つめたい星の色は、青

小林 小鳩

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#02

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 放課後の生物室では、水本はいつも勉強中だ。日野には到底解けないような、学校の定期試験よりもずっと難しい問題集ばかりを解いている。今日はちょっと疲れたから息抜き、と水本は洋楽のCDの歌詞カードを辞書をひきながら訳していた。
 あの時のことはもう聞かない、と日野は決心した。本当はもうあまり考えたくない。考え始めると苦しくなるから。そもそもまだ固まってない気持ちを思わず吐き出してしまうところがあるから、自信が持てる言葉じゃない限り口にするのはやめた方がいい。水本が今は日野を友達として受け入れてくれている、と思うことにした。
 文化祭の日、生物室からの帰り際、水本は日野に「俺は日野が思っているような人間じゃないよ」と言った。日野は目の前の水本を追うのに精一杯で、本当の彼にはまだ追いついてないと感じる。ただただ水本に触れたくてそばにいたくて、もっと深く知りたくて仕方ない。だけど自分が今信じてる彼を、彼は否定する。裏切られても構わない覚悟がないと、水本を本当に信じることは出来ないのではないか。そう考えないと、この気持ちを何処へ持って行っていいのかわからない。
「ドーナツ食べる? うちの店の持ってきたんだけど」
 ドーナツが入った袋を日野が差し出すと、水本は無言で一つ受け取った。行儀良く少しずつ食べるのが、小動物のようだ。ドーナツ好き? と日野が聞くと口をもぐもぐさせながらこくりと頷く。美味しい? と聞けばまた同じように。水本が食べている様子を見守っていたら、なに? とでも言いたげにじっと上目遣いで日野の顔を睨むように見る。
「……いや、なんか水本っていっつも勉強ばっかしてんなあって、思って。悪い意味じゃなくってさ」
「勉強してないと落ち着かないんだよ。それに東京の大学に行くつもりだから。早く家を出たくて。高校も東京の学校に行きたかったけど、親に反対されて駄目だった。親を納得させるには、とにかく良いとこ受からないと」
「なんかちゃんと将来決めてて偉いんねえ」
「そうでもないだろ、もう高二の秋だし」
 定期試験ごとに張り出される成績順位は一年生の時からいつも総合一位で、それが水本に対しての噂を更にあおる要因にもなっていた。まともに授業も受けず勉強に無関心そうにしてるくせに、と他の生徒の、特に優等生たちの反感を買っていたけれど。みんなが知らないところではいつも勉強ばかりしてる水本を、日野だけは知ってる。みんなが思ってる彼と本当の彼は違う。
「あのさ、水本は、何か食べたいパンはある?」
「えー……そういえばこっち引っ越して来てからずっとピロシキ食べてない」
「ごめん、ピロシキはない。食べたこともない。名前は聞いたことあるし、なんとなくどういう食べ物かを把握してるんさ。でも実物は見たことないんよ」
「マジで? 雪ばっか降って寒いくせに、なんでここにはピロシキがないんだ」
「さすがにロシアよりはあったかいし……他には?」
「ハムとチーズが挟まってるパニーニ」
「パニーニ……」
「あと、うぐいすあんぱん」
「急にハードル下げてきたんね。でもうちでは売ってない。駅前のとこにはうぐいすデニッシュがあるがね」
 水本と二人で食べる分くらいなら作り方調べて自分で作れるかなと、日野は考える。まだ簡単な作業しか手伝ったことはないけれど、いつかはパン職人になって、行程を全部一人で出来るようにならないといけない。そういう大人になる姿を、今の日野には全く想像出来ない。想像出来なくてもそのレールに乗っかるしかない。彼女が出来た時のように、レールに乗れたと思ったら脱線するのが怖いけれど。水本もたぶん他の人達も口にしないだけで、将来の目標を決めて努力しているのだろう。自分だけがそこから脱落するわけにはいかない。でも今はもう少しだけ、そのプレッシャーから逃げていたい。
