つめたい星の色は、青

小林 小鳩

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#11

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 次の日、いつもの時間いつもの待ち合わせ場所で水本を車に乗せる。昨日は寝てて電話に出られなくて悪かった、と水本は謝るのだけど。もう何度も見ているその気怠そうな表情で、窓の外をぼんやりと眺める定まらない視線で、電話に出られなかった理由に日野は気付いている。昨日の夜、誰に何をされていたのか気付いてしまっている。問い詰めたら学費も家賃も払ってもらうから仕方ないと言うのだろうか。無闇に触れて拒否されるのが怖くて、触れたいのに触れられない。
 日野が宮坂から電話があったことを話すと、じゃあもう近所中に広まってるなと苦笑いした。
「まあ、いいよ。どうでも……俺はどうせもうすぐここを離れるから誰に何言われてもいいけど。妹がなんか言われるのは嫌だな」
 水本の話し声はいつも静かに揺れる水のようで、二人で過ごした放課後の生物室みたいに、エンジン音が校庭の喧噪のように遠く聞こえる。いつも何でも人に決めてもらう日野とこの土地に思い入れのない水本には、もう行き場所は思いつかなくて、ただひたすらにバイパスを山に向かって走る。
「あいつらが罪悪感で一生苦しめばいいって思うのは、酷い考えだよな」
「そんなことないさね。全然、そんなこと……」
「……どうせそんな罪悪感持ってんのなんて宮坂くらいで、あとの連中は衝撃的なネタ話くらいにしか思ってないんだろうけど」
 フロントガラスに少しだけ映る水本の影。道路沿いの建物がだんだん少なくなり、山と田んぼばかりの風景に変わっていく。車を運転するようになったらもう立派な大人だと日野は思っていたのだが、他の人たちみたいに楽しい場所も知らないし、優しい言葉も持っていない。想像していた大人の姿に心がまだまだ追いつけなくて、もどかしい。水本の孤独の全てを理解するのは難しく、がむしゃらに突き進めるほど無敵でもなく、己の不完全さばかりを思い知らされる。
「あのさ、東京行ったら宮ちゃんのことたまには構ってやって。知ってる人が誰もいないとこに行くの、さすがにプレッシャーみたいだから。あれで結構寂しがり屋だし」
 わかった、と水本は軽く頷いて、いつまで経ってもあの馬鹿と縁が切れないと笑って。俺だって不安だよ、と小さく漏らした。
「生まれ育った東京へ帰れるのに、早く帰りたいってずっと思ってたのに……。俺一人だと馬鹿みたいにどんどん悪い方に行っちゃうけど。いつも日野が引き止めて明るい方へ連れ戻してくれたから」
 僕だって本当は不安だと言いたい気持ちを、日野は押し込める。変わってしまうことや終わってしまうことに、まだ慣れてない。それでもその時が来たら、信号が青になったら前に進まなきゃならない。
 陽の光が眩しい、と助手席のサンバイザーを下ろして水本は目を伏せる。
「去年の冬から児童相談所とか学校とか警察なんかに、児童が被害に遭ってるって匿名の通報が何度もあったって記事を読んだんだけどさ。……俺の父親がやったと思う?」
「……誰だっていいがね。水本に酷いことした奴に相応の罰がくだったっていう事実だけで充分だいね」
 そうだね、と今にも消えてしまいそうな声で言って、口角をあげて笑う。水本がそうやって笑う時は、無理して平気なふりをしてる時だと、日野はもう知っている。
「……この辺ラブホテルばっかだね。値下げしましたって書いてあるよ。ラブホテルって十八歳なら入れるんだっけ?」
「入らないよ。そういうことしないって約束したがね」
「いいのに、しても。車の中でも構わないし。今度こそ大丈夫だからさ。俺が東京に行く前に一回くらいしとかないと損だろ?」
