災嵐回記 ―世界を救わなかった救世主は、すべてを忘れて繰りかえす―

牛飼山羊

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第三章

救世主なんていなかった

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怒号が轟く。
群衆の叫びは、津波であり、竜巻だった。
人びとは言葉を持っていなかった。その内から湧き出る感情を表す言葉など存在しなかった。
言葉なき群衆の叫びは、ひとつの巨大な暴力となる。
そして掲げられた的へ向かう。
まるでこれさえ壊せば苦しみから解放されるとでもいわんばかりに、百人を超す群衆は、カイひとりを滅多打ちにする。
「カイさん!」
ラウラはカイのもとへ向かおうとする。
けれど群衆の壁に阻まれて、近づくこともできない。
「カイ!」
意識を取り戻したシェルティとアフィーも、群衆に飛びかかる。
しかし脳震盪を起こした直後の身では、群衆を押しのけるどころか、跳ね返されてしまうばかりだった。
囲われたカイの姿を見ることすら、三人にはできなかった。
なにもできず、罵倒と雑踏、そしてカイを殴打する音を耳にするばかりだった。
「やめて!」
ラウラは叫ぶ。
「その人はなにも悪くない!」
その声に耳を貸す者は、ひとりもいない。
「カイさんはみんなを助けようとしたんです!」
それでもラウラは叫ぶ。
泣きじゃくり、懇願する。
「やめて……お願い……」

ガシャンッ!

そのとき、視界の隅で、星が流れた。
ラウラは空を見上げる。
「――――!」
流れたのは星ではなかった。
それはレオンの操る光球だった。

ガァアアアア!!

光球を追って、ケタリングが現れる。
瓦礫を爪でかきながら、低く、まっすぐに、群衆に向かってくる。
壁は瓦解する。
蜘蛛の子が散るように、群衆は離散する。
「通して!」
ラウラは流れに逆らって、カイのもとに向かう。
ケタリングはカイの上を通過し、群衆を追い回すように低空飛行のまま旋回する。
「カイさん!」
人垣が消えた後に、カイとヤクートだけが残される。
二人とも倒れたまま動かない。
「カイ!」
ラウラとともに、アフィーとシェルティ、レオンの三人が駆け寄る。
全身を滅多打ちにされたカイは、ひどく痙攣し、口から泡を吹いていた。
泡には血が混ざっている。
折れたか鼻からも、割れた額からも、どくどくと血があふれ出している。
折れた足はあらぬ方向に曲がり、松明を押し付けられた胸部は赤黒く焼け焦げている。
「カイ……」
息はあったが、瀕死だった。
いつ死んでもおかしくない状態だった。
カイのすぐそばには、ヤクートが横たわっていた。
ヤクートは、すでに死んでいた。
彼自身もまた暴徒の標的とされたのだ。
もともと南都に集まっていた暴徒が追っていたのはヤクートだった。
群衆の前に姿を現せば、こうなることは必然だった。
それでも彼は躊躇わなかった。
ヤクートは残された命を、報復のためだけに使い果たしたのだ。
四肢を地に投げ出し、ぴくりとも動かないヤクートを見て、ラウラは足を竦ませる。
カイもまた、いつ同じような骸と化すかわからない。
カイが死ぬ。
