにはまだ深い眠りの中にいる楓くんの寝顔がある。
昨夜、震える声で「一緒に寝たい」と願ったあの瞬間。あれは、夢じゃなかったんだ。
蒼葉(……温かい……)
本来なら、双葉が起きる前に自分の布団へ戻るべきだろう。それが「幼馴染」としての正しい境界線の守り方だ。
けれど、腕の中に残る楓くんの確かな体温と、鼻先をくすぐるパジャマ越しの彼の匂いが、私の理性を甘く溶かしていく。
蒼葉(あと少しだけ……。双葉が起きる、その瞬間までだけでいいから……)
私は自分への言い訳を胸の中で繰り返しながら、確信犯的に、楓くんの胸元へさらに深く顔を埋めた。
細い指先で彼のパジャマの裾をぎゅっと掴み、その温もりに縋りつく。
その時、楓くんの身体がピクりと動いた。
蒼葉「……っ……」
しまった、起こしちゃった──。
私は咄嗟に目を閉じ、寝たふりをした。楓くんがゆっくりと目を開ける気配がする。彼はすぐに、自分の胸元に顔を押し付けて、離れようとしない私の存在に気づいたはずだ。
静寂。
聞こえるのは、私の激しい心音と、楓くんの少し乱れた呼吸音だけ。
楓くんが困って私を引き離すのを覚悟したけれど…。彼の手が、私の背中にそっと添えられた。
驚いて目を開けそうになるのを必死に堪える。
楓くんは、私が起きていることに気づいているのかもしれない。それでも、彼は何も言わず、むしろ愛おしさを噛み締めるように、私の小さな身体をより強く、その胸に抱き寄せた。
蒼葉(楓くん……。私、……もう、離れられないよ……)
布団の中で、二人の身体が昨日よりもさらに深く密着する。
背中に回された彼の腕の力強さ。トクン、トクンと、私の鼓動に重なるように響く、彼の速い心音。
今、私の世界のすべては、この布団の中に籠もった熱気と、大好きな人の心拍音だけ。
魔法が解けるまでの、刹那の楽園。私は楓くんの胸に耳を当て、その音を一生忘れないように、深く、深く刻み込んだ。
双葉「……んぅ……。……お姉ちゃん、お兄ちゃん……」
その時、不意に、下の布団から双葉の眠たげな声が響いた。
私たちは、雷に打たれたように同時に身体を強張らせた。
双葉「……何、朝から……。二人して……暑苦しいんだけど……」
双葉がゆっくりと上体を起こし、目を擦りながらこちらのベッドを見上げる。
私は弾かれたように楓くんから距離を取り、顔を真っ赤にして布団の端に転がった。
蒼葉「……な、何でもないわよ! 双葉、おはよう!」
双葉「……お兄ちゃん。あんた、昨日から蒼葉を甘やかしすぎ」
双葉のジト目。
楓くんは真っ赤な顔をしてそっぽを向き、「……うるせぇ。先に洗面所行ってくる」と、逃げるように部屋を飛び出していった。
私は、彼が去った後の冷えたシーツを見つめ、火照った頬を両手で押さえた。
今日は、7月30日。夏祭りの前日。
この甘い朝の余韻が、私を運命へと突き動かしていた。
-✳-
私は、顔を赤くしながらも、布団から出て、着替え始めた。
楓くんが帰ってくるまでに、私服に着替えなければ。そう思いながら、急いで着替え始める。
双葉「…お姉ちゃん、何でそんなに急いでるの?」
蒼葉「…えっ…!?あっ、それは…えっと……」
双葉は、まだ昨日のハプニングの事は、全く知らない。しかも、ここで「昨日楓くんに下着姿を見られた」などとは、口が裂けても言えない。
双葉「…お姉ちゃん、私に隠し事?」
蒼葉「いやっ…そういうわけじゃ……」
双葉「…ふーん?ま、後でお兄ちゃんに聞けばいっか」
私は、ここで双葉に負けたくなくて、勢いで、反論した。
蒼葉「…ふ、双葉こそ…!…楓くんに…ツンツンしてるじゃん!デレ…なよ…!」
双葉「…っ!お姉ちゃんのバカ…!」
双葉は、顔を赤くして、その場に俯いてしまった。…少し、言い過ぎただろうか。
双葉がこのモードになった時、いつも面倒くさいことになる。
だから、放置しておくのが、今の私にとっては最適解なのではないかと思う。
