つめたい星の色は、青

小林 小鳩

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#05

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 連休明けから売り出した、日野が考案したジャーマンポテトパンとバゲットのフレンチトーストの評判はなかなかで、近所の常連さんにも三代目頑張ってるねとからかわれた。そのことを姉にメールで伝えると感嘆符を並べて喜んでくれ、でも無理して継がなくってもいいんだからねと返信が来た。こんな田舎のパン屋なんか潰れても大丈夫だから、自分が本当にやりたいことを見つけたら、それをやっていいんだと。やはり跡継ぎだから無理して田舎に残るように見えるのだろうか。
 図書室で水本と二人で中間テストの勉強をしていると、本棚の陰から一年女子がこちらを見てはキャーキャーと騒ぐ。彼に惹かれることは善い行いであるかのように、女の子たちは競い合って視線を投げかける。彼女たちが何をひそひそ話しているのかまでは聞こえないけれど、これを端から見て面白くないと思う奴が多いのは、日野にもなんとなくわかる。でも追い払うわけにもいかない。煩わしく感じるのは、素直に感情を出せる彼女たちに嫉妬しているせいもあるだろうか。自然科学部を潰さなければ、この騒がしさから離れていつでも二人きりでいられたはずなのに。
「観賞用だと思ってんなら、ほっとけよ。本当に黙って観賞してるだけならまだ許してやるのに」
 数学の問題集を解きながら、水本がため息混じりにそうつぶやく。
「みんな陰でそう呼んでんだろ、知ってる」
 それを知っているということは、他に何を言われてるかも全部知っているのだろう。悪口が耳に入らないようにいつもヘッドフォンをしていたのに。
「あんなもん、その内飽きて潮がひくようにさーっと消えるから。慣れてっから」
「慣れてるんだ……」
「どうせしばらくしたら手の届かないところは諦めて、手近なところで自分を傷つけなさそうで一緒にいたらそこそこ楽しそうな男とくっつくから、こっぴどく突き放しても大丈夫。ああいう女は結構その辺タフだよ」
「……本気の子もいるかもしれんよ」
「本気で一途な子だったら、こんなことしないだろ。いくら好きだっていわれても、本音じゃないってわかる」
 そう言いながら水本は女の子たちの方を横目で見る。
 日野は園田のことを少し思い出していた。他の女子が口にする水本の悪口に乗っかっていたけれど、園田も水本に憧れてた時期があったのだろうか。それで諦めた結果日野が選ばれたのだとしたら、なんだか変な関係だ。水本の他人に対する警戒心や猜疑心は、こういうところからも来ているのだろう。
「……知ってんだよ、俺は。もう十八年近くもこの容姿で生きてんだから。いつも自分だけが他と違ってて……ああいう分別がない馬鹿や中味のない女や、頭のおかしいおっさんに散々振り回されて、自分がどういう存在なのかよくわかってる」
 そうだ、日野のことも最初は、そういう顔だけで寄ってきた身体目当ての奴だと思っていた。優しいふりをして近づいて来る人の中に、自分を犯そうと企んでいる人が紛れていて、実際に傷つけられている最中だ。なのに、そのやましい目的に応えないと優しくしてもらう資格がない人間なのだと、水本は信じ込んでいる。
「俺に見えてる世界には、俺はいないからさ。俺みたいな奴がすぐ身近にいる生活がどんなものなのか、俺みたいな奴に接する時にみんなどういう気持ちでいるのか、想像出来ないんだよ」
 なんだか辛そうで、隣にいる日野にもその感情が少し移る。それでも頬杖をついた伏し目がちで憂鬱そうな横顔はとても美しくて完璧で、みんなこの顔に惹かれないわけがない。もう帰ろうか? と日野が聞くと、あんな奴らのせいで俺の方が帰らなきゃいけないってのはしゃくだな、とこぼす。