そう考えただけで、ラウラは宙に投げ出されたような恐怖を覚える。
どこかに打ち付けられることも、転がることさえない。
痛みも寄る辺もなく、ただただ、底の見えない暗闇へ落ちていくような感覚だ。
「カイ……」
シェルティは自身の袖を引きちぎり、流血するカイの額へあてた。
「だめだ」
今際の際のようなか細い声だった。
「ぼくをおいていくなんて、許さない」
カイに縋りつくシェルティとは対照的に、アフィーはよろよろと後ずさり、カイから距離をとる。
「――――殺す」
アフィーは拳を握りしめ、散っていく群衆に憤怒の眼を向ける。
「殺してやる……!」
大粒の涙を流しながら、アフィーは絶叫する!
「許さない!お前たち、全員、カイと同じ目に合わせてやる!」
アフィーは片手に収まりきらないほどの石を拾い上げる。
群衆に向かって振りかぶるが、レオンに手首をつかまれてしまう。
「離せ!わたしは、あいつらを――――」
「まだ死んでねえ!」
レオンは誰よりも冷静だった。
ただひとりだけ、現実を受け入れていた。
「こんなとこで死なせてたまるか!」
カイが瀕死であることを認めたうえで、レオンは、諦めていなかった。
「泣くのはもっとあがいてからにしろ!」
レオンは光球を手元に戻す。
つられて、ケタリングも、レオンの前に着地する。
「――――頼む」
レオンは光球でケタリングの口を叩く。
ケタリングは大きく口を開ける。
レオンはカイを抱き上げ、冷たく乾いた口内に、そっと横たえた。
「ラウラ、お前も乗れ。中でカイの傷口を抑えるんだ」
そう言うと、返事も待たず、レオンはラウラも口内へ押し込んだ。
「逃がすな!」
一度離散した群衆が、ケタリングが着地したのを見て、再び集い始める。
「見ろ!ケタリングを従えているぞ!」
「やっぱりそうだ!すべてやつの手によるものだったんだ!」
「殺してやる!」
レオンは舌を打ち、光球を人びとの上に走らせる。
ケタリングは尾を一振りする。人びとは直上を通過した鉄の塊のようなケタリングの尾に悲鳴をあげ、再び散り散りとなる。
「退くな!」
けれど全員ではない。
群衆の中でも特に若く、猛り立った者たちは、ケタリングを恐れなかった。
「やつを逃がすな!」
「また同じことが繰り返されるぞ!」
「仇をとるんだ!」
「絶対に殺してやる!」
彼らは走りながら投石を始める。
ケタリングが翼を広げて壁をつくるが、すり抜けた石がレオンの眼前に迫る。
「っ!」
しかし石はレオンではなくシェルティの額を打った。
「てめえ……」
「なにを呆けているんだ、はやく行け!」
シェルティは自分を打った石を拾い上げ、向かってくる人びとに投げ返す。
「お前らは……」
「いいから飛べ!お前がいなきゃ誰かケタリングを操るんだ!」
アフィーもまた、先ほど投げ損ねた石を投げつけ、怒鳴る。
「はやく!カイを、助けて!」
レオンは大きく舌打ちし、ケタリングの背に飛び乗った。
「死ぬんじゃねえぞ!」
ケタリングは群衆を蹴散らすように羽ばたく。
「殿下!アフィー!」
降り注ぐ投石に倒れる二人を見て、ラウラは手を伸ばすが、ケタリングの口は閉じられてしまう。
音も、光も、消える。
自分の手も見えないような暗闇の中で、ラウラはカイしっかりと抱きしめ、呻いた。
「どうしてこんなことに……」