そろそろ、楓くんが戻ってくる頃だろう。私は、急いで着替えを済ませた。
着替えを済ませたその時、楓くんが部屋に、戻ってきた。
楓「なぁ蒼葉、俺も着替えたいから部屋から1回部屋から出てもらってもいいか?」
蒼葉「あっ、うん…!そうだね…」
私の声につられて、双葉も立ち上がり、後ろから私の服を掴んで、一緒に楓くんの部屋を出た。
-✳-
楓くんが着替え終わり、部屋から出てきた。その瞬間の出来事だった。
普段から、楓くんには、冷たい態度をとる双葉が、小さな声で「…お兄ちゃん」と言い、楓くんに抱きついたのだ。
蒼葉「えっ…?双葉…?」
これには、さすがの私でも驚いた。あのツンデレな双葉が急に甘え始める。
これはいくらなんでもおかしい。
そう思った私は、記憶を探ってみた。すると、先程の記憶が蘇った。
蒼葉『…ふ、双葉こそ…!…楓くんに…ツンツンしてるじゃん!デレ…なよ…!』
この「デレ」という言葉が、今の双葉の心に深く刺さっていると思う。
じゃないと、双葉がこんなに楓くんに甘えることは、到底無い。
楓くんは、戸惑っていた。私が抱きつくなら、まだ理解できるけど、双葉が抱きつくのは、いくらなんでもあり得ないと言えるほどである。
双葉「……お兄ちゃん、……行かないで」
消え入りそうな、けれど確かな甘えを含んだ声。
双葉は楓くんの腰にしがみついたまま、その顔を彼の背中にうずめている。
いつもなら「うざい」「ざぁーこ」と毒を吐いている彼女の、あまりの豹変ぶりに、部屋の空気が凍りついた。
楓「おい、双葉ちゃん……? どうしたんだよ。熱でもあるのか?」
双葉「……熱なんてない。……ただ、こうしてたいだけ」
楓くんが戸惑いながら私の顔を見るけれど、私だって固まることしかできない。
……あ。
私の脳裏に、数分前の自分の言葉がリフレインした。
蒼葉『──双葉こそ、楓くんにツンツンしてるじゃん! デレなよ……!』
蒼葉(……まさか、私のあの言葉のせい!?)
あんなに頑なだった双葉の「ツン」が、私の冗談めいた一言で、こんなにも脆く崩れてしまうなんて。
双葉はさらに腕に力を込め、楓くんのパジャマをぎゅっと握りしめる。
双葉「……お兄ちゃん、大好き。……ずっと、私のそばにいて」
楓「なっ……!?」
楓くんの顔が、耳まで真っ赤に染まる。一方の私も、胸の奥がチクリと痛んだ。
私の大好きな楓くんを、一番近い距離で独占している双葉。それが妹としての甘えだと分かっていても、今の「デレ全開」の彼女は、同じ女の子としてあまりにも強力なライバルに見えてしまったから。
楓お母さん「あらあら……。朝からずいぶんと仲良しね」
背後から響いた明るい声に、三人の肩が跳ねた。
振り返ると、エプロン姿の楓くんのお母さんが、目を細めて微笑みながら入り口に立っていた。
楓「か、母さん! 違うんだ、これは双葉が急に……!」
楓お母さん「ふふ、いいじゃない。なんだか、二人とも小さかった頃を思い出しちゃうわね」
お母さんは、懐かしむように、どこか遠くを見るような瞳で語り始めた。
楓お母さん「双葉ちゃん、小さい時は本当に楓にべったりでね。楓が学校に行こうとするたびに、こうして泣いて縋り付いて……。……そう、あの子が『いなくなる』前までは、ずっとそうだったわね」
お母さんの言葉に、一瞬だけ、風が止まったような静寂が流れた。
『あの子がいなくなる前』
私は、その言葉にふと疑問を抱いた。「あの子」とは、いったい誰のことなのだろう。
楓お母さん「……さあ、湿っぽい話はおしまい! せっかくの最終日の朝なんだから、美味しいご飯を食べましょう?」
お母さんに促されるようにして、私たちはリビングへ移動した。
食卓には、こんがりと焼けた厚切りトーストと、湯気を立てるスクランブルエッグ。
双葉は席についても、まだ楓くんの袖を掴んだまま、時折彼に「……あーんして」と囁き、楓くんを悶絶させている。
蒼葉(……双葉、本当にどうしちゃったの……?)
