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第十九話
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日が沈み、外はすっかり暗くなっていた――だが、鈴沢寛がそれを確認することはない。
ここ最近はカーテンも雨戸も、ずっと閉め切りだった。そうしていないと町民に窓硝子を割られてしまうからだ。
仕事も辞めるはめになり、食事も喉を通らず、外出もできずに一日びくびくしながら家の中で過ごしていた。
だが、これも報いなのかも知れないと寛は思い始めていた。妻が美紀を身籠っていたときに自分がした怖ろしい行いを考えれば、納得ができる。
真紀の双子の妹である早紀が、病気でこの世を去ってから、妻は心を病み始めていた。非現実的な悪魔について、頻繁に語るようになった。
『インキュバスがわたしに娘を授けてくれるの』――寛の妻は、そればかりを口にした。
当然、寛は悪魔の実在など毛ほども信じてはいなかった。今も昔も、そんなものはどこにもいない。
『うちの家族はみんな、悪魔を信じているのよ』――いくら妻が言おうと、寛はまともに取り合おうとしなかった。
それから半年後、妻の妊娠が発覚した。性交渉はしていない――寛にはまったく心当たりはなかった。
『ほらあなた……悪魔は本当にいるのよ。この子がその証拠よ』――妻は勝ち誇ったように笑った。
それでも寛は信じなかった。妻が余所の男と作った子に違いない――だが問い質すまでもなく、妻はその事実を認めないことは分かっていた。生まれてくる子に罪はない。父親が誰であろうと彼は愛することに決めた。
妊娠してからというもの、妻はよく肉を好んで食するようになった。最初はさして気にもとめなかったが、そのうち肉以外をほとんど口にしなくなった。さすがに常軌を逸している。
不審に思い、妻の外出中に、寛は冷凍庫を調べた。
入っていたのは、赤黒い肉塊の数々――それらには未発達ながら手があり、足があり、口があり、鼻があった。
妻が食べていたのは、人間の胎児の肉だった。
本人に確認することが、これほど怖ろしい事実はなかった。それでも寛は、妻に訊ねないわけにはいかなかった。
妻は正直に、すべてを白状した。自分が連続妊婦殺人事件の犯人であること――そして持ち去った胎児を生贄として、身籠っている《悪魔の子》に捧げているということを。
だが、それらの事実よりも寛が怖ろしかったのは、そんなおぞましい行為に手を染めていながら、妻からは何の罪の意識も感じられなかったことだった。
警察に通報するべきだった――だが寛には、それがどうしてもできなかった。一人娘の真紀は、まだ幼い。母親を殺人犯にしたら、この子の人生はどうなるのか。
時が経ち、腹が大きくなってくると、妻はもう妊婦を襲うことができなくなった。
これで打ち止めだと、寛は安堵した――それがぬか喜びに過ぎなかったことを、彼はすぐに思い知らされた。
『わたしに代わって、あなたが赤ちゃんを手に入れて』――そう、妻は寛に頼んだ。
無理だと思った。人殺しだけでも充分に怖ろしいことなのに、死体から胎児を取り出すなどということが、自分にできるはずがない。
『できないの? できないのだったら……』――妻は寛を睨みつけながら喋った。
『わたしとあなたの娘――真紀を殺すわよ。あの子の血肉で、しばらくは代用する』
妻は正気ではない。曲がりなりにも自分が腹を痛めて産んだ娘を人質に、夫を脅迫したのだ。寛にとっては妻こそがまるで悪魔のようだった。
それでも――そんな妻でも、寛は愛おしくて仕方がなかった。思い返せば、あのときの自分も精神的に追い詰められて、心のどこかが壊れてしまっていたのかも知れない。
結局、寛は――妻の犯罪を引き継ぐことになった。時同じく、真紀の様子もまたおかしくなった。
当時はそんなことを考えている余裕もなかったが、今なら分かる――真紀は、自分が胎児の肉を調理し、それを妻に食べさせる一部始終を目撃してしまったのだ。幼かった彼女にとって、それが心にどれほど深い傷を生むものだったのだろう。
そしてこれは、ただの推測に過ぎないが――もしかすると、美紀が《悪魔の子》だと周囲へ最初に漏らしたのは、真紀だったのではないだろうか。他の誰よりも自分の家族を忌み嫌っていたのは、彼女のはずだからだ。
これもまた自分自身が招いた、自業自得の結果だ。
わずか十分前――寛は妻を包丁で刺し殺した。死体は寝室のベッドに寝かせてある。
真紀と美紀――二人の娘の人生を狂わせた罪の清算は、やはり親である自分の手で行わなければならない。
美紀がなぜ高校の同級生を手にかけたのか――警察の取り調べでは個人的な恨みだと語っているようだが、もしや自分と妻が森下利樹を殺したことと、何か関係があるのではないか――確証があるわけではない。だがもし美紀が、自分たちを庇って人を殺したのだとすれば――。
もはや命でもって贖う以外に、寛にはどうすることもできなかった。
寝室に行き、妻の死体の隣に腰かける。血で汚れた指で、携帯の番号を押す。
携帯を耳に当て、しばらく待つ――留守電に切り替わったため、メッセージを吹き込む。本当は直接相手に伝えたかったが、仕方がない。
携帯を傍らに置く。妻を刺した包丁を、両手で握り締める。
包丁の切っ先を、自分の首筋に当てがう。
ごめん、義姉さん――。