「もう少しの辛抱なんだろうけどさ……静かでしかも二人っきりになれる場所ってどこかにないかな」
「だって、水本が自分で自然科学部を廃部にしちゃったがね……」
「そうなんだけど。そもそもあれだって廃部同然だったのを俺が乗っ取ったようなもんだしな」
 図書室を出た途端、こっち来い、と水本に腕を掴まれて引っぱられるままについていくと、廊下突き当たりのトイレの個室に連れ込まれた。水本は日野の肩にしがみつくようにして、顔をぎゅうと押し付けてくる。勢い余って日野は個室の壁に後頭部をぶつけた。いきなりのことで一瞬戸惑ったけれど、腰から手を回して抱きしめると、水本は更に強くしがみついてきて、しばらくそのままで抱き合っていた。
「ここ、絶対誰も来ないから大丈夫」
 水本がそうささやくので、耳たぶと耳の後ろと首筋に順番にそっとくちづけると、少しくすぐったそうにする。互いの息の温度を感じる。触れ合っていると、なんでこんなに気持ちいいんだろう。水本の身体は細くて脂肪などないのに、何故だかふわりとした感触がある。この温い優しさに、もうしばらく浸っていたい。
「……俺はこういうの慣れてるから大丈夫だよ。日野はなんとかしたいって思ってんだろうけどさ。出来もしないことをされるのは、かえって迷惑だから。そういうのは俺のためって言っても、実際はおまえのエゴでしかないからな」
 また全部見透かされてた。
「やるならもっと出来ることをやろうとしてくれ」
「……例えば?」
「そんなもん、自分で考えろ」
 水本は日野の口の両端を親指でぐいっと持ち上げる。突然のことに、また後頭部を打った。
「おまえが! いつにも増してぼやーっとしてっから! そういう顔してたらこっちまで暗くなるだろ」
 ぞっとするほどの美しい視線で真っ直ぐに日野の顔を見上げる。この目だ。この目で見られたら、誰だって彼に屈するしかない。
「……さっき、ちょっと嫉妬してた。あの子たちより僕の方が水本のこと好きなのにって思った」
「ふうん」
「僕にとって水本は特別だけど、みんなとは意味の違う特別さね」
「ふうん」
 いつものように気のなさそうな返事だけれど。少し俯いて、照れ笑いのような表情を浮かべてる。水本の頭をくしゃくしゃと撫でると、ますます照れを隠そうとして困ったような顔をした。
 水本を本当に自分だけのものに出来ないだろうか。誰にも脅かされないように自分だけのものにして、壊れないようにそっと両手で包んでずっと手の中に閉じ込めておければ。
「もうちょっとこうしてていい?」
「別に、いいけど」
 日野は水本を両腕で包むようにそっと抱きしめる。水本の息が首元にかかる度に体温が上がる感じがする。ここは静かだから、心臓の音が伝わってしまいそうだ。
 しばらくそのままでいると、下校のチャイムが鳴った。今度こそ帰ろうと、誰にも見つからないようこっそりと指の先だけ絡ませて手を繋いで歩く。すぐに階段を下りてくる人たちの喋り声がして、慌てて手を離した。
「ここにいると馬鹿みたいに悪目立ちしてみんな色々言うけどさ、東京行ったら違うんだろうよ。俺以上の奴なんか掃いて捨てるほどいるだろうし、みんなが思ってるほど凄くないって。ここじゃうちの高校は進学校だけど、県外出たらこんな高校誰も知らないよ。背だって一六七で止まったし、よく中学生に間違えられるし、特別な才能なんて何一つとして持ってないし。……だから早く東京行きたい。蟻みたいにうじゃうじゃ色んな人がいる中に放り込まれたら、俺なんか埋もれて絶対わからなくなるよ。どこにでもいる普通の人間。そんで誰も俺のことなんか見なければいい」
 そうだろうか。たくさんの美しい星々が明るく輝く中でも、シリウスはすぐに見つけられる。他を圧倒する、まぶたを閉じても眩しいほどに冷たく燃え盛る青い炎。あの星の光は、彼そのものだ。その美しさと強さを振りかざせば、どんなものでも支配出来そうなのに。あの輝きを恐れる人々のせいで、持て余しているようにも思う。
