つめたい星の色は、青

小林 小鳩

文字の大きさ
10 / 11

#10

しおりを挟む
 ホテルのフロントで事情を話すと、今晩は空室がないこともあり、親に連絡を取った上で水本と同じ部屋に泊まらせてくれた。「何やってんのお姉ちゃんにも友達にも迷惑ばっかりかけて」と親に電話で怒鳴られたけど。日野はなんだか妙にわくわくしてしていた。
「ごめん、まだ試験残ってるのに迷惑かけて」
「いいよ。本命は終わってるし、いてくれた方が嬉しい。明日合格発表で、緊張して眠れないかもしれないから」
 一校でも受かれば、水本は春から東京だ。もう本当に終わりがそこまで来てる。
 ホテルの部屋はきちんと片付けられていて、机の上に積まれた参考書や過去問題集でさえも、几帳面に角が揃えられている。おそらく自宅の水本の部屋もこんな風で、日野の部屋のように服が脱ぎ散らかされていたりすることはないのだろう。
 熱いシャワーを浴び、水本に着替えを借りた。ルームパンツは日野には少し小さくて、前に水本に体育着を貸した時のことを思い出した。日野がホテルの人が貸してくれた簡易ベッドに潜ろうとすると、こっちに来ていいよ、と水本が言った。
「こっちで一緒に寝よう。その方があったかいし」
 水本が横たわるベッドに日野は恐る恐る潜り込む。布団の中で足と足が触れ合う。水本の足の甲のなめらかな感触を、日野は足の裏でなぞる。横目で水本の顔を見ると目が合った。かわいいな、と思ってもそれを声に出すのは気恥ずかしい。
 都内では何年ぶりの記録的な大雪だと報じるニュースや地元では放映されていない番組を眺めながら、水本の頭を撫でていると、日野にすっかり身体を預けてくる。しっとりした髪をかきあげて耳の後ろと首元にキスすると、くすぐったそうに笑う。
「していいからね」
 日野の耳元で落ち着いた声色でそうささやく。
「最後までしていいよ」
 水本は日野の手をとると、そのまま服の上から自分のものに触れさせた。もしかして本当にいいのだろうか。
 日野は背中側から水本の身体を抱き寄せ、慎重に撫でる。ふとももからゆっくりと上へ、手を滑り込ませる。白い雪をこの手で汚すように、この手の熱で雪を溶かすように。なめらかな肌の感触に気持ちが昂る。新雪に身を預けるような、柔らかく沈んでいく感覚。日野が水本の下着の中に手を入れても、今度は何も言わない。そのまま服と下着を脱がせて、下腹部や足の付け根の柔らかいところに触れると、水本の息が少し荒くなる。日野が水本のものを掴み根元から先端までを擦ると、んっと小さく漏らすように悶えた。水本は腕で顔を被っていて、どんな顔をしてるのか見られない。じんわりと身体が熱くなってきて、日野の方が先にイきそうだ。日野が硬くなった自身のものを太ももの隙間に滑り込ませると、水本は少し身体を震わせた。
 このまま先に進めていいのだろうか。最後までしていいと言われたけれど、だからって。水本の堪えるような喘ぎ声が悲鳴のように聞こえて、指先が強張る。またあの時のように、汚されても平気なふりをする水本を見たくない。簡単にこんなことしちゃ駄目だ。こんなことをするのは、こわい。
 やっぱりやめよう。日野が手を離すと、水本は膝を抱えるようにぎゅうっと身を縮めた。
「ごめん、やっぱりこわい」
 しゃくり上げながら消え入りそうな声で呟いた。日野は正直ほっとした。欲望のままどんどん先に進んでしまったら、また取り返しのつかないことをするところだった。
 頭の中のスイッチを切ってしまえば誰に何をされても平気。水本がそう言った日のことを、日野ははっきり覚えている。父親の時も先生の時も、ずっとスイッチを切っていたのだろう。恐怖から逃げるために。身体を捧げないと誰からも愛されないと、見放されると思い込んでる。日野には切りたくても切れなかったのか、切ろうとしなかったからこうなったのか。どちらにしても、スイッチを切られて他の奴らと同じにならなくて良かったと、日野は安堵した。
