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本編 第二部(シオン・エンド編)
87. 熾火のような人
しおりを挟む結局、腰が抜けたせいで動けず、シオンに丁寧に体を洗いなおされた後、風呂場を出た。
タルボが待ち構えており、生ぬるい目を向ける。
「ですからディル様、一応、遠回しに一緒に入っていいのか訊きましたのに」
やっぱりタルボには分かっていたようだ。僕が恥ずかしさから黙り込むと、タルボはバスタオルを差し出した。
「レイブン卿、獲物を横取りされそうな犬みたいな顔をしないでくださいよ。いくら私でも空気は読みますからね。ほら、最後までお世話してください」
「ありがとうございます、タルボ殿」
苦笑をにじませた声で礼を言い、シオンはバスタオルを受け取る。脱衣所のベンチに僕を座らせると、てきぱきとふいていった。その手つきには、さっきのような甘さはない。最後にバスローブを着せかけると、タルボと交代して、シオンも身支度をする。
タルボは僕の髪に香油を塗ってから、魔導具のドライヤーを使って、髪をかわかす。
頭を触られるのは心地良く、僕はうとうとする。
「先にオイルを使うんですか?」
シオンが不思議そうに問う。
「ドライヤーの熱で髪が痛むので、先にこうして髪を保護するんですよ」
「なるほど。覚えておきます」
「使用人にも、ディル様に触らせたくないと? まったく、あなたの母君のおっしゃる通り、独占欲が強いようですね。束縛すると嫌われますよ」
「〈楽園〉でも決まった者しかオメガに触れないでしょう? 有象無象をディル様に近づけたくありませんから」
頭上で飛び交う言葉に、僕は視線を上げた。
「もしかして喧嘩してます?」
タルボがシオンを牽制して、シオンがタルボを有象無象呼ばわりしたような気がする。
「まさか、喧嘩などと。喧嘩は対等の者とするんですよ。私のはただの注意です」
「ははは……」
シオンは頬を引きつらせ、乾いた笑いをこぼした。灰色のシャツと黒いトラウザーズに着替えたシオンは、間に合わせらしきサンダルに素足を突っ込む。
「お部屋までお送りしますよ」
そして、それが当然と言わんばかりに、僕をひょいっと腕に抱える。疲れきっている僕は、まあいいかと身を預けた。
廊下に出ると、執事が待っていた。
「失礼ですが、主人から言付かっております。『すぐお詫びに参上したいところですが、お疲れでしょうから、改めて明日、ごあいさつにうかがいます』……とのことでございます」
僕はほっとした。
さすがに、風呂場前に待ち構えられていると気まずいし、今は眠すぎて、ろくな対応ができそうにない。
「わざわざの詫びは結構です。ネルに、『詫びはいらないと言っても、あなたは気にするでしょうから、これからの滞在中、毎日、自分で買い付けた花を届けに来てください』と伝えてください。今日は疲れたので休みます」
「せんえつながら、主人に代わりまして、寛大な処置に感謝申し上げます」
執事は深々と腰を折り、頭を下げた。
部屋に着くと、豪華な寝台に、シオンは僕をそっと下ろす。
シオンは丁寧にお辞儀をした。
「それでは、ごゆっくりお休みください」
「え、行ってしまうんですか」
「……ええと」
シオンはちらりとタルボを振り返る。タルボは体の前で腕を組み、じろりとシオンをにらむ。
「ディル様のお望みが最優先に決まっているでしょう」
「喜んでご一緒させていただきます」
シオンはぱあっとうれしそうに笑う。
「ディル様、保護者の許可が出ましたよ! すごく不服そうで後が怖いですが」
「言っておきますが」
タルボがちくりと前置きする。
「これ以上の手出しは禁止です。例えディル様のご要望でも、ですよ。お体にさわりますから。しつけが悪い犬は追い出しますからね」
シオンに注意するものの、タルボは飲み物や軽食を手早くサイドテーブルに並べる。
「ディル様、お休みになる前に、お水とお薬を飲んでください。念のために」
薬とはなんだろうか。その疑問はすぐに解けた。おなじみのまずい避妊薬である。
「分かりました。タルボ、わがままを言ってすみません」
「あなたのわがままなどささいなもの。最近は聞き訳が良くていらっしゃるので、私も腕のふるいがいがなくて、少し退屈ですよ。もっと困らせてくださって構いませんから」
これが僕を気遣わせないためなのか、本音なのか、ちょっと判断がつかない。
だが、シオンの分も水を置いていくあたり、タルボは優しい。
タルボが寝室を出て行くと、僕は素直に水と薬を飲んだ。苦味で目がさえたのは数秒で、すぐに目蓋が落ちてきた。
「おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい」
同じく水を飲んだシオンが、僕の隣に横たわる。ぬくもりを求めて、僕はシオンのほうにすり寄った。
「……シオン」
「はい」
「一ヶ月会えなくて寂しかったです。……なんて言うと、困らせてしまいますか」
前の世界では、こんなふうに感情を伝えるのは良くないこととされていた。王族は公務で忙しいのだから、理解を示すのが良い妻だったのだ。とにかく貴族というものは、感情をあらわにしてはいけなかった。
だから、自分から手を伸ばしてみるのは怖かった。迷惑だと嫌われたらという考えが、僕をとどまらせる。
でも今は疲れていて眠いせいか、抑圧している心がぽろりとこぼれた。
「うれしさしかありませんよ、ディル様」
間近に覗くシオンの青い目が、キラキラと輝いている。
「あなたといると、新しいことにばかり気づきます。寂しいとはネガティブな意味だと思っていましたが、好きな人に言われると、こんなに胸が温かくなるものなんですね」
シオンはしみじみとつぶやき、軽く身を起こして、僕の額にキスを落とす。
「ありがとうございます、ディル様。あなたが傍にいるだけで、何もかもに感謝してしまいます。暗く先の見えなかった私の人生にとって、あなたは希望の光です」
それは僕のほうだ。
王太子に捨てられてどん底にいた僕にとって、前の世界のシオンは、暗闇に浮かび上がる暖炉の熾火のようだった。
今でもそうだ。こうしていると心がやすらぐ。
――でも、本当に?
シオンは間違いなく良い人だと思うのに、それ以上、踏み込むのが怖い。あんなに愛していると言っていた王太子でさえ、あっさりと僕を裏切って、違う愛を手に入れた。シオンだけでない。ネルヴィスも、僕を裏切らないと言えるのだろうか。
ふっとシオンが苦笑を浮かべる。
「そんな悲しそうな顔をしないでください。私は後悔したくないので、できるだけ思いを口にしているんです。私もあなたに会えなくて寂しかった。一日が一週間ほどに感じましたよ。どうです、老けたんじゃないですか」
僕が口をつぐむので、シオンは冗談を言う。
「シオンは変わってないですよ」
そう返して、僕はシオンの背に手を回す。
「あなたといると、安心します。今の僕が言えるのは、これだけです」
僕はいたわりを込めて、シオンの背をゆるくなでる。
「すみません」
「謝らないでください。気持ちを押し付けたいわけではないんです。ただ、勝手にこぼれるだけで……。安心すると言っていただけるのは、騎士としては最高の誉れですよ」
シオンはそっと抱きしめ返す。
「さあ、もうお休みください」
穏やかな声に押されるように、僕は眠りに落ちた。
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