つめたい星の色は、青

小林 小鳩

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#04

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 図書室の窓から見える中庭の池は氷が張っており、掃除当番の生徒たちが箒の柄で氷を割って遊んでいる。あの池にいる魚たちは、冷たい氷の板の下で生きているのだろうか。
 生物室は暖房があまり効かず、廊下が部活動でうるさいと水本がキレて、三学期からは放課後は図書室に行くようになった。本棚に囲まれた隅っこの窓際の席。イヤホンの共有は「俺とそういうことしてるとまた周りに色々言われるだろ」と水本が嫌がった。本当は隣の席に座ることも最初は嫌がったけれど、最終的には水本が折れた。
 日野はもう、誰に何を言われても気にしないことにした。水本がどんな人か知らない人たちに悪口を言われて嫌われても、別に構わない。水本と一緒にいたいから。それを水本に言うと、おまえは本当にお人好しの馬鹿だなと呆れていた。
 パンの作り方や製菓の本を何冊か棚から持ってきて眺めていると、水本は「横で食べ物の写真ばっかり広げられると腹が減る」とつぶやいた。
「どれが食べたい? 作るよ」
「……えー、本当に作れんの? 親にやってもらってもいいんだよ」
「本当に自分で作るよ。そしたら水本に食べてもらう」
「おまえ、期末テストの勉強した方がいいんじゃないの」
 水本は入試頻出とか受験に出るとか、そういう文句が掲げられた問題集を黙々と解いている。少し前まで図書室は、受験を控えた三年生ばかりだったけれど、自主登校になった今では姿を見ない。彼らも春が来ればそれぞれ違う場所へ行く。先生も友達がいるからという理由で一度しかない将来の進路を決めるなと言っている。
「腹減ってんのならさ、帰りにコンビニで肉まん買って帰ろうよ」
「別に、いいけど……」
 雪の季節になると日野は自転車通学が難しくバス通学になる為、学校から駅までは水本と同じバスで帰れる。バス停近くのコンビニで、日野がピザまんを水本がこしあんまんを買い、停留所のベンチに並んで座る。湯気と吐く息が混ざり合う。かじかんだ手で、具がこぼれないように慎重に半分に割って交換する。水本がずっと黙っているので、どうした? と日野が顔を覗き込むと頭を軽く叩かれた。
「……何でもない。こういうの、久しぶりに食べたなって思って」
 もしかしたら水本は、学校帰りに友達とコンビニで買い食いをするのは初めてなのかもしれない。特別なことではない、こういう何でもないことで彼の役に立てるのなら。
 駅に着くと、日野が乗り換えるバスの時間まで一緒に待ってると水本が言う。水本はここから家まで歩きなので、いつもはさっさと帰ってしまうのに。日野のダウンの袖口に指を入れて引っぱって、もぞもぞと何か言いたげにする。
「……なんで俺と一緒にいてくれんの? 身体抜きで本当にいいの?」
「当たり前さね。そんなことせんでも、僕は水本と一緒にいるのが楽しいんよ」
「そう言われてもさあ……そんなこと言われたの初めてだから。なんか信じられないっていうか。だって俺、他に日野にしてやれることないだろ。性格最悪だしみんな俺のこと嫌いだし、これだけしかないじゃん」
「自分のことそんな風に言うことないさね。上手く言えんけどさ、身体だけの関係があるんなら、気持ちだけの関係があってもいいがね」
「おまえって変な奴だな」
 水本は日野のダウンの袖口のゴムの部分を指で弄びながら、何度も変だとつぶやく。
「みんな俺のこと嫌いなのに、おまえだけ……変なの」
 みんな彼のことが嫌いで、自分だけが彼のことが好き。みんなを嫌いな水本が、自分のことだけを好きでいてくれている。宇宙で二人きりだと思うほどひっそりと小さな場所で、じっと身を寄せ合ってお互いを温め合っているようだと、日野は思う。それが正しいことなのかどうなのか、わからない。
「俺は日野にだったら何されてもいいのに」
 水本には、こんなことをもう言わせたくない。



 あと何日かで春休みだが、たまに雪がちらついてまだ春は遠い。なのに朝見たテレビのニュースでは都心は桜が咲きそうだと言っていて、まるで遠い国の話のようだ。水本はそういう場所に行ってしまうのだと、日野は改めて感じた。