「別に誰に何言われたって何されたって平気だけど……こういう人間になりたかったわけじゃない」
 胸を焦がすあの炎は、彼自身までも焼き尽くす。


 自然科学部最後の日は、去年の文化祭と同じように遮光カーテンを閉めた暗闇の中で、プラネタリウムの明かりを手をつないで眺めた。小さな宇宙の中に、二人きりで息を潜める。文化祭の日は綺麗な星空を映していたのに、生物室全体には届かない弱さの光。これからどうなってしまうのだろう。今までみたいにのんびり気ままに過ごしていられない。時間がない。互いに思ってることだけど言えないまま、暗闇に散らばる星の淡い光をひたすら眺めてた。
 水本の言う通り、六月に入ると直接接触を試みる子たちはいなくなり、時折遠くから見られているなと思う程度になった。本当に観賞用だ。昔園田から聞いたような「顔はいいけど性格が最悪」という噂が広まってるのだろう。日野は同級生にも「よくあの水本と絡めるな」と言われる。
 みんな彼のようになりたがっている。容姿も勉強もみんなが必死に手に入れようとして手に入らないものを、何の努力もなしに持っているように見えるから、みんな彼を羨んでる。自分が惨めに思えるものを目の前から消したがっている。水本が深い絶望を抱えてるなんて思いもしない。そういう周囲の気持ちも理解出来る。
 そして水本はまた学校を休みがちになってしまった。二年生の終わり頃はちゃんと毎日来れていたのに、このまま休む日が増えたら……。水本にしてやれることは何だろう。いつもそれを考えているのだが、答えが出たためしがない。出ないということは、してやれることなどないということだろうか。俺にはおまえだけだと水本にいくら言われても、そんな資格はないように思える。
 廊下に中間テストの順位表が貼り出されると、相変わらず総合一位は水本だった。なんでロクに学校にも来ないような奴が、と本人が休んでいることをいいことに、おおっぴらに話している声が聞こえる。ずるくなんかない、ちゃんと勉強してる結果だ。水本は、おまえらとは違うんだよ。怒りを抑えながら、日野が順位表の水本の名前を眺めていると、元顧問の西谷に声をかけられた。
「日野は水本とすっかり仲良くなったんね」
「……そうですね。仲良いです」
「部がなくなっても水本のこと、よろしく頼むな」
 そう言って西谷はぽんぽんと調子良く肩を叩くので、チョークの粉が制服に付いてないか、横目でそっと確認する。
「水本は入学した時から協調性がなくて、先生困り果ててたんよ。部活でもやらせたらなんとかならんかと思ったんけど、これからも日野が面倒見てくれるんなら安心だいねえ。本当に良かった」
 西谷先生が自然科学部に入れと言ったのは、単に文句言わなそうな適当な奴に面倒を押し付けただけだったのか。そんなこと今となってはもうどうでもいいことだ。おかげで水本と知り合えたのだから。
「わかりやすくグレてるわけじゃなしに、問題べえ起こしてなあ……。とにかく勉強だけは出来る子だいね。出来る子には相応の大学に進学してもらいたいからな、このまま登校拒否でもして辞められると困るんさ」
 あんなに一生懸命に毎日毎日勉強してんだから、申し分のない成績が取れるんだ。中間テストだって、また一位じゃないか。なんでそれを、本人をもっと褒めてあげないんだろう。取れて当たり前みたいに思うなよ。先生や学校の評価を上げるために東京のいい大学を目指してるわけじゃないのに。水本にとっては苦痛から逃げるための手段だから、あんなにいつも。日野は抑えていたはずの感情がまた沸き上がるのを、喉に力を入れて押し込める。
「まあ、留年しない程度には学校に来いって言ってやってな」
「はい、わかりました……」
 頭の中でわーっと雑音が沸いて止まらなくなって、耳を塞ぎたいけれど、あのイヤホンは水本が持ったままだった。
 水本がどんな思いで生きているのか、みんな知らない。容姿や成績、そんなものは彼の全てではない。照れ笑いする時の顔が凄く可愛いくて、ゲームは下手だけどパズルゲームだけはやたら得意で、好きなものは一番最後に食べて、炭酸が好きで、薄荷味が苦手で。家族のことは嫌いだと言うけれど、妹の幼稚園の入園式の朝に一緒に撮った写真をスマホに入れていて、親が東京のデパートで買った服を妹に着せるからいじめられるんじゃないかと気にしている。自分と付き合うことで日野の立場が悪くなってないかといつも気を遣うような、そういう人なのに。そういう彼を日野以外の誰も知らない。
 ヘッドフォンで耳を塞いで世界と闘う水本をわかってやれるのは、僕だけだ。日野は俯いたまま廊下を小走りで駆けた。


 放課後誰もいなくなった二組の教室に残り、水本は日野の席に座って勉強をしている。日野は隣の席で雑誌のパン特集を読んで、店の手作りドーナツをおやつにふるまう。
「いつかこういう店に行ってみたいんね」
「いつかじゃなくてさ、夏休みにでも行けばいいじゃん。お姉さん東京にいるんだろ?」
「でも遊びに行ったことないから、いいよ」
 水本が学校に来た日は少しでも長くそばにいたい。二人きりでいる時間は、いつも静かでゆっくりと流れているように感じるのに、実際の時間は何倍もの速さで進んでしまう。
「水本は予備校とか行かないん?」
「行く気ない。高校だって出席日数危ないのに、通いきれねえよ。親に余分な金出させたくないし、大体ああいうのは性に合わない」
 水本は英語構文の問題集を解く手を止めて伸びをすると、雨降りそうだねと窓の外を見て小さくつぶやいた。
「雨はあんまり好きじゃないな」
 窓の外には今にも降り出しそうな濃い灰色の厚い雲。制服は夏服になったけれど、雨の日ばかりが続いて半袖では肌寒い。机の天板は触れるとしっとりとしている。水本はレポート用紙の上をすらすらと踊るようにシャーペンを滑らせながら、機械的に問題を埋めていく。青いシャーペンを握る白い指は爪の先まで綺麗で、触れたら冷たそうだ。
「雨はどれだけ降ってるのかが音でわかるけど、雪は気付かない内に積もってるから。それが好き」
「冬の間はこれ以上雪降んな最悪とか、さんざん言ってたがね」
「窓から外を眺めてるのが好きなんだよ」
 つららから滴る雫のような水本の声が、二人以外の気配がない部屋に静かに響く。いつもは雨音のように騒がしい教室も今はしんとして、もうすぐ夏なのに冷たい雪が降っているようだ。胸の中にも、愛おしいという気持ちが音もなく降り積もる。
「湿度高いと頭痛くなんない? なんか頭痛いんだけど」
「あー、そう言うねえ」
 教室の後ろの黒板には「高校最後の球技大会まであと一週間!」と書かれている。きっと水本はこの行事にも参加しないのだろう。どんなことにも「高校生活最後の」という冠が付いて、もう時間がないと焦らされる。せっかく最後なんだから良い思い出を作れと、強制されているようだ。別に望んでいないのに。好きなことややりたいことで思い出を作りたいのに、そういうことは受験生なんだからと制される。どうせ思い出作りをするのなら、水本とまた海に行きたい。今度は晴れた夏の海辺を手を繋いで歩きたい。誘ったら、水本は受験生だから駄目だと言うだろうか。
「水本は、次はどんなパンが食べたい?」
 日野が雑誌を目の前に開いてそう聞くと、おまえは凄いねと小さくつぶやいた。
「そうやってやりたいこととかなりたいものとか、俺には何にも思いつかねえよ」
「水本は凄く勉強が出来るから、何にでもなれるよ。僕と違って、好きな物いっぱいあるがね」
「……勉強ばっか出来たって、意味ないだろ。好きな物はいっぱいあるけど、何になろうなんて考えたことない。とにかくこっから逃げるのが一番で、それから先の将来のこととか全然考えられない。とりあえず成績で受ける大学や学科を決めてるだけだし……」
