18 / 24
第十七話
しおりを挟む
突然――食器が割れる音がキッチンで響いた。居間のソファで夕刊に目を通していた久保田英之は、驚いて顔をあげた。
「貴子?」
妻の名を呼ぶが、返事はない。先ほどまで夕食の支度をしていたはずだ。
「おい、貴子?」
声量をあげてもう一度、呼んでみる――結果は同じだった。
「貴子? どうしたんだ?」
夕刊をソファに置いて英之は立ち上がり、キッチンに向かう。
「……貴子?」
更に呼びかけながら、キッチンを覗く――食器に盛り付けられたばかりと思われるホワイトシチューが、床に撒き散らされているのが視界に入る。
更にそこには、英之の妻である貴子がエプロン姿でうずくまっていた。
「た――貴子、大丈夫か!?」
英之は妻に駆け寄り、抱き起した。眉間にいくつもの皺を寄せ、唇を強く噛みしめている貴子は、臨月を迎えた腹部を押さえ、苦しげな息を吐いている。
何を問うまでもなく、妻を襲ったものが陣痛の発作だと、英之は察した。
すぐにでも救急車を呼ぶべきだったが、電話をしてから到着までの時間を考えると、自分の車で病院まで連れて行った方が早いと英之は判断した。今は一刻でも時間が惜しい。
妻に肩を貸し、彼女を気遣いながら一歩一歩、ゆっくりと玄関へと進む。もどかしくはあったが、仕方がない。
玄関を出て、車の後部座席に妻を乗せる。焦る気持ちが先に立ち、ついアクセルを踏む足に力が入りそうになるが、そこはぐっと堪える。事故など起こしたりすれば、それこそ目も当てられない。
待望の我が子だった。それまでは何度も夫婦で夜を共にしても、なかなか子宝に恵まれなかった。
もしかすると夫婦どちらかの体に問題があるのではと思い、二人は産婦人科の医師に相談した。
すると原因は英之にあり、彼が乏精子症であると判明した。医師の勧めもあり、二人は人工授精をすることに決めた。うまく着床するか不安はあったが、妻の妊娠が分かったときは互いに手を取り合い、嬉し泣きをした。
ようやく授かった子どもに、何かあってはいけない――普段よりも慎重な運転を心がけるべきだ。
暗い夜道を、車は進んでいく。
「ううっ――ぐっ――ああっ――」
痛みに耐え兼ねた妻の苦悶の声を耳にしながらの運転は、英之にとって気が気でなかった。もう破水はしているのか、あとどのくらい時間がもつのかなどで頭がいっぱいになる。
もうそろそろ病院が見えてくるというときに、信号が赤に変わってしまった。前を行く車のブレーキランプが点く。
「くそっ……こんなときに」
思わず悪態をつく。子どもが生まれるという日に汚い言葉を使ってしまったことを、英之は遅れて反省した。
指先でハンドルを苛々と叩きながら、英之は信号機を睨み付け、青になるのを待つ。
ようやく信号が、青に変わった。
「…………?」
英之はアクセルを踏みかけた足を止めた。青になっているにも関わらず、前の車がなぜか、一向に発進しようとしない。
「何をやってるんだ? 早く行ってくれよ」
クラクションを鳴らす――だが車は動かない。
「あ、あなたっ――もう、駄目っ――生まれるぅっ――」
妻はいまや絶叫していた。怒りと焦りに急き立てられるように、英之は立て続けにクラクションを鳴らした。
それでも尚、前の車は沈黙を守っている。
「ふざけるなよっ! 本当に――」
英之の我慢が限界に達しようとしたとき――凄まじい衝撃が車体に加わり、英之はハンドルに額を打ち付けてしまった。振り向くと、後続の車のバンパーが破損している。こちらは信号が変わる前から停車している。意図的に衝突したのは明らかだ。
今度は前方の車で動きがあった。ドアが開く音に英之が顔を戻すと、車内から三人の人影が現れた。
三人とも、男のようだった。黒ずくめの服装で、上着のフードとマスクで顔を隠している――英之の全身に緊張が走った。
三人の男はそれぞれの手に、何かを握っている――ヘッドライトの灯りでかろうじて確認できた。