 進級時にクラス替えがある為、このクラスでの最後のイベントにと終業式の日にボーリング大会があるのだが、当然水本は来ない。日野も行くのをやめるから二人だけで別のことしようという提案したが、水本に簡単に却下された。
「おまえにも世間体ってものがあるんだろ。少しでもいつもと違うものがあれば、みんな詮索したがるだろうよ。宮坂とかがさあ。嫌だろ、そういうの」
 水本の言葉に日野は何も言い返せなかった。それは自分が気弱なせいじゃなくて、その通りだと思ったからだ。
 自分という味方がいるから水本は一人じゃないよ、とはどうしても言い切れない。クラスの人達の前では水本に話しかけることはほぼなく、宮坂やあっちゃんを優先してしまう。日野にとっては二人のことも友達だから裏切れない。狡さや甘えを水本が許してくれてることもわかっている。どっちか選べと責められたこともない。
 誰かを本当に好きになることも、水本みたいな人に接するのも、日野には初めてのことなので。全部手探りで間違ったことばかりしているような気がしている。水本が与えてくれてる分を正しく返さなければと焦ってしまう。
 来年はどうなるかわからないし、と久しぶりに生物室の鍵を開けた。やっぱりここが一番落ち着くな、なんて言いながら、日野が持ってきたパンを二人で半分ずつほおばる。レモン風味のクリームチーズのパンと、ポテトサラダの入ったパン。水本はポテトサラダのパンを特に気に入ってくれたようだ。また持ってこよう。
「うちのポテトサラダと違うね。人参とコーンと玉葱とハムだ。うち小さい妹がいるからリンゴが入ってて甘いんだよ。人参も星形に抜かれてるし。昔は玉葱とベーコンだけのジャーマンポテト風だったんだけど」
「ベーコン? 普段家で食べる分はキュウリも入ってる」
「俺、コンビニで売ってるサンドイッチの、ポテトサラダが挟まってるやつも好き。あっちはキュウリ入ってるよね」 
 うちで昔、丸いフランスパンの中にじゃがいもとベーコンとマヨネーズが入ったパンを作っていたけど。ああいう感じでやったらいいのかな。それともジャーマンポテトっぽくした方が……。日野は想像を巡らせながら、帰りにスーパーでベーコンを買った。じゃがいもと玉葱は家にあるものを使う。自分の小遣いでこういうものを買うのは初めてで、なんだか大人になったようで妙に緊張する。図書室で借りてきた家庭料理の本のジャーマンポテトの作り方を見ながら、なんとか具の部分は出来上がった。
 台所で日野が朝からがちゃがちゃと何かやっているのを不審に思った母親が、途中で様子を見にきたので、
「自分の好きな具入れたパン作りたいから、生地を分けてもらいたいんだけど」
 そう頼むと、自覚が出てきたんかいねえ、などと言われた。
 成形したパンを、天板の隅を使わせてもらって店のパンと一緒に焼いた。初めて自分で考えて作ったパンは両親に味見をしてもらい、もっとベーコンはカリカリにした方がいい、コショウの代わりに粒マスタードで味付けしてみたら、と色々アドバイスを貰った。
「またやってもいい?」
「どうぞどうぞ。こういうことすんのは大賛成だけど、ちゃんと後片付けは自分でしなね」
 両親はいつになく嬉しそうで変に浮かれていて、やはり地元に残って店を継いで欲しがっているのだと、改めて実感する。もし東京の専門学校に行きたいなんて日野が言ったら、勘当されそうだ。
 春休みに入り、店を手伝いながら何度か試作を重ね、親にもこれなら店に出せるレベルだと言われるところまで来た。ベーコンと玉葱とじゃがいもの、ジャーマンポテトパン。これは絶対、水本にも食べてもらわなきゃ。
 呼び出そうと日野がスマホを見ると、当の水本からメッセージが来ていた。家族旅行で東京へ向かう新幹線の中からで、おみやげは何がいいかという内容だった。すれ違いが寂しい。でもあと一年経ったらこういうすれ違いはもっと沢山起きるのだろう。
 五日後、東京旅行から帰った水本が日野の家まで来てくれた。
「わざわざうちまで来てくれんでも良かったんに」
「いいんだよ、俺が来たかったんだから」
 コートを脱ぐと、カーディガンの下にバンド名の入ったTシャツを着ている。水本は自分だけ別行動でライブに行ったらしい。
「来日公演なんてこっちじゃ絶対観れないからな。東京行ったらいくらでも観れる」