賑やかな、けれどどこか「不自然なほど幸せすぎる」朝食。
私は、オレンジジュースのグラスを持つ手が微かに震えているのを隠しながら、無理やり笑顔を作った。
この「デレ」が、単なる双葉の気まぐれなのか。
私は、複雑な感情だった。
-✳-
朝ご飯を食べ終わった後、私は楓くんを彼の部屋に呼んだ。楓くんのお母さんが言っていた「あの子」について聞きたかったからだ。
私は、楓くんにベッドに座るように言い、その隣に、私も座った。
蒼葉「ねぇ楓くん、さっきのあの子って誰のこと…?」
楓「あー、陽葵のこと?」
蒼葉「ひま…り…?」
楓「そう、俺の妹だよ」
蒼葉「えっ…でもいないよ…?」
楓「…陽葵はよ、昔っから身体が弱くてよく入院してたんだ」
蒼葉「今は…どうしてるの?」
私がそう言った瞬間、一瞬の沈黙が流れた。
楓「……亡くなった、病気で」
蒼葉「えっ……?」
楓「もう10年くらい前の話だよ」
楓くんは、無理に笑顔を作ろうとしていた。でも、それが楓くんにとって辛いことだと、私は分かっていた。
楓「あの時…母さん子どもみたいに泣き喚いてたな……ま、俺も泣いたけどね」
楓「…悪いな、母さんのせいで重い話を…」
蒼葉「えっ…!あっ、いや!全然大丈夫…!」
その後、楓くんから陽葵ちゃんについて、詳しく聞いた。
陽葵ちゃんは、生まれつき病気を持っていて、5歳までしか生きられないと告げられていた。
お医者さんも、不治の病だって言っていた。
それでも、陽葵ちゃんは、小さな身体で生きようとしていた。楓くんと遊びたい、もっと一緒にいたいという気持ちがあったから。
でも、5歳になった夏…。
陽葵ちゃんは静かに息を引き取ってしまった…。
楓くんからは、ここまでしか伝えられなかった。病名などの詳しい情報は、覚えていないらしいが、楓くんから聞いた内容は、相当重く、辛い内容だった。
私と出会う前に、こんなことがあったとは……。
楓くんの部屋を出た後、私の胸の奥には、鉛を飲み込んだような重苦しさが居座っていた。
楓くんが無理に作った笑顔が、網膜に焼き付いて離れない。彼がずっと独りで抱えてきた、妹との別れ。
私は、リビングで片付けをしていたお母さんのもとへ向かった。
蒼葉「……おばさん」
楓お母さん「あら、蒼葉ちゃん。どうしたの? そんなに真剣な顔をして」
私は、楓くんから聞いた陽葵ちゃんのことを、もっと詳しく知りたいと伝えた。楓くんのお母さんは一瞬、動きを止めたけれど、すぐに優しく目を細めて「いいわよ」と答えてくれた。
楓くんのお母さんが奥の部屋から持ってきたのは、一冊の分厚いアルバムだった。
テーブルに広げられた写真の中には、驚くほど楓くんに似た、けれどどこか儚げな美少女がいた。
楓お母さん「この子が、陽葵……。生まれた時はね、本当に小さくて……。お医者様からは、心臓の血管が複雑に絡み合う難病だって告げられたの。……名前は覚えてないけれど、何万人に一人という、とても珍しい病気でね」
おばさんの指が、生まれたばかりの陽葵ちゃんの写真をなぞる。保育器の中で、たくさんの管に繋がれながらも、彼女は小さな手を懸命に伸ばしていた。
楓お母さん「陽葵はね、本当にお兄ちゃんが大好きだったの。楓が幼稚園から帰ってくると、どんなに体調が悪くても、一生懸命ベッドの上で笑ってみせるのよ。……あの子、自分の寿命を知っていたのかしらね。最期まで、自分のことより楓や私を気遣うような、優しすぎる子だったわ」
