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遠春
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春が近づくころ、図書館にひとり新しい職員がやってきた。
三十代半ばの男性で、名前は江藤という。
市の別部署から回ってきたらしいが、初日からあまり物おじしないタイプのようだった。
穏やかな笑顔で職員たちに挨拶してまわっていた。
「太宰さんですね。、これからよろしくお願いします」
江藤は少し背が高く、声にやわらかい響きがある。
美代子は、帳面に記録していた手を止めて、
「あっはい・・・こちらこそ」
と軽く頭を下げた。
それだけのやり取りだったが、
江藤が去ったあと、どこか空気が少し変わったような気がした。
冬の間閉め切っていた部屋に、ふと風が入ってきたような
そんなささやかな変化を美代子は感じていた。
翌日から、江藤は本の整理を担当することになった。
慣れない様子ながらも黙々と棚を動かし、冊数を数えている。
時折、美代子がそっと教える。
「その棚、文学全集は下の段に・・・」
「あ、すみません。ありがとうございます」
江藤は素直で、軽く会釈する。
それだけのことなのに、美代子はなぜか、胸の奥が温かくなるのを感じる。
自分でも理由はよくわからない。
ただ、この小さな変化が、いまの静かな生活に柔らかな影を落としているようだった。
昼休み、職員室の窓際で弁当を広げていると・・・向かいの席に江藤が座った。
「太宰さんのお弁当、いつもきれいですね」
「あ、いえ・・ただ、慣れてるだけです」
「すごいですよ・・僕は・・昨夜の残りの握り飯ばっかりで」
江藤は笑いながらお茶をすする。
美代子は、特に話すこともなく、ただ「そうですか」とだけ答えた。
でも、窓の外を見るふりをしながら・・・ほんの少しだけ頬が熱くなるのを感じていた。
帰り道。
自転車のハンドルを握りながら、美代子は今日のことを静かに思い返す。
「・・・別に、何かあったわけじゃない・・のに」
ほんの数言、会話をしただけ、
でも、どこか心にぽっと灯りがともったような気がした。
家に帰り、夕食を終え、食器を洗う。
父はいつものように新聞を広げている。
日常は変わらない。
ただ、今日は湯気がいつもより少しだけ明るく見える。
「・・・なんか、いいことでもあったのか?」
新聞から目を離さないまま、父がぽつりと言った。
「え?」
美代子は、手を止めずに振り返った。
「いえ・・別に・・何も・・いつも通りですよ」
父は「ふうん」と言って、またページをめくる。
美代子は、洗った皿を静かに伏せた・・その音が、今日の心のどこかにそっと寄り添うように感じた。
外では、風が少しだけ春の匂いを運んでいる。
その気配に、美代子はほんのわずかでも!
明日も、悪くないかもしれない・・と心で思った。
春の陽射しが少し強くなった頃、図書館の窓から差し込む光が、棚の背表紙を淡く照らしていた。
美代子は台車を押しながら、新着本の整理をしていた。
その向こうで、江藤が段ボールを解きながら、
背中を丸めてタイトルを確認している。
「太宰さん、これで合ってますか?」
「あっ・・ええ・・大丈夫です」
返事は短いが、声にはどこか柔らかさが混じる。
しばらくして、江藤が小さく鼻を押さえた。
「・・すみません、ちょっと春先が・・」
「つらいですよね、この季節」美代子が江藤に言う。
「ええ・・・毎年こんな感じで」
江藤は苦笑し、ハンカチで鼻をおさえた。
ふと、美代子は自分のバッグに入っていた、父のために買ったガーゼマスクの残りがあることを思い出す。
「これ、もしよかったら・・・」
そっと差し出すと、江藤は意外そうに目を瞬かせた。
「あ・・・ありがとうございますでも、太宰さん、足りなくなりませんか?」
「大丈夫です。家にまだありますから」
「・・それでは、お言葉に甘えます」
ほんの短いやり取り。
しかし、美代子は心のどこかが、ふわりとほどけるのを感じた。
その日の帰り、館長が江藤に声をかけていた。
「江藤君、あれだな、そろそろ制度説明の研修、頼めるか?」
「はい、わかりました。来週あたりでどうでしょう」
「じゃあ太宰さんにも一緒に入ってもらって・・・」
館長の言葉に、美代子は小さくうなずいた。
「よろしくお願いします」
江藤が笑って言う。
「あ・・・・こちらこそ・・よろしくお願いします」
言葉はそれだけ。
けれど、
“この人と並んで何かする”
そんな機会が訪れることが、
美代子の胸に静かで小さな波紋を広げていった。
次の日、少し雨が降った日。
開館前の玄関で、美代子は制服の袖についた雨粒を払っていた。
そこに、江藤が傘を畳みながら駆け寄ってくる。
「太宰さん、濡れませんでした?」
「少しだけ・・でも大丈夫です」
「よかった・・・あっ昨日のマスク、本当に助かりました」
「いえいえ・・そんな」
「僕、あんまり気が利かないので・・すみません」
江藤は照れたように笑う。
その瞬間、
“気が利かないなんて・・とんでもない”
と美代子は思った。
言葉にしようとしたが、うまく出てこない。
「・・・いえ・・・その・・大したことじゃ・・です」
結局、それしか言えない。
互いに、ふと視線が宙で交差する。
しかし、ほんの一拍ののち、
どちらからともなく目をそらした。
小さな、やさしい“すれ違い”だった。
その日の夕方。
帰り支度をしていると・・・!