鉄パイプ、金属バット、バール――どれもこれもが、物騒な得物ばかりだ。続いて、後続の車のドアも開け放たれ、似た格好の男たちが外に出てきた。やはり手には得物を持っている。
「な、何……?」
英之の動揺を尻目に、前方から来た三人の男がこちらに近づいてくる――そして有無を言わさず、いきなり一人の手にした金属バットが、フロントウィンドウに叩きつけられた。それが合図であるかのように、前後の男たちは次々と車体に攻撃をしかけ始める。
バックミラーが根元から折れ、アスファルトに転がる。左のヘッドライトが割れ、周囲の闇が一層濃くなった。
ゴルフクラブによる打撃で、運転手側のサイドウィンドウが粉々に砕かれ、破片が車内に散らばった。皮手袋を嵌めた手がロックを外し、ついにドアが開かれてしまった。
抵抗もむなしく、英之は車外へと引き摺り出された。態勢を立て直す暇も与えられず、すぐ数人に囲まれてしまう。無防備な背中に角材が振り下ろされ、彼は苦痛の呻き声をあげた。金属バットの一撃が右足を襲う。脇腹を何度も蹴りつけられる。
英之が顔をあげると、髪を鷲掴みにされた妻が、後部座席から引き摺り出されるところだった。
「や、やめろっ――妻だけはやめてくれっ――お腹に子どもがいるんだっ!」
自分を囲む男たちに、英之は必死に訴える。
「だからだよ」
言葉とともに顔面を殴りつけられ、鼻血が零れる。
「おまえの妻の腹にいるのは《悪魔の子》だ。そんなものは放っておけない」
自分を殴った男を、英之は見上げた。男の声に、彼は聞き覚えがあった。
「……木嶋? おまえ、木嶋か?」
木嶋光一――英之の職場の同僚だった。四年前に結婚した妻との間に、二人の子どもがいる。定期入れに挟んだ家族の写真を大切に持ち歩き、たまに見つめては目を細め、笑みを浮かべていた。仕事面でも有能で、彼のフォローで英之は何度も助けられたことがあった。いい同僚であり、いい父親でもあるはずだった。
「おまえは精子の数が少ない病気のはずだ。なら、子どもの父親は誰だ? おまえじゃないなら誰なんだ?」
まくしたてるように木嶋は言う。その声には強い憎しみが込められている。彼の誤解を解こうと、英之は声を振り絞る。
「おれの、子だ……」
「嘘を吐くな」
顎を蹴られる。舌を噛んでしまい、出血した。脳が激しく揺さぶられる感覚に、意識が遠のきかける。
以前、仕事帰りに二人で飲みに行ったとき、酔った拍子に自分の体について口を滑らせたことを、英之は今更になって後悔した。
「ほ、本当だ……しん、じてくれ……本当に、おれの子――」
鳩尾を踏まれて息が止まり、続く言葉が途切れる。木嶋は聞く耳を持たない。
身を起こしかけると、別の男が鉄パイプを振りかぶった。とっさに右腕で頭を守る――嫌な音がして、右腕が本来ならありえない方向に曲がった。耐え難い激痛に悲鳴を漏らしてしまう。視界が涙で霞む。
暴行から逃れようと身を転がし、男たちから離れる。それから、ようやく立ち上がることができた。
対向車線からやってきた車のヘッドライトが、英之の姿を照らす――直後、彼は宙を舞い、アスファルトに全身を強打した。
背骨や肋骨が折れ、体はもういうことをきかなかった。虚ろな視線の先で、英之を撥ねたばかりの車が停車していた。
だが、車から誰かが降りてくる様子はない。車は英之に後部を向けたまま、沈黙も保ち続けている。
やがて車は、英之が見ている前でゆっくりとバックし始めた。確実に、彼の方に近づいてくる。
車は速度を落とすどころか、逆にますます速度をあげていく。
あの車も、男たちの仲間だったのか――。
英之はそう思い至り、迫りくる車のタイヤが自分の頭を潰すのを、ただ待ち受けているしかなかった。
「貴子?」
妻の名を呼ぶが、返事はない。先ほどまで夕食の支度をしていたはずだ。
「おい、貴子?」
声量をあげてもう一度、呼んでみる――結果は同じだった。
「貴子? どうしたんだ?」
