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第一部
21.俺は甘くて甘かった
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夏休みになると葵ちゃんが俺の家に入り浸ることが多くなった。
互いに習い事なんかで用事がある時以外はほとんど毎日来ている。彼女のお母さんがパートに出ることもあって、うちはちょっとした保育所みたいになっていた。
今日も葵ちゃんはうちにきた。手提げ鞄の中には夏休みの宿題のドリルが入っていた。
もちろん俺はほとんど宿題を終えている。あとは毎日絵日記をつけるだけの状態だ。
俺の部屋で葵ちゃんの宿題を見てあげることとなった。テーブルの上に算数のドリルと教科書が広げられた。
「えーと……、ひいて繰り下がるから……」
葵ちゃんは指を折りながら計算している。その仕草はいかにも子供らしくてかわいかった。
足し算引き算程度なので簡単な問題ばかりだ。だけど葵ちゃんのためにも俺が口出しするわけにもいかない。本当に答えが出なさそうな時だけ教えてあげることにしている。
葵ちゃんは時間をかけながらも問題を解いていく。問題は簡単だけど数が多いので休憩しながらだ。
「俊成ちゃん葵ちゃん、スイカ切ったんだけど食べる?」
「うん、食べるよ」
「葵も食べるー」
母がスイカを持ってきてくれた。前世ではめっきり食べなくなっていたな。子供の頃は夏の定番だったというのに、独り身だとわざわざ食べようとも思わなかった。
「葵ちゃん、塩かけてあげようか?」
「え? しょっぱくなっちゃうよ?」
「そんなことないんだよ。スイカに塩をかけると甘味が増すんだ」
「へぇー」
宮坂家では塩かけないのかな? ちなみに餡子にかけても甘味が増すのだ。
スイカを食べると硬い感触。種だ。種を皿に向かってぷぷぷと飛ばす。
小さい頃は庭に向かってどこまで飛ばせるかやったものである。その度に母に怒られていたっけか。これもまた夏の風物詩かな。
俺のマネをしてか、葵ちゃんも皿に向かってぺっぺっと吐いている。そんなやり方では距離は出せないぞ。いや、そういうつもりでもないか。
葵ちゃんの集中力の問題もあるので夏休みの宿題は小分けにやっている。このペースなら早めに終わりそうだ。
「グッモーニングエブリワン!」
葵ちゃんが何度もリピートアフターミーしている。この間行った英語教室の内容を話していたら、そのフレーズが気に入ったようだった。
ABCの歌を教えるとノリノリで歌い始めた。やっぱり歌って憶えやすいようにできているんだな。
こんな葵ちゃんを見ていたら英語を学びたくなってくる。前世では英語なんて苦手意識が強過ぎたせいでとくに成績の悪い科目だった。社会人になると英語しかできない人と接することなんてないし別にいいかと思っていたけれど、将来もっと良い仕事に就こうと思ったら英語は必要なスキルだろう。
「葵ちゃん葵ちゃん、いっしょに英語教室に通わない?」
別に一人が嫌ってわけじゃないけれど、一応葵ちゃんを誘ってみた。楽しそうにしているし、英語は彼女に合うと思うのだ。
けれど、葵ちゃんは俺の言葉にしょんぼりしてしまった。
「習い事は一つだけってお母さんと約束したの。葵はもうピアノをやってるからダメだと思う……」
うーむ。家庭の事情ならば仕方がないか。葵ちゃんのお母さんもパートを続けているみたいだし、まだお財布事情はよろしくないのだろうか? あのダンディーなお父さんを見ると仕事で失敗するタイプには見えないんだけどな。
それとも、あんまり一気にやらせるのは子供にとって難しいこととでも思っているのだろうか。この辺りは教育方針に関わることだし、俺から口出しできるものでもないだろう。
「だったら俺が葵ちゃんに英語を教えるよ」
「え?」
「俺の勉強にもなるし、葵ちゃんだってもっと英語をしゃべれるようになれば楽しいと思うしさ」
俺の提案に葵ちゃんは表情を輝かせた。
「うん! 俊成くんに教えてもらいたい!」
こりゃあがんばらないといけないな。葵ちゃんが本当に英語に興味を持っているとわかれば、おばさんだって考えが変わるかもしれない。学年が上がれば英語の必要性にも気づくだろう。