「太宰さん」・・控えめに江藤が声をかけてきた。
「これ・・よかったら」
差し出されたのは、ティーバッグの紅茶。
「実家から送ってきたんです~たくさんあって・・よかったら飲んでください」
「・・ありがとうございます・・いただきます」
ぎこちなく受け取った袋は軽く、でもなぜか温かかった。
家に帰り、夕食を終えたあと美代子は湯飲みにお湯を注いだ。
紅茶の香りがふわりと広がるのを感じた。
これを、あの人も飲んでいるのだろうか。
そんなことを考えている自分に、
少しだけ驚き。
そして悪くない気持ちになった。
父が湯呑みを手にしながら言った。
「今日は・・いつもより穏やかな顔してるな」
「え?」
「いや・・なんでもない・・お茶うまいな」
美代子は、返事をしなかった。
ただ、湯気を眺めながら、
胸の奥でひとつだけ、静かに灯った灯りを・・
そっと確かめていた。
~ 終 ~
三十代半ばの男性で、名前は江藤という。
市の別部署から回ってきたらしいが、初日からあまり物おじしないタイプのようだった。
穏やかな笑顔で職員たちに挨拶してまわっていた。
「太宰さんですね。、これからよろしくお願いします」
江藤は少し背が高く、声にやわらかい響きがある。
美代子は、帳面に記録していた手を止めて、
「あっはい・・・こちらこそ」
と軽く頭を下げた。
それだけのやり取りだったが、
江藤が去ったあと、どこか空気が少し変わったような気がした。
冬の間閉め切っていた部屋に、ふと風が入ってきたような
そんなささやかな変化を美代子は感じていた。
翌日から、江藤は本の整理を担当することになった。
慣れない様子ながらも黙々と棚を動かし、冊数を数えている。
時折、美代子がそっと教える。
「その棚、文学全集は下の段に・・・」
「あ、すみません。ありがとうございます」
江藤は素直で、軽く会釈する。
それだけのことなのに、美代子はなぜか、胸の奥が温かくなるのを感じる。
自分でも理由はよくわからない。
ただ、この小さな変化が、いまの静かな生活に柔らかな影を落としているようだった。
昼休み、職員室の窓際で弁当を広げていると・・・向かいの席に江藤が座った。
「太宰さんのお弁当、いつもきれいですね」
「あ、いえ・・ただ、慣れてるだけです」
「すごいですよ・・僕は・・昨夜の残りの握り飯ばっかりで」
江藤は笑いながらお茶をすする。
美代子は、特に話すこともなく、ただ「そうですか」とだけ答えた。
でも、窓の外を見るふりをしながら・・・ほんの少しだけ頬が熱くなるのを感じていた。
帰り道。
自転車のハンドルを握りながら、美代子は今日のことを静かに思い返す。
「・・・別に、何かあったわけじゃない・・のに」
ほんの数言、会話をしただけ、
でも、どこか心にぽっと灯りがともったような気がした。
家に帰り、夕食を終え、食器を洗う。
父はいつものように新聞を広げている。
日常は変わらない。
ただ、今日は湯気がいつもより少しだけ明るく見える。
「・・・なんか、いいことでもあったのか?」
新聞から目を離さないまま、父がぽつりと言った。
「え?」
美代子は、手を止めずに振り返った。
「いえ・・別に・・何も・・いつも通りですよ」
父は「ふうん」と言って、またページをめくる。
美代子は、洗った皿を静かに伏せた・・その音が、今日の心のどこかにそっと寄り添うように感じた。
外では、風が少しだけ春の匂いを運んでいる。
その気配に、美代子はほんのわずかでも!
