つめたい星の色は、青

小林 小鳩

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#09

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 新幹線の切符もICカード乗車券も買い方がわからず、みんな水本に代わりに買ってもらった。日野が一人で電車に乗ったことがないと言うと、かなり驚いていた。何をするにも市内で用が足りるし、どこかへ行く時は親や近所の誰かの車に乗せてもらっていたから、電車に乗るのがいつ以来なのかわからない。でもそれは日野に限ったことではなく、この町から出ない人たちにとっては珍しいことじゃない。
「俺、高二の夏休みに一人で電車乗って隣の県までライブ観に行った」
「えー、そんなの知らなかった」
 水本は大人のように一人で色んなことをこなし、一人で東京に行ってしまう。水本が行ってしまったら、日野も一人だ。いつまでも出来ないことや経験のないことを友達に頼ってばかりじゃいられない。そういう季節の中にいる。
 日野がやっと取れた車の免許証を水本に見せると、「変な顔してる」と予想通りの言葉が返ってきた。
「写真撮られるの苦手なんよ……。水本は東京で免許取んの?」
「免許は別にいらないかなって。東京は車なくても生きていけるし、車嫌いなんだよ。バスは平気なんだけど、乗用車はすぐ酔うからあんまり乗りたくない」
 水本の受験が終わったら海までドライブに誘うつもりだったが、難しそうだ。一番最初に助手席に乗せたかったのに、と落胆した。
「東京に着いたらさ、色々食べ歩きをしようと思って。この店が気になってるんさ。和風のパンが目玉なんだって」
 パンの店が特集された雑誌を水本に見せると、昔住んでいた家のすぐ近所だと言う。
「そうなん? じゃあ絶対行かないと。水本がどういう町で育ったのか見たい」
「俺が住んでたのなんて九年前なんだから変わってると思うよ。住んでたアパートももうないかもしれないし……東京に住んでた時間と引っ越してからの時間が一緒になったな」
 日野の手の中の東京の地図を、水本は懐かしそうに指でなぞる。
「あー、全部わかる。この駅前商店街の靴屋の息子と同級生だった。国道をこっちへ行くと有名なでかい公園があって、よくテレビのロケとかしててさ、遊んでると子供は邪魔だって追い払われてた。何だったかな……最近も何かのCMに映ってて、見る度にあの公園だって」
 その口調はとても嬉しそうだ。水本が見ていた風景の全部を知りたい。
 ちょっと耳貸して、と水本は日野のパーカーの袖を引っ張る。
「……やっぱり先生とのこと、気付いたんだと思う。他の男と寝たからかどうかわかんないけど、あんまそういうことされなくなった。あの人、結構潔癖なとこあるし。なんだか前と違くて、凄く変で……たぶん、見放されたんだよな。俺がいないと生きていけないって言ってたくせにさ」
 日野は何と返したらいいのかわからず、口を開こうとして止めて、唇の裏側を前歯で噛んでしまった。
「まあ、こんなもんがいつまでも長続きするとは思えないから、いつかは飽きられる日が来るんだろうと思ってたし。先生ともあれ以来何にもないし。これでもう何のしがらみもなく東京に行けるよ。すっきりした」
 水本はそう言うのだけれど、その横顔はなんだか寂しそうだった。見放されないように必死で耐えてきたことからようやく解放され、もう自分を傷つけてまでしがみつかなくてもよいはずなのに。
「これで俺は日野だけのものだよ。だからさ、やりたい時はいつでも、最後までしていいから」
「……本当に、いいの? だって何の準備もしてないし」
「いいよ。日野に触ってもらうと、汚れてぐちゃぐちゃな自分が少し綺麗なものになったような気がして幸せだから。日野にしてもらえたら、凄く嬉しい」