ケタリングの口内は冷ややかで、乾いていた。
滑らかな鉄のようなもので構成され、二人がちょうど収まるだけの隙間しかなかった。
外の様子はまったくわからない。かすかな振動と、閉じられた喉の奥から轟く雷鳴のような音以外、ラウラにはなにも感じとることはできなかった。
まるで井戸の底だった。
蓋をされた井戸の底で、カイと二人、生き埋めにされているようだった。
暗闇の中で、ラウラは時間の感覚も失ってしまう。
ケタリングに乗せられてから、まだ数分しかたっていないようにも、とっくに一日が過ぎてしまったようにも思える。
胸に抱くカイの温かさが、鼓動が、ラウラの唯一の灯だった。

やがて、それまでかすかだった振動が大きくなり、しばらくすると収まった。
ケタリングは完全に停止した。
口が開かれ、暗闇に光が差し込んだ。
朝日が地平線に線を引くように、ケタリングの口はゆっくりと開かれた。
「無事か?」
レオンが顔をのぞかせる。
「……う」
カイは喉を震わせ、身じろぎする。
「カイ!」
「カイさん!」
呼びかけられたカイは、口から血の混ざった唾を吐き出し、かすれた声で言った。
「ここは……?」
「たて穴だ」
レオンはカイをケタリングの口から降ろし、柔らかい草の上に横たえた。
たて穴はその形を大きく損なってはいなかった。
しかし、ケタリングが暴れたのか、その内部はひどく荒らされていた。
カイとシェルティ、ラウラの三人が暮らしていた幕屋は叩き潰され、中央に立っていた枇杷の木もへし折られていた。
けれどたて穴そのものが崩されるようなことはなく、湧き出る泉も透明なままだった。
レオンはカイの服を脱がし、傷の状態を確かめる。
ラウラは壊された小屋をかき回して、少しでも治療に役立つものはないかと探し回った。
しかし見つかったのは数枚の手ぬぐいと割れた桶だけだった。
ラウラは水を汲み、手ぬぐいでカイの身体を清めた。
レオンも処置らしい処置はなにも行えなかった。わずかな消毒効果のある草をむしり、火傷のあとに塗りつけてやるのがせいぜいだった。
手遅れだった。
カイの命がもう長くないことは、火を見るよりも明らかだった。
「……カイ」
レオンはふいに立ち上がった。
「おれはシェルティとアフィーを助けに行く。戻るまで、どれだけはやくても、二時間はかかるだろう」
カイは薄目を開けて、レオンをじっと見つめる。
「それまで、もつか?」
カイは答えない。
苦し気にせき込み、血を吐き出すだけだった。
レオンはひざまずきカイの首に手を当てた。
ほんの一滴の涙が、目頭から零れ落ちる。
「だ、だめ……っ!」
レオンがなにをしようとしたのか察したラウラは、慌ててカイに覆いかぶさる。
「なにしてるんですか!?大丈夫です!大丈夫ですよ!?カイさんは助かります!絶対……」
しかしレオンは手を引かない。
レオンはカイがこれ以上苦しむことを、自分がいない間に旅立ってしまうことを、させまいとしていた。
けれどラウラはカイに縋りついて離れなかった。
ラウラにはもう泣くことしかできなかった。
それでも諦めることができなかった。
「――――だい、じょうぶ」
カイは呟いた。
「行って、レオン」
ひゅうひゅうと、壊れた笛を吹いているような声だった。
「おれは、死なない、お前が戻ってくるまで、絶対死なないから、アフィーと、シェルを……」
「……わかった」
レオンはカイの首から手を引いた。
「信じてるからな」
レオンの言葉に、カイはかすかな笑みを返した。



レオンを乗せたケタリングは、たて穴を飛び立っていった。
あとには、瀕死のカイと、ラウラだけが残された。
「ごめんな……」
ラウラの、涙でぐしゃぐしゃになった顔に、カイはそっと触れた。
カイの手はラウラの顔以上にぐしゃぐしゃだった。
指が折れ曲がり、血と汗で湿っていた。
けれどカイはそんな汚れた手で、ラウラの涙を拭おうとしていた。
「約束、守れなくて、本当にごめん」
目の焦点はあっていなかった。
カイにはもはや、目の前にいるラウラの姿も見えていなかった。
カイはラウラの頬を汚しながら、謝罪の言葉を重ね続けた。
「こんなことになるなんて、思ってなかったんだ」
「誰かが死ぬなんて、想像つかなかったんだ」
「世界がこんなめちゃくちゃになるなんて……」
「全部おれのせいだ」
「ごめん」
「ラウラの、努力も、ぜんぶ、だいなしにした」
「約束も、破った」
「みんな、みんな、みんな、おれのせいで、死んだ」
「ごめん」
「ごめんなさい……」
ラウラはなにも言うことができなかった。
ただ、とどめなく涙をあふれさせるばかりで、どんな言葉も紡げなかった。
「おれさえいなければ……」
カイの手から力が抜ける。
ラウラはとっさにそれをつかむ。
カイは意識を失っていく。
「カイさん!」
ラウラはしゃくりあげながら叫ぶ。
口もとに耳を寄せると、かすかだが呼吸は続いていた。
寝息のように、規則正しく、穏やかな呼吸だった。
「カイさん……」
ラウラはカイの手を、握りしめる。
「死なないで……」
意識のないカイに、ラウラは呼びかける。
「カイさん、もう一度、私と、約束してください」
ラウラは右手の小指をカイの小指とからませようとする。
けれどカイの小指は折れて反り返っていた。またラウラ自身の小指も、凍傷による壊死で黒ずみ、まるで動かすことができなくなっていた。
「絶対死なないって、私とも、約束、してください」
ラウラは行き場のない手で自らの両目を塞いだ。
「カイさん……」
泣くことしか、名前を呼ぶことしか、ひたすらに祈ることしか、ラウラにはできなかった。
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