 水本が急に思い出したように、あっ、と顔を上げた。
「ソーセージが串に刺さっててパンが巻き付けてあるやつ。俺あれ好き」
「あるよ、それはある。うちのはねえ、よそとはパンが違うんよ。パンに黒胡麻が混ぜてある。すげーうまい」
「ふうん。おいしそうだね」
「今度持ってくるね」
 こうやって二人で話しているとあまりに淡々と日常が進むので。あれはやっぱり嘘や冗談で、ただ単に自分を試していただけなんだろうかと、日野は思う。生物室を染めていたオレンジの光は駆け足で消えていって、寒いからもうそろそろ帰ろうかと、水本はイヤホンを外して帰る準備を始める。
「月末はテスト前の部活停止期間になるから、生物室使えなくなるよ」
 ということは期末テストが終わるまで、水本と気兼ねなく一緒にいられる時間がなくなってしまう。隣の席といえども、二学期が終わればまた席替えだ。その前に冬休みか。とりあえず部活がある限りは、水本のそばにいて眺めていられる。
「期末テスト終わったらさ、一緒にどっか行かない?」
 日野の唐突な提案に、水本は少し怪訝そうな顔をした。
「どっかって、どこだよ」
「水本が行きたいとこ、何でもいいさね」
 少し間を置いて水本は、海が見たい、と言った。もう秋も終わるから海はもう寒いし泳げないと日野が返すと、だから見たいんじゃないか、と水本は穏やかな表情で言う。
「……冬の海が見たいんだよ。夏の間みんなが群がってちやほやされてた海が、見放されてる姿はどんなもんかなって思って。誰にも必要とされてないのはどんな風なのか、見てみたい」
 周りに人がいない、誰からも必要とされてない。それは教室の中で一人孤高を保つ水本の姿と重なるような気がした。自ら他人と接することを拒んでいるのだと日野は思っていたのだが、本当は違うのだろうか。水本の全てを知りたい全てに触れたい欲望があるのに。
 心のどこかで、彼に触れたら全てが終わるような気がしてる。


生まれて初めて学校をさぼってしまった。
 真夜中、スマホの鳴る音で日野は目を覚ました。寝ぼけていて上手く通話ボタンが押せず、もうろうとした頭でやっと電話に出ると、寝てたよねごめんと謝る声が聞こえた。水本の声だ。
「明日学校さぼろう」
 あまりに突然のことすぎて、よく出来た夢だと思った。
「朝八時に、駅の西口に来いよ。海に行こう」
 水本の電話番号とメールアドレスは教えてもらっていたけれど、それでまともに連絡を取り合ったことはなかった。日野ばかりが取るに足らないメッセージを送っていた。なので朝起きて履歴を見て、夢じゃないことに驚いた。確かに海に行く約束はしたけれど、まだ期末テストまで一週間はある。
 待ち合わせの場所に行くと水本は日野を見て、おまえ寝ぼけてたから来ないと思ってた、と少しはにかむように言った。二人と同じ制服の高校生達が目指す方向とは反対のバスターミナルから、小学校の臨海学校でしか行ったことない海へ向かう高速バスに乗り込む。悪いことと言うには内容があまりにささやかなのだが。今まで日野はそれなりに真面目に生きてきたので、自分にこんなことが出来るなんて思ってもみなかった。
 水本は眠たそうで、うつらうつらとしては、はっと目を覚ますというのを繰り返している。何度か日野の肩に触れては慌てて起きるので、構わないから寝てていいよ、と声をかけると。日野の肩に身を預け、そのまま無防備に眠ってしまった。かすかに頬に触れる髪と体温。小さな寝息。水本の寝顔はいつも隣の席から眺めてたけれど、机と机の間の数十センチの距離を越えて、今触れている。間にあるのは肘掛けだけ。こんなに近いのは初めてで、触れたら起こしてしまうような気がして触れられない。物理的な距離でなく、心理的にはどれだけ近付いただろうか。計る術がない。二人がここにいるなんて誰も知らない。なんだか秘密のデートみたいだ。やっぱり夢かもしれない。
 目的地の終点までまだ二時間近くある。水本の耳からこぼれ落ちたイヤホンをはめて、テスト勉強をしようと日野は教科書を開いたのだが、案の定何も頭に入らなかった。
 終点から二時間に一本しかない海岸行きのバスに急いで乗り換え、ようやく海へと着いた。薄い水色の空と誰もいない海。鼻を突く冷たい空気に潮のにおいが混ざっている。海岸の少し先に小さな水族館があると案内の看板が立っていたので、行くことにした。
 シーズンオフの平日の昼間だからか、水族館にはほとんど人がいない。少しでも声を出すとやたらと響くので、二人とも何となく小声になる。暖房が控えめな暗い室内に、水槽だけがぼんやり青く光って浮かび上がる。遠い南の島から来た魚がこんなに寒い海辺の町にいるなんて不思議だ。
 水本はずっと黙ったまま、泳ぐ魚達を眺めている。すぐ目の前に大きな海があるのに、こうやって小さい水槽で海の魚を展示してるなんて不思議だね。そう日野が言うと水本は、こっちの方が恵まれてると返した。
「ここで繁殖して生まれた魚だったら、この水槽の世界しか知らないから、海に憧れることもないだろ。海なら生存競争が激しいけど、ここは餌もあるし水温も快適だし。きっとすごく幸せなんだろうな」
 分厚いガラスの向こうで水の青が揺れる。人工的に澄まされた水の中で泳ぐ魚。一生海には帰れない。狭苦しい水槽に閉じ込められて観賞されるだけの生き方しか出来ないのに、どうしてこんなに綺麗なのだろうか。ガラスの向こうに見える銀色と、紺と黒と、すうっと刷毛で描いたような赤や黄色。今隣にいる水本と同じ、美しいものはみんな、瞬きしてる間に消えてなくなってしまいそうだ。でもあまりにも綺麗だから水槽の中に閉じ込めておくのも勿体なくて、ただただ息を呑んでじっと見守っているだけ。
 水族館の食堂で、海鮮塩ラーメンと言いながらわかめと冷凍のイカとエビしか入っていないラーメンを食べ、今年は雪が降るのが遅いねなんて話をしながら海辺へ出た。頭上をギャアギャアとカモメが何匹も飛び回っている。
「カモメって冬眠しないん? あれ、鳥って冬は温かい地方へ行くんだっけ?」
「カモメは冬鳥だから、もっと寒いところから日本に来てんの」
「水本は何でもよく知ってんねえ」
「一応自然科学部だからな」
 海風が想像以上に冷たく身を刺す。制服とネックウォーマーだけの軽装の日野は、ポケットに手を突っ込んで寒さに身を縮める。すると水本が羽織っているモッズコートのポケットからカイロを出して、日野に投げてよこした。
 夏の水色の海しか知らなかったから、灰色がかった海はなんだか怖い。歌の文句にもあるくらいだから、海は果てしなく青いものだと思っていた。青と呼ぶには暗すぎる、鈍い色の海に白い波が激しく混ざり合っていく。鉛色の水平線に雲の薄い部分から光が差している。ざあざあとうねるように寄せては返す波。海ってこんなにうるさかっただろうか。
 水本は流木を蹴ったり海に向かって投げたり、足で砂浜に線を引いたり、まるで子供みたいなことを繰り返している。靴に砂が入るよ、と日野が呼びかけると、ハイカット履いてるから平気、と砂浜をどんどん先まで早足で歩いて行く。こんなに楽しそうな水本を見るのは、初めてかもしれない。
 遊泳禁止の旗が立った場所まで来て、二人並んで立ったまま、しばらく黙って海を眺めてた。水本はじっと波の音に合わせるように呼吸をしながら海を眺めていて、ふとした瞬間に波に引き寄せられてしまうんじゃないかと日野は心配になる。
 来て良かった、と白い息を交えながら水本は小さく言った。強い風と波の音ばかりの誰もいない海。誰にも必要とされていない様子はどんなのか見てみたいと言っていた、その景色をじっと眺める水本の横顔はあまりにも綺麗で大事にとっておきたい。でも写真に撮った瞬間に幻みたいに全て消えてしまうような気もして、ポケットの中のスマホを握りしめたまま取り出せない。どこまでも続く薄い灰色の空と海の水平線みたいに、今のこの瞬間が永遠に続けばいいのに。
「僕さ、水本と一緒にいる時は……こういうこと言ったら嫌われるとか馬鹿にされるかもとか、そういうの考えたことないんよ。凄く純粋に楽しい気持ちでいられるんさ。水本は僕の知らない世界をいっぱい持ってて、僕はいつも凄いなって思って……。水本のこと、もっと色々知りたいんよ」
 少しでも水本をそばに繋ぎとめておきたくて思い浮かぶ言葉を放ったけれど、上手くまとめられなかった。日野が水本の顔を不安げに覗き込むと、少し困ったような顔をされた。
「……俺は、日野に好かれる資格がないよ」
 そんなことないよ、と日野は笑うのだけど、水本は首を振る。
「日野のおかげで、もしかしたら自分も普通の世界に溶け込めるんじゃないかって思ったけど……やっぱりそんなの無理だった」
「そんな、普通のって。水本は水本なだけで特別で凄いのに」
「そういうんじゃなくてさ……。俺は汚れてるから、日野にはふさわしくないよ」
 水本は、モッズコートのボアの付いたフードを顔がほとんど隠れるくらいに目深にかぶり俯いて、だめだよ、とつぶやく。近づいたと思ったら、また突き放される。またこの繰り返しだ。いつになったらこの差を縮められるのだろう。
「……日野は、俺とセックスしたいって思う?」
 一瞬、水本が何を言ってるのか日野にはわからなかった。耳を切るように冷たい海風が吹いて、体温を奪っていく。あの日と同じだ。文化祭の数日前の生物室での出来事。笑って誤魔化せないし、前と同じ答えじゃダメだ。一体なんて答えればいい。日野は足元の砂に引きずり込まれるような感覚を覚えた。息もできない。水本はどんな顔をしてそんなことを口にしているのか。フードが邪魔でよく見えないが、口の端を少し上げて笑ったようにも見えた。
「あのさ、父親が……本当の父親じゃなくて、母親の再婚相手なんだけど。夜中にさ、部屋に来るんだよ」
 宮坂から中学に上がる頃に親が再婚した話を聞いていたので、日野は家族の話をなるべく避けていたし、水本本人も話したことはなかった。
「父親と寝てんだ」
 遠くで雷が鳴っていて、頭の中がうるさい。うるさくてうるさくて、今のが聞き間違いであって欲しい。だってまさか、そんなこと。
「父親だけじゃなくて、他にもそういうことしてる」
 混乱する日野を前に、水本は息を深く吸い込んで、絞り出すような声で話し始めた。
「……小六の修学旅行の時にさ、俺嫌われてたから宿泊所の部屋追い出されて。当然他の部屋も入れてもらえないからトイレの個室に隠れてたんだけど、見回りの先生に見つかっちゃって。そしたら担任が自分の部屋に入れてくれたんだよ。それで……一緒の布団に寝ようって。物心ついた時から父親がいなかったから、大人の男の人がどういうものかよくわかってなくて。母親の彼氏に理不尽なことされても、あんたが何かしたんじゃないのっていつも母親は言うし。だから身体触られたりしても、俺が悪いからそういうことされるんだと思ってた。修学旅行の後も卒業するまでそういうことが何度もあって……車で送ってくれるって言って、変なことしたりとか。でも、いじめられてるのは俺のせいじゃないって庇ってくれたのは、あの先生だけだったから」
 ざあっと身体中から血の気が引いて冷たくなっていくのがわかった。海風が吹き付けてるからじゃない。水本が小学生の時いじめられてた話を聞くのは、初めてではないけれど。宮坂から聞いてた話と、他の人達が見ていたことと事実が違う。
「人気のある先生だったから、嫌われてる俺を先生が庇うのがみんな気に喰わなかったみたいで、余計いじめが酷くなったけど。片親だから近所に色々言われるって、母親に学校休ませてもらえなくて、先生から親に連絡が行くから内緒でさぼることも出来なくて」
 耳に届くのは、波の音とカモメの騒ぎ声と海岸道路を走る車の音と、淡々とした水本の声だけ。ひどく落ち着いた声で話し続ける。
「その後親が再婚して。うちの母親は本当に男を見る目がなくて、東京にいた頃に付き合ってた男も底意地が悪くて最悪でさ。だから父親を紹介された時は、凄く優しくていい人で嬉しかった。欲しかった本も買ってくれたし、妹も出来るし、近所だけど古いアパートから新しい家へ引っ越すし。先生も卒業と同時に転任したから、これでもう地獄じゃないって思ってた。……でもそうじゃなくて、父親も俺にそういうことを求めてたから優しいわけで。だから、俺なんかを相手にしてくれる人には、それに応えないといけない……」
 こわい。すごくこわい。目の前にいる水本が、全然知らない人みたいだ。なんでこんな話を聞かされてるんだろう。足が震えるのは寒さのせいじゃない。怖くて逃げ出したいけど、どこにも逃げられない。逃げちゃいけない。日野はうまく動かない喉から懸命に声を絞り出した。
「それは、水本のお母さんは知ってるの……?」
「たぶん、知ってると思う」
「誰か大人の人とか、学校の先生とか警察に言いなね」
「……信じてくれるわけないだろ」
 そう言って水本は、薄ら笑いを浮かべる。
「こんなん誰に言っても無駄だってわかってるから。教師なんて一番信用出来ないし。警察だって男が男に、ましてや父親が息子にそういうことするなんて、誰が信じると思う? 大体警察なんか行ったら、こんな田舎町じゃすぐ変な噂が広まるだろ」
 自分の考えは幼くて浅はかで、ひとつも役に立たないことに、日野は打ちのめされる。
「それに妹から父親を奪えないし。母親だって、やっと定職についてて暴力を振るわない夫と娘を持って人生やり直してるところだから。もう働かなくていいし生活費にも困らないし。俺以外の家族は凄く幸せそうだから、それを壊したくないならずっと我慢するしかないだろ。母親にとって俺は、安定した生活を保障してもらう為の生贄なんだよ。だからもう俺は父親の愛人だと思って、割り切って。俺さえとやかく言わなければ、みんな幸せでいられるから」
 水本は家族のことをまるで赤の他人のように、酷く突き放した口調で話す。彼のことを大事にしたいと思う人間は、日野以外この世界に存在しないかのように。
「でもまあ、卒業してここを出たら全部終わるよ。平穏に生きるためにやってることだから。それさえ我慢すれば、生活費も学費も、なんにも苦労しないで済むしさ。殴られたり食べさせてもらえなかったりするより、全然マシだよ。別に死ぬわけじゃないし……」
 本当にそうだろうか。そう思ったけれど、言えなかった。水本は賢いからそれくらいわかってるだろうし、自分たちはそれがわからないほど幼くもない。それでも、その時が来るまでじっと我慢していればこの悪夢は終わるものだと信じたいのだ。
 あの日生物室で起きたこと。水本が日野に「俺は日野が思っているような人間じゃないよ」と言ったこと。その意味を日野は理解した。
 いつもスプーンで量れそうな、コップで充分のような感情が、大きな波になって押し寄せてきてもう、溺れてしまう。何を言っても上辺だけの綺麗事を並べただけになるようで、本当にそう思っているのに白々しい嘘のようにしか聞こえない気がした。水本に何を言えばいいのだろう。彼の為に使うのにふさわしい言葉が、見つからない。
「なんかもう全部、どうでもいいんだよ。本当に、どうでもいいんだ」
 フードに覆われて、水本が今どんな表情をしているか、わからない。目の前の水本は今にも壊れてしまいそうなほどに脆く、抱きしめて支えたいけれど、指一本でも触れたら粉々になってしまいそうだ。水本の絶望の前では圧倒的に無力だと、日野は思い知らされる。砂のようにさらさらに砕けた心を、真っ黒な波に掬うように持っていかれてしまって、息が詰まる。身体は冷えきっているのに、貰ったカイロをずっと握りしめてたので、手のひらだけが汗をかいてる。こんなの全部夢で、嘘ならいいのに。水本を苦しめる現実なんていらないのに。
「どうでもいいなんて、言わんで」
 やっとの思いで振り絞った。日野がフードをそっと脱がすと、水本は下唇を噛み締めて嗚咽をこらえて、泣いていた。真っ白な肌にぼろぼろと涙がこぼれる。濡れた頬に触れようとした手を強く振り払った水本の手を、日野はしっかりと掴んだ。汚いから触んな、と何度も振り払おうとする手を、強く握り返す。この手は、今絶対に離しちゃ駄目だ。
 水本は誰の前でも泣いたりしないんだと思っていた。いつも強くて凛として目が覚めるほど美しく、その心はどんな力を加えても決して壊れないもので出来ているのだと思っていた。真っ暗な水の底でずっと息を潜めて生きてきたかのような、水本が抱える現実から、目を逸らしちゃいけない。絶対に見放さない。震える指先を抑えるように力を込めながら、水本を抱きしめ、そっと頭を撫でると。日野の胸に顔を埋めて、堰を切ったように声をあげて泣いた。ブレザーに、セーターに、水本の涙が染み込んでいく。この細い体のどこに、と思うほどの感情が吐き出されていく。
 砂浜に残した靴の重さを引き摺った跡が、波と風にかき消される。いやに静かだな。さっきまでより波が小さくなった。どれくらい時間が経ったんだろう。もう日が暮れそうだ。
「俺のこと、軽蔑しただろ」
 日野の腕を解くと、手で顔を拭いながら、水本は吐き捨てるように言った。
「そんなことないよ。僕はそれでも水本のこと好きだし、一緒にいたいんよ」
 本当に好きだから、嘘じゃないから。日野がそう伝えると、知ってる、と掠れた声で答えてくれた。
 好きだと言葉にしたら、水本を失ってしまうのではないかと、ずっと不安に思っていた。大事なことを言葉にしないままでいたら、本当に失ってしまうところだった。
「なんで僕に話してくれたん?」
「日野には……日野にだけなら言えると思ったから。言わなきゃいけないような気がしたから」
 水本は顔を上げて、涙で濡れた日野の制服とセーターを自分のモッズコートの袖で拭った。
「おまえはとんでもないお人好しで馬鹿だから、信じてくれると思った。俺以外の誰かにもこのことを知っておいて欲しかったんだ。そうすれば俺が消えていなくなっても、おまえが覚えていてくれる限り、俺の人生がどんなだったかが残るから」
 ここに水本を守ってくれる物は何もない。それでも水本は自分を選んでくれた。もうそれだけで。日野は胸を詰まらせる。
 水本はフードと風でぐしゃぐしゃになった髪の毛を直そうとして、余計におかしな事にしてた。少し緊張しながら日野が髪に触れると、水本は一瞬びくっと身を震わせ、またすぐに何でもない顔をする。ためらいながらもう一度髪に触れると、今度は目を伏せたままじっと動かない。
「……直った?」
「……ああ、うん」
 バスがなくなるからもう戻らないと、と水本は日野のブレザーの袖口を引っぱって、早足でバス停まで歩いていく。日野を置いてどんどん先へ行く水本の影が長く長く伸びている。その影を踏もうとしてもなかなか追いつけず、あと一歩のところでするりと逃げられてしまう。
 冬が間近に迫った季節の日は短く、雲の隙間から夕陽が漏れて、世界の全てを真っ赤に染めあげる。息を吸うと、氷の味がした。こんな気持ちは、言葉にするとなんて言うのだろう。