 はにかみながら水本はそんなことを言うので、少し怖くなった。勿論水本としたいけれど、彼を傷つけてきた人たちと同じことをして、本当に構わないのだろうか。水本を支配してきた人たちと同じ悪意が自分の中に芽生えてしまったら。水本はいつも日野にそういうことしてもいいと言うけれど、本当のところはどうなのだろうか。見捨てられないように、そういう餌で日野の気持ちを引き止めようとしているのではないだろうか。あの夏のようなことの繰り返しになりそうで、疑念を払えない。一点の光もない闇の底から生気のない顔でこちらを見上げる、あんな水本はもう見たくない。
 新幹線が東京駅に着いてホームへ降りると、屋根と屋根の隙間からすっきりと晴れた薄い水色の空が見えた。ホームが二十何番線まであるなんて、地元じゃ考えられない。日野が行き交う人波に戸惑っていると、こっちついてきなと水本は日野の手首を掴む。
「迷子になるから、手を離すなよ」
 手を繋いで人ごみの中を進んで行く。二人のことを誰も見てない。水本が上を見上げて歩くので、つられて上を向く。水色、黄緑、オレンジ。カラフルな案内板と大きな電光掲示板がいくつも下がってる。水本は姉の家へ向かう路線まで誘導してくれた。俺は隣のホームだから、と行こうとする水本のコートのフードをつい掴んでしまう。振り返った水本と目が合って、手を離した。
「……頑張ってくるから、おまえも少しは一人で頑張れ。あとで、ていうか毎日電話するから。急行の乗り換えが不安なら最初から各駅停車に乗りな」
 立場が逆だ。こっちが励まさなきゃいけないのに。
「頑張ってね。水本ならどの大学も絶対受かるさ」
 日野が励ますと水本は小さな声で、頭撫でて、と言った。撫でると少し俯いて顔をほころばせた。ホームで手を振って別れて、日野は生まれて初めて一人で電車に乗った。


 テレビで見たのと同じだ。東京の街はどこを見回してもテレビの中の世界にいるみたいで不思議な感じがする。生まれて初めて乗る地下鉄の窓の外は真っ暗で、どこへ行っても早足で歩く人と見分けのつかないビルばかりで何だか凄く疲れる。訛りが恥ずかしくて道を聞けない。地元のお祭りの人ごみは別に気にならないのに、ここでは駅のホームから地上に出るのもやっとで嫌になる。かと思えば、日野の中にある東京のイメージとは違う、人気のない小さな路地裏や古いアーケードの商店街が広がる。地元の駅前商店街はシャッターが閉まってる店ばかりなのに、ここには人が溢れ華やぎ、あまりにも違う。みんなが水本を理解出来なくて避けていたのも仕方がないと思ってしまう。日野の友達が水本とは仲良く出来ないように、水本の好きな街を日野も好きになれる自信がない。どこへ行ってもそわそわして早く帰りたいと思ってしまう。
 東京に来てから昼間は毎日雑誌を見て気になっていたパン屋巡りをして、日野は自分が如何に狭い場所でぼんやりとしていたかを知った。パンの店でもベーカリーでもなく、ブーランジェリー。棚もパンを入れる籠も全てが外国映画に出てきそうな洒落たセンスのある店内。ソレイユに置いてあるようなパンはなく、同じ種類のパンでも味も見た目も全く違う。洋服屋みたいに色鮮やかな紙袋もパンが入っているとは思えないほどだ。日野が物心ついた時から変わらない、薄茶のクラフト袋に赤でにっこり笑った太陽のイラスト入りで「パンの店・ソレイユ」と書かれた袋とはだいぶ違う。パン屋のはずなのに妙に落ち着かない。もし修行するとしても、こういう店では勤まらない気がする。そもそも親の跡を継ぐという名目が最初から用意されてた道だったから、自分はこうしたいという強い気持ちが欠けているような気がして焦る。でも、ソレイユをこういう店にして喜ばれるだろう
か。東高の生徒と近所の工場の人たちがお客の大半を占めるソレイユは、食パンのことをパン・ド・ミーと呼ぶ店にはなるべきじゃない。それくらいはさすがに日野でもわかる。
