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第六話 「あるじさま」のお名前。

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「大丈夫かい? わたしはまた戻らないといけないけれど、後で何があったのか話しておくれ」

 それだけ告げて、後ろ髪を引かれる思いで踵を返すショウスケだが、本当に強く袖を引っ張られて足を進められなくなった。

「先程申し上げた以外に何もありません。ですが、一つだけ……」

 キョウコが背にしなだれかかってくる。

「もう少し、ここにいてくださいませんか?」
「どうしたんだい。やっぱり何か怖いことでもあったんじゃ」

 キョウコはふるふると首を振る。

「いえ、その……そうそう。転びかけた時に足を捻ってしまって……たいへん痛うございます」

 明らかに歯切れが悪かったのに、普段痛いも痒いも口にしないだけに、キョウコの言葉はすんなり信用された。
 ショウスケはすぐに厨に行って、冷水で絞った手拭いを取ってきた。
 戻らないキョウコを心配していたタツにわけを話し、ついでに客間に茶を足しに行くよう頼んできたので、少しばかり戻るのが遅くなっても大丈夫だ。

 ショウスケの腕が背中と膝の裏に回ると同時に、ふわりと身体が浮き上がって、キョウコは抱き上げられていた。
 突然のことに理解が追いつかないまま、作業部屋に運ばれ、畳の上に下ろされる。

「痛むのはどっち?」
「……あ、ええ。左……のような気がいたします」

 そういえば足を捻っていたのだった、とキョウコは思い出した。ショウスケとエイゲンを引き離しておきたいがための方便で、キョウコの足は腫れも何もしていない。
 それなのに大真面目に受け取って、この心配ぶりのショウスケだ。だからキョウコは、「秘密」を知られたくないのだ。

 ショウスケの手が小ぶりな踵を持ち上げて、足袋を脱がす。
 どの辺りが痛むのか、探すように肌を撫ぜる手がくすぐったくて、キョウコは爪先をぴくりと跳ねさせた。
 顔を上げたショウスケと視線が絡んだ瞬間、甘い痺れが全身を突き抜けた。キョウコは咄嗟に両手で口を覆う。その隙間から、熱を持った吐息がこぼれた。

「……っ」
「ごめんよ、痛かったかい」
「い、いえ……」

 ショウスケにその気などないのに、ひとり虚しく身を火照らすのが恥ずかしくてならない。こんな時でもなければ、身を差し出す口実を得たと思えただろうが、喪服に身を包んでおいてそんな気分にはなれない。
 細い足首に巻かれた手拭いの冷たさでさえ、煩悩を拭い去れはしまいと、キョウコは両手の下で息をついた。
 それが痛みに耐えている姿に見えたようで、ショウスケはますます表情を曇らす。

「こっちも冷やした方がよいね」

 右手首にまだエイゲンの指の痕が残っている。

「この程度、唾でも付けておけば治ります」
「剛胆だなぁ」

 ショウスケは呆れたように笑うが、本当の話だ。猫の時なら、痛いところも嫌な思いも、舐めて梳《くしけず》って綺麗にしていた。
 そんなことを話していると、赤い輪を括られた手首に柔らかな温もりを感じた。
 キョウコは目を疑う。夢でなければ、ショウスケの唇が、引き寄せられた手首に触れているではないか。

 唐突に鼓動が突き上げられて、キョウコは手を引っ込めた。それでショウスケもはっとして、我に返ったような、バツの悪い顔をしている。

「これはその……深い意味はなくて!」
「……ないのでございますか」
「ないです! ないない!」

 そこまで否定せずとも、と口を尖らすキョウコを遮って、ショウスケの弁明は続く。

「その痕、痛々しくて……! 何だろうな、見ていると嫌な感じがする、のか? 早く消えて欲しいけど、毛繕いというわけにもいかないし……ああ、いや、だからって唾を付けたわけでもないよ?
ごめんよ、今なにか拭くものを……ああ、そうだ! 冷やすんだった」
「お、お待ちくださいっ」

 慌てて厨に行こうとするショウスケを呼び止め、足の痛む演技も忘れ、深々と頭を下げた。

「お引き止めして申し訳ございませんでした。主人様のお手当てのおかげで、痛みもずっと良くなりましたので、もう平気でございます。御坊様方もお帰りの時間でございましょうから、行ってください」
「そう、かい? ……それではわたしは戻るけれど、おキョウさんはもう少しここで休んでおいで。急に動いてはいけないよ」
「はい、お言葉に甘えさせていただきます……」

 ショウスケの気配が去ってから、キョウコはようやく顔を上げられた。
 いつも澄まして主人を翻弄している少女の、こんなに戸惑った顔を見たことがあるだろうか。触れた頬は焼け石のように熱く、胸の鼓動はそれしか聞こえないくらいにうるさい。

(嘘に嘘を重ねて、こんなに幸福な時を過ごしているなんて……バチが当たりますね)

 手首に触れた愛しい温もりに己が唇を重ねて、猫は深く憂いの息を吐く。
 唾をつける、そこに深い意味などあるはずがないと思いながらも、キョウコは喜びを噛み締めずにいられなかった。

(あのお坊様、憎らしいことに変わりはございませんが、今日のところは許してやりましょう)

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