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チャイムの音は深海にも響く。眠気を身体から引き剥がして、足元に絡みつくそれを引き摺りながら、なんとか玄関へたどり着く。珍しい。鍵でも忘れたのだろうか。インターホンを取らずにドアを開けると、そこにいたのは松並ではなかった。
「……誰」
それはこっちが訊きたい。が、声をうまく発せない。それに誰と問われてもなんと答えたら良いのかわからない。澤野自身、自分が何者なのか全く答えられない。
「章人は?」
「まだ帰ってきてないです……」
「今日の夜、家に行くって送っといたのにな。逃げたんか」
上がっていいとは一言も言っていないけれど、スーツ姿の男は何の躊躇もなく部屋に上がり込んで、リビングのビーズクッションに座る。呆気にとられて澤野は身動きが出来なかった。
「で、君はなんなの。新しい同棲相手?」
「……同棲、では、ないです。あの、なんていうか、居候させてもらってて。色々あって住むとこなくなっちゃって、そしたら共通の友達に紹介してもらって、亀井ってわかります? 大学の同級生なんですけど、それで松並さんが、住んでいいよって……」
「ああ、そう」
そっちから訊いておいて。仕方なしに男を客として迎え入れることにする。澤野がインスタントのコーヒーを入れて持っていくと、ミルク、と言って男は立ち上がり、勝手に冷蔵庫を開ける。
真正面に座る勇気はなくて、限りなくテーブルの角に近い場所に正座する。それでも目の前の男は顕微鏡を覗くように、こちらを見る。何者であるかを仔細に調べられる。眠気以外何も持っていないのに。
男は紙袋の中から包装紙がかかった箱を取り出し、テーブルの上に置いた。甘い匂いがする。
「お土産。バームクーヘン。食べていいよ」
「……ありがとうございます」
「よく買ってくるでしょ。章人、こういうの好きだから」
なるほど、松並の好物だったのか。
「俺のこと聞いてる?」
「いえ、どちら様でしょうか……?」
「前にね、ここに一緒に住んでた」
両手で名刺を差し出されるが、交換する名刺を持っていない。辞めた会社にマナーを置いてきたので、思い出せないままとりあえず両手で名刺を受け取る。社名にファームと入っているということは、農業か。台所の片隅の、誰かから送られてきたと思しき米袋が頭に浮かんだ。一緒に住んでた。同棲相手。ダブルベッド。パズルを完成させて良いのか迷っているうちに、佐藤というその男に横から完成させられてしまった。
「元彼のさ、俺の悪口とか言ってないの?」
「……聞いたことないですね」
「ああ、そう」
佐藤はなんとなくつまらなそうに、棚の引き出しを開けたり、変わっていないベッドルームを見て、軽く笑う。緊張して、背中が汗をかいて熱い。意にそぐわない形で天秤に乗せられ計られているようだ。ここにいるべき人間に値するかどうか。
「このコーヒー、まだ飲んでるんだな。マカダミアナッツの味のやつ。インスタントじゃなくて、もうちょっとマシなの飲めばって言ってたのに」
相手のコーヒーばかりが減っていく。ここに一番いるべき人が、いない。いつもならそろそろ帰ってきてもよい頃なのだが。
空気を入れ替えたくて澤野が背後の窓を開けると、外を歩く人の話し声が聞こえる。これなら相手も大声を出したりしないだろう。たぶん。この佐藤の感じからして、松並が帰ってくるとは考えにくい。でも、どうなんだ。居なくなって、眠れなくなるくらいには愛着があった相手だ。自分の想像もつかない関係性がそこにあるのかもしれない。
スマホに連絡が来ているか確認したいけれど、ベッドの上にある。リビングからは丸見えだ。操作していたら何かまた問い質されるかもしれない。
いやしかし、松並はどういう気持ちで、元彼から送られてくる米を毎日食べていたんだろう。勿体ないとか農作物に罪はないとか、そういうことを如何にも言いそうだけれども。澤野がどんなに寝てばかりでいても、何も出来なくても軽く笑って受け流していた松並が、途端に複雑な存在になってしまった。バームクーヘンの深い深い穴を覗き込んでいるいる気分。
「本当に俺のこと、何にも聞いてない?」
「……同棲してた恋人が出て行った、とは聞いてますけど。それだけです」
「別に出て行ったわけじゃないんだけどね」
佐藤は大きく息を吐いて、クッションにもたれかかる。