 姉に頼まれた行列のできる店のパンも、ソレイユで売られているパンと同じではなかった。外側にパン粉を付けて揚げるのではなく、ナンに包まれたカレーパン。中味もトマトカレーやキーマカレー、黒ごまや黒豆が入ったブラックカレー。作るだけなら可能だとしても、それを提案して親が受け入れてくれるのだろうか。
 日野は自分が自信を持てないのは、誰かに強制されてやっているという気持ちが少なからずあるせいだと思う。水本の為にパン職人になるんだ、と思おうとしても水本は遠くへ行ってしまう。こういうやるせなさをこれから先の何十年かの人生で何度も繰り返すんだろうと思うと、目の前にいつか見た冬の海が広がっているような気がした。
 あの水族館でのことを思い返す。環境の整った水槽の中しか知らない魚のように、田舎で生まれ育ってあの町以外のことを何も知らない。知らないままなら幸せだった。広い海では生きられない。
 結局なにかと理由を付けて、レールを外れて生きる度胸がないことを正当化したいだけなのかもしれない。親と大喧嘩までして住み慣れた土地を離れ、陰口を叩かれ続けた姉のようになるのが怖いだけだ。自分が選んだ答えに自信がないから、人に決めてもらった方が安心する。自分が出来ないことを何でも簡単にやってみせるから、日野は水本に憧れる。東京の有名店のパンはどれも美味しかったけれど、喉の奥に何かが詰まっていくような感じがした。
 水本が生まれ育った街へ行くと、駅前にもパン屋があるのを見つけた。色褪せたビニールの日よけと古ぼけた看板がかかった、ソレイユのような小さな店。東京にもこういう店があるんだ、と安心して入ると、うぐいすあんぱんに目が止まった。そういえば水本が好きだと言っていた。日野はトングをかちかち鳴らしながら何を食べようか見回す。ピロシキ、ケチャップのかかったソーセージロール、ハムとチーズのパニーニ。水本が教えてくれた好きなパンの話は、きっとこの店のことなのだろう。日野が最初に好きなパンを聞いた時、ピロシキと答えた。ここにあってあの町にない食べ物。この街に住んでいた頃の幸せな記憶。ずっとずっと東京に帰りたいと思っていたのだろう。
 日野は買ったパンを近くの公園のベンチで食べた。中央にある大きな噴水は、何かのテレビで見たことある。手袋をしなくても過ごせる東京の冬。生まれて初めて食べたピロシキはカリンとしてふわふわで、日野が育った町と全然違う風景の味だった。
 駅前商店街のアーケードを抜けると、夜空に星が瞬いている。東京の空は汚くて星が見えないと誰かが言ってたから、日野はずっとそう信じてた。空が全体的に明るいから見える数は少ないが。南がどっちかわからないからぐるっと見回してオリオンの三つ星を探して、左下に光るのがおおいぬ座のシリウス。水本に教えてもらった青星の見つけ方。東京の空でも変わらず青く燃える星。
 アパートの窓から駅のホームから見える高層ビルにはどれも、赤いランプが灯っている。飛行機がぶつからないためにあるのだと、水本が教えてくれた。あの田舎町には高い建物がないので初めて知った。田舎よりもずっと明るい夜空に明滅する赤い光や遠くに灯るビルの窓明かりを、星のようだと日野は思う。
 田舎の冬空はいつも薄曇りだけれどここでは澄んだ水色で、高く高くそびえるビルを見上げるといつも隙間に晴れた空が見える。日野はそれをとても綺麗だと思った。自分の目で確かめないとわからないことがある。みんなが悪い噂ばかりしていたけれど、日野は自分で水本がどんな人か確かめた。あの星みたいに美しいと、誰よりもよく知っている。
 姉の麻衣子の帰りは毎晩遅く、カレーやシチューを作って帰りを待つ。日野はそれしか作れないのだけれど、それでも姉が喜んでくれるのを嬉しく思う。商家育ちで、外でスーツを着て勤めてる人の生活がどんなものか知らなかったから、毎朝仕事に送り出すのも不思議な感覚だ。家に帰ると暖房が効いててご飯が用意されてるなんて幸せ、と麻衣子は毎日言ってくれる。