 もし流星群を見たあの夜、誘われるままにしていたら。あの夏の終わり、無理にでも犯していたら。きっと水本にスイッチを切られただろう。そのままだらだらと身体ばかりの関係を続けて、水本をもっと深い闇に突き落としてたかもしれない。
「手でするから、許して」
 すがりつくような嗚咽まじりの声で水本はそう言い、日野のものを握ろうとする。しなくていいから、と日野がその手を掴むと、震えていた。
「……ごめん……日野は違うのに、特別なのに。嫌いにならないで」
「なんで謝るんさ。僕はそういうことだけがしたくて水本のことが好きになったんじゃないよ。こんなことで嫌いになんかなるわけないがね」
 触っても平気? と日野が聞くと水本は震えながら頷く。大丈夫、大丈夫。何でも解決出来る呪文のように、自分にも言い聞かせるように唱えながら、ずっと水本の背中をさすっていた。
 はっきりと言いたいことを言うところも、人のこと刺すような勢いで見つめる大きな瞳も、華奢な身体で泳ぐように早足で歩く姿も。濃紺の空に冷たく燃えるように輝く青星のような佇まいも。そのもの全部が好きなんだ。だから一生こういうことが出来なくても、そんなことで僕は水本のこと嫌いになったりは絶対しない。一緒にいて水本が笑ったり楽しそうにしているとこを見るだけで凄く幸せだから。
 耳元にゆっくりと語りかけると、少し落ち着いたようだ。
「……しなくてもいいの? 俺とはしたくないの?」
「それは……いつかはしたいと思うけど。でも、水本のこと好きだから出来ない。今はまだ無理だがね。嫌がってるのに無理矢理したくないんさ。水本がつらいこと全部忘れて毎日笑って暮らせるようになったら、しても大丈夫だなって思ったら。その時はしよう。僕はそれまで何年だって何十年だって待ってるから」
「……何十年とか馬鹿じゃねえの。これでわかっただろ、やっぱり俺は日野にはふさわしくないんだよ。日野はいい奴だからさ、こんなやれもしないクズのことはさっさと捨てて新しい人見つけろよ」
 水本はベッドに敷いたタオルを掴んで、日野に投げつける。
「僕はいつも廊下を早足で一人で歩く水本を、かっこいいなって思って見てたんよ。誰とも群れて騒いだりなんかしないで、気高い感じがして……そういう水本を僕は凄く好きだから。見放されたくないからってセックスで繋ぎ止めようなんて、もう二度と思わないで欲しいんさ」
 そんな振る舞いは水本にふさわしくない。誰かに支配されたり慰み者になるような人間じゃない。
 日野はシャツの裾で水本の涙をそっと拭い、とりあえず服を着させた。使い慣れない電気ポットを見よう見まねで操作して、あたたかいお茶を淹れる。あたたかいものを飲んでよく寝たら治るよと、ゆっくりとお茶を飲ませて背中をさすってやると、水本は少し落ち着いたようだ。
「あのさ、水本はもっと僕に甘えてもいいと思うんさ。もっと僕に、色々頼ったり……」
「これ以上甘えたら、聞きたくないだろうことをもっといっぱい喋っちゃって、日野を傷つけると思うから。もう充分」
「それで水本が楽になれるなら、僕は全然構わないんよ。全部乗り越えられるまで絶対見放さないし、嫌がるようなこともしないさ」
「……なんでおまえはそんなに馬鹿なんだ。馬鹿でお人好しすぎて呆れる」
 日野は自分でも無責任で馬鹿なことを言ってるのがわかる。水本のことを全部背負いきれるだろうか。先生としたと聞かされた時、あれだけ嫌な思いをしたのに。ああいうことがまた起きるかもしれないが、その時はその時でまた考えることにした。だって馬鹿だから他に出来ることが思いつかない。今はこの腕で抱きしめるくらいしか出来ない。
「水本は僕のこと馬鹿だと思うかもしれないけど。僕はこの先も水本以上に好きになれる人を見つけられるなんて、絶対思えないんよ」
 日野の言葉に水本は口を尖らせてすねたような困ったような、複雑な顔をする。
 彼以上に特別な人間なんて、この世にいるだろうか。シリウス以上に明るく輝く星なんて広い宇宙のどこにもないのに。