「どっかで実家帰って農家を継がなきゃなんないとは思ってたからさ。会社にして、章人も社員として連れて行くって話、ずっとしてたんだよ。それなら不自然じゃない形で一緒に居られるし、まあ形式上の結婚を望んでたんだけど。そしたら土壇場になってさ、あいつは俺の田舎に行くのは嫌だって」
佐藤のコーヒーカップは空になっているけれど、おかわりをいれる気になれない。眠気はうっすらとまとわりついているけれど、振り払えないほどでもない。
「まさかそんなこと言うとは思ってなかったから、こっちも。だって泊りで出張行っただけで寂しがるのに。だから、俺が出てったわけじゃなくて、章人がついてきてくれなかったのが正解」
「……今の仕事も人間関係も全部捨ててついていくのは、いくら新しい仕事と家族と住まいが保証されてても、凄く勇気が要ると思います……」
「でも、それに値しないって言われたようなもんだからさ。裏切られた思いだよ。今までのは何だったんだって」
裏切るってのはまた違うんじゃないか? と思ったけれど口をつぐんだ。
「松並さんと、結婚したかったですか」
「そうだよ。俺だって不安なんだからさ。話し相手も欲しいし、あいつってさ、あれこれ世話焼いて凄い気を遣ってくれるだろ。何があっても一番の味方でいてくれる人と暮らしたいのは当然だろう」
澤野は正座を崩して胡座をかいた。
「……もうお帰りになられたらいいんじゃないですか。時間も遅いですし。松並さん、今日はたぶん帰って来ないですよ」
松並をこの人に会わせたくない。自分の立場で言えた義理じゃないけど。
もし外が雨で、松並が濡れていたら。自分の手に傘があったら。その半分を差し出したい。傘がなければ、一緒に濡れてもいい。そう思う。
「で、章人は今何処にいるの」
「知りません。ここで待ってても、仕方なくないですか」
「まあ、何日か出張でこっち来てるから、また来るわ」
佐藤が部屋を出た後、澤野は素早くドアロックと鍵を閉めた。すぐさまスマホを確認するが、松並からは何の連絡もない。佐藤が来てもう帰ったことだけ簡潔に送信して、ベッドに倒れこんだ。
孤独を埋めるために、誰かの孤独を利用している。わかっている、お互い様なんだ。松並も佐藤も、自分自身も。眠れなくなっても良いから彼を手放したのか、それとも寂しくて眠れなくなるなんて思ってなかったのか。松並は今何処で、どうやってこの夜を過ごしているのだろう。ここにいるべき人がいない。あ、ドアロックしたままだ。もし松並が帰ってきたら入れない。開けておかないと。
「……誰」
それはこっちが訊きたい。が、声をうまく発せない。それに誰と問われてもなんと答えたら良いのかわからない。澤野自身、自分が何者なのか全く答えられない。
「章人は?」
「まだ帰ってきてないです……」
「今日の夜、家に行くって送っといたのにな。逃げたんか」
上がっていいとは一言も言っていないけれど、スーツ姿の男は何の躊躇もなく部屋に上がり込んで、リビングのビーズクッションに座る。呆気にとられて澤野は身動きが出来なかった。
「で、君はなんなの。新しい同棲相手?」
「……同棲、では、ないです。あの、なんていうか、居候させてもらってて。色々あって住むとこなくなっちゃって、そしたら共通の友達に紹介してもらって、亀井ってわかります? 大学の同級生なんですけど、それで松並さんが、住んでいいよって……」
「ああ、そう」
そっちから訊いておいて。仕方なしに男を客として迎え入れることにする。澤野がインスタントのコーヒーを入れて持っていくと、ミルク、と言って男は立ち上がり、勝手に冷蔵庫を開ける。
真正面に座る勇気はなくて、限りなくテーブルの角に近い場所に正座する。それでも目の前の男は顕微鏡を覗くように、こちらを見る。何者であるかを仔細に調べられる。眠気以外何も持っていないのに。
男は紙袋の中から包装紙がかかった箱を取り出し、テーブルの上に置いた。甘い匂いがする。
「お土産。バームクーヘン。食べていいよ」
「……ありがとうございます」
「よく買ってくるでしょ。章人、こういうの好きだから」
なるほど、松並の好物だったのか。
「俺のこと聞いてる?」
「いえ、どちら様でしょうか……?」
「前にね、ここに一緒に住んでた」
両手で名刺を差し出されるが、交換する名刺を持っていない。辞めた会社にマナーを置いてきたので、思い出せないままとりあえず両手で名刺を受け取る。社名にファームと入っているということは、農業か。台所の片隅の、誰かから送られてきたと思しき米袋が頭に浮かんだ。一緒に住んでた。同棲相手。ダブルベッド。パズルを完成させて良いのか迷っているうちに、佐藤というその男に横から完成させられてしまった。