 六畳間とダイニングだけのアパートの部屋には日野が寝る場所がないので、ダイニングに布団を敷いて寝るはめになっている。それでも泊めてくれたことは有り難い。水本も東京ではこういう部屋で一人暮らしをするのだろうかと想像する。
「ねーちゃんはもう地元には帰らないん? 一緒に東京の大学行った子もみんな地元に帰って来たんにって母さんが言ってたがね」
「……そうさねえ。地元のことは嫌いじゃないよ。今もあの店のあれが食べたいとか、観音山から見下ろす町の景色が好きだったなとか思う時はあるんよ。でもさ、今の東京でのあれこれを全部断ち切って地元戻るほどの大きな理由はないから。……ちょっと考える時もあるよ。戻っても何もないわけじゃないし。でも戻ったところで東京に出る前と全く同じ暮らしが出来るわけないがね。みんな変わっちゃってるから」
 思えば姉は日野と同じ歳で地元を離れて東京に行く決心をした。同じ大学を受ける子がいたから背中を押されたと姉は言う。水本も宮坂もあっちゃんも、同じ三年間を過ごして来たと思ってたのに、日野にはみんなが大人に思える。みんなが変わっていく中で、自分だけが子供のままでずっと同じ風景の中に取り残されていく。そんな気がしてしまう。
「ひーちゃんも小中学校の時の友達と会った時、なんか変わったって思わない? 変えることには勇気がいるけど、変わってしまったものを元に戻すのはもっと難しいよ」
 水本には、今の苦しみから解放されて変わって欲しいと日野は願っている。けれども、すっかり変わって、自分とは相容れない人になってしまうのが気がかりだ。変わって欲しくないなんて、単なるわがままなのだ。
「あのさ、仲良かった友達とか大事な人と離れて寂しくない?」
「離れる選択をしなきゃいけない時もあるよ。……離れてるくらいがちょうどいいのかもね。嫌なことに触れずに済んで、良いとこだけ思い出せるがね」
 夕食のカレーうどんを注意深くすする沈黙の後、麻衣子は深く息を吐いて言った。
「まあ、例えばもう二度と逢えないくらい遠ざかっても、毎日その人のことを考えるようなことがなくなってもね。時々はその人と一緒にいた時間を思い出すだけで、これからの人生を前を向いて生きていけるような感じがしたりするようなさ。そういう人と一生の内に一人でも出逢えたら最高だいね」
「……そういう人、いた?」
「ずっと昔ね」
 麻衣子はそう言って、ふふっと少し眉を下げて笑って。照れているのか「ひーちゃんと喋ってると訛りが出るから困る」なんて少し怒ったように言う。
 夜眠る前に水本のこと思い出して、寂しくなったり勇気をもらったりして眠って。その内水本のことを思い出さずに眠れる日が来るんじゃないだろうか。日野は不安を打ち消すように布団に潜った。


 朝、家を出る前に麻衣子は、夕方から雪が降るって天気予報で言ってるから早く帰りなね、と日野に忠告した。
「東京は少しの雪でも電車止まっちゃうからね。そこは田舎とは違うよ」
 バスは前乗り前払いで定額料金だとか、エスカレーターは必ず左側に乗るとか、離れて暮らす間に姉は東京のルールをすっかり把握している大人になっている。日野の記憶の中では一緒に暮らしていた頃の、制服姿で髪を二つに結んでいた姉のままなのに。
 前の晩、水本から日野に電話があった。受験がちょっと一段落付くから逢おうと。水本が泊まるホテルがある駅で待ち合わせ。駅前には日野でも知ってる有名な商業施設があり、水本から連絡があるまでそこで時間を潰すことにした。
 地元にはない大きなレコード店で日野はあの曲が入ったCDを買った。この曲の思い出を形にして残しておきたかったからだ。一休みしようと駅ビルにあるものと同じコーヒーショップに入り、店員に尋ねながら注文をして一人でカウンターの席に座ると、達成感が得られた。水本に頼らなくても一人で生きていけるように、少しずつ準備をしている。