「そういうこと言いなさんな。そんなことしなくても水本の事ちゃんと好きだって前に言ったがね」
 全ての不安や劣等感や憂鬱を消してしまうような、水本にかけられた呪いを解く魔法の言葉があればいいと、日野は思う。いつもいつも、この言葉でいいのか水本を安心させられてるのか迷うから、これだという正解が欲しい。
 作り物のヤシの木に囲まれたカリブ風のホテルもヨーロッパの城みたいなホテルも、外壁がぼろぼろで豪華さとはほど遠い。その向こうにはまだ雪が残る山と鉄塔が見える。この町を出たら、こういう景色を見ることはなくなるのだろう。
「じゃあこれから海に行こうよ」
「今反対方向に向かって走ってるがね……」
「じゃあ反対側の海に行けばいいだろ。高速料金もガソリン代も全部俺が出すからさ。行こうよ」
 水本はそう言いながらカーナビを指先で連打する。
「ちょっと、運転中は操作出来んよ。今から海に行っても日が沈んでるし日帰り出来ないがね。他にどっか行く? もう戻る?」
「……どこにも行かなくていい。どうせどこにも行けないし」
 どこにも行きたくない、と水本は少し震えた声で漏らした。
「あんなに馬鹿みたいに毎日勉強してたのに、その必要もなくなって……することもう何もない。先生も死んだし。父親は俺がいなくなったら生きていけないって泣きついてくるけど、離れないわけにはいかないし。これで俺の頭の中を占めてたものが全部なくなるはずなのに、これが望んでた状況なのに、この先どうやって生きてけば良いのか全然わかんない……」
 やたらと広いパチンコ屋の駐車場の隅に車を停め、日野は脆い薄氷に触れるような慎重さで水本の頭を撫でる。いつもしていることなのに、何故だか緊張してしまう。黒い大きな瞳からこぼれる涙も、濡れた睫毛も、下唇を噛み締める仕草も、頬を照らす柔らかな蜂蜜色の光も。全てが映画のワンシーンのように美しく、この目の前で起こっていることは嘘のように思えた。
 恐る恐る腕を伸ばして水本を抱き寄せると、息が苦しくなるくらい強く日野にしがみついてくる。体温も首元にかかる息もいつもよりずっと熱く感じる。触れ合う肌は柔らかで心地好く、あと何日かで東京に行ってしまうなんて考えられない。これから先のことなど全然想像出来ない。水本が隣にいない日々をどうやって受け入れれば良いのか。もうこれ以上何も考えたくないから、時間が止まってしまえばいい。子供じみた願いだと思いながら、日野はそう願わずにはいられなかった。
 もう大丈夫だから、と水本は日野を掴む手をほどく。水本のことを信じているのに、彼が言う「大丈夫」だけはいつまで経っても信じられないのが寂しい。帰ろう、と水本が言うのでエンジンをかけようとするのだが、何だか手が上手く動かない。言わなきゃ。今言わなかったら、きっと一生後悔する。日野は息を強く吸って、その思いと共に吐いた。
「……大丈夫じゃないがね。水本、全然大丈夫じゃないがね。いつもそうやって一人で全部我慢して大丈夫って言うけど、そうじゃない……」
 大事なことなのに、舌がもつれて上手く言えない。日野の顔を見て水本は、泣き腫らした顔を緩めて少し笑う。
「まあ、確かに大丈夫ではないけど……これ以上俺のために気を遣わなくていいから」
「遣わせてよ。僕は水本のためなら何だってしたいんよ」
「……人に頼ると自分が弱い人間になったような気がして嫌なんだよ。このまま何でも日野に頼るようになったら、どんどん弱くなりそうで怖い。日野にも俺のことばっか考えて自分のことおろそかにして欲しくないし。これからずっと離れて暮らすんだよ。そんな単純なものじゃないだろ」
「それでも僕は、水本が大丈夫って言うたび不安になるから……何でも頼って欲しいんよ。もっと僕に何でも打ち明けてくれていいんよ」
 しばらくの沈黙の後。じゃあ日野はさ、と強い口調でそこまで言いかけて、水本は何度か深く息を吸った。