夕刊をソファに置いて英之は立ち上がり、キッチンに向かう。
「……貴子?」
更に呼びかけながら、キッチンを覗く――食器に盛り付けられたばかりと思われるホワイトシチューが、床に撒き散らされているのが視界に入る。
更にそこには、英之の妻である貴子がエプロン姿でうずくまっていた。
「た――貴子、大丈夫か!?」
英之は妻に駆け寄り、抱き起した。眉間にいくつもの皺を寄せ、唇を強く噛みしめている貴子は、臨月を迎えた腹部を押さえ、苦しげな息を吐いている。
何を問うまでもなく、妻を襲ったものが陣痛の発作だと、英之は察した。
すぐにでも救急車を呼ぶべきだったが、電話をしてから到着までの時間を考えると、自分の車で病院まで連れて行った方が早いと英之は判断した。今は一刻でも時間が惜しい。
妻に肩を貸し、彼女を気遣いながら一歩一歩、ゆっくりと玄関へと進む。もどかしくはあったが、仕方がない。
玄関を出て、車の後部座席に妻を乗せる。焦る気持ちが先に立ち、ついアクセルを踏む足に力が入りそうになるが、そこはぐっと堪える。事故など起こしたりすれば、それこそ目も当てられない。
待望の我が子だった。それまでは何度も夫婦で夜を共にしても、なかなか子宝に恵まれなかった。
もしかすると夫婦どちらかの体に問題があるのではと思い、二人は産婦人科の医師に相談した。
すると原因は英之にあり、彼が乏精子症であると判明した。医師の勧めもあり、二人は人工授精をすることに決めた。うまく着床するか不安はあったが、妻の妊娠が分かったときは互いに手を取り合い、嬉し泣きをした。
ようやく授かった子どもに、何かあってはいけない――普段よりも慎重な運転を心がけるべきだ。
暗い夜道を、車は進んでいく。
「ううっ――ぐっ――ああっ――」
痛みに耐え兼ねた妻の苦悶の声を耳にしながらの運転は、英之にとって気が気でなかった。もう破水はしているのか、あとどのくらい時間がもつのかなどで頭がいっぱいになる。
もうそろそろ病院が見えてくるというときに、信号が赤に変わってしまった。前を行く車のブレーキランプが点く。
「くそっ……こんなときに」
思わず悪態をつく。子どもが生まれるという日に汚い言葉を使ってしまったことを、英之は遅れて反省した。
指先でハンドルを苛々と叩きながら、英之は信号機を睨み付け、青になるのを待つ。
ようやく信号が、青に変わった。
「…………?」
英之はアクセルを踏みかけた足を止めた。青になっているにも関わらず、前の車がなぜか、一向に発進しようとしない。
「何をやってるんだ? 早く行ってくれよ」
クラクションを鳴らす――だが車は動かない。
「あ、あなたっ――もう、駄目っ――生まれるぅっ――」
妻はいまや絶叫していた。怒りと焦りに急き立てられるように、英之は立て続けにクラクションを鳴らした。
それでも尚、前の車は沈黙を守っている。
「ふざけるなよっ! 本当に――」
英之の我慢が限界に達しようとしたとき――凄まじい衝撃が車体に加わり、英之はハンドルに額を打ち付けてしまった。振り向くと、後続の車のバンパーが破損している。こちらは信号が変わる前から停車している。意図的に衝突したのは明らかだ。
今度は前方の車で動きがあった。ドアが開く音に英之が顔を戻すと、車内から三人の人影が現れた。
三人とも、男のようだった。黒ずくめの服装で、上着のフードとマスクで顔を隠している――英之の全身に緊張が走った。
三人の男はそれぞれの手に、何かを握っている――ヘッドライトの灯りでかろうじて確認できた。
鉄パイプ、金属バット、バール――どれもこれもが、物騒な得物ばかりだ。続いて、後続の車のドアも開け放たれ、似た格好の男たちが外に出てきた。やはり手には得物を持っている。
「な、何……?」
英之の動揺を尻目に、前方から来た三人の男がこちらに近づいてくる――そして有無を言わさず、いきなり一人の手にした金属バットが、フロントウィンドウに叩きつけられた。それが合図であるかのように、前後の男たちは次々と車体に攻撃をしかけ始める。