そんなわけで俺の習い事がまた一つ増えた。ちなみに水泳はすでに始めている。瞳子ちゃんと野沢先輩が喜んでくれたのでこっちもしっかりがんばらないとな。
※ ※ ※
「ん……ふぁ……」
朝から遊んでいると子供の体ではどこかで眠くなってしまう。なので葵ちゃんとはよくお昼寝をいっしょにしていたりする。
これも体の成長のために必要だからと眠気に任せて睡眠を取ることにしている。まあ葵ちゃんなんかいつの間にか俺のベッドで寝ていたりするので、俺だけ起きていても仕方がないだろう。
クーラーの風が心地良い。前世よりも幾分か暑さがマシとはいえ、昼間に気持ち良く寝ようと思ったらクーラーがあった方がいい。
遊んでる時なんかは窓を開けて扇風機があれば充分なんだけどな。寝る時くらいならいいだろう。ほら、葵ちゃんもいるしね。
「んー……」
くぅくぅと寝息が聞こえる。葵ちゃんはまだ夢の中のようだ。俺もまだ眠いので目を閉じた。
俺と葵ちゃんは並んでベッドで寝ていた。男女でいっしょのベッドだなんて、とか一瞬思ったけれど、俺達はまだ子供なのだ。いっしょにお昼寝するくらい許されるだろう。母も何も言わないし。
「お……?」
もぞもぞと動いたかと思えば葵ちゃんに抱きつかれた。寝息が耳元で聞こえる。どうやら抱き枕代わりにされてしまったらしい。
まあ抱きつかれるのはけっこう気持ち良いのでそのままでいることにする。ほら、葵ちゃんを起こすのも悪いしさ。うん。
「ふわぁ~……」
睡魔に負けて再度夢の世界へ。葵ちゃんの感触を確かめながら、良い夢を見るのだった。
そして、次に目を覚ました時には葵ちゃんと視線がバッチリ合った。
「……おはよう?」
「う、うんっ。おはよう……」
むくりと上体を起こす。体を伸ばすとすっきりしてきた。
葵ちゃんは俺よりも早く起きていたようで、ベッドの上にちょこんと座っていた。暇過ぎて俺を眺めていたのだろうか。起こしてくれても構わなかったのに。
彼女を見ているとなぜか目を逸らされた。はて? 葵ちゃんらしくない反応だな。
時間を確認する。葵ちゃんが帰る時間までまだ少し余裕がある。
さて、何をして遊ぼうか。おままごとだろうがなんだろうが付き合う心づもりはできている。
俺が葵ちゃんに尋ねるよりも早く、彼女が口を開いた。
「……トシくん」
と言った。俺は「ん?」と首をかしげた。
なんか微妙に違う呼ばれ方をした気がする。まだ眠気が残っているのだろうか?
俺が首をかしげたからか、葵ちゃんがわたわたと慌て出した。
「だ、だって俊成くんって呼ぶ人たくさんいるじゃない? 春香お姉ちゃんとか。だから葵はトシくんって呼びたいなって思ったの……」
葵ちゃんはそう言ってチラと俺に目を向ける。それが上目遣いだったからかわいさが五割増しになっていた。
葵ちゃんが言うほど俺を「俊成くん」と呼ぶ人が多いわけじゃない。ただ少しでも増えたのは確かだ。
それに瞳子ちゃんなんて呼び捨てだからな。それを意識してなのだろうか? 葵ちゃんが俺に対して少しだけ踏み込んできた。
人の呼び方を変えるのってきっかけがないとけっこう難しい。一度固定してしまうとなかなか変えるのに勇気がいると思う。ソースは俺。実際前世では下の名前で呼べる人はいなかった。仲良くなってもこのタイミングというのが難しいのだ。
幼いからできることなのか。いや、葵ちゃんの恐る恐るといった態度から決して気軽に口にしているわけじゃない。彼女なりに勇気を出したのだろう。もしかしたらもっと前から呼び方を変えたいと思っていたのかもしれない。
「もちろんいいよ」
俺は笑って葵ちゃんの頭を撫でた。彼女は「えへへ」と顔をほころばせる。本当にかわいいなぁ。
頷くのは当然だ。呼び方一つでもっと仲良くなれるのなら願ってもない。
頭を撫でられて気持ち良さそうにしていた葵ちゃんと視線がぶつかる。
そして、葵ちゃんの表情が真剣なものへと変わった。
子供らしく幼い彼女からは想像もしたことがなかった表情だった。一度も見たことがない真剣味を帯びた表情。これから何かを切り出す。そういった空気へと変わっていく。
そんな唐突な雰囲気の変化に、俺は葵ちゃんが口を開くまで固まってしまっていた。小学一年生相手に俺は飲まれていたのだろうか。
「トシくん」
まだたどたどしい呼び方だ。ただ、はっとさせられる声色だった。
葵ちゃんは俺をしっかりと見据える。かわいらしい雰囲気は今だけはなりを潜めていた。