 朝は麻衣子からのメールで起こされた。帰る前の日に水本にも焼き肉を奢ってくれるというメール。
 同じベッドの上でタオルを握って膝を抱えるようにうずくまって眠る水本を、日野は起こさないように撫でる。もう授業中に居眠りしてる水本の顔をこっそり横目で見ていただけの存在ではない。飼えない猫を無責任に拾ったりしない。誰かの後ろで何かをしてもらうのを待って、感情を口にするのをためらっていた頃とは違う人間になれたと、日野は感じている。全部水本が変えてくれた。未来も一番好きな人も誰かに用意してもらったのではなく、自分で選んで決めた。だからこんなにも真剣になれる。泣きはらして赤く染まった水本のまぶたにそっと唇で触れる。
 水本を揺さぶって起こすと寝ぼけているのか、目を閉じたままふらふらと手を伸ばして日野のシャツを掴む。
「好きだから出来ないって言ってくれて、嬉しかった」
 寝起きの掠れた声で水本はささやく。
「……見た目とかセックスさせるとか以外のことじゃ一生誰にも受け入れてもらえないって覚悟は出来てた。だから誰に何されても仕方ないって諦めるのが、一番正しい方法だと思ってたから、そういうことしないで許されるわけがないって。それで誰からも好かれるわけないって……」
 額のカーブをなぞるようにゆっくりと手のひらで撫でる。何度も何度も、水本が目を開けるまで。いつでも冷たい星の中に一人で棲んでいるような彼の孤独を、こんなことで溶かすことが出来るとは思えないけれど。それでも少しは役に立ちたい。そうでないと日野自身もやりきれない。
 チェックアウトをして街へ出ると空はすっかり晴れていて、太陽の光が掻き寄せられた雪に反射して眩しい。日陰に残った氷の溝をゆっくりと踏みしめながら駅へ向かう。東京の道路には融雪用のスプリンクラーも側溝もない。日野が知っている世界にあるものはなく、ないものばかりがここにはある。
 いつだって群れることを嫌い何でも一人でこなす水本が、何故あんなに誰かに見放されることを怖がるのか。水本は自分がいなくなっても平気だと、この街にすぐ溶け込んで自分のことなんか忘れてしまうと、日野は思っていた。だから日野に嫌われたくない見放されたくないと必死な水本を見て安心した。彼が自分を必要とすればするほど、彼が思うほどには優しくないずるい人間であることを自覚して、日野は苛立つ。もっと優しい人になりたい。彼の全てを受け止められるような人になりたいのに。
 ホテルの近くのファストフード店で遅めの朝食を食べた後、帰るタイミングをすっかり失ってしまって、窓の外を行き交う人達をぼんやり眺めながら、たぶん夜にはもう思い出せないようなどうでもいい話をしていた。
 スマートフォンから入試の合否がわかるそうなのだけど、水本は一向に合否を確認するそぶりをみせない。
 凪のような会話を断ち切るようにテーブルの上のスマホが鳴り、親からだと水本は席を立った。
 少しして戻ってきた水本は俯いたまま、日野のパーカーの袖を引っ張る。
「合格してたって」
 おめでとう、と日野が言おうとした瞬間、氷を呑み込んだみたいに喉が詰まった。
「……良かった。おめでとう。これで春からは東京だいね」
 日野は自分の言葉が空々しく思えた。心から祝福しているつもりなのに。最初からわかっていた終わりの時間が、今目の前で始まった。
「合格祝いは何が欲しい? これから使うものがいいさね」
「……いらない。何もいらない」
 水本は日野の袖の端をぎゅっと掴んだまま口を結び、日野もそれ以上何も言えず。店内の喧噪は、ずっと遠い場所での騒ぎのように聞こえる。紙コップの中の溶けきった氷も飲み干してしまい、間を埋める為に口をつけるものもなくなってしまった。なんだかどうしようもなくなって、日野が口の端を持ち上げるように水本の頬を摘むと、少し表情を緩めてくれた。
「もうそろそろ行こうか。このまま帰る? それともどっか行く?」