 水本の心は東京にあって未来に胸を弾ませてて、身体も東京に行ってしまったら、本当に置いてけぼりになりそうだ。
 おみやげ、と水本から渡された袋に書かれた屋号は、日野でもよく知る有名店だ。中に入っていたのはその店を代表する桜の塩漬けが乗ったあんパンと、クルミ入りのシナモンロール。
 東京の有名店のパンを前にあのパンを食べてもらうのは気がひけるけれど。日野は朝作っておいたジャーマンポテトのパンを、トースターで軽く温めてから部屋へ持っていく。
「パンをあげたお礼がパンなのか。久しぶりにおまえにびっくりさせられたわ」
「そうじゃなくて、これを試食して欲しくて……初めて自分で作ったパンだからさ、どうしても水本に食べて欲しくて」
 日野がそう言った瞬間、水本はさっと皿の上のパンに手を伸ばして食べ始めた。
「あ、うまい。ベーコン入りだ。本当に日野が自分で作ったの? 凄いな」
 珍しく嬉しそうに笑いながら二つも食べてくれた。水本はこういうことでは絶対に嘘を言わないので、日野は余計に嬉しかった。やっと自分の進路に自信が持てた。この道へ進んでもいいんだ、という気になれた。
 水本はベッドにもたれかかって、まだやってねえのと日野の春休みの課題の真っ白さに呆れてる。
「面倒なものは先延ばしにするから余計面倒になるんだよ。宿題でも何でも、嫌なものはやれば終わるんだよ」
 やればいつか終わる。わかってるけれど、水本のようには割り切れない。
 ベッドの縁に乗せられた水本の白く細い首を、ついじっと見てしまう。うなじのところ触ってもいいのかなどうしようかなと考えて、日野は少し腕を伸ばしたけれど、恥ずかしくなって引っ込める。そんなことをしている内に、部屋中に夕方の日の光が溜まっていく。まばたきの度に上睫毛と下睫毛が絡んで、まるで蝶がゆっくりと羽ばたいているようだ。
「……睫毛、触ってもいい?」
「なんで睫毛? 別にいいけど」
「ずっと、触ってみたかった」
 何処でも触っていいのに、と水本は俯いて笑う。あまり触ると壊してしまいそうで怖い。焦げ茶の睫毛の先に光が落ちて、春の黄色い光に溶けていってしまいそうだ。慎重に触るとくすぐったがって、水本が笑う度に日野は身体に小さな電気が走るように感じた。
 そうっと唇に唇を重ねると、互いの睫毛がかすかに触れ合って、水本は日野の下唇を吸うように甘く食む。柔らかに弾む感触。あ、なんか、やばい。日野はなんだか恥ずかしくなって、顔を離してしまった。
「……ごめん」
「なんでいつも、謝らなくていいこと謝んの」
 謝らなくていいんだよ。そう言って水本は日野の頬に触れ、もう一度ささやかにキスをした。
「他の誰にもさせないから。キスすんのは、日野とだけだよ」
 キスがこんなに気持ちいいものだと、日野は思っていなかった。頭の中がじんわりと軽く痺れるよう。焼きたてのトーストの上でバターと蜂蜜が溶け出して混ざり合っていくような感じ。耳たぶまで熱い。
「好きな時にまた、していいから」
 水本はそう言うけれど、簡単に何度もしてしまうのはなんだか勿体ないような気もする。美味しいものも食べすぎると嫌になるように、何度もしてしまうと有り難みがなくなって飽きそうで怖い。でも、何度もしたい。その欲望を越えたらきっと、その先までいってしまう。
 近所の小学校から夕暮れ時を知らせるチャイムが鳴る。そろそろ帰ると水本が言うので、バス停まで送ろうと一緒に外へ出る。冬ならもう真っ暗になっている時間なのにまだ明るく、うっすら月は見えるけれど星はよく見えない。ちらちらと何か光っているようなのだけれど。
「そうだ、シリウスっていつまで見れるん?」
「春が来たら見えなくなる星だから、もうそろそろ見納めかな……でも星そのものが消えてなくなるわけじゃないから。見えない場所に隠れてるだけで、また冬になればよく見えるよ」
「……わかってても、いつもそこに見えてたものが見えなくなるのは寂しいね」
「何だっていつも同じでいられるわけじゃないし。春の星座だって悪くないよ」
 来年の今頃は、もうここに水本はいない。一緒にシリウスを見れる冬はあと一度だけだ。
 もっと温かで揺るぎない幸せを手に入れたい。そしてもっと愚かになって、この儚く美しいものをずっと眺めていたい。水本を見てるとどんどん欲張りになる心を、日野は抑えられない。こんな焼きたてのパンにミルクジャムを垂らしたような、甘やかで温かな日々が、いつまでも続けばいいのに。そんな風に思いながら、甘塩っぱい桜のあんパンを口に含んだ。