バックミラーが根元から折れ、アスファルトに転がる。左のヘッドライトが割れ、周囲の闇が一層濃くなった。
ゴルフクラブによる打撃で、運転手側のサイドウィンドウが粉々に砕かれ、破片が車内に散らばった。皮手袋を嵌めた手がロックを外し、ついにドアが開かれてしまった。
抵抗もむなしく、英之は車外へと引き摺り出された。態勢を立て直す暇も与えられず、すぐ数人に囲まれてしまう。無防備な背中に角材が振り下ろされ、彼は苦痛の呻き声をあげた。金属バットの一撃が右足を襲う。脇腹を何度も蹴りつけられる。
英之が顔をあげると、髪を鷲掴みにされた妻が、後部座席から引き摺り出されるところだった。
「や、やめろっ――妻だけはやめてくれっ――お腹に子どもがいるんだっ!」
自分を囲む男たちに、英之は必死に訴える。
「だからだよ」
言葉とともに顔面を殴りつけられ、鼻血が零れる。
「おまえの妻の腹にいるのは《悪魔の子》だ。そんなものは放っておけない」
自分を殴った男を、英之は見上げた。男の声に、彼は聞き覚えがあった。
「……木嶋? おまえ、木嶋か?」
木嶋光一――英之の職場の同僚だった。四年前に結婚した妻との間に、二人の子どもがいる。定期入れに挟んだ家族の写真を大切に持ち歩き、たまに見つめては目を細め、笑みを浮かべていた。仕事面でも有能で、彼のフォローで英之は何度も助けられたことがあった。いい同僚であり、いい父親でもあるはずだった。
「おまえは精子の数が少ない病気のはずだ。なら、子どもの父親は誰だ? おまえじゃないなら誰なんだ?」
まくしたてるように木嶋は言う。その声には強い憎しみが込められている。彼の誤解を解こうと、英之は声を振り絞る。
「おれの、子だ……」
「嘘を吐くな」
顎を蹴られる。舌を噛んでしまい、出血した。脳が激しく揺さぶられる感覚に、意識が遠のきかける。
以前、仕事帰りに二人で飲みに行ったとき、酔った拍子に自分の体について口を滑らせたことを、英之は今更になって後悔した。
「ほ、本当だ……しん、じてくれ……本当に、おれの子――」
鳩尾を踏まれて息が止まり、続く言葉が途切れる。木嶋は聞く耳を持たない。
身を起こしかけると、別の男が鉄パイプを振りかぶった。とっさに右腕で頭を守る――嫌な音がして、右腕が本来ならありえない方向に曲がった。耐え難い激痛に悲鳴を漏らしてしまう。視界が涙で霞む。
暴行から逃れようと身を転がし、男たちから離れる。それから、ようやく立ち上がることができた。
対向車線からやってきた車のヘッドライトが、英之の姿を照らす――直後、彼は宙を舞い、アスファルトに全身を強打した。
背骨や肋骨が折れ、体はもういうことをきかなかった。虚ろな視線の先で、英之を撥ねたばかりの車が停車していた。
だが、車から誰かが降りてくる様子はない。車は英之に後部を向けたまま、沈黙も保ち続けている。
やがて車は、英之が見ている前でゆっくりとバックし始めた。確実に、彼の方に近づいてくる。
車は速度を落とすどころか、逆にますます速度をあげていく。
あの車も、男たちの仲間だったのか――。
英之はそう思い至り、迫りくる車のタイヤが自分の頭を潰すのを、ただ待ち受けているしかなかった。
0
あなたにおすすめの小説
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
月弥総合病院
僕君☾☾
キャラ文芸
月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。
また、ここは凄腕の医師達が集まる病院。特にその中の計5人が圧倒的に遥か上回る実力を持ち、「白鳥」と呼ばれている。
(小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる