あるクズ人間の奇譚

ひいらぎ

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大学生編 Part.5

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 一日目。彼女に会いに行く日。

 早々にとあるドジを踏むことになった。早朝だというのに心配で送ってきてくれた母のLINEを雑にあしらって、駅へ向かった。

 準備は完璧にできていたはずだったのだが、なんと行きの切符を買うお金が不足していた。半ば思考停止状態でATMにカードを挿し込む。現在は、お取り扱いできません。そんなことは当然知っている。知っていても試す他なかったのだ。

 予定通りの電車に乗れなければ全ての時間が狂ってしまい、大変なことになる。半ば思考停止状態でもそれははっきりと認識できていた。集めていた新しい百円硬貨を財布の奥から引っ張り出してきても、まだ数百円足りなかった。どうすればいい。アパートに戻る時間などない。

 僕は決死の判断でATMのあるコンビニの店長に話しかけた。表現としては最悪だが、食料を懇願するホームレスのようだった。返さなくてもいいと五百円玉をくれたおじさんの顔はこれからも忘れることはない。奇跡としか言いようがない。パニック状態に陥っていた数十分間をなんとか乗り越え、彼女の元へと向かう電車に乗った。

 彼女の元へ向かう電車は、その先の現実へと向かっていたのか。それとも電車でさえ幸せな部分だけを見ていたのか。

 合流する駅にいた彼女。彼女はいつも可愛い服を着ていたが、その日は派手なピンクのメイド服に身を包んでいた。釣り合っていなかったに違いない。ディズニーランドへと向かう、月曜日早朝の電車はまるで二人だけの空間かのように空いていた。

 門の前には、今までの人の少なさとは裏腹に、途轍もない人だかりだった。その列の一つに並ぶと、彼女は可愛いブルーシートを広げた。流れで僕の髪型を整えてくれた。

 そのときの彼の目は一体どこを見ていたのだろうか。恥ずかしいという感情はなかったのだろうか。この時の彼は異常だ。彼女といるだけで、周りを一切気にせずシャットアウトしている。これが普通なのだろうか。今書いている私が異常なのだろうか。

 ディズニーの世界観に入ると、彼女もかなり馴染んで見えた。新アトラクションの抽選に当たると、同じテンションで喜んだ。お揃いのカチューシャを買ったり、お昼を二人で分け合って食べたり、疲れてベンチでくっついて休んだり。言葉だけなら、ただの幸せなカップルに聞こえる。それは表面上でしかない。その不釣り合いな見た目を、無関係な第三者が見ただけでも、泥沼の深淵が垣間見えてしまう。

 夕方になって帰る時間になり、彼女が名残惜しそうにするのが堪えられなかった。母には当日中に帰る約束をしていたが、実際は2泊3日の予定だった。母に帰るからだいじょうぶだと安心させるLINEを送った。詐欺師だ。

 2日目。東京駅や、彼女の好きなプリキュアのショップに行ったり、相変わらず幸せだ。雰囲気だけは。

 午前中に、母が僕が学校の授業に出ていないことを問いただしてきた。彼女にトイレに行くフリをして、長文の言い訳を送り、それ以降の連絡を断った。父、弟も同様に連絡を断った。LINEの通知を無くし、着信拒否をした。そして何事もなかったかのように、彼女の前に戻った。

 姑息な嘘は誰にも何もメリットを生まない。無論彼自身にも。

 結果、彼らは引き返せなくなった。一泊、また一泊と東京にいる時間は増えていく。それに伴って、幸せな時間は増えていった。チームラボ、ジョイポリス、スカイツリー、原宿。ただ行きたい場所に行くだけ。それが本当に幸せか。お金が尽きることなど考えない。泥沼にハマっていることなど考えない。いや考えたくない。不幸な側面を見たくない。

 具合が悪い彼女をホテルまで案内していく道中、道に迷い泣かせたこともあった。それでも彼らは引き返さない。一度は彼女の命を救ったはずの彼が、どんどんと泥沼に足を踏み入れていく。そうとも知らない彼女も、同じようにどんどんと道連れ。

 気づいた時には既に一週間が経過していた。この底なし沼から這い上がれる鍵を彼は持っていなかった。彼が自分からそこに入っていったのだから。その鍵は、道連れとなった彼女が持っていた。

 一週間経ったその日、彼女はもう彼に引っ張られることはなかった。あと一日。そんな言い訳は通用しなくなった。

 そして翌日。長い旅は終わった。それと同時に、現実が波のように押し寄せてくる。母に連絡を取ると泣いていた。母の感情の全てが僕に向けられた。悲しみも、怒りも、安心も全て。そんな母に、がんばるからね!などと見え透いた嘘をつく。こんなものは、きっと私ではない。親不孝でしかない。

 会社を休み、父と二人で一人暮らしの部屋に来たと言っていた。どんな気持ちで二人で車を飛ばして来たのだろう。私は一つも返せないままでいる。

 数日して、彼女がまた家に来て、大学に通う僕の背中を押してくれた。母も僕が授業に出れたと報告して写真を送るたびに、励ましてくれた。あんなことがあったというのに。 

 そこから少しずつ大学に通い、バイトも探すようになった。しかし真実と織り交ぜて、大学に行ったフリをしてネットで拾った写真を母に送ったり、バイトの面接に行ったフリをして行かなかったり。反省の色さえ感じられない。ありえない。

 誕生日が近づくなか、また母に嘘をついて東京に行った。忘れもしない、あの多摩のイルミネーションとピューロランド。サンリオがコンセプトになったホテルの一室。彼女の念願だった。

 2泊3日の予定のままで帰宅した。母は嘘には気づいていないようだった。

 その数日後。誕生日前日に彼女が会いに来てくれて、一緒にお祝いをしてくれた。調子が悪いのに会いに来てくれた上に、手料理を作ってくれた。上手く作れずに悔しそうに泣いて抱きついてきた、あの涙を僕は忘れない。忘れられない。

 翌日、初めてに近いケンカをして彼女は帰った。彼女の色んな進言を、言い訳をしてめんどくさがった僕が悪かった。そんなことは分かっていたけど、ギリギリまで彼女が帰らないことを祈って引き留めていた。いつまでこいつは依存し続けるのか。

 でもこのときこいつは知らなかったんだ。これが彼女に会う最後になる。ということを。
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