二年生の頃は廊下の窓から手を伸ばすと触れられるほど、満開の桜が窓に迫って咲いていた。三年生になって三階の教室になると、その桜も見下ろす形になった。
 四月になり、水本と日野はクラスが別れた。覚悟はしていたことだ。日野とあっちゃんはお互い地元に残るので同じクラスになれたが、宮坂とも離れてしまった。成績上位者が集まる進学クラスで、出席番号が一番違いの水本と宮坂は前後で机を並べている。
「なんだってまたこいつと一緒なんか……」
 宮坂がため息混じりに言うのが、ちょっと面白い。
「もうすっかり幼なじみなんねえ」
「大学も一緒だったらどうしよう……」
 水本はヘッドフォンをして日野と宮坂の会話を無視している。
 新入生歓迎会の部活紹介は水本が出たがらなかったため、仕方なく日野が一人で出て、プラネタリウムを舞台上で見せた。それなりに反応があったような気もしたのだけど、部の見学には水本の噂を聞きつけた女の子が顔を見に数人来る程度だった。当の水本はヘッドフォンをして黙々と問題集を解いて、彼女たちを完全に無視するのだが。その姿がまたクールでかっこいいと騒がれている。あの子たちに入ってもらえば部が潰れなくて済むかもと、日野は提案してみたものの。放課後自由に使えるスペースを確保するためという、自然科学部の部員である理由がなくなると、水本に却下された。実際に入部届けを持ってくる一年生もいたけれど、水本は頑として受け取らなかった。ここを自分達以外のたまり場にされたくないと。
「いっそ潰れた方がいい。どうせ元々去年で潰れるはずだったのを西谷が猶予をくれてたんだし、わけのわからない奴らのせいで雰囲気壊されるなら、自分で手を下して潰した方がマシだろ」
 水本はそう言い捨てたが、日野はこの場所に愛着があり離れ難かったので少し寂しかった。慣れ親しんだ場所を出て行く彼と、しがみつこうとする自分。こんな時まで。
 そんな感じでゴールデンウィークが過ぎ、結局今年も自然科学部は二人だけのままだった。さすがに二年連続部員が足らないと顧問の西谷も庇いようがなく、五月末で廃部になることが決定した。西谷は、残念だがしゃあなしさね、と二人に購買でジュースを奢ってくれた。自分たちが潰したようなものなのに。そう思うと先生に申し訳なかった。
 なんだか取れそうだなと思いながらも面倒でそのまま放っておいた袖のボタンが、気がついた時には取れて失くなっているように。クラス替えや廃部などの小さな綻びを重ねていくうちに、いつか繋いでいた糸が切れてほどけてばらばらになって、取り返しがつかないことになってしまうんじゃないだろうか。
 教科書を忘れたので水本か宮坂に借りようと、日野が一組の教室に入ろうとすると、ドアの前に立って教室を覗き込んでいた女の子たちが、水本先輩呼んできて下さいと頼んできた。ネクタイの学年カラーからして一年生だろう。
「なんか水本のこと呼んでる子たちがいるけど……」
「全員死ねって言っとけ」
 あからさまに嫌な顔をして言う水本に宮坂が吹き出し、宮坂にも向かってまた、おまえも死んでくれと悪態をつく。
「こないだこいつ一年の子に電話番号書いてある紙貰ってたんさ」
「受け取らねえって言ったのに押し付けられたんだよ。速攻で捨てたよ、そんなもん」
「これだよ、新入生はみんな本性知らないから見てくれで騙されるんよ!」
 結構仲良しになったんね? と日野が言うと、どこがだと二人に吐き捨てられた。
 ドアの方を見ると、他の三年生に何か言われたのか居心地が悪くなったのか、女の子たちは帰ってしまった。
「わざわざ三年の教室に押し掛けてまで水本の顔を見たいって、根性あるよなあ」
 と宮坂は感心している。昔は日野もあの子達と同じように、ただ眺めてるだけで幸せだった。でも今はもう手が届く。他の誰も触れられないものに、触れている。
 宮坂は昼休みの度に、日野たちのクラスに来て一緒に弁当を食べる。あっちゃんがトイレに立っている間、宮坂が今のクラスの愚痴をこぼし始めた。
「二年の時のクラスは全体的に無気力っていうか、目立つことする奴はそんなにいなかったがね。今の一組はさあ、ちょっと調子に乗ってるようなのがいて、本当に目障りなんさ」