 帰りの高速バスの中で、泣き疲れたのか水本は眠ってしまった。誰にも見つからないように、日野はそっと水本の冷たい細い指を握る。薄紫色に染まる切り過ぎの深爪。片耳ずつのイヤホンからは水本の好きなギターが歪んだ騒々しい音楽が鳴り響く。日野がスマホを見ると、宮坂から学校を休んだことを心配するメッセージが入っていたので、風邪っぽくてだるかったからと適当に返信しておいた。
 先生も同級生も親も、自分たちがここにいることを知らない。水本と人生が交差する瞬間がなれけばきっと、学校をサボろうなんて一生思わなかった。知らないままでも平気で生きてこられたであろうことを、知ってしまうこともなかっただろう。自分の人生の中に、こんな一日が訪れるなんて、夢にも思わなかった。
 自分の胸で泣く水本を抱きながら、日野の中にははっきりとした不安が生まれてしまった。いつか水本に対する気持ちがどんどんエスカレートして止まらなくなって、傷つけてしまうかもしれない。彼を傷つける人達と同じことをしたいと思っていると知れば、水本は日野を軽蔑するだろう。
 まだ見たことのない場所へ行けば、何かとても素晴らしいものがあって一瞬で自分を変えてくれるんじゃないかと、今日まで思っていた。そんなわけがない。自分たちのいる世界はまだ小さくて、とても狭くて寒くて、どうやったら目の前の水本を安心させてあげられるのかも、今の日野にはわからない。
 地元の駅で別れる時、水本をこのまま返して大丈夫か不安になり、日野は家まで送ろうとしたが。何度も平気だからと繰り返して一人で帰れると制された。嘘だ、大丈夫なわけがない。暗い現実へ水本を帰したくない。
 自宅に帰ってからもずっと、別れ際に水本が言った言葉が頭の中でどんどん増え続けてのどの奥まで溢れ出して。上手く息が出来なかった。
「本当に大丈夫。頭の……頭の中に、スイッチがあって、それを切れば真っ暗になって何も感じないから。そうすれば誰に何されても全然平気だから」



 海へ行った次の日、学校からの帰り道で初雪が降った。雪の結晶が一粒ずつゆっくりゆっくりと降りてきて、肩に手袋に、スニーカーに染みる。傘をさすほどの降り方でもなく、家までもう少しなので、日野はネックウォーマーをたくし上げて自転車を漕ぐスピードを上げる。家に着いた頃には、周りの田んぼは一面真っ白になっていた。振り返ると道路にうっすらと積もった雪の上に、自転車のタイヤの跡だけが一本伸びている。触れたら柔らかくて体温で溶けてしまうのに、目を眩ませるほどの白に取り囲まれていると、幻が見えそうで。残像なんて呼べないくらいはっきりとそこに、水本がいるような気がした。
 触れても抱きしめても、壊れることはなかった。細い身体も体温も柔らかい肌も、ずっと焦がれていたものがあの瞬間、確かにこの腕の中にあった。もっと触れていたい。水本のことがずっと心の中に棲みついてはなれない。ぼんやり眺めているうちにタイヤの跡はもう雪に覆われて消えてしまった。音もなく穏やかに降り積もる雪のせいで、今まで眺めていた見慣れた景色とはもう別の場所にいる気がする。
 恋というのは、にぎやかで華やかなものが猛スピードでつっこんできて、その瞬間に自分の人生の全てがきらきらと輝くものに変わってしまう。そういうものだと日野はずっと信じていた。なのに恋人が出来てキスをしてもその先へ進んでも、それまでと同じつまらない日常が繰り返されるだけで、自分は前と変わらず面白味のない人間のまま。理想と現実の落差に、ただ戸惑うしかなかった。
 こんな風に静かに誰かのことを想って変わる恋もあるのだ。
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