「……ホテル戻って、昨日の続きしよう」
 日野が戸惑っていると、水本は「嘘だよ」と苦笑いをした。
「……どうせ出来ねえし」
「そうだ。あのさ、ピロシキ食べに行こうよ」
 変に緊張して、ちょっと声がひっくり返った。僕の提案に、水本は顔をしかめる。
「水本が住んでた町のパン屋に行ったらさ、ピロシキがあったんよ。自然科学部に入ったばかりの頃に水本に好きなパン聞いたら、ピロシキって言ってたがね。合格祝いに僕が奢るから」
「ああ……。何を言い出すのかと思った。あの店、まだ潰れてないんだ」
 水本が表情を緩めてくれて、ようやく日野は胸を撫でおろした。
 いつもは日野を置いて早足でどんどん先へ歩く水本が、日野に合わせてゆっくり歩いてくれているのはきっと、雪で路面が凍ってるせいだけではない。
「こんな面倒な奴、いつでも切っていいよ。新しい友達が出来て勉強で忙しくなったら、日野はきっと俺のこと忘れちゃうよ」
「遠距離って言っても休みには逢えるし、メールも電話もあるさね。毎日するね。パンも作って送るから、冷凍庫開けといて」
「忘れた方がいいって。遠距離でうまくいったって話聞かないだろ」
「もうそんなこと言いなさんな」
 慎重に歩いているつもりなのに、ばきんと凍った雪を踏み割る音がする。凍った道なんて慣れてるはずなのに、今にも転びそうだ。
「いつもいつも、俺が勝手に台無しにしてんだよな。上手くいってたものを全部自分で壊して……そういう病気なのかもな」
 気を抜くと水本より速く歩いてしまいそうだから、離れないように手を握るのだけど。繋いだ細い指はあまりに弱々しく手の中から抜けてしまいそうで、日野は握り返す指が震える。
「……春が来たら離れるのはわかってたことだけど、これで終わりじゃないさ。僕はもう離れても水本と一緒に生きてくって決めたんさ」
 なにそれ、と水本は呆れたように笑う。
「前の僕だったら卒業したらそれきりだったかもしれないけど、水本のことは違うんよ」
 水本を大事に思っていると、不安が消え去るまで何度でも言おうと、日野は決意する。水本に全てを信じてもらえたら、何も怖いことなどなくなる気がするから。
「なんでこんなに寒いのに日野の手は温かいんだろうな」
 水本はそうつぶやいて、見て、と繋いでた手と反対側の手を日野の顔の前へ伸ばす。
「すごい紫。右と左で爪の色が違う」
 淡いピンクと青紫の爪を並べて見せて笑う。短く切られた小さな爪。
「なんかの本で読んだんだけど、パン職人って手の温度が高い方が良いらしいよ。日野はきっと良い職人になるね」
 二人でいる時だけ幼い子供みたいに無邪気に笑う水本のこと。永遠に失いたくない。
 帰る前の晩は約束通り麻衣子に焼き肉を奢ってもらった。麻衣子は水本を見てやたら興奮して、写真まで撮っていた。やはりどこの誰が見ても、東京でだって水本は別格だ。
「水本くんは年上のお姉さんはどうかな?」
「そういうのやめてあげて」
「日野のお姉さんと俺が結婚したらさ、俺たち兄弟になれるよ」
「そういう提案もやめて」
 日野の隣で冗談を言って穏やかに笑う水本は、彼がなりたがっていた「普通の高校生」そのものに思えた。この姿からは誰も彼の苦しみを想像出来ないだろう。
「なんでひーちゃんはこんなに残念に育っちゃったんだろう。小さい頃は可愛かったのに」
 麻衣子はそう言いながら、二人の写真を何枚も撮ってくれた。どの写真も何の悩みなんかなさそうに二人並んで呑気に笑ってて、こんな顔してるわけないのにと日野は思ってしまった。
 帰りの東京駅で水本が新幹線の切符を二枚分買おうとしたのを、日野は制した。
「買い方覚えたいから自分で買う。水本に逢いたくなった時に一人で新幹線に乗れないと困るから」
 ビニール傘は姉の家に置いてきた。また東京に来た時に使う為に。次に来る時はテレビで見たのと同じ街ではなく、水本の住む街だ。