「葵がちゃんとした大人になったら、結婚してくれますか?」
瞳子ちゃんと争って勢い任せで言ったものとは違う。それはちゃんとした彼女の言葉だった。
息を飲む。
まだ子供だ。ずっとそう言い聞かせていた。
結婚したいと思っている。だから葵ちゃんと仲良くなった。瞳子ちゃんが小学校を変えてまで俺といっしょにいたいと行動で示したのには驚いたけれど、好意を寄せられるのは嬉しかった。
まだ子供だ。だから二人の好意への答えはもっと大きくなってからでいい。そう思っていた。
二人が大きくなれば他に好きな人ができるかもしれない。そうしたら残った方と付き合おう。なんて、かなり最低なことを考えていた。認めよう。俺は最低な男だった。
葵ちゃんの瞳はどこまでも真っすぐで。本物の好きという感情を俺に突きつけてくる。
だからこそ気づかされる。前世という人生のアドバンテージを得ていながらも、俺には決定的に足りないものがあったのだ。
――俺は本気で人を好きになったことがなかったのだ。その事実を知って、自分の感情の欠落ぶりに頭が真っ白になった。
※ ※ ※
葵ちゃんを門限前に家へと送った。帰ってからベッドにダイブすると、疲れていたことを自覚する。
結局、俺は葵ちゃんに対して何も答えを返せなかった。
「はぁ……」
ため息が漏れる。
ちゃんとしてなかったのは俺だけだった。葵ちゃんも、瞳子ちゃんも、しっかり俺に意志を伝えていたというのに。俺は本当のところで本気にしていなかったのだ。
だからってすぐに答えを出せる問題でもない。どっちにしても結婚できる年齢はまだまだ先なのだ。
それでも本気で考えなければいけないものなのだとようやく理解させられた。葵ちゃんの言葉はそれだけ俺に衝撃を与えた。
ずっとほしかった「大人になったら結婚しようね」という言葉だったはずなのに、実際に言われてみると保留してしまう俺。情けない。
やれる? やれんのか? やれない? やるしかない?
抽象的な言葉が頭の中をぐるぐる回っている。恋愛経験のない前世の自分を恨みたい。
幼馴染と結婚するというような大層な計画を立てていながらも、実際の俺は甘かった。もう大甘だった。
本物は想像以上。今の俺には、人を好きになるということがとても難しくて複雑なものに思えてならなかったのである。
互いに習い事なんかで用事がある時以外はほとんど毎日来ている。彼女のお母さんがパートに出ることもあって、うちはちょっとした保育所みたいになっていた。
今日も葵ちゃんはうちにきた。手提げ鞄の中には夏休みの宿題のドリルが入っていた。
もちろん俺はほとんど宿題を終えている。あとは毎日絵日記をつけるだけの状態だ。
俺の部屋で葵ちゃんの宿題を見てあげることとなった。テーブルの上に算数のドリルと教科書が広げられた。
「えーと……、ひいて繰り下がるから……」
葵ちゃんは指を折りながら計算している。その仕草はいかにも子供らしくてかわいかった。
足し算引き算程度なので簡単な問題ばかりだ。だけど葵ちゃんのためにも俺が口出しするわけにもいかない。本当に答えが出なさそうな時だけ教えてあげることにしている。
葵ちゃんは時間をかけながらも問題を解いていく。問題は簡単だけど数が多いので休憩しながらだ。
「俊成ちゃん葵ちゃん、スイカ切ったんだけど食べる?」
「うん、食べるよ」
「葵も食べるー」
母がスイカを持ってきてくれた。前世ではめっきり食べなくなっていたな。子供の頃は夏の定番だったというのに、独り身だとわざわざ食べようとも思わなかった。
「葵ちゃん、塩かけてあげようか?」
「え? しょっぱくなっちゃうよ?」
「そんなことないんだよ。スイカに塩をかけると甘味が増すんだ」
「へぇー」
宮坂家では塩かけないのかな? ちなみに餡子にかけても甘味が増すのだ。
スイカを食べると硬い感触。種だ。種を皿に向かってぷぷぷと飛ばす。
小さい頃は庭に向かってどこまで飛ばせるかやったものである。その度に母に怒られていたっけか。これもまた夏の風物詩かな。
俺のマネをしてか、葵ちゃんも皿に向かってぺっぺっと吐いている。そんなやり方では距離は出せないぞ。いや、そういうつもりでもないか。
葵ちゃんの集中力の問題もあるので夏休みの宿題は小分けにやっている。このペースなら早めに終わりそうだ。
「グッモーニングエブリワン!」