明日も、悪くないかもしれない・・と心で思った。
春の陽射しが少し強くなった頃、図書館の窓から差し込む光が、棚の背表紙を淡く照らしていた。
美代子は台車を押しながら、新着本の整理をしていた。
その向こうで、江藤が段ボールを解きながら、
背中を丸めてタイトルを確認している。
「太宰さん、これで合ってますか?」
「あっ・・ええ・・大丈夫です」
返事は短いが、声にはどこか柔らかさが混じる。
しばらくして、江藤が小さく鼻を押さえた。
「・・すみません、ちょっと春先が・・」
「つらいですよね、この季節」美代子が江藤に言う。
「ええ・・・毎年こんな感じで」
江藤は苦笑し、ハンカチで鼻をおさえた。
ふと、美代子は自分のバッグに入っていた、父のために買ったガーゼマスクの残りがあることを思い出す。
「これ、もしよかったら・・・」
そっと差し出すと、江藤は意外そうに目を瞬かせた。
「あ・・・ありがとうございますでも、太宰さん、足りなくなりませんか?」
「大丈夫です。家にまだありますから」
「・・それでは、お言葉に甘えます」
ほんの短いやり取り。
しかし、美代子は心のどこかが、ふわりとほどけるのを感じた。
その日の帰り、館長が江藤に声をかけていた。
「江藤君、あれだな、そろそろ制度説明の研修、頼めるか?」
「はい、わかりました。来週あたりでどうでしょう」
「じゃあ太宰さんにも一緒に入ってもらって・・・」
館長の言葉に、美代子は小さくうなずいた。
「よろしくお願いします」
江藤が笑って言う。
「あ・・・・こちらこそ・・よろしくお願いします」
言葉はそれだけ。
けれど、
“この人と並んで何かする”
そんな機会が訪れることが、
美代子の胸に静かで小さな波紋を広げていった。
次の日、少し雨が降った日。
開館前の玄関で、美代子は制服の袖についた雨粒を払っていた。
そこに、江藤が傘を畳みながら駆け寄ってくる。
「太宰さん、濡れませんでした?」
「少しだけ・・でも大丈夫です」
「よかった・・・あっ昨日のマスク、本当に助かりました」
「いえいえ・・そんな」
「僕、あんまり気が利かないので・・すみません」
江藤は照れたように笑う。
その瞬間、
“気が利かないなんて・・とんでもない”
と美代子は思った。
言葉にしようとしたが、うまく出てこない。
「・・・いえ・・・その・・大したことじゃ・・です」
結局、それしか言えない。
互いに、ふと視線が宙で交差する。
しかし、ほんの一拍ののち、
どちらからともなく目をそらした。
小さな、やさしい“すれ違い”だった。
その日の夕方。
帰り支度をしていると・・・!
「太宰さん」・・控えめに江藤が声をかけてきた。
「これ・・よかったら」
差し出されたのは、ティーバッグの紅茶。
「実家から送ってきたんです~たくさんあって・・よかったら飲んでください」
「・・ありがとうございます・・いただきます」
ぎこちなく受け取った袋は軽く、でもなぜか温かかった。
家に帰り、夕食を終えたあと美代子は湯飲みにお湯を注いだ。
紅茶の香りがふわりと広がるのを感じた。
これを、あの人も飲んでいるのだろうか。
そんなことを考えている自分に、
少しだけ驚き。
そして悪くない気持ちになった。
父が湯呑みを手にしながら言った。
「今日は・・いつもより穏やかな顔してるな」
「え?」
「いや・・なんでもない・・お茶うまいな」
美代子は、返事をしなかった。
ただ、湯気を眺めながら、
胸の奥でひとつだけ、静かに灯った灯りを・・
そっと確かめていた。
~ 終 ~
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