 「君」と「僕」という二人がそれぞれ離れてしまうのではなくて、「僕たち」という一つの関係が二つに分けられていく。一つのパンを二人で分けあったり、一つのイヤホンを二人で聴いたり。二人で一つの「僕たち」は残酷にも簡単に切り分けられる。
 結局水本は受けた大学全てに合格して、先生たちを随分喜ばせた。卒業式の日にはアルバムに何か書いてだの写真撮ってだの、ここぞとばかり女の子たちが水本の元に群がり、いつも通りのうんざりした表情で暴言を吐いて蹴散らしていた。
「おまえらさ、今まで結構酷い態度とってたんに、こういう時だけ調子いいのな」
 その様子を見かねた宮坂が女の子たちにそう言うと、宮坂だって似たようなもんだがね、と言い返される。
「……こいつはいいんだよ。幼なじみだから」
 水本の言葉に、みんな驚いて黙ってしまった。一番驚いていたのは宮坂本人で、にやにや笑いながら水本の肩に手を回し、調子に乗るなと振り払われ疎ましがられていた。
 日野は偶然廊下ですれ違った園田と少しだけ話した。地元の短大に行くという園田は、お店継いだら買いに行ってあげるよ、と笑いながら卒業証書の入った筒で日野を小突く。
「なんていうかさ、元気になって良かった」
 園田の言葉が上手く理解出来ずに、日野が言葉に詰まっていると。
「私と付き合っていた頃の日野はさ、もっとぼんやりしてたっていうか……いつもどこ見てんのかわからないような、からっぽな感じで、私のことなんて別にどうでもいいんだろうなって。今更こう言うのも変だよね、ごめん。でも、今の日野は全然そんなことないから。良い方に変わったね」
「園田の言いたいこと、わかるよ。自分でもそう思う」
 卒業記念だからと日野は園田と二人で写真を撮った。元カノと撮るの? と、あっちゃんは意外そうな顔をしながらシャッターを押してくれた。
 園田には見えていた空洞には、今は真っ白な雪原が広がっている。音もなく穏やかに降り続く、冷たいけれど眩しい雪の中を、二人だけの足跡を残して歩き続けている。日野にとって水本といる時間は、いつもそういう気分であったことを思い返す。
 卒業のアルバムの写真は水本が撮ってくれた写真と全然違う、免許証と同じ変な顔だと日野は思った。水族館で撮った、日野を見上げていたずらっぽく笑う、日野にしか見せない表情の水本の写真を卒業アルバムのそれと見比べると、どれだけ特別に思ってくれているかがよくわかる。感情のないうつろな目をして日野のものを咥えてた、ああいう水本はもうどこにもいないと信じたい。