心の中で詫び、一息で喉を切り裂いた。
自分を囲う世界が、赤一色に塗り潰される――やがて世界は全き暗黒へと変じ、寛の意識を呑み込んでいった。
ここ最近はカーテンも雨戸も、ずっと閉め切りだった。そうしていないと町民に窓硝子を割られてしまうからだ。
仕事も辞めるはめになり、食事も喉を通らず、外出もできずに一日びくびくしながら家の中で過ごしていた。
だが、これも報いなのかも知れないと寛は思い始めていた。妻が美紀を身籠っていたときに自分がした怖ろしい行いを考えれば、納得ができる。
真紀の双子の妹である早紀が、病気でこの世を去ってから、妻は心を病み始めていた。非現実的な悪魔について、頻繁に語るようになった。
『インキュバスがわたしに娘を授けてくれるの』――寛の妻は、そればかりを口にした。
当然、寛は悪魔の実在など毛ほども信じてはいなかった。今も昔も、そんなものはどこにもいない。
『うちの家族はみんな、悪魔を信じているのよ』――いくら妻が言おうと、寛はまともに取り合おうとしなかった。
それから半年後、妻の妊娠が発覚した。性交渉はしていない――寛にはまったく心当たりはなかった。
『ほらあなた……悪魔は本当にいるのよ。この子がその証拠よ』――妻は勝ち誇ったように笑った。
それでも寛は信じなかった。妻が余所の男と作った子に違いない――だが問い質すまでもなく、妻はその事実を認めないことは分かっていた。生まれてくる子に罪はない。父親が誰であろうと彼は愛することに決めた。
妊娠してからというもの、妻はよく肉を好んで食するようになった。最初はさして気にもとめなかったが、そのうち肉以外をほとんど口にしなくなった。さすがに常軌を逸している。
不審に思い、妻の外出中に、寛は冷凍庫を調べた。
入っていたのは、赤黒い肉塊の数々――それらには未発達ながら手があり、足があり、口があり、鼻があった。
妻が食べていたのは、人間の胎児の肉だった。
本人に確認することが、これほど怖ろしい事実はなかった。それでも寛は、妻に訊ねないわけにはいかなかった。
妻は正直に、すべてを白状した。自分が連続妊婦殺人事件の犯人であること――そして持ち去った胎児を生贄として、身籠っている《悪魔の子》に捧げているということを。
だが、それらの事実よりも寛が怖ろしかったのは、そんなおぞましい行為に手を染めていながら、妻からは何の罪の意識も感じられなかったことだった。
警察に通報するべきだった――だが寛には、それがどうしてもできなかった。一人娘の真紀は、まだ幼い。母親を殺人犯にしたら、この子の人生はどうなるのか。
時が経ち、腹が大きくなってくると、妻はもう妊婦を襲うことができなくなった。
これで打ち止めだと、寛は安堵した――それがぬか喜びに過ぎなかったことを、彼はすぐに思い知らされた。
『わたしに代わって、あなたが赤ちゃんを手に入れて』――そう、妻は寛に頼んだ。
無理だと思った。人殺しだけでも充分に怖ろしいことなのに、死体から胎児を取り出すなどということが、自分にできるはずがない。
『できないの? できないのだったら……』――妻は寛を睨みつけながら喋った。
『わたしとあなたの娘――真紀を殺すわよ。あの子の血肉で、しばらくは代用する』
妻は正気ではない。曲がりなりにも自分が腹を痛めて産んだ娘を人質に、夫を脅迫したのだ。寛にとっては妻こそがまるで悪魔のようだった。
それでも――そんな妻でも、寛は愛おしくて仕方がなかった。思い返せば、あのときの自分も精神的に追い詰められて、心のどこかが壊れてしまっていたのかも知れない。
結局、寛は――妻の犯罪を引き継ぐことになった。時同じく、真紀の様子もまたおかしくなった。
当時はそんなことを考えている余裕もなかったが、今なら分かる――真紀は、自分が胎児の肉を調理し、それを妻に食べさせる一部始終を目撃してしまったのだ。幼かった彼女にとって、それが心にどれほど深い傷を生むものだったのだろう。
そしてこれは、ただの推測に過ぎないが――もしかすると、美紀が《悪魔の子》だと周囲へ最初に漏らしたのは、真紀だったのではないだろうか。他の誰よりも自分の家族を忌み嫌っていたのは、彼女のはずだからだ。
これもまた自分自身が招いた、自業自得の結果だ。
わずか十分前――寛は妻を包丁で刺し殺した。死体は寝室のベッドに寝かせてある。
真紀と美紀――二人の娘の人生を狂わせた罪の清算は、やはり親である自分の手で行わなければならない。
美紀がなぜ高校の同級生を手にかけたのか――警察の取り調べでは個人的な恨みだと語っているようだが、もしや自分と妻が森下利樹を殺したことと、何か関係があるのではないか――確証があるわけではない。だがもし美紀が、自分たちを庇って人を殺したのだとすれば――。
もはや命でもって贖う以外に、寛にはどうすることもできなかった。
寝室に行き、妻の死体の隣に腰かける。血で汚れた指で、携帯の番号を押す。
携帯を耳に当て、しばらく待つ――留守電に切り替わったため、メッセージを吹き込む。本当は直接相手に伝えたかったが、仕方がない。
携帯を傍らに置く。妻を刺した包丁を、両手で握り締める。
包丁の切っ先を、自分の首筋に当てがう。
ごめん、義姉さん――。
心の中で詫び、一息で喉を切り裂いた。
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