葵ちゃんが何度もリピートアフターミーしている。この間行った英語教室の内容を話していたら、そのフレーズが気に入ったようだった。
ABCの歌を教えるとノリノリで歌い始めた。やっぱり歌って憶えやすいようにできているんだな。
こんな葵ちゃんを見ていたら英語を学びたくなってくる。前世では英語なんて苦手意識が強過ぎたせいでとくに成績の悪い科目だった。社会人になると英語しかできない人と接することなんてないし別にいいかと思っていたけれど、将来もっと良い仕事に就こうと思ったら英語は必要なスキルだろう。
「葵ちゃん葵ちゃん、いっしょに英語教室に通わない?」
別に一人が嫌ってわけじゃないけれど、一応葵ちゃんを誘ってみた。楽しそうにしているし、英語は彼女に合うと思うのだ。
けれど、葵ちゃんは俺の言葉にしょんぼりしてしまった。
「習い事は一つだけってお母さんと約束したの。葵はもうピアノをやってるからダメだと思う……」
うーむ。家庭の事情ならば仕方がないか。葵ちゃんのお母さんもパートを続けているみたいだし、まだお財布事情はよろしくないのだろうか? あのダンディーなお父さんを見ると仕事で失敗するタイプには見えないんだけどな。
それとも、あんまり一気にやらせるのは子供にとって難しいこととでも思っているのだろうか。この辺りは教育方針に関わることだし、俺から口出しできるものでもないだろう。
「だったら俺が葵ちゃんに英語を教えるよ」
「え?」
「俺の勉強にもなるし、葵ちゃんだってもっと英語をしゃべれるようになれば楽しいと思うしさ」
俺の提案に葵ちゃんは表情を輝かせた。
「うん! 俊成くんに教えてもらいたい!」
こりゃあがんばらないといけないな。葵ちゃんが本当に英語に興味を持っているとわかれば、おばさんだって考えが変わるかもしれない。学年が上がれば英語の必要性にも気づくだろう。
そんなわけで俺の習い事がまた一つ増えた。ちなみに水泳はすでに始めている。瞳子ちゃんと野沢先輩が喜んでくれたのでこっちもしっかりがんばらないとな。
※ ※ ※
「ん……ふぁ……」
朝から遊んでいると子供の体ではどこかで眠くなってしまう。なので葵ちゃんとはよくお昼寝をいっしょにしていたりする。
これも体の成長のために必要だからと眠気に任せて睡眠を取ることにしている。まあ葵ちゃんなんかいつの間にか俺のベッドで寝ていたりするので、俺だけ起きていても仕方がないだろう。
クーラーの風が心地良い。前世よりも幾分か暑さがマシとはいえ、昼間に気持ち良く寝ようと思ったらクーラーがあった方がいい。
遊んでる時なんかは窓を開けて扇風機があれば充分なんだけどな。寝る時くらいならいいだろう。ほら、葵ちゃんもいるしね。
「んー……」
くぅくぅと寝息が聞こえる。葵ちゃんはまだ夢の中のようだ。俺もまだ眠いので目を閉じた。
俺と葵ちゃんは並んでベッドで寝ていた。男女でいっしょのベッドだなんて、とか一瞬思ったけれど、俺達はまだ子供なのだ。いっしょにお昼寝するくらい許されるだろう。母も何も言わないし。
「お……?」
もぞもぞと動いたかと思えば葵ちゃんに抱きつかれた。寝息が耳元で聞こえる。どうやら抱き枕代わりにされてしまったらしい。
まあ抱きつかれるのはけっこう気持ち良いのでそのままでいることにする。ほら、葵ちゃんを起こすのも悪いしさ。うん。
「ふわぁ~……」
睡魔に負けて再度夢の世界へ。葵ちゃんの感触を確かめながら、良い夢を見るのだった。
そして、次に目を覚ました時には葵ちゃんと視線がバッチリ合った。
「……おはよう?」
「う、うんっ。おはよう……」
むくりと上体を起こす。体を伸ばすとすっきりしてきた。
葵ちゃんは俺よりも早く起きていたようで、ベッドの上にちょこんと座っていた。暇過ぎて俺を眺めていたのだろうか。起こしてくれても構わなかったのに。
彼女を見ているとなぜか目を逸らされた。はて? 葵ちゃんらしくない反応だな。
時間を確認する。葵ちゃんが帰る時間までまだ少し余裕がある。
さて、何をして遊ぼうか。おままごとだろうがなんだろうが付き合う心づもりはできている。
俺が葵ちゃんに尋ねるよりも早く、彼女が口を開いた。
「……トシくん」
と言った。俺は「ん?」と首をかしげた。
なんか微妙に違う呼ばれ方をした気がする。まだ眠気が残っているのだろうか?