 すれ違う人もお店にいる他の客も、みんな雑誌に出てる人のように着飾っている。女の人だけじゃなく男の人まで、きれいに手入れされた革の靴を履いている。日野が着てるダウンも全国チェーンの店で買ったのに、なにかが違う。東京の店と同じものが売ってても、店の雰囲気や客層は違うと思い知らされた。大きなモールが出来てネットもあって何でも手に入るから東京なんかにわざわざ行く必要ないと、地元の友達はみんなそう言うけれど。全然同じではない。正直、東京の街のスピードに日野はついていける気がしない。水本はすぐに慣れると言うけれど、日野は自分には決定的に都会に馴染む才能がないと思えた。
 カフェラテを飲みながら買ったばかりのCDを開ける。歌詞カードに書かれた翻訳を読んで、水本と何度も何度も聴いてた曲がどういう内容の歌詞なのか初めて知った。絶対に終わらないと思っていた時間もいつか塵になって忘れ去られてしまう。十代の青春の日々を思い返す歌。そういう歌だともっと早く知っていたかった。水本が何度も読み返していた、中のページがすっかりくたくたに開いていて年季の入った革のブックカバーがかけられていた、あの文庫本。あれが「海底二万里」だと知ってはいるけど、日野は本なんか全然読んだことないから角で頭を打てる分厚さの本を読もうと思わなかった。水本のことばかり、目や声や仕草ばかり見ていて、彼が守ってきた大事な世界をほとんど知らないままだった。もっともっと彼のことを知る余地があったのに、こんな別れの間際になってから気付くなんて。
 誰かの心の奥に踏み込むことを恐れているけれど、具体的に何が怖いのか日野自身にもよくわからない。しかしおそらく、園田に別れを告げられたのは、こういうところなんだろうなと今ならわかる。あともう一歩踏み込めていたら、何かが変わっていたのだろうか。水本に対しても、もっと彼の本心に触れることに躊躇わなければ良かった、と思うことが幾つかある。
 水本から試験が終わったと電話があり、それから三十分程で店にやって来た。外はみぞれらしく、濡れた折り畳み傘が入ったビニール袋を手にしてる。日野が水本の手に触れると氷のように冷たい。水本はソイラテのカップを両手で握って温めながら、濡れた足元を気にしてる。
「こんなに天気悪くなるなんて思わなかったから、気に入ってる高い靴履いて失敗した。……元々東京生まれなのに、東京来るからってわざわざ良い靴履くなんて、馬鹿みたいだよな」
 明日は一番最初に受けた滑り止めの学校の合格発表で、その次の次の日が最後の受験日。今集中力が続いてるとこだから切れるのが怖いと、水本はため息混じりに言う。ソイラテを飲み終えると、それじゃそろそろ行こうかと水本は立ち上がった。
「このビルの中、水族館が入ってんだよ」
 日野は思いも寄らない言葉に戸惑いと驚きが混ざって、水族館? と酷く間の抜けた声で聞き返してしまった。
「だっておまえ、また一緒に水族館行こうって自分で言ったじゃねえか」
 そうだと良いなと思って言ったけれど、果たされない約束だと思っていた。まさか水本が覚えていてくれてたなんて日野は思ってもいなかった。
 平日の昼間にもかかわらず水族館は結構賑わっている。こんなに大きなビルにどうやって海を運んで来たのだろう。アマゾン川もグレートバリアリーフも東京湾も同じ部屋の中にある。この街には本当に何でもある。
「俺ここ来るの、幼稚園の遠足以来だ」
「遠足でこんな立派なとこ来んの。水本って本当に都会育ちだいね……」
 真夜中みたいに暗い部屋を、水槽の青い光だけが照らしてる。珊瑚礁に囲まれた静かで明るい海の底。水本の大好きな世界は、分厚いガラスの向こうで手が届かない。それでも水本は満ち足りた表情で、感情を見せずに泳ぐ色鮮やかな魚たちを眺めている。
 カシャリと微かにシャッター音がしたので日野が水本の方を見ると、スマホのカメラを向けていた。日野もすぐさまポケットからスマホを出して水本を撮る。
「ほら、免許証の写真と全然違うじゃん。変な顔じゃないだろ」
 水本が撮った写真を見せてもらい、彼にはこんな風に見えてるんだと日野は初めて知った。日野が撮った写真を見せると、水本は少し顔をこわばらせて写真を覗き込む。