 俯く角度がどんどんと深くなり、水本の表情は髪に覆われてうまく読み取れない。彼が自分自身の凄さに気付けないままなのがもどかしい。
 二人を繋ぐ片耳だけのイヤホンからは、激しい雨音みたいな音楽が淡々と流れ続けてる。目をぎゅっとつぶって開けたら、水本が消えていそうで。日野は試しにゆっくりと目を閉じて開けて、消えていないことを確認する。
 水本はやっぱり頭痛いとカバンから頭痛薬を出し、飲み残しでほとんど気が抜けたレモン味のソーダで流し込む。
 最近、今が終わるのが凄く怖いと感じている。テストのために必死で勉強した古文も代数も化学式も、終わればほとんど忘れてしまう。大人になったらおそらく役に立たなくて、もっと簡単に忘れてしまうのだろう。それと同じように、水本と過ごしているこの日々を簡単に忘れる日が来るのではないだろうか。せっかく覚えても記憶は失われていくばかりで、むなしい。ただただ失っていくのが怖い。今のこの瞬間の全てを、今そばで感じている水本の体温を、永遠に残しておく方法はないのだろうか。


 雨の降る日の教室は電灯を付けていても薄暗く、賑やかでもどこか少し寂しげだ。風に流された雨が窓ガラスに当たる音と、教科書を捲るかさかさとした音が教室中に小さく響く。前の晩から雨が降り続き、湿度はあるのに今日も少しひんやりとしている。
 二時限目が終わった後の休み時間、宮坂が日野の教室に来て、水本が保健室にいるから行ってやんな、と言った。
「さっき授業中に突然教室出て行って、先生が見に行ったら廊下の水道で吐いてた。誰か保健室連れてげって言うから、連れてったさ」
 日野が急いで保健室に行くと、白いカーテンに囲まれたベッドで水本は静かに寝息を立てていた。額に触れるとうっすらと汗が滲んでいる。ただでさえ白いのに真っ青だ。目の周りだけが少し赤く染まっていて、それが一層色の白さを際立たせている。弱っているせいか、なんだか小さく見える。水本は目を覚まし、日野の顔を見てふふっと笑う。凶暴さすら感じる美しい顔で。
「全部吐いたからすっきりした。もう平気」
 雨音にかき消されそうなくらい、か細い声。水本が平気と自分で言う時は大抵平気ではないので、日野は顔をしかめる。単純に体調が悪いだけではないのだろう、うつろな目の奥に水本が抱える現実を察する。
「雨は苦手なんだよ」
 消え入りそうな声でそう言って、来てくれてありがとうと優しい声で笑って、日野の指を握る。真っ白で細い指はこんなに綺麗なのに、それが汚されていくのをどうすることも出来ない。それなのにどうして彼は笑いかけてくれるのだろう。喉の辺りが苦しくて、うまく言葉が出てこない。水本のその柔らかな手で細い指で、ゆっくりと首を絞められているようだ。
「……お父さんに、もうしないでって言うのは無理?」
「なんで? そんなこと言ったら、あの家にいられなくなるじゃん」
 やっとの思いで吐き出した言葉も、簡単に覆されてしまう。水本は口の端をくっとあげてにんまりと笑う。全然笑うようなことではないのに。
「ただの不定愁訴だから気にすんな。いつものことだよ。母親がもうすぐ迎えにきてくれるし、大丈夫」
「ふてい……え、なに?」
「いいから、早く戻りな。おまえは授業さぼるわけにはいかないだろ」
 予鈴が鳴り、一階の保健室から三階の教室まで急いで駆け上がって、授業にはなんとか間に合った。水本に触れた手のしっとりと湿った感覚は、まだ残っている。一緒にいると泣きたくなることばかりが増えていく。こんな恋ならしなければ良かった、そう思いたいのに出来ない。
 どうやってその心を保ってるのか不思議に思っていたけれど。本当はもうとっくに粉々に砕けているんじゃないだろうか。もう何の感情もなくなって、機械的に笑って、スイッチを切って感覚を麻痺させてやり過ごすだけの日常。そういう中に水本はいるのだと感じる。