俺が首をかしげたからか、葵ちゃんがわたわたと慌て出した。
「だ、だって俊成くんって呼ぶ人たくさんいるじゃない? 春香お姉ちゃんとか。だから葵はトシくんって呼びたいなって思ったの……」
葵ちゃんはそう言ってチラと俺に目を向ける。それが上目遣いだったからかわいさが五割増しになっていた。
葵ちゃんが言うほど俺を「俊成くん」と呼ぶ人が多いわけじゃない。ただ少しでも増えたのは確かだ。
それに瞳子ちゃんなんて呼び捨てだからな。それを意識してなのだろうか? 葵ちゃんが俺に対して少しだけ踏み込んできた。
人の呼び方を変えるのってきっかけがないとけっこう難しい。一度固定してしまうとなかなか変えるのに勇気がいると思う。ソースは俺。実際前世では下の名前で呼べる人はいなかった。仲良くなってもこのタイミングというのが難しいのだ。
幼いからできることなのか。いや、葵ちゃんの恐る恐るといった態度から決して気軽に口にしているわけじゃない。彼女なりに勇気を出したのだろう。もしかしたらもっと前から呼び方を変えたいと思っていたのかもしれない。
「もちろんいいよ」
俺は笑って葵ちゃんの頭を撫でた。彼女は「えへへ」と顔をほころばせる。本当にかわいいなぁ。
頷くのは当然だ。呼び方一つでもっと仲良くなれるのなら願ってもない。
頭を撫でられて気持ち良さそうにしていた葵ちゃんと視線がぶつかる。
そして、葵ちゃんの表情が真剣なものへと変わった。
子供らしく幼い彼女からは想像もしたことがなかった表情だった。一度も見たことがない真剣味を帯びた表情。これから何かを切り出す。そういった空気へと変わっていく。
そんな唐突な雰囲気の変化に、俺は葵ちゃんが口を開くまで固まってしまっていた。小学一年生相手に俺は飲まれていたのだろうか。
「トシくん」
まだたどたどしい呼び方だ。ただ、はっとさせられる声色だった。
葵ちゃんは俺をしっかりと見据える。かわいらしい雰囲気は今だけはなりを潜めていた。
「葵がちゃんとした大人になったら、結婚してくれますか?」
瞳子ちゃんと争って勢い任せで言ったものとは違う。それはちゃんとした彼女の言葉だった。
息を飲む。
まだ子供だ。ずっとそう言い聞かせていた。
結婚したいと思っている。だから葵ちゃんと仲良くなった。瞳子ちゃんが小学校を変えてまで俺といっしょにいたいと行動で示したのには驚いたけれど、好意を寄せられるのは嬉しかった。
まだ子供だ。だから二人の好意への答えはもっと大きくなってからでいい。そう思っていた。
二人が大きくなれば他に好きな人ができるかもしれない。そうしたら残った方と付き合おう。なんて、かなり最低なことを考えていた。認めよう。俺は最低な男だった。
葵ちゃんの瞳はどこまでも真っすぐで。本物の好きという感情を俺に突きつけてくる。
だからこそ気づかされる。前世という人生のアドバンテージを得ていながらも、俺には決定的に足りないものがあったのだ。
――俺は本気で人を好きになったことがなかったのだ。その事実を知って、自分の感情の欠落ぶりに頭が真っ白になった。
※ ※ ※
葵ちゃんを門限前に家へと送った。帰ってからベッドにダイブすると、疲れていたことを自覚する。
結局、俺は葵ちゃんに対して何も答えを返せなかった。
「はぁ……」
ため息が漏れる。
ちゃんとしてなかったのは俺だけだった。葵ちゃんも、瞳子ちゃんも、しっかり俺に意志を伝えていたというのに。俺は本当のところで本気にしていなかったのだ。
だからってすぐに答えを出せる問題でもない。どっちにしても結婚できる年齢はまだまだ先なのだ。
それでも本気で考えなければいけないものなのだとようやく理解させられた。葵ちゃんの言葉はそれだけ俺に衝撃を与えた。
ずっとほしかった「大人になったら結婚しようね」という言葉だったはずなのに、実際に言われてみると保留してしまう俺。情けない。
やれる? やれんのか? やれない? やるしかない?
抽象的な言葉が頭の中をぐるぐる回っている。恋愛経験のない前世の自分を恨みたい。
幼馴染と結婚するというような大層な計画を立てていながらも、実際の俺は甘かった。もう大甘だった。
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