 長い春休みの間、日野はほとんど店の手伝いをして過ごしていた。今までやらせてもらえなかった行程を教わったり、慣れない仕事に疲れるけれど、手を動かしていると気が紛れる。一日中働いて疲れて寝て、また朝が来る。日が昇る前に起きてパンを焼いて、昼は少し前の自分たちみたいな高校生にパンを売って暮らす。もし彼らがこの田舎町を離れたとしても、高校生の時に購買で食べたパンの味を思い出して欲しい。眠りに落ちる前にそんなことを考えてみたりもする。
 眠れない時は親の車を借りて、音楽をかけながらあてもなく暗い夜の道を走る。車を停めてぼんやり星を眺めていると、暗い空に音もなく吸い込まれそうな気がして、日野は思わず息を止めてしまう。水本が昔言ってた「何にもなくなっていく感じ」とはこういうことだろうか。それに少しだけ、水本のことを見ている時の気持ちに似ている。この夜を越えれば必ず朝になると信じて、長い夜をやりすごすための光。春が近づくにつれ、星の光は真冬ほど鮮明ではなくなってしまった。でもいくら速度を上げてもあの青い星は追い越せない。
 水本も宮坂もあっちゃんも、みんな新しい生活への準備に追われている。互いの最後の時間は退屈な授業と比較にならない速さで過ぎ去ってしまう。
「やっぱりドライブ連れてって」
 水本からそんなメールが届いた。行き先はどこでもいいという。彼の好きなパンを持って、またあの海に向かう。最初は日野が車を運転してるなんて不思議だなんて笑っていたが、しばらくすると水本はずっと目を閉じて浅い呼吸を繰り返していて、かなりつらそうだ。見るからに顔色も悪い。車が苦手だとは何度も聞いていたけれど、ここまでとは思わなかった。
「どっか停めて少し休もうか? 引き返す?」
「……いい、大丈夫。精神的なものだから。行って」
 それ以上何も言わないし、何も聞かない。でも大体想像はつく。結局途中のサービスエリアで吐いてしまって、そこで引き返した。それでも水本は、また連れてってと言う。
「日野の車に乗れなかったら、今頑張らないと一生車に乗れないかもしれないから」
 それから毎日、忙しくない時間帯や店が終わった後に、日野は水本を車に乗せた。少しずつ距離を伸ばして、隣の市まで行っても平気になれた。ショッピングモールのシネコンで初めて二人で映画を観たり。もう制服を着なくなるので、これから着る服を見立ててもらったり。入学式に着るスーツを買ったり。残された日々はさらさらと砂のように音もなく崩れて消えてく。水本が引っ越すまでに、また海へ行けるだろうか。
 信号を待つ少しの間、助手席に座る水本の顔を日野は横目で見る。この狭い空間に二人きりですぐ隣に座っていて、その気配をこんなに近くに感じているのに。真っ直ぐ前ばかり見ていて、水本の顔をまっすぐに見れない。もどかしい感情のやり場が見つからず、日野はハンドルを強く握った。


 夕食後、日野は居間のこたつでテレビを見ていたらいつの間にか寝てしまい、寝るなら自分の部屋で寝なさいと母親に揺さぶり起こされた。寝起きで頭も身体も働かず、ぼんやりとテレビの画面を眺める。これあんたんとこじゃないよねえ? と日野の母はテレビの画面を指差した。
 市内の小学校で教諭が児童を車に連れ込みわいせつな行為を繰り返した容疑で警察が逮捕に向かったが逃走、近くの建物から飛び下り死亡したというニュースだった。見た瞬間にあの先生だと思い、身体中の血の気が引くのを感じた。一気に目が覚めて慌てて自分の部屋へ戻り水本に電話すると、やはりそうだった。
「良かったね、って言われたよ。父親に」
 疲れきったようなか細い声。やけに淡々としていて、なんだか怖い。
「……良かったって言うのはなんだけど、先生のことはこれで全部終わったんだよね?」
「そうじゃなくてさ。いつから気付いてたんだろうと思って……だって小学校の頃のことは日野以外には誰にも言ってない……」
 言われて初めて気付いて、ぞっとした。去年のことを踏まえてそう言っているのか、それとも他の誰かにもそういう行為をされていたと気付いていながら、ずっと知らないふりをしていたのだろうか。逃げても逃げても足首を掴まれて暗い場所へ引きずり込まれる。もっと強い力で水本を引っ張り上げなければと思うのだが、握る拳に力が入らない。
「明日もどっか連れてって。駅前のロータリーのとこで待ってるから」
「車乗るの、大丈夫?」
「日野の車だから乗れるよ」
 電話の向こうの声だけでも、水本が相当無理をして明るく振る舞おうとしてるのがわかる。あと少し、あと少しでここから逃げられるのに。
 真夜中に少し降った雪は積もらずに朝には消えてなくなっていて、濡れた道の端に汚れた氷が転がっている。おそらくこれが最後の雪だろう。約束通りに日野は助手席に水本を乗せ、国道を田舎に向かってひたすらに車を走らせた。カーステレオからは水本の好きな音楽が、一枚だけ買ったCDがループで流れ続ける。水本はずっと目を伏せて、膝の上のモッズコートを握りしめている。
「複数の余罪も追及中だって。スポーツ新聞何紙も買っちゃったよ。受け持ちの男子児童を車中に連れ込みわいせつな行為に及んだ、だって。手口が俺の時と一緒じゃん。まあ、今回のことでああいうことされてたのは俺だけじゃないってわかって……良かったって言い方は変だけど。正直ほっとした。酷いよな。あんな目に遭うのは俺だけで充分だったのに。俺は本当に、みんなが言う通りの嫌な奴なんだって思う」
 早口で喋ろうとして所々つっかえる、強くはっきりした口調。平気なふりをしているのが伝わってくる。
 国道沿いにはパチンコ屋とラブホテルと飲食店と、潰れて廃墟になった店ばかりで、水本が喜びそうな場所はどこにもない。どこへ向かったらいいのかわからない。それでもこうして狭い車の中に二人きりでいると、世界の果てに二人だけが取り残されたようだ。訳もなく寂しくて、ほんの少しだけわくわくする。
「……何があったって、誰に何されたって、それで水本そのものの価値が下がるわけじゃないさ」
「なんだそれ」
「前にそんな感じのこと自分で言ってたがね」
「そうだっけ。よく覚えてんね」
 水本が言った言葉なら、日野はほとんど全部覚えている。特別だから、忘れたくなくて必死でその欠片を集めてる。今この瞬間も日野は、水本のつぶやく言葉や些細な動作の全てを採取して、失くさないようにピンで留めておきたいと感じている。
「でもこれで全部終わったわけじゃないし。あいつが死んだからって、なかったことにはならないんだよ」
「なかったことにならなくても、僕にとっての水本の価値は何も変わらないよ」
 ふうん、と水本は気のない返事をする。水本はずっと目を閉じたままで窓の外の景色も隣にいる日野のことも見ていない。二人で一つのイヤホンで何度も聞いた音楽と、雑草がやたら生い茂った道路と、黄色い春の光。音楽とエンジン音が鳴り響いてるはずなのに、とても静かな気がして。こんな瞬間をきっといつまでも覚えているような気がする。
 その夜遅く、宮坂から日野に電話があった。声の調子がいつもの宮坂じゃない。
「あのー……小学校ん時の担任がこないだニュースになって」
「……うん、ニュース見た」
「それでさ、今日同窓会でその話になって、なんか今思うと色々辻褄が合うっていうか……先生のことで水本からなんか聞いてない?」
 どう答えたら良いのかわからず日野は一瞬黙った。別に何も、と答えるだけなのに喉が詰まったような変な感じがする。
「悪いな、変なこと聞いて」
「……宮ちゃんは月末に引っ越しだいね。駅に見送り行くから、時間教えて」
 日野自身は普通に喋っているつもりなのに、教科書の音読のように棒読みになってしまう。
「もし、もし仮にさ、そうだったとしたら……あの時気付いてたら、何かしてやれたかもしれないのに……」
「もしそうだとしても、そんなの今だから言える話だいね。あの頃はまだ子供だったんだから、何も出来なくても仕方ないさ」
 宮坂は少し震えた声でごめん、と言って電話を切った。
 喉に何かが引っかかったような違和感があって苦しい。頭の中がざわざわと騒がしくて眠れなくて、水本に電話してみたけれど、コール音が鳴り響くばかりで繋がらなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完】君に届かない声

未希かずは(Miki)
BL
 内気で友達の少ない高校生・花森眞琴は、優しくて完璧な幼なじみの長谷川匠海に密かな恋心を抱いていた。  ある日、匠海が誰かを「そばで守りたい」と話すのを耳にした眞琴。匠海の幸せのために身を引こうと、クラスの人気者・和馬に偽の恋人役を頼むが…。 すれ違う高校生二人の不器用な恋のお話です。 執着囲い込み☓健気。ハピエンです。

十七歳の心模様

須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない… ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん 柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、 葵は初めての恋に溺れていた。 付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。 告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、 その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。 ※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。

【完結】恋人になりたかった

ivy
BL
初めてのキスは、 すべてが始まった合図だと思っていた。 優しい大地と過ごす時間は、 律にとって特別で、 手放したくないものになっていく。 けれど……

《完結》僕が天使になるまで

MITARASI_
BL
命が尽きると知った遥は、恋人・翔太には秘密を抱えたまま「別れ」を選ぶ。 それは翔太の未来を守るため――。 料理のレシピ、小さなメモ、親友に託した願い。 遥が残した“天使の贈り物”の数々は、翔太の心を深く揺さぶり、やがて彼を未来へと導いていく。 涙と希望が交差する、切なくも温かい愛の物語。

告白ごっこ

みなみ ゆうき
BL
ある事情から極力目立たず地味にひっそりと学園生活を送っていた瑠衣(るい)。 ある日偶然に自分をターゲットに告白という名の罰ゲームが行われることを知ってしまう。それを実行することになったのは学園の人気者で同級生の昴流(すばる)。 更に1ヶ月以内に昴流が瑠衣を口説き落とし好きだと言わせることが出来るかということを新しい賭けにしようとしている事に憤りを覚えた瑠衣は一計を案じ、自分の方から先に告白をし、その直後に全てを知っていると種明かしをすることで、早々に馬鹿げたゲームに決着をつけてやろうと考える。しかし、この告白が原因で事態は瑠衣の想定とは違った方向に動きだし……。 テンプレの罰ゲーム告白ものです。 表紙イラストは、かさしま様より描いていただきました! ムーンライトノベルズでも同時公開。

一軍男子と兄弟になりました

しょうがやき
BL
親の再婚で一軍男子と兄弟になった、平凡男子の話。

壊すほどに、俺はお前に囚われている

氷月
BL
【後輩と先輩、交錯する心と体】 春、新学期の大学キャンパス。 4年の蓮(レン)は、人気者らしく女子に囲まれながらも、なぜか新入生・七瀬巧(タクミ)の姿を探してしまう自分に気づいていた。 彼は去年の秋、かつて蓮が想いを寄せていた男の恋人の友人として出会った相手。 ――まさか、この俺様が、また男に惹かれるなんて。 否定しようとすればするほど、目はタクミを追ってしまう。 無邪気に笑う顔。ふと見せる真剣な横顔。 先輩と後輩、互いに抗えない感情に囚われながら、夏の学園を駆け抜けていく――。

[BL]憧れだった初恋相手と偶然再会したら、速攻で抱かれてしまった

ざびえる
BL
エリートリーマン×平凡リーマン モデル事務所で メンズモデルのマネージャーをしている牧野 亮(まきの りょう) 25才 中学時代の初恋相手 高瀬 優璃 (たかせ ゆうり)が 突然現れ、再会した初日に強引に抱かれてしまう。 昔、優璃に嫌われていたとばかり思っていた亮は優璃の本当の気持ちに気付いていき… 夏にピッタリな青春ラブストーリー💕

処理中です...