おばさんが語る陽葵ちゃんは、お花の紫陽花が大好きだったこと。甘いお菓子は食べられなかったけれど、楓くんが描いてくれたお菓子の絵を大事そうに抱えて寝ていたこと。
楓お母さん「五歳になった夏……、あの子は眠るように逝ったわ。最期にね、楓の手を握って『ありがとう、お兄ちゃん』って……。それが最期の言葉だった」
楓くんのお母さんの瞳から、一筋の涙が溢れる。
楓お母さん「陽葵が生きていたら、今頃は中学生だったはずね。……きっと、蒼葉ちゃんとも仲良くなれたと思うわ」
私は、アルバムに貼られた、少し色褪せた陽葵ちゃんの笑顔を見つめた。
その時、あの言葉が、不意に頭の中でリフレインした。
『誰かを救う度に、誰かが死ぬ』
もし、この世界のどこかに、彼女を救う「代償」があったとしたら。
陽葵ちゃんが死ななければならなかった理由が、誰かの幸せのためだったとしたら。
蒼葉(そんなの、……残酷すぎるよ)
私は、アルバムの中の彼女の笑顔に、心の中でそっと誓った。
楓くんが二度と、あんな悲しい笑顔をしなくて済むように。私が彼を、この世界の理から守ってみせる、と。
「……見せてくれて、ありがとうございます。おばさん」
アルバムを閉じる音が、楓くんの家の静かなリビングに響いた。
-✳-
お昼が近づいた頃、出張に行っていたお母さんが帰ってきた。
お母さん「ただいま2人とも~!」
お母さんは、玄関前で私と双葉が来るのを待っていた。
蒼葉「あ、お母さんお帰り!」
私が、玄関前を通ると、お母さんが重たそうな荷物を持って立っていた。
そして、同時に双葉も来た。双葉は、少し恥ずかしそうな顔をして、そっぽ向いていた。
双葉は、手紙っぽいものを持っていた。きっと、お母さんにあげるための手紙だろう。
お母さん「あら双葉、手に持ってるそれ、何?」
双葉「お、お母さんへの……手紙……」
双葉は、お母さんに視線を合わせず、顔を赤くしながら手紙を渡した。
お母さんが、わくわくしながら手紙を開けると、こう書いてあった。
『お母さんへ。いつもお仕事お疲れ様。私とってもいい子にしてたから、後でたくさん撫で撫でしてね。双葉より』
不器用な字で、少ししわくちゃになった手紙に、双葉のお母さんへの気持ちが書かれていた。
お母さんは、そっと微笑んだ。
お母さん「双葉、ちょっとこっち来て」
双葉は、恐る恐るお母さんに近づいた。その瞬間のことだった。
双葉「…っ!」
お母さんは、そっと双葉のことを抱きしめた。
お母さん「お母さんも、双葉のこと大好きだよ。後でたくさん撫で撫でしてあげるから」
お母さん「それと蒼葉」
蒼葉「ひゃっ…!?」
私は、急に話しかけられ変な声を出してしまった。恥ずかしくて、服の裾を掴みながら俯いてしまった。
お母さん「双葉のこと、ありがとね」
お母さんは微笑みながらそう言った。その顔は、まるで私の目の前に降り立った「女神」のようだった。
私は、お母さんに全力の笑顔を見せた。
明日はいよいよ夏祭り。お母さんの笑顔で緊張は多少解けたが、それでもまだ全然緊張している。
私達は、荷物をまとめ、楓くんのお母さんと楓くんにお礼をして、彼の家を後にした。
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