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-重く消えない記憶(メモリア)-
Episode22 -8月9日-
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窓の外では、不気味なほど鮮やかな夕焼けが病室を飲み込もうとしていた。
私は、冬姫から呼び出された。彼女は病院の資料室の隅で、私が持ち込んだお父さんの日記と、最新の双葉のバイタルデータを照らし合わせながら、冷徹なまでの静けさで口を開いた。
冬姫「蒼葉、昨日の双葉ちゃんの様子……あれは、医学的な意味での『退行』じゃない。もっと物理的で、不可逆的な現象よ」
冬姫は、日記の一節を指先でなぞった。そこには、お父さんの震える筆跡で『蝶が時間を食う』という奇妙な記述があった。
冬姫「いい、よく聞いて。蝶は、宿主の『記憶の重さ』を糧に成長する。けれど、蝶にとっての栄養とは、単なるデータとしての思い出ではないの。それは、その人間をその人間たらしめている『時間そのもの』なの」
冬姫は、デスクの上に置かれた一枚の図解──蝶が幼虫から蛹、そして成虫へと至るサイクルを描いた図──を、ペン先で叩いた。
冬姫「双葉ちゃんは、一つの器の中に、14年分の痛みを知る彼女と、何も知らない幼児としての彼女が、激しく混ざり合っている状態。蝶が宿主の『現在』を咀嚼し、それを羽化のエネルギーに変換する過程で、意識のノイズが発生しているの」
蒼葉「混ざり合っている……? じゃあ、双葉はまだ、私のことを……」
冬姫「ええ。でも、それは彼女にとってこの上ない地獄でしょうね。14歳の知性を持ったまま、自分の言葉が奪われ、思考が幼児化していく恐怖。あるいは、赤ん坊のような無垢な心に、突如として『死への恐怖』という大人の絶望が流れ込む苦痛。……今の彼女の脳内は、過去と現在が激しく衝突し、擦り切れている」
冬姫は、双葉が嘔吐や腹痛を繰り返している理由についても、淡々と「考察」を繋げていく。
冬姫「嘔吐や激痛は、身体的な拒絶反応。……宿主の肉体は『今』を生きようとしているのに、蝶がそれを『過去』へ引きずり戻そうとしている。時間が逆流しようとする際に生じる摩擦が、彼女の神経を焼き、内臓を軋ませているのよ。……そして、この混濁が解消される時は一つしかない」
冬姫が、私を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、親友としての同情すら許さない、観測者としての冷徹な光が宿っている。
冬姫「双葉ちゃんの『14年間』が、蝶にすべて食い尽くされた時よ。彼女が心身ともに、完全に0歳……つまり『この世に存在しなかった頃』まで遡りきったその瞬間に、蝶は完成し、彼女の器は壊れる。……それが、8月12日。お父さんが契約した、あの日よ」
冬姫の言葉は、まるで鋭いメスのように私の心を切り裂いていった。
双葉はただ壊れているのではない。
14年間の愛おしい時間を、一秒ずつ蝶に奪われ、存在そのものを消し去られようとしているのだ。
蒼葉「……あと、3日しかないのね」
私は自分の指が震えていることに気づいた。
冬姫は答えなかった。ただ、閉じられた日記の上に、一羽の青い蝶の翅のような影が落ちていた。
-✳-
(双葉視点に移る)
視界が、白く濁っている。遠くで誰かが笑っている。優しい声。でも、その優しさが私を殺そうとしていることに、今の「私」は気づけない。
双葉(……やめて。そこは、触らないで。私はもう、子供じゃない)
頭の奥で、14歳の私が叫んでいる。けれど、口から出るのは「あ、う……」という情けない吐息だけ。私の体は、私の意志を裏切り、赤ん坊のように看護師さんに身を預けていた。
看護師B「はい、双葉ちゃん。お薬の時間よ。これ飲んだら、またぐっすり眠れるからね」
差し出されたのは、ドロリとした甘いシロップ。幼児用の薬だ。
14歳の私は、それが私の思考をさらに濁らせ、蝶を太らせるための毒だと分かっている。全力で拒絶したい。器を叩き割りたい。でも、蝶が私の神経を支配し、無理やり口を開かせる。
双葉(苦い。……いいえ、甘い? もう、味が分からないよ。助けて、お姉ちゃん……)
薬を流し込まれた後、次は着替えが始まった。
看護師B「お洋服、着替えましょうね。このウサギさんのパジャマ、可愛いでしょ?」
かつての私なら、「子供っぽい」と一蹴したはずの趣味。それを、今の私は、キラキラした瞳で見つめている。
看護師さんが袖を通すたびに、肌に触れる手の感触が、なぜか心地よく感じてしまう。
プライドが、14年間の自尊心が、ボロボロと剥がれ落ちていく。羞恥心さえ、蝶の羽音にかき消されていく。
看護師B「さあ、絵本を読みましょう。今日は『おそらをとぶ、青いちょうちょ』のお話よ」
絵本の内容は、幼い私を夢中にさせた。けれど、14歳の私は、その物語の結末を知っている。蝶が最後、すべてを連れ去ってしまうことを。
看護師さんの声が響くたびに、私の頭の中に住む蝶が、嬉しそうに脈打つ。
そして、昼食の時間。出されたのは、形のない、ドロドロのペースト。
双葉(……味がしない。砂を噛んでるみたい。嫌だ、食べたくない)
感情は拒絶しているのに、体は機械的に咀嚼を繰り返す。無理やり詰め込まれた食事。腹部の奥で、あの「蝶の幼虫」がのたうち回るような、キツい刺激臭と不快感が膨れ上がっていく。
看護師C「いい子ね、全部食べられたわ。じゃあ、少しお昼寝しましょうか」
薄暗いカーテンの向こうに、お姉ちゃんと楓くんの気配はない。
深い眠り。その底で、私は14歳の私として、暗闇の中を彷徨っていた。
双葉(……帰らなきゃ。私は、あの日、お父さんと……)
その瞬間、猛烈な「逆流」が私を襲った。
双葉「っ……!! お、え……っ!」
眠りの中で、胃の底から熱いものがせり上がってくる。味のしなかった食事が、今は呪いのような腐敗臭を放ち、私の喉を焼いた。
嘔吐……。
シーツを汚し、口元を汚し、私は苦しさで目を覚ました。
双葉「あ、う……ぅ……あぁぁぁぁぁ!!」
幼児の私は、汚れに怯えて泣き叫ぶ。14歳の私は、自分の無惨な姿を認識して、絶望に打ちひしがれる。
二つの意識が混ざり合い、視界が青いノイズで埋め尽くされていく。
──もう、限界だ。
私の時間は、もう「ゼロ」に向かって加速している。汚れたシーツの上で、私は、14歳の冷めた瞳と、幼児の怯えた瞳を同時に揺らしながら、ただ窓の外の川を、じっと見つめていた。
悲鳴を聞いた看護師が駆けつけて来る。
看護師C「双葉ちゃん!大丈夫だよ。吐いちゃったのね……」
双葉「あ……ぅ……」
私が吐き戻したものは、すぐに処理され、一段落した。そして、再び私はベッドの上で、天井を眺めているだけの状態になってしまった。
-✳-
冬姫「蒼葉、双葉ちゃんの様子、私も一度見てみてもいい?」
蒼葉「うん…いいけど結構怖がるから……」
冬姫「大丈夫!私に任せなさい!」
その自信は、どこから来ているのかは分からないが、私は冬姫を信じることにした。
蛍「…お姉ちゃん達、最近怪しいよ…?」
蒼葉「えっ…!あっ、蛍ちゃん……」
蛍ちゃんもとうとう、黙って見過ごすことはできなくなっていた。
冬姫「蛍、あんたは課題あるでしょ」
蛍「課題よりもお姉ちゃん達がやってる事の方が興味あるもん」
冬姫「…っ、何とも言えない……」
私と冬姫と蛍ちゃんは、双葉のいる病院へと向かうことになった。
-✳-
病院の廊下は、消毒液の匂いと静寂が支配していた。私を先頭に、冬姫と蛍ちゃんが後に続く。病室の扉の前で、私が一度足を止めた。
蒼葉「……いい? 本当に、驚かないでね」
私のその言葉が、かえって二人の鼓動を速める。冬姫は一つ頷き、蛍は不安そうに私の服の裾を握りしめた。
ゆっくりと、扉が開く。白いシーツの上。かつての凛とした、どこか大人びていた双葉はそこにはいなかった。
彼女は、焦点の合わない瞳で、天井を泳ぐ埃を追うようにぼーっと見つめていた。その表情には、14歳の知性は微塵も感じられない。ただ、生理的に生きているだけの、空っぽの「器」のようだった。
「……え」
蛍ちゃんの口から、乾いた声が漏れた。冬姫も、私から話は聞いていたはずだった。冷静に分析できる自信もあった。
けれど、実際に目の当たりにした「人間が巻き戻る」という現象の異様さに、言葉を失い、ただ喉を鳴らすことしかできなかった。
蛍「双葉、ちゃん……? 嘘、でしょ……?」
蛍ちゃんの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。一緒に笑って、一緒に学校へ行って、将来の話だってしたはずの親友。
それが、今は自分の名前すら呼べない状態で、赤ん坊のように涎を垂らしている。
蛍ちゃんは堪えきれず、顔を覆って泣き崩れた。その泣き声に反応したのか、双葉がゆっくりと首を動かした。
私が「あ、危ないかも……」と身構えた、その時だった。
双葉「あ、う……あー、うぅ」
双葉が、蛍ちゃんの方を向いて、小さく声を上げた。看護師や私にさえ時折見せていた、あの「拒絶」や「怯え」がそこにはなかった。
双葉の頬が、ふわりと緩む。それは、無垢な赤ん坊が、一番好きなおもちゃを見つけた時のような、純粋な微笑みだった。
蛍「……私を、呼んでるの?」
蛍ちゃんが涙を拭い、恐る恐るベッドに近づく。双葉は、蛍が近づくのを待っていたかのように、小さな手をシーツの上に伸ばした。
構ってほしい、触れてほしいと言わんばかりの、甘えた仕草。
蛍「双葉ちゃん、私のこと……分かってくれるの?」
蛍ちゃんがその手をそっと握ると、双葉は嬉しそうに「きゃう!」と短い声を漏らした。
その様子を見て、私は驚きで目を見開く。
蒼葉「……不思議。私がお世話する時は、あんなに怖がるのに」
冬姫が、鋭い視線でその光景を見つめる。
冬姫「……おそらく、蛍の持つ『気配』が、双葉の中に残っている微かな『安心の記憶』を刺激しているのね。理屈じゃないわ、これは本能的な反応よ」
蛍ちゃんは、まだ涙で目を腫らしながらも、覚悟を決めたように言った。
蛍「お姉ちゃん。私、双葉ちゃんのお世話、やってみたい。……親友だもん。これくらい、させて」
-✳-
蛍ちゃん「お世話」が始まった。
まずは、乱れた前髪を櫛で整えてあげること。私がやろうとすれば暴れることもあったが、蛍ちゃんが「痛くないよ、綺麗にするね」と語りかけると、双葉はじっと大人しくして、蛍ちゃんの顔をじっと見つめ返している。
次は、よだれかけを替えてあげること。蛍ちゃんの手は震えていた。かつての対等な関係が崩れていく悲しみが、その震えに表れていた。
けれど、双葉の柔らかい首筋に触れたとき、蛍ちゃんはそこに確かな「命」を感じた。
蛍「……温かい。生きてる。……生きてるもんね、双葉ちゃん」
双葉は、蛍ちゃんの指をきゅっと握りしめた。その小さな手の力に、蛍ちゃんはまた涙を流しながら、でも今度はしっかりと微笑んで、双葉の頭を優しく撫でた。
その光景は、あまりにも美しく、そして救いようがないほどに残酷だった。
冬姫はその様子を無言でノートに記録し、私はそれを見守ることしかできない。
蛍ちゃんが献身的にお世話をすればするほど、そこにある「友情」の形が変質していく。
親友ではなく、飼い主とペットのように。あるいは、親と子のように。
双葉が「あーうー」と楽しそうに声を出すたびに、病室には、誰にも止められない「退行」の加速が、静かな絶望となって満ちていった。
-✳-
蛍ちゃんがしばらくお世話を続けた後、双葉は静かに眠りについた。
双葉「すぅ……すぅ……」
蛍ちゃんは、双葉の寝顔をじっと見つめていた。
その顔は、親友としてやれる事は全てやり切れたという顔をしていた。
蒼葉「蛍ちゃん…ほんとにすごいね…!」
蛍「いいえ、私にできることはこれくらいですよ……」
蛍ちゃんは、顔を少し赤くして照れていた。
