罪ノ贄

黒砂糖

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第十七話

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 突然――食器が割れる音がキッチンで響いた。居間のソファで夕刊に目を通していた久保田英之は、驚いて顔をあげた。
  
 「貴子?」
  
 妻の名を呼ぶが、返事はない。先ほどまで夕食の支度をしていたはずだ。
  
 「おい、貴子?」
  
 声量をあげてもう一度、呼んでみる――結果は同じだった。
  
 「貴子? どうしたんだ?」
  
 夕刊をソファに置いて英之は立ち上がり、キッチンに向かう。
  
 「……貴子?」
  
 更に呼びかけながら、キッチンを覗く――食器に盛り付けられたばかりと思われるホワイトシチューが、床に撒き散らされているのが視界に入る。
  更にそこには、英之の妻である貴子がエプロン姿でうずくまっていた。
  
 「た――貴子、大丈夫か!?」
  
 英之は妻に駆け寄り、抱き起した。眉間にいくつもの皺を寄せ、唇を強く噛みしめている貴子は、臨月を迎えた腹部を押さえ、苦しげな息を吐いている。
  何を問うまでもなく、妻を襲ったものが陣痛の発作だと、英之は察した。
  すぐにでも救急車を呼ぶべきだったが、電話をしてから到着までの時間を考えると、自分の車で病院まで連れて行った方が早いと英之は判断した。今は一刻でも時間が惜しい。
  妻に肩を貸し、彼女を気遣いながら一歩一歩、ゆっくりと玄関へと進む。もどかしくはあったが、仕方がない。
  玄関を出て、車の後部座席に妻を乗せる。焦る気持ちが先に立ち、ついアクセルを踏む足に力が入りそうになるが、そこはぐっと堪える。事故など起こしたりすれば、それこそ目も当てられない。
 待望の我が子だった。それまでは何度も夫婦で夜を共にしても、なかなか子宝に恵まれなかった。                               
もしかすると夫婦どちらかの体に問題があるのではと思い、二人は産婦人科の医師に相談した。
すると原因は英之にあり、彼が乏精子症であると判明した。医師の勧めもあり、二人は人工授精をすることに決めた。うまく着床するか不安はあったが、妻の妊娠が分かったときは互いに手を取り合い、嬉し泣きをした。
  ようやく授かった子どもに、何かあってはいけない――普段よりも慎重な運転を心がけるべきだ。
  暗い夜道を、車は進んでいく。
  
 「ううっ――ぐっ――ああっ――」
  
 痛みに耐え兼ねた妻の苦悶の声を耳にしながらの運転は、英之にとって気が気でなかった。もう破水はしているのか、あとどのくらい時間がもつのかなどで頭がいっぱいになる。
  もうそろそろ病院が見えてくるというときに、信号が赤に変わってしまった。前を行く車のブレーキランプが点く。
  
 「くそっ……こんなときに」
  
 思わず悪態をつく。子どもが生まれるという日に汚い言葉を使ってしまったことを、英之は遅れて反省した。
 指先でハンドルを苛々と叩きながら、英之は信号機を睨み付け、青になるのを待つ。
  ようやく信号が、青に変わった。
  
 「…………?」
  
 英之はアクセルを踏みかけた足を止めた。青になっているにも関わらず、前の車がなぜか、一向に発進しようとしない。
  
 「何をやってるんだ? 早く行ってくれよ」
  
 クラクションを鳴らす――だが車は動かない。
  
 「あ、あなたっ――もう、駄目っ――生まれるぅっ――」
  
 妻はいまや絶叫していた。怒りと焦りに急き立てられるように、英之は立て続けにクラクションを鳴らした。
  それでも尚、前の車は沈黙を守っている。
 
 「ふざけるなよっ! 本当に――」

  英之の我慢が限界に達しようとしたとき――凄まじい衝撃が車体に加わり、英之はハンドルに額を打ち付けてしまった。振り向くと、後続の車のバンパーが破損している。こちらは信号が変わる前から停車している。意図的に衝突したのは明らかだ。
 今度は前方の車で動きがあった。ドアが開く音に英之が顔を戻すと、車内から三人の人影が現れた。
  三人とも、男のようだった。黒ずくめの服装で、上着のフードとマスクで顔を隠している――英之の全身に緊張が走った。
  三人の男はそれぞれの手に、何かを握っている――ヘッドライトの灯りでかろうじて確認できた。
  鉄パイプ、金属バット、バール――どれもこれもが、物騒な得物ばかりだ。続いて、後続の車のドアも開け放たれ、似た格好の男たちが外に出てきた。やはり手には得物を持っている。
  
 「な、何……?」
  
 英之の動揺を尻目に、前方から来た三人の男がこちらに近づいてくる――そして有無を言わさず、いきなり一人の手にした金属バットが、フロントウィンドウに叩きつけられた。それが合図であるかのように、前後の男たちは次々と車体に攻撃をしかけ始める。
  バックミラーが根元から折れ、アスファルトに転がる。左のヘッドライトが割れ、周囲の闇が一層濃くなった。
  ゴルフクラブによる打撃で、運転手側のサイドウィンドウが粉々に砕かれ、破片が車内に散らばった。皮手袋を嵌めた手がロックを外し、ついにドアが開かれてしまった。
  抵抗もむなしく、英之は車外へと引き摺り出された。態勢を立て直す暇も与えられず、すぐ数人に囲まれてしまう。無防備な背中に角材が振り下ろされ、彼は苦痛の呻き声をあげた。金属バットの一撃が右足を襲う。脇腹を何度も蹴りつけられる。
  英之が顔をあげると、髪を鷲掴みにされた妻が、後部座席から引き摺り出されるところだった。
  
 「や、やめろっ――妻だけはやめてくれっ――お腹に子どもがいるんだっ!」
  
 自分を囲む男たちに、英之は必死に訴える。
  
 「だからだよ」
  
 言葉とともに顔面を殴りつけられ、鼻血が零れる。
  
 「おまえの妻の腹にいるのは《悪魔の子》だ。そんなものは放っておけない」
  
 自分を殴った男を、英之は見上げた。男の声に、彼は聞き覚えがあった。
  
 「……木嶋? おまえ、木嶋か?」
  
 木嶋光一――英之の職場の同僚だった。四年前に結婚した妻との間に、二人の子どもがいる。定期入れに挟んだ家族の写真を大切に持ち歩き、たまに見つめては目を細め、笑みを浮かべていた。仕事面でも有能で、彼のフォローで英之は何度も助けられたことがあった。いい同僚であり、いい父親でもあるはずだった。
 
 「おまえは精子の数が少ない病気のはずだ。なら、子どもの父親は誰だ? おまえじゃないなら誰なんだ?」
 
 まくしたてるように木嶋は言う。その声には強い憎しみが込められている。彼の誤解を解こうと、英之は声を振り絞る。
 
 「おれの、子だ……」
 
 「嘘を吐くな」
 
 顎を蹴られる。舌を噛んでしまい、出血した。脳が激しく揺さぶられる感覚に、意識が遠のきかける。
 以前、仕事帰りに二人で飲みに行ったとき、酔った拍子に自分の体について口を滑らせたことを、英之は今更になって後悔した。
 
 「ほ、本当だ……しん、じてくれ……本当に、おれの子――」
 
 鳩尾を踏まれて息が止まり、続く言葉が途切れる。木嶋は聞く耳を持たない。
 身を起こしかけると、別の男が鉄パイプを振りかぶった。とっさに右腕で頭を守る――嫌な音がして、右腕が本来ならありえない方向に曲がった。耐え難い激痛に悲鳴を漏らしてしまう。視界が涙で霞む。
 暴行から逃れようと身を転がし、男たちから離れる。それから、ようやく立ち上がることができた。
 対向車線からやってきた車のヘッドライトが、英之の姿を照らす――直後、彼は宙を舞い、アスファルトに全身を強打した。
 背骨や肋骨が折れ、体はもういうことをきかなかった。虚ろな視線の先で、英之を撥ねたばかりの車が停車していた。
 だが、車から誰かが降りてくる様子はない。車は英之に後部を向けたまま、沈黙も保ち続けている。
 やがて車は、英之が見ている前でゆっくりとバックし始めた。確実に、彼の方に近づいてくる。
 車は速度を落とすどころか、逆にますます速度をあげていく。

 あの車も、男たちの仲間だったのか――。
 
 英之はそう思い至り、迫りくる車のタイヤが自分の頭を潰すのを、ただ待ち受けているしかなかった。
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