「……俺の身体、触ってて、変だと思ったことなかった?」
 わかんない、と日野が首を振ると、水本はぎこちなく口の端を上げて笑う。
「上手く勃たないんだ。ずっと変なことされてて何度もぐちゃぐちゃにされたから、もう壊れちゃってるんだよ。挿れられたら勃つけど、イクことは出来ないし……。父親がさ、自分のせいで壊しちゃったから俺のこと責任もって一生面倒みるって言うんだよ。……それってさ、俺に一生ああいうことし続けるってことだよな。こんな奴、もう手に負えないだろ。……俺のこと、嫌になっただろ」
「……気付いてあげられなくて、ごめん」
 なんでそんなこと言うんだよ、と水本は声を荒げて、まるで子供の喧嘩みたいな仕草で日野を叩く。
「嫌いになれよ。もう要らないだろ、こんなの。汚いし壊れて役立たずなんだから捨てればいいだろ」
 真っ暗な闇に慣れきった目で、日野の顔をまっすぐに見る。あの夏の日に向けたのと同じ目だ。
「……ごめん。こればっかりは、水本の言う通りには出来ない。水本が何を言っても僕は水本のこと好きだよ。水本と一緒にいると楽しいから、そんなの気にしない」
「気にしないなんて言うなよ……そんなこと、本当は思ってないくせに。なんで、簡単に受け入れようとするんだよ」
「僕はさ、鈍感で空気が上手く読めないから、いつも人に言って貰わないと何も気付けないんよ。だから水本が言ってくれて良かった。水本は何も悪くないがね」
 本当は頭の芯が冷たくなって首を絞められたような感じがして指が震えた。目の前が一瞬大きく揺らいだ。でも日野には他に言葉を見つけられない。まだ浅い人生経験では、水本にうまく対処しきれない。これが正解がどうかわからないけれど、とにかくどんな手を使ってでも失いたくない。出来ないことはするなと前に水本に言われたが、出来るという根拠が無くても言わなきゃいけない時もあるのだと日野は思う。水本は日野を傷付けたくてこういうことを言うのではなく、助けて欲しくてもこんな言い方しか出来ないのだろう。なぜなら今の水本の声は、悲鳴にしか聞こえない。
「……じゃあさ、触って」
 水本はそう言ってジーンズを膝下まで下ろした。
「こんなこと言ったら頭おかしいって思うかもしれないけど、一緒にいたり触ってもらったりすると、こんな汚い自分でも受け入れてくれるんだって思えるから。怖くなったら怖いって言うから、触って」
 不用意に触れたら今にも壊れそうなのに、水本は乱雑に感情をぶつけてくる。
 シートのリクライニングを倒して、こっちおいでと日野が呼びかけると、水本は無言でジーンズを脱いで日野の上にぺたんと跨がりベルトを外しはじめた。
「そうじゃないよ。いいから、来なね」
 日野が水本の手首を掴むと驚いて後ろに仰け反ってハンドルに当たり、クラクションが短く鳴った。日野は手を伸ばして水本を抱きしめ、頭を背中をゆっくり撫でる。まるで子供をあやすように。
「東京に行ったらさ、水本がここでどんな風に過ごしてたかなんて、誰に何されたかなんて誰も知らないんよ。水本は誰もが羨むようなかっこよくて可愛くて賢い人だいね。だからさ、絶対大丈夫」
「大丈夫、なんて全然信じられないんだけど」
「そうさね……。でも頼まれても、水本が怖がったり具合が悪くなったりすることを、するわけにはいかないから。僕のこと、嫌いになった?」
「……そうでもない」
 水本はゆっくりと震える指で日野の顔に触れて、微かに唇を重ねた。ほんの一瞬だけのキス。それから、勢い良く抑えつけるように口を口で塞がれた。舌先で上顎をゆっくりと撫で回される。奥歯の根元をなぞるように舐められて、日野は思わずつま先を反り上げる。息が出来ず、水本の後ろ襟をぎゅっと掴むと、ようやく解放された。喘ぐように息をする日野を水本はうつろな目でじっと見下ろし、口元の涎を親指で拭う。
「ねえ、これでも俺のことまだ好き? 頭おかしいって思わない?」
「……好き。大好き」
「興奮した?」
「……しました」
「なんで敬語なんだよ」
 水本は確認でもするようにジーンズの中に手を入れて弄るので、日野は慌てて制する。
「いや、これはもう、自分でどうにかしますから」
「だからなんで敬語なんだよ」
「びっくりして……」
 顔真っ赤だよ、と水本は冷たい手で日野の頬を撫でる。
「普通の恋人同士だったらしてもおかしくないじゃん。何もしないで付き合ってるなんて言えないよ。それに……俺を受け入れてもらえたって思えない。俺は他に何の役にも立たないから、こういうことしなきゃおまえと釣り合わないのに。しなくていいとか酷いことさせたとか言って、俺が普通じゃないから、おまえに我慢ばっかりさせて……」
「あの、それは今後は、お互いにいい方法を見つけていきましょう……」
 水本は日野のシャツの胸元をぎゅうっと掴む。
「だって、生きてていい理由なんか他にないし」
「……じゃあ、僕の為に生きてて」
 しばらく押し黙った後、水本はようやく絞り出したような声で、わかった、と答えた。
「もう僕以外の人とこういうことしちゃ駄目だよ。何かと引き換えにとか、絶対駄目だからね」
 ふっつりと意識が切れてしまったように、水本は日野の上に身体を重ねるように横たわった。お互いの心臓の音が聞こえてきそうだ。Tシャツの裾から静かに這わせるように手を入れて、背骨を一つずつ数えるように、そっと何度も水本の背中を撫でる。降ったばかりの雪のような、なめらかな肌の感触。規則正しく吐く熱い息が首元にかかる。こうやって触ってたら全部良くなればいいのになんて、そんなことばかり日野は願ってしまう。
「少しは前進してるって思う?」
「してるよ。焦らないでゆっくりやろう。そばにはいれないけど、気持ちは離さないから」
 水本は掠れた声で言う。
「いつか俺とセックスしても、日野は悪い人にならないでね」
「……なるわけないがね。もしなっても、それは水本のせいじゃないさ」
「そうかなあ……」
 水本の重みと体温を感じながら思う。上手くいってたものを、全部自分で壊してしまう。昔水本がそう言っていたことを日野は思い出して、胸の中が揺れる。
 僕を試しているんだろうか? 日野はそう考えることがある。多くのことが他のみんなと同じじゃないから、だからいつでも見放していいなんて水本は言う。そうやって試されているんじゃないか。そんなことで嫌いになるわけないのに。何年も絶望の中にいた水本が、簡単に人を信じられないことはわかっている。水本が安心出来るのなら、こんなやり取りも何度でもしようと日野は思う。
 日はとっくに暮れてしまって、青みがかった灰色の景色の奥に、車のヘッドライトとエンジン音が増えていく。
「俺のせいでおまえに余計なことたくさん考えさせて、ごめん。もう帰ろう」
 ハンドルをきって、また元来た道を戻る。隣の席の水本をちらりと見る度に目が合って、優しい顔で笑う。
「おまえが授業中にこうやって隣の席からずっと見てたの、知ってたよ」
 日野は本当はまだ迷っていた。全てを振り切って水本と一緒に東京へ行くべきだったと、後悔しながら生きていくのではないか。こんな決断で良かったかどうかなんて、きっと一生迷うだろう。それでもただヘッドライトの光のように、少し先までしか照らされていない未来を進むしかない。
 南の空にシリウスを探す。いくら速度を上げて走っても走っても追いつかない星。水本のことをこれから先も受け入れる覚悟は出来てる。だけど、この先ずっと彼と一緒に居られたとしても、この日々を超えるものにはならないような気がしてしまう。


 何のうねりもない穏やかな海を、二人で眺めていた。