そして、それから双葉は、一晩中、寝たきりになっていた……。
私は、冬姫から呼び出された。彼女は病院の資料室の隅で、私が持ち込んだお父さんの日記と、最新の双葉のバイタルデータを照らし合わせながら、冷徹なまでの静けさで口を開いた。
冬姫「蒼葉、昨日の双葉ちゃんの様子……あれは、医学的な意味での『退行』じゃない。もっと物理的で、不可逆的な現象よ」
冬姫は、日記の一節を指先でなぞった。そこには、お父さんの震える筆跡で『蝶が時間を食う』という奇妙な記述があった。
冬姫「いい、よく聞いて。蝶は、宿主の『記憶の重さ』を糧に成長する。けれど、蝶にとっての栄養とは、単なるデータとしての思い出ではないの。それは、その人間をその人間たらしめている『時間そのもの』なの」
冬姫は、デスクの上に置かれた一枚の図解──蝶が幼虫から蛹、そして成虫へと至るサイクルを描いた図──を、ペン先で叩いた。
冬姫「双葉ちゃんは、一つの器の中に、14年分の痛みを知る彼女と、何も知らない幼児としての彼女が、激しく混ざり合っている状態。蝶が宿主の『現在』を咀嚼し、それを羽化のエネルギーに変換する過程で、意識のノイズが発生しているの」
蒼葉「混ざり合っている……? じゃあ、双葉はまだ、私のことを……」
冬姫「ええ。でも、それは彼女にとってこの上ない地獄でしょうね。14歳の知性を持ったまま、自分の言葉が奪われ、思考が幼児化していく恐怖。あるいは、赤ん坊のような無垢な心に、突如として『死への恐怖』という大人の絶望が流れ込む苦痛。……今の彼女の脳内は、過去と現在が激しく衝突し、擦り切れている」
冬姫は、双葉が嘔吐や腹痛を繰り返している理由についても、淡々と「考察」を繋げていく。
冬姫「嘔吐や激痛は、身体的な拒絶反応。……宿主の肉体は『今』を生きようとしているのに、蝶がそれを『過去』へ引きずり戻そうとしている。時間が逆流しようとする際に生じる摩擦が、彼女の神経を焼き、内臓を軋ませているのよ。……そして、この混濁が解消される時は一つしかない」
冬姫が、私を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、親友としての同情すら許さない、観測者としての冷徹な光が宿っている。
冬姫「双葉ちゃんの『14年間』が、蝶にすべて食い尽くされた時よ。彼女が心身ともに、完全に0歳……つまり『この世に存在しなかった頃』まで遡りきったその瞬間に、蝶は完成し、彼女の器は壊れる。……それが、8月12日。お父さんが契約した、あの日よ」
冬姫の言葉は、まるで鋭いメスのように私の心を切り裂いていった。
双葉はただ壊れているのではない。
14年間の愛おしい時間を、一秒ずつ蝶に奪われ、存在そのものを消し去られようとしているのだ。
蒼葉「……あと、3日しかないのね」
私は自分の指が震えていることに気づいた。
冬姫は答えなかった。ただ、閉じられた日記の上に、一羽の青い蝶の翅のような影が落ちていた。
-✳-
(双葉視点に移る)
視界が、白く濁っている。遠くで誰かが笑っている。優しい声。でも、その優しさが私を殺そうとしていることに、今の「私」は気づけない。
双葉(……やめて。そこは、触らないで。私はもう、子供じゃない)
頭の奥で、14歳の私が叫んでいる。けれど、口から出るのは「あ、う……」という情けない吐息だけ。私の体は、私の意志を裏切り、赤ん坊のように看護師さんに身を預けていた。
看護師B「はい、双葉ちゃん。お薬の時間よ。これ飲んだら、またぐっすり眠れるからね」
差し出されたのは、ドロリとした甘いシロップ。幼児用の薬だ。
14歳の私は、それが私の思考をさらに濁らせ、蝶を太らせるための毒だと分かっている。全力で拒絶したい。器を叩き割りたい。でも、蝶が私の神経を支配し、無理やり口を開かせる。
双葉(苦い。……いいえ、甘い? もう、味が分からないよ。助けて、お姉ちゃん……)
薬を流し込まれた後、次は着替えが始まった。
看護師B「お洋服、着替えましょうね。このウサギさんのパジャマ、可愛いでしょ?」
かつての私なら、「子供っぽい」と一蹴したはずの趣味。それを、今の私は、キラキラした瞳で見つめている。
看護師さんが袖を通すたびに、肌に触れる手の感触が、なぜか心地よく感じてしまう。
プライドが、14年間の自尊心が、ボロボロと剥がれ落ちていく。羞恥心さえ、蝶の羽音にかき消されていく。
看護師B「さあ、絵本を読みましょう。今日は『おそらをとぶ、青いちょうちょ』のお話よ」
絵本の内容は、幼い私を夢中にさせた。けれど、14歳の私は、その物語の結末を知っている。蝶が最後、すべてを連れ去ってしまうことを。
看護師さんの声が響くたびに、私の頭の中に住む蝶が、嬉しそうに脈打つ。
そして、昼食の時間。出されたのは、形のない、ドロドロのペースト。
双葉(……味がしない。砂を噛んでるみたい。嫌だ、食べたくない)
感情は拒絶しているのに、体は機械的に咀嚼を繰り返す。無理やり詰め込まれた食事。腹部の奥で、あの「蝶の幼虫」がのたうち回るような、キツい刺激臭と不快感が膨れ上がっていく。
看護師C「いい子ね、全部食べられたわ。じゃあ、少しお昼寝しましょうか」
薄暗いカーテンの向こうに、お姉ちゃんと楓くんの気配はない。
深い眠り。その底で、私は14歳の私として、暗闇の中を彷徨っていた。
双葉(……帰らなきゃ。私は、あの日、お父さんと……)
その瞬間、猛烈な「逆流」が私を襲った。
双葉「っ……!! お、え……っ!」
眠りの中で、胃の底から熱いものがせり上がってくる。味のしなかった食事が、今は呪いのような腐敗臭を放ち、私の喉を焼いた。
嘔吐……。
シーツを汚し、口元を汚し、私は苦しさで目を覚ました。
双葉「あ、う……ぅ……あぁぁぁぁぁ!!」
幼児の私は、汚れに怯えて泣き叫ぶ。14歳の私は、自分の無惨な姿を認識して、絶望に打ちひしがれる。
二つの意識が混ざり合い、視界が青いノイズで埋め尽くされていく。
──もう、限界だ。
私の時間は、もう「ゼロ」に向かって加速している。汚れたシーツの上で、私は、14歳の冷めた瞳と、幼児の怯えた瞳を同時に揺らしながら、ただ窓の外の川を、じっと見つめていた。
悲鳴を聞いた看護師が駆けつけて来る。
看護師C「双葉ちゃん!大丈夫だよ。吐いちゃったのね……」
双葉「あ……ぅ……」
私が吐き戻したものは、すぐに処理され、一段落した。そして、再び私はベッドの上で、天井を眺めているだけの状態になってしまった。
-✳-
冬姫「蒼葉、双葉ちゃんの様子、私も一度見てみてもいい?」
蒼葉「うん…いいけど結構怖がるから……」
冬姫「大丈夫!私に任せなさい!」
その自信は、どこから来ているのかは分からないが、私は冬姫を信じることにした。
蛍「…お姉ちゃん達、最近怪しいよ…?」
蒼葉「えっ…!あっ、蛍ちゃん……」
蛍ちゃんもとうとう、黙って見過ごすことはできなくなっていた。
冬姫「蛍、あんたは課題あるでしょ」
蛍「課題よりもお姉ちゃん達がやってる事の方が興味あるもん」
冬姫「…っ、何とも言えない……」
私と冬姫と蛍ちゃんは、双葉のいる病院へと向かうことになった。
-✳-
病院の廊下は、消毒液の匂いと静寂が支配していた。私を先頭に、冬姫と蛍ちゃんが後に続く。病室の扉の前で、私が一度足を止めた。
蒼葉「……いい? 本当に、驚かないでね」
私のその言葉が、かえって二人の鼓動を速める。冬姫は一つ頷き、蛍は不安そうに私の服の裾を握りしめた。
ゆっくりと、扉が開く。白いシーツの上。かつての凛とした、どこか大人びていた双葉はそこにはいなかった。
彼女は、焦点の合わない瞳で、天井を泳ぐ埃を追うようにぼーっと見つめていた。その表情には、14歳の知性は微塵も感じられない。ただ、生理的に生きているだけの、空っぽの「器」のようだった。
「……え」
蛍ちゃんの口から、乾いた声が漏れた。冬姫も、私から話は聞いていたはずだった。冷静に分析できる自信もあった。