「元彼のさ、俺の悪口とか言ってないの?」
「……聞いたことないですね」
「ああ、そう」
佐藤はなんとなくつまらなそうに、棚の引き出しを開けたり、変わっていないベッドルームを見て、軽く笑う。緊張して、背中が汗をかいて熱い。意にそぐわない形で天秤に乗せられ計られているようだ。ここにいるべき人間に値するかどうか。
「このコーヒー、まだ飲んでるんだな。マカダミアナッツの味のやつ。インスタントじゃなくて、もうちょっとマシなの飲めばって言ってたのに」
相手のコーヒーばかりが減っていく。ここに一番いるべき人が、いない。いつもならそろそろ帰ってきてもよい頃なのだが。
空気を入れ替えたくて澤野が背後の窓を開けると、外を歩く人の話し声が聞こえる。これなら相手も大声を出したりしないだろう。たぶん。この佐藤の感じからして、松並が帰ってくるとは考えにくい。でも、どうなんだ。居なくなって、眠れなくなるくらいには愛着があった相手だ。自分の想像もつかない関係性がそこにあるのかもしれない。
スマホに連絡が来ているか確認したいけれど、ベッドの上にある。リビングからは丸見えだ。操作していたら何かまた問い質されるかもしれない。
いやしかし、松並はどういう気持ちで、元彼から送られてくる米を毎日食べていたんだろう。勿体ないとか農作物に罪はないとか、そういうことを如何にも言いそうだけれども。澤野がどんなに寝てばかりでいても、何も出来なくても軽く笑って受け流していた松並が、途端に複雑な存在になってしまった。バームクーヘンの深い深い穴を覗き込んでいるいる気分。
「本当に俺のこと、何にも聞いてない?」
「……同棲してた恋人が出て行った、とは聞いてますけど。それだけです」
「別に出て行ったわけじゃないんだけどね」
佐藤は大きく息を吐いて、クッションにもたれかかる。
「どっかで実家帰って農家を継がなきゃなんないとは思ってたからさ。会社にして、章人も社員として連れて行くって話、ずっとしてたんだよ。それなら不自然じゃない形で一緒に居られるし、まあ形式上の結婚を望んでたんだけど。そしたら土壇場になってさ、あいつは俺の田舎に行くのは嫌だって」
佐藤のコーヒーカップは空になっているけれど、おかわりをいれる気になれない。眠気はうっすらとまとわりついているけれど、振り払えないほどでもない。
「まさかそんなこと言うとは思ってなかったから、こっちも。だって泊りで出張行っただけで寂しがるのに。だから、俺が出てったわけじゃなくて、章人がついてきてくれなかったのが正解」
「……今の仕事も人間関係も全部捨ててついていくのは、いくら新しい仕事と家族と住まいが保証されてても、凄く勇気が要ると思います……」
「でも、それに値しないって言われたようなもんだからさ。裏切られた思いだよ。今までのは何だったんだって」
裏切るってのはまた違うんじゃないか? と思ったけれど口をつぐんだ。
「松並さんと、結婚したかったですか」
「そうだよ。俺だって不安なんだからさ。話し相手も欲しいし、あいつってさ、あれこれ世話焼いて凄い気を遣ってくれるだろ。何があっても一番の味方でいてくれる人と暮らしたいのは当然だろう」
澤野は正座を崩して胡座をかいた。
「……もうお帰りになられたらいいんじゃないですか。時間も遅いですし。松並さん、今日はたぶん帰って来ないですよ」
松並をこの人に会わせたくない。自分の立場で言えた義理じゃないけど。
もし外が雨で、松並が濡れていたら。自分の手に傘があったら。その半分を差し出したい。傘がなければ、一緒に濡れてもいい。そう思う。
「で、章人は今何処にいるの」
「知りません。ここで待ってても、仕方なくないですか」
「まあ、何日か出張でこっち来てるから、また来るわ」
佐藤が部屋を出た後、澤野は素早くドアロックと鍵を閉めた。すぐさまスマホを確認するが、松並からは何の連絡もない。佐藤が来てもう帰ったことだけ簡潔に送信して、ベッドに倒れこんだ。
孤独を埋めるために、誰かの孤独を利用している。わかっている、お互い様なんだ。松並も佐藤も、自分自身も。眠れなくなっても良いから彼を手放したのか、それとも寂しくて眠れなくなるなんて思ってなかったのか。松並は今何処で、どうやってこの夜を過ごしているのだろう。ここにいるべき人がいない。あ、ドアロックしたままだ。もし松並が帰ってきたら入れない。開けておかないと。
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