 一昨年ここに来た時と同じように水本の横顔は綺麗で、陽の光にゆっくり溶けて消えていってしまいそうだ。日野は少し怖くなって水本の手をしっかりと握る。ぎゅうと握る手はいつもと同じ冷たさで、明日にはもういなくなってしまうことを実感する。春休みだからかカップルや家族連れで賑わう水族館。海岸を散歩する人々。足元に散乱してる流木と外国語が書かれたゴミ。目の前の全てが、分厚いガラスに囲まれた水槽の向こうの出来事のようだ。
 もうすぐ春だと言ってもまだ風は冷たく、人気のない駐車場の車の中でピクニックみたいに持ってきたパンを広げる。生物室で図書館で二人で一つを分けあったパンばかり選んで持ってきた。
「このフランスパンのフレンチトーストの味覚えたから、もう普通の、家で作る食パンのじゃ物足りないよ」
「前の晩からバゲットを卵と牛乳の液に浸けておくと、朝には全部吸ってるんよ。それをオーブンで焼くだけ」
「焼く直前に浸けるんじゃないんだ。凄いね、もう立派なパン屋だね」
 きっとまたこのパンを食べたいって思う時が来るよ、と水本は小さく笑う。
「よもぎあんパンあるよ」
「あ、嬉しい。林檎とさつまいものパイがあったじゃん。あれも食べたかった」
「あれは秋限定だから……」
「じゃあ、また秋になったら食べさせて」
「うん。学校で製菓も習うから、誕生日にケーキも焼いたげるよ」
 出来るだけたくさん約束をしないと、これから先の季節を二人で過ごせる確信が持てなかった。高校が違っても近所だからずっと一緒だと言い合った幼なじみ達とは、だんだん会わなくなった。最後は離ればなれになると最初から決まってた。あの町からは出られない。いくら誓い合っても、そういう運命を越えられないんじゃないだろうか。日野は口から飛び出しそうなそんな不安を甘いパンと紅茶で押し戻す。
「こないだ宮ちゃんとあっちゃんと最後だからって遊んだんさ。それで、宮ちゃんが水本に渡してって」
 宮坂から預かった淡い青の包み紙でラッピングされた、両手で覆えそうに小さく軽い箱を日野が差し出すと、水本は一瞬迷ってから受け取った。
「なんだそれ。急に優しくなって気持ち悪い」
「なんか、これで目立たなくなるからとか言ってた」
 水本が少し乱暴にラッピングを開けると、黒縁の伊達眼鏡が入っていた。だせえ、馬鹿じゃねえの、と苦笑いしながら水本は眼鏡をかける。
「あとで宮坂にお礼言っといて」
「それは自分で言いなね。宮ちゃんはたぶん、水本に許してもらいたいんだと思う」
「……そっか」
 日野は本当は宮坂に、出来たら水本のことを見張ってて欲しいと頼んだ。目を離した隙にまた誰かに簡単にねじ伏せられてしまうんじゃないかと不安で仕方ないからだ。
 宮坂は、もう後悔したくない、と答えてくれた。同窓会で先生の末路を嘲笑い、自分達がしたいじめをすっかり忘れてる同級生達に失望したと言っていた。宮坂の後悔を消してあげたいというのは、単なるわがままなのかもしれないと思いつつも、日野はそうせざるをえない性分なのだ。
 眼鏡をかけた水本の写真を日野が撮ると、恥ずかしいと水本はスマホを手で遮る。目が合って、フレームにかかった前髪に触れて、まぶたに触れようとしてやっぱり邪魔だねと眼鏡をはずして。ゆっくりとキスをした。このままずっとこの柔らかい感触を信じていたいのに。口の端を舐める舌の感触を覚えていたいのに。きっともうこれで、なんて思ってしまう。日野は目を開けるのが怖くて、何度も何度も唇を離さないようにした。
 そっと目を開けると水本はまだちゃんと日野のそばにいて、少し俯いて長い睫毛を羽ばたかせるようにまばたきをする。
「……俺はこうしてるだけで充分だけど、おまえはそうじゃないんだよな」
 ごめん、とつぶやく水本に返す言葉に詰まって、震える胸でゆっくりと息を吐いた。
「ずっと我慢させててごめんな。俺が他の奴と寝てるの知ってて一緒にいてくれてたのに」
 水本にまだこんなことを言わせてしまうし、ただ触れる以上のことを求めてしまう気持ちは日野の中から消えていない。このどうしようもなさはきっと一生晴れることはないだろう。でも逃げるつもりもない。
「もうこれ以上、何にも謝らなくていいから。謝ったら怒るよ」
 どうせ怒ったりなんかしないくせに、と水本は笑う。
「……じゃあ、他に何したらいい?」
 水本は日野の服の袖口を引っ張りながら、いつもより少し低い声で言う。
「あのさ、俺は何をしたら日野が喜んでくれるのか、全然わかんないんだけど。なんか欲しい物とか、ある?」
「僕は……水本が僕の持ってきたパンを美味しいって言って食べてくれるのが、嬉しい。水本が東京の大学に行くことと、あと水本が車に乗れるようになったことも嬉しい」
「なんだそれ、俺のことばっかじゃん。もっと自分のことで何かあるだろ」
「だって、他に何も思いつかないんよ」
「……変なの」
 困ったように口を尖らせる水本の頭を、いつもより丁寧に撫でる。日野の顔を覗き込むように見る彼の真っ黒な瞳に、陽の光が映る。
 狂おしい程に好きな物も喉から手が出る程欲しい物も、日野は自身の力では何ひとつ見つけられなかった。いつも誰かが用意してくれて、欲しいものに似たものを手に入れられれば満足していた。でも水本のことだけは自分で見つけられた。夜空に瞬く無数の星の中から、一番明るい星を見つけた。


 高速道路から降りて、ちょっと寄りたいところがあるんだと、日野は互いの家を通り越した丘の上まで車を走らせる。ハンドル操作に気をつけながら山道を登った先の展望台に着くと、ちょうど日が落ちかけた薄紫色の空に小さく星が光っている。
「前に地元の友達に聞いたんよ。丘の上の展望台から夜景が見えるって」
 暗くなるにつれ、空とふもとの町に光が灯っていく。都会のネオンのように集まって煌めいているのではなく、少し寂しく間隔が空いている。それを水本は星みたいだね、と言った。空から地上まで、ずっと星空が続いているようだと。昼間の光の下ではパチンコ屋やラブホテルなのに、闇の中では星みたいに輝く。今のこの瞬間のまま、世界が止まってしまえばいい。シリウスが南西の空で燃えていて、永遠に小さな世界で二人だけ。今以上の瞬間なんて、きっとない。日野は胸の中でそう固く願う。
「東京はこんなに星は見えないけど、夜景もきっと星みたいだいね」
「そうだね……東京行ったらもう、星を見る必要もなくなると思うから」
 水本はそっと日野の手を握る。あまりの手の冷たさに一瞬目をつぶってしまう。
「父親が夜に部屋に来るようになってから、夜は眠れなくて……怖くて何も出来なくて、いつも窓の外を見てた。田舎の夜は真っ暗で星ばっか見えるだろ。星を眺めてたら気が紛れるっていうか……悪いことを全部吸い込んでくれそうで、なんとか気持ちを保っていられそうな気がして」
 初めて知った水本が星が好きな理由に、胸の奥から身体が凍っていくようで何も言えず、日野はただ強く手を握り返すことしか出来なかった。
「まだ帰りたくないな……もう少しここにいていい?」
「うん。僕も、帰りたくない……」
 シートを倒して、トランクに積んであった古い毛布に身を寄せ合ってくるまり、水本が持ってたカイロを二人で握った。そうだ、と水本はモッズコートのポケットから携帯音楽プレイヤーを出して、イヤホンを片方差し出した。流れて来るのは二人で何度も聴いた曲ばかり。文化祭の日に二人きりで過ごしたプラネタリウムのようだ。
 いつものように交わす言葉は少なく、目が慣れ始めた暗がりの中で顔をじっと見つめると、水本は気恥ずかしそうに日野の胸に顔を埋めた。窓の外には横一列に並ぶ、プロシオンと木星とカペラ。木星の上にはふたご座のポルックスとカストル。水本が教えてくれた星の名前。
 市街の灯りは日付が変わる時間を過ぎると少しずつ消えていき、だんだんと星明かりだけになっていく。
「まさか本当に、自分が大学生になって東京で一人暮らしが出来る日が来るなんて思ってなかった。夢で終わると思ってた」
「なんでさ? あんだけ頑張ってたんだし受けた大学全部受かったし、当然の結果だがね」
「口では何度もそう言ってたけど、その時が来るまで自分の人生に耐えられる自信がなかったから」
 騒々しい音楽がふいに止んだ。バッテリー切れちゃったね、と水本はイヤホンを日野の耳から外して、プレイヤーをまたポケットに仕舞う。
「……文化祭の日にさ、友達だって言ってくれたの、本当に嬉しかった。そう言ってくれたから、自分の存在を消す前に、こいつに全部話そうって思えた」
 薄暗い灰色の空から音もなく降り続ける雪のように、水本の言葉が胸の中に冷たく降り積もる。
「日野に逢う前は、いつ死んでも構わないって思ってた。わざと自転車で車に突っ込んだりとかさ、馬鹿だろ。自力で死ねないのなら、東京に行けば全てが終わる逃げられるってそれだけ信じて耐えてきたけど。東京の高校へ行くの反対されて、あと三年も耐える自信がなかった。もし耐えられてもその先の事考えると……性処理の道具って役目すらなくなったら、俺は本当に何の価値もない空っぽの人間なんだろうなって……。目の前の地獄から逃げても、どうせまた別の地獄があるだけだろうから。だからいつも、消えてなくなりたいって思ってた。目を閉じてる間に死ねたらって……」
 暗闇に目が慣れて、水本の顔だけ見える。腕や胸にかかる身体の重みや、服の下に感じる皮膚のなめらかさに、これは現実なんだと言われている。
「日野に出逢ってからはそういうこと考える時間がだんだん減って……日野が見ていてくれれば、たぶんもう衝動的に死ぬことはないんじゃないかと思った。でも喧嘩した時にさ、これでもう本当に何にもなくなったから簡単に死ねるなって考えたんだけど。その時初めて死にたくないなって。日野と一緒にしたこと色々思い出して、今まで死ななくて良かったって。あの時、日野のこと信じて良かった。いつでも死ねると思ってたから、どんなことされても平気だと思ってたけど……今は、日野がいるから、何があっても大丈夫だって思うよ」
 あまりに穏やかな表情で水本は日野を見る。本当はもうここに彼はいないような気がして、全てが自身の欲望が作り上げた幻のように思える。確かめるように日野は更に強く抱きしめると、痛いよと水本は小さく笑いながら振りほどいた。
 言いたいことは皆、喉につかえて上手く吐き出せず、日野は自分で自分がもどかしい。
「……水本にはさ、この町もここの人達も、ここで過ごした時間は全部、忘れて欲しいんよ。何もかんも全部捨てて、新しい場所で新しい人生をやり直して欲しいんさ。僕のせいでここであったことを思い出すといけないから、僕のことも一緒に忘れて構わんさ。水本が僕のことを忘れても、僕が水本のこと全部覚えてる……」
 こんなはずじゃない、こんな風に泣くつもりじゃなかった。なのに涙が流れることを許してしまったらもう、どんどん溢れて止まらない。
「おまえは本当に馬鹿だな。なんで俺がおまえのことも忘れる前提になってんの? 遠距離恋愛するんだろ?」
 水本は困ったように笑いながら、日野の頭を少し乱暴に撫でる。
「泣いてもしょうがないんだから。泣くなよ、こんなことで。新幹線で何時間もかかるとかさ、年に数回しか逢えなくなるとか……馬鹿じゃねえの。俺は、おまえに逢うのを十七年も待ってたよ」
 声が出なくて苦しくて、日野はやっとの思いで息を吸い込む。まだ冬が残る冷たい空気で肺が満たされる。もう泣くなと肩を撫でる水本の手の感触に、また涙が溢れそうになる。
「水本のこと、シリウスみたいに思ってるから。僕にとって宇宙で一番眩しい星は水本だからさ、どんなに離れて暮らしててもシリウスを見れば水本のこと思い出して頑張れる気がするんさ」
 なんだそれ、と水本は苦笑いをする。
「……あのさ、シリウスよりもっと明るい星があるんだよ。その星が出てる時はシリウスも他のどの星も見えないくらい、眩しく輝いてる」
 そんな星があったんだ、と日野が驚いて言うと。水本はそっと日野の頬に触れる。
「太陽。地上から目視出来る一番明るい恒星は、太陽だよ」
 水本は優しい目で日野の目を覗き込むようにして、ゆっくりとまばたきをする。蝶が羽ばたくような、美しいまばたき。
「シリウスは俺が貰うから、太陽は日野のものだよ。……日野といると、俺はもう真暗闇を一人で歩かなくていいんだって、陽の当たるところで生きていいんだって許された気がして嬉しかった。友達とか恋人とか、日野に逢うまでずっと自分の人生には関係ないことだと思ってた。俺の為に誰かが怒ったり喜んだりするのなんて、ありえないと思ってた。だから……」
 言葉を詰まらせた水本は、日野の胸に額を押し付けて動けなくなった。星の動く音も聞こえてきそうな静かな闇の中、息を吐く音だけが聞こえる。
「これから先どんなことがあっても、日野がここで笑って暮らしててくれたら、それだけで俺は生きていけると思うから」
 決して弱まることのない強い光を放ち続ける青い星。その星の名前を、何度も何度も胸の中で呼び続ける。


 いつの間にか二人とも眠ってしまっていた。水本を起こさないように、日野はこっそりと車外へ出る。まだ薄暗い東南の空に明けの明星が光っている。丘の上から町中のほとんどが見渡せて、自分が生きてる世界の小ささを思い知る。空気は冷たいけれど、吐く息は白くはない。この町の遅い春はもうそこまで来ている。自動販売機で温かい缶コーヒーとカフェオレを買って車へ戻った。
 まだ何の苦痛も知らない幼い子供みたいな表情で、水本は眠っている。青春だとか初恋だとか、日野が漠然と憧れ続けてきたもの全部。全てがここにある。
 そうっと睫毛に触れると、水本はうっすらと目を開けた。
「目が覚めて良かった」
 水本は寝起きの掠れた声でそう言って笑って、日野のダウンの袖を引っ張る。
「もう少し、ぎゅっとしてて」
 どうして水本はいつも、日野が思ってても簡単に口には出来ない言葉を言ってくれるのだろう。腕の中の細い身体と、両手で収まってしまいそうな小さい顔。首に回された腕と、耳の後ろに触れる冷たい指先。この感触の全てを覚えておかなければ。
 水本は日野の鎖骨に沿って舌を這わせ、首筋に柔らかく噛み付いた。その数秒が永遠のように重かった。痕つけちゃった、と水本はいたずらっぽく笑い、日野の首筋を指先で撫で、顔を見上げる。
「夜が明けきらない内に帰ろう。まだ薄暗いけど、日が昇りはじめたら一気に全部明るくなるから」
 冷たくて甘やかな痛み。この痕は、自分は彼の物だという証拠。
 胸の中ではずっと、溶けない雪が静かに降り続けている。



 駅前のロータリーで車を停めると、水本は日野の顔を見て何か言いかけて止めて。口の端を上げて苦笑いした。
「じゃあ、またね」
 それだけ言って軽く手を振り、一度も振り返らずに行ってしまった。エンジンをかけるとカーステレオから聴き慣れたあの曲が流れ出す。絶対に終わらないと思っていた時間の終わりを告げる歌。きっと今日からはこの曲を聴く度に、水本とのことを思い出さずにはいられないのだろう。そんなことを考えながら、日野は何もない平坦な道をただ真っ直ぐ車を走らせる。
 東の空が明るくなり始めて、もうすぐ星が見えなくなる。今日からは彼がいない町で暮らしていく。
 ゆっくりと空を横切る光。あれは流れ星じゃない。瞬きながら飛んでいく飛行機のランプに、日野はぼんやりと祈る。
 この先の君の人生が明るいものになりますように。


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