 学校が終わってから水本に何度か電話をかけたのだが、一向に出る気配がなく、返信しなくていいと添えてメールを送った。
 一人だけでは重たすぎる秘密だったのだろうけど、日野にも重たすぎてどう扱ったらいいのかわからない。抱えきれなくて何かのはずみで落として壊してしまいそうだ。
 水本を見ていると、胸に巨大なつららが刺さっているようで苦しい。早くこれが溶けてなくなればいい。そう願うけれど、なくなったところでそこには既に、ぽっかりと穴が空いてしまっている。刺さっていた痕は消えない。だったら氷でも詰まっていた方がまだマシだ。いつかこんな想いも消えてしまって、楽になれるのかもしれない。楽になりたいと思うけど、この想いは忘れたくない。そのわがままと引き換えに、息苦しさに胸を詰まらせる。



 暗い部屋の中、ベッドサイドに置かれたスマートフォンの画面だけが光っている。おそらく日野がメールでもくれたのだろう。でも今の水本には、それを見る気力もない。さっきまで自分にのしかかられた人間の重みを、まだなんとなく感じて、動けないままでいる。皮膚を這い回り弄ぶ手や舌、挿し込まれた性器の感触を拭えない。ただひたすらに自分の身体が気持ち悪い。この身体は、空いた穴に性器を詰め込まれるための腐った肉の塊のように思える。
 義父はいつも、慧がいないと生きていけない、慧だけが本当であとはみんな嘘ばかりだ、慧と繋がっている時だけ正気を取り戻せると繰り返す。一応親のくせに、いい大人が何言ってんだよ。そう言い返す気力もない。ただ黙って感情のスイッチを切って、行為が終わるまでの時間をやり過ごす。それが今の生活水準を守るための、要らない子だと見捨てられずに済む最良のやり方だ。
 なのに日野はこの身体を美しいと何度も微笑みかける。他の人間に汚されているのに、それでも黙ってそばにいてくれる。そのことに感謝しているし、何か返さなくてはならない。彼の為なら何でもしてあげたい。身体を求めてくる人間にただ差し出すのとは違う、もっと別の感情をもって捧げられる。星みたいな清らかさも煌めきも、自分にはふさわしくないとわかっているから、憧れを持った目で見られることはなんだか申し訳なかった。彼が褒めてくれるような人間じゃないんだけれど、でもそうありたい。
 もう今更誰かに助けてもらいたいなんて思ってないのだけれど。助けて、と口にすれば、日野は今すぐ駆けつけてくれるだろうか。何もかもを振り切って、真夜中に大雨の中逢いに来てくれるなんて、あまり現実的じゃない。日野にはそういう馬鹿みたいな真似は出来ないんじゃないのかな。宮坂ならやりかねないけど。あいつは無駄に正義感をふりかざしたがる時がある。
 たとえ助けてと懇願したとしてもきっと日野は器用に立ち回れないから、かえって安心する。簡単に今までの人生をひっくり返すような優しさを与えられたら、もう一緒にいられないと思う。自分を必要以上に掻き乱さない、だから好きでいられる。
 ……自分以外の他の誰かのことを考えるなんて。以前の自分なら抱かなかっただろう感情を、水本は扱いかねている。今まで水本の世界はいつでも、自分対自分以外の人間という構図で出来てきた。だけど今は違う。助けてと言えば何かを変えてくれるかもしれない、そんな淡い期待を抱かせる相手がいるのだ。だけど声に出す勇気がない。水本が一度それを口にしたら、日野の人生を変えてしまうような気がするからだ。これは破滅の言葉だ。絶対に言っちゃだめだ。自分の人生に他人を巻き込んじゃ駄目なんだ。
 ベッドサイドのスマホに手を伸ばし、何の言葉も書かれていない空のメールだけを返す。今はこれ以上のことを望んではいけない。水本は布団に潜り込みうずくまるようにして、目を閉じた。

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