「ごめん、ちょっとぶれた」
「なんか笑ってんね。……おまえといる時、俺はいつもこういう顔してんの?」
「え? わりとこんなんだいね」
「ふうん」
 水本はじっと画面を見つめて、少しはにかむ。今の顔を写真に撮りたかった。
 大学生らしきカップルたちが手を繋いでいるのをちらほら見かける。水槽に顔を近づけて眺めてる水本の指先に触れると、水本も日野の指を握り返してくれた。ゆらゆらと揺れる水の光が、水本の黒目がちの瞳に映る。
 ただただ失われていくだけのものと手を繋いで、偽物の海を眺めていた。日野さえいればいいんだと何度もつぶやく水本のことを、他の誰かが触れるのを日野は許せない。水本が自分にだけ見せる笑い方や仕草やその全ては、日野が忘れてしまったらもうこの世からみんな消えてしまうように思えて、彼を独り占めするのが少し怖くなった。忘れたくないと強く願っているのに記憶は思い通りにならず、勝手に次々と薄れていってしまう。数学の公式も子供の頃使っていた秘密の通り道も昨日テレビで見た映画の名前も全部忘れていいから、この目に映る彼の全てを、まばたきで揺れる睫毛や握る手の冷たさを、忘れたくない。いつかこんな気持ちも、大人になったら思い出せなくなってしまうのだろうか。
 ビルの中の店で夕飯を食べ終え、今何時だろうと日野がスマホを見ると、メールと不在着信が入ってる。全て麻衣子からだ。着信履歴からかけ直そうとすると、ちょうどかかって来た。
「ひーちゃん、家帰ってる?」
「まだ。友達と水族館行ってたんよ。これから帰る」
「えっ、何やってんの! 大雪で電車止まってるよ。だから早く帰りって言ったんにー」
「マジで? ずっとビルの中いたからわかんなかった……どうしたらいい?」
「……動いても間引き運転かなあ。友達は受験終わった?」
「あと一校残ってるけど、試験は明々後日だから」
「そっか。焦って無理に帰って来なくてもいいから。漫画喫茶とかカラオケ屋とかで一晩明かせそうだったら、そうしなね。私は帰れなかったら会社の近くに住んでる人の家に泊めてもらうから」
「それ彼氏?」
「今はそんなことどうだっていいがね! また何か会ったらすぐ連絡しなさいね」
 電話を切って、雪で電車止まってるみたいと水本に告げると、水本は少し考えてから言った。
「俺の泊まってるホテルのフロントに、二人で泊まってもいいか聞いてみようか」
 ビニール傘を買って外に出ると街中雪まみれで、道路は渋滞している。学校帰りの女子高生たちが足を滑らせて転ばないよう互いに腕を組んで、きゃあきゃあ騒ぎながら歩いている。スマホをかざしてで街の様子を撮影する人たち。すれ違う人たちはみんな困りながらもどこか笑っている。東京で降る雪は随分楽しそうで、やはり日野の知っている雪とは違う。市内は山の方と比べてそこまで積もらないが、雪が降ること自体は全く珍しくないので、こんな風に街中が色めき立つような雰囲気にはならない。
「地元じゃ雪なんか降っても誰も喜ばないのにな」
 水本も少し笑って言う。ここは色んな意味で別世界なのだ。スクランブル交差点の前まで来て、あっちに渡るから、と水本は斜めの方向を指差す。
「これ、どういう仕組みになってんの……」
「信号が青になったら渡りゃあいいんだよ。歩道はどの方向も全部青になるから」
 水本は簡単そうに言うけれど、こんなのテレビでしか観たことないのにと日野は身構える。
「あ、信号変わった。ほら、行くぞ」
 水本は日野の手首を掴んで引っ張り、スクランブル交差点を行き交う人ごみの中を誰にもぶつからずにすいすいと歩く。群れの中を一匹だけ逆に泳いでいく魚のように。群青の制服だらけの廊下をこんな風に少し早足で行く水本の姿。それを見て日野は、ずっと話しかけたいと思っていたのだ。

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