 宮坂は今のクラスで上手くいってないのだろうか。元々地元か隣県の大学に行くつもりだったけれど、去年の冬の三者面談で先生に東京のもっといい大学も狙えると薦められ、東京への進学に切り替えた。予備校にも通い始め、環境や目標が変わり焦っているのかもしれない。
「水本のことはやっぱり好きじゃないけどさ、あからさまにやってる奴らを見るとちょっと、反省するっつうか……罪悪感がそれなりにあるわ。あの頃はまだガキだったしさ。高校生になってまでああいう馬鹿はやるなよって思う」
 今思うと修学旅行の班決めの一件も、罪悪感からの行動だったのだろうか。自分も傷つけたくせに、あいつらと一緒にはされたくないというのはちょっと傲慢な気がするが。何にせよ宮坂がそばにいれば、多少は安心出来るかもしれない。
「水本に言っとく、それ」
「そんなん言わんでいいよ。でもあいつらの気持ちもわかるがね。日野はさ、水本のこと、怖いって思ったことないん?」
 紙パックの麦茶の残りを一気に飲み干して一息ついてから、宮坂は続ける。
「なんつうか、危機感ていうか防衛本能ていうか……攻撃したくなるのはわかるんだよ。しなきゃ自分がヤバいって感じがある」
「わかるよ、それは。僕もわかるけど……」
 とてつもなく美しくて聡明で生意気で強く。何をやっても敵わない、脅かされる恐怖。もしかしたら日野が恋だと思っているこの感情も本当は、欲望や畏れから来てるものなのかもしれない。
 放課後の昇降口でも水本は一年の女の子に話しかけられていたが、相変わらず厳しいことを言って突っぱねていた。
「おまえに俺の何がわかる。どうせ顔しか見てねえんだろ。もし付き合ったとしても、そんな人だとは思わなかっただの何だのあとで文句言うんだろ。頭おかしいんじゃねえの」
 その場でぼろぼろと泣き出してしまった女の子に、泣いても変わんねえよ、と更に追い討ちをかけていた。端から見ていてひやひやする。顔しか見てない、というのは日野にも思い当たる節があるので耳が痛い。
「断るにしても、もうちょっとやんわり断った方が……」
「はっきり言っておいた方がいいんだよ。優しくして期待させる方が残酷だろ。そもそもあんなもんは、光に群がってくる虫と一緒」
 水本に惹かれるのは自分だけじゃない。当たり前か。どんなにたくさんの人に紛れていても、日野には水本だけが光って見える。だから惹かれている。
「大体さあ、日野は……嫌じゃないの。俺がこうやって告白されてんの……」
 水本は口を尖らせてすねている。そうか、ここは嫉妬するところだった。水本は自分にだけ懐いてるという変な自信がいつの間にかあって、他の人に横取りされる心配を日野はしたことがなかった。
「水本のこと信じてるから大丈夫」
 日野の言葉に、水本は嬉しそうにはにかむ。
「俺には日野だけいればいいよ。日野さえいれば充分だから」
 日野のことだけ大好きで他はみんな嫌いだと、水本は繰り返す。自分にだけ感情を見せるから、水本は自分だけのものだと思ってしまう。本当はそうではないことを、日野もわかっているのだが。
 水本には内緒だけれど。たまに、昨日やられたのかなと感じる時がある。なんとなく気怠げで、話しかけてもぼんやりして。確信はないけれど、どこかいつもと雰囲気が違う。ふいに触れるとびくっと怯えたように身体を震わせる時がある。それに気付く度、気持ちは日野のものになっているかもしれないが、身体は違う人間に支配されているのだと思い知らされる。自分のものにならなくてもいいから、せめて他の誰かのものにはなって欲しくない。水本が自分の意思でしているのではないとわかっているのに、日野はなんだか気分が悪く、そんな狭量な自分も許し難い。
 ある日、水本が一組の奴に廊下ですれ違い様にわざと肩をぶつけられているのを、日野は目撃した。水本は日野の姿に気付くと、何変な顔してんだ、と苦笑いする。
「やらせとけばいいんだよ。気に喰わないからってそのまま行動に出すような幼稚な馬鹿、相手にすんな」
「でも……」
「どんだけ俺のこと貶めたところで相対評価が下がったとしても、絶対評価は変わらねえんだよ。俺そのものの価値や質が下がる訳じゃない。そんなこともわからないほど馬鹿だから、こういうことするんだろ。ほっときゃいいんだよ、別に」