けれど、実際に目の当たりにした「人間が巻き戻る」という現象の異様さに、言葉を失い、ただ喉を鳴らすことしかできなかった。
蛍「双葉、ちゃん……? 嘘、でしょ……?」
蛍ちゃんの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。一緒に笑って、一緒に学校へ行って、将来の話だってしたはずの親友。
それが、今は自分の名前すら呼べない状態で、赤ん坊のように涎を垂らしている。
蛍ちゃんは堪えきれず、顔を覆って泣き崩れた。その泣き声に反応したのか、双葉がゆっくりと首を動かした。
私が「あ、危ないかも……」と身構えた、その時だった。
双葉「あ、う……あー、うぅ」
双葉が、蛍ちゃんの方を向いて、小さく声を上げた。看護師や私にさえ時折見せていた、あの「拒絶」や「怯え」がそこにはなかった。
双葉の頬が、ふわりと緩む。それは、無垢な赤ん坊が、一番好きなおもちゃを見つけた時のような、純粋な微笑みだった。
蛍「……私を、呼んでるの?」
蛍ちゃんが涙を拭い、恐る恐るベッドに近づく。双葉は、蛍が近づくのを待っていたかのように、小さな手をシーツの上に伸ばした。
構ってほしい、触れてほしいと言わんばかりの、甘えた仕草。
蛍「双葉ちゃん、私のこと……分かってくれるの?」
蛍ちゃんがその手をそっと握ると、双葉は嬉しそうに「きゃう!」と短い声を漏らした。
その様子を見て、私は驚きで目を見開く。
蒼葉「……不思議。私がお世話する時は、あんなに怖がるのに」
冬姫が、鋭い視線でその光景を見つめる。
冬姫「……おそらく、蛍の持つ『気配』が、双葉の中に残っている微かな『安心の記憶』を刺激しているのね。理屈じゃないわ、これは本能的な反応よ」
蛍ちゃんは、まだ涙で目を腫らしながらも、覚悟を決めたように言った。
蛍「お姉ちゃん。私、双葉ちゃんのお世話、やってみたい。……親友だもん。これくらい、させて」
-✳-
蛍ちゃん「お世話」が始まった。
まずは、乱れた前髪を櫛で整えてあげること。私がやろうとすれば暴れることもあったが、蛍ちゃんが「痛くないよ、綺麗にするね」と語りかけると、双葉はじっと大人しくして、蛍ちゃんの顔をじっと見つめ返している。
次は、よだれかけを替えてあげること。蛍ちゃんの手は震えていた。かつての対等な関係が崩れていく悲しみが、その震えに表れていた。
けれど、双葉の柔らかい首筋に触れたとき、蛍ちゃんはそこに確かな「命」を感じた。
蛍「……温かい。生きてる。……生きてるもんね、双葉ちゃん」
双葉は、蛍ちゃんの指をきゅっと握りしめた。その小さな手の力に、蛍ちゃんはまた涙を流しながら、でも今度はしっかりと微笑んで、双葉の頭を優しく撫でた。
その光景は、あまりにも美しく、そして救いようがないほどに残酷だった。
冬姫はその様子を無言でノートに記録し、私はそれを見守ることしかできない。
蛍ちゃんが献身的にお世話をすればするほど、そこにある「友情」の形が変質していく。
親友ではなく、飼い主とペットのように。あるいは、親と子のように。
双葉が「あーうー」と楽しそうに声を出すたびに、病室には、誰にも止められない「退行」の加速が、静かな絶望となって満ちていった。
-✳-
蛍ちゃんがしばらくお世話を続けた後、双葉は静かに眠りについた。
双葉「すぅ……すぅ……」
蛍ちゃんは、双葉の寝顔をじっと見つめていた。
その顔は、親友としてやれる事は全てやり切れたという顔をしていた。
蒼葉「蛍ちゃん…ほんとにすごいね…!」
蛍「いいえ、私にできることはこれくらいですよ……」
蛍ちゃんは、顔を少し赤くして照れていた。
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https://www.alphapolis.co.jp/novel/index?category_ids=110300&tag_ids=1043
凄いよかったでごんす