 水本のそういう強いところに日野は惹かれているのだけれど。その強さをどうやって手に入れて保っているのかを考えると、ただ憧れてもいられない。彼の輝きは彼自身を蝕む。
「何もしなくていいよ。何やってもどうせ変わんないし、日野にはそういう期待はしてないから」
 そんなつもりはないのだろうけど、期待してないとはっきり事実を突きつけられると、少しつらい。しかも実際その通りだ。
「おまえはずっとここに残るから、これからもあいつらと付き合いがあるかも知れないけど。俺がここを出れば二度と会わない奴らなんだから。そんな奴らのために神経すり減らす必要ない。無視しとけ」
 もしかしてこういう時も水本は、スイッチを切ってるのだろうか。頭の奥にある全ての感情を閉ざすスイッチを切ってやり過ごす。本当に強くて何にも感じてないわけではなく、とっくにひびだらけでギリギリのところで踏ん張っている。少しでも強い力を加えたら、今にも崩れ落ちそうな心を支えているものは何だろう。それが自分だという自信が、日野には持てない。
 教室移動で廊下に出ると、今日も一年生の子たちが一組の教室をこっそり覗き込んでいる。あっちゃんが、水本の追っかけが邪魔なんねえと振り返りながら言う。
「去年もああいうのいたけど、今年もキャーキャー言われてんねえ。水本に嫉妬しないん? それか、あの一年あわよくばとか」
「まさか、そんなんあるわけないがね」
「だいね。日野っちはもう彼女作んないん?」
 あっちゃんから、違う高校に通っている彼女が友達とカラオケに行くので、そっちも誰か連れて来いと言われていると、合コンの話を持ちかけられた。
「いいよ、僕はもうしばらくそういうのは……」
「園田で懲りた?」
 そういうんじゃないんだけどさ、と日野は笑って受け流す。この手の話はやっぱり苦手だ。水本と付き合ってるからなんて言えない。そもそも付き合っているのだろうか。ちゃんと告白して付き合おうと約束したわけじゃない。でも付き合ってなければキスなんてさせてくれないだろうし、と思い悩む。
「宮ちゃん誘えば?」
「うーん、そう思ったんだがね。今彼女作っても受験もあるしさ、相手の進学先が地元なら遠距離になっちゃうがね。どうせいつか別れるにしても、そういう人を紹介するのは無責任だいね。俺も高校違うだけでも結構面倒だし。だから彼女と同じ大学受けるんだけど、どっちかだけ受かったら最悪さね」
 遠距離恋愛になるのはとっくにわかっていたことで、そのための覚悟を今からしている。お互い離れても上手くやっていけるのだろうか。離れて駄目になるような関係ではないと信じてるけど。
 休み時間に日野が一組へ遊びに行くと、この間廊下でわざと水本にぶつかっていた奴らが、机に伏せて寝ている水本の机の角にわざとぶつかり、「おい、寝てんなや」と小馬鹿にしたように笑っていた。
「……な、むかつくだろ。あいつら調子に乗って」
 宮坂が舌打ちする。単に調子に乗ってる奴らが気に障ってるだけなのか、昔の自分を見せつけられているようで嫌なのか、わからない。でも昔の宮坂なら、水本ならやられても仕方がないと無視していたかもしれない。
 そんなに水本のことが気に食わないのなら、せめていないものとして扱えばいいのに。なのにそれが出来ないのは、みんな水本のことを特別だと思っているからなのだろう。これだとはっきり言えないけれど、みんながそれぞれに抱えている、ある種の不自由さとは無縁そうに見えるから。異質なものは排除しないと自らが危ぶまれると、必死に抵抗しているつもりなのだろうか。水本はみんなが思っているような人間じゃないと説明することも出来ず、わかってもらえないのがもどかしい。
 悔しくないんかい、と宮坂がシャーペンの先で水本の背中をつんつんと刺していると、水本は急に振り返って宮坂の頭を上から拳でモグラたたきのように勢い良く叩いた。
「あの馬鹿どもよりいい大学行くの、わかりきってるから。全然悔しくない」
「あっ、そう……」
「おまえもそうだろ。卒業して東京に行けば、地元に残る連中とは全然関係なくなるんだから」
 ここを離れたら関係なくなる。星みたいに見えなくなってしまっても、その季節が来たらまた逢える関係でいたい。遠距離になっても水本の「関係ない人」にはなりたくない。日